2013年12月24日火曜日

ビザンチウム

監督:ニール・ジョーダン
(ドアの開閉:約25、主観ショット:5)

シアーシャ・ローナンと通りかかった老人が、老人の部屋で会話するシーンにおいて、老人が持ったアルバム、そしてシアーシャ・ローナンのベスト、それから後ろに配置された冷蔵庫が赤い。この3つの装置の赤の感覚がとても良い。あるいはタイトル明けのファーストショットのベージュを基調とした部屋の配色も良い。

シアーシャ・ローナンが青年が流した血をすするシーンは、吸血鬼としての本性と、観客が予想するであろう二人の運命=恋の予感とをないまぜにした巧さがある。そして二人が出会いつつ、大量の血が流されなければならない、ということから、青年の白血病という設定が与えられたのかもしれない。

ローナンと青年が遊歩道で別れてから、男を捕まえたジェマ・アータートンが合流する長回しが偉く決まっている。長回しの最初の方で、青年が立ち上がって去っていく後ろ姿を捉えているのがとても良い。

極めて断片的に撮られている。アータートンがポン引きを殺す横移動と彼女を横から捉えたショットの直後に、徘徊する娼婦にアータートンが駆け寄るショットを急に入れてしまえる強さがある。
断片性が失われるのは、ローナンの日記をめぐって講師が関わってくるあたりの時間帯だろう。このあたりが物語上の弱みかもしれない。
あるいは洞窟での「洗礼」を繰り返し描いてしまうのはどうか。

カーチェイスでの、アータートンの決死のダイブは素晴らしかった。そういえば彼女はオープニングでも見事なダイブを決めているではないか。オープニングのチェイスは極めてかっこいい。ここから見事に走り切ったと思う、この映画は。本年度久々の快作。

2013年12月15日日曜日

ルルドの泉で

監督:ジェシカ・ハウスナー

俯瞰ショットによって始まるオープニング。白い皿と黄色いスープがそれだけで印象的なテーブル席に、人々、まさに文字通り様々な人たちが集まってくる。その進行方向、ノイズ、これらを決して分節化せずに(だからといって良いというわけではないけれども)、提示する。やがて少しのズームによって、この映画の主役であろう二人、レア・セドゥとシルヴィー・テステューにフォーカスがあてられる。カットが割られ、カメラ目線で微笑むシルヴィー・テステューが捉えられる。このテステューの態勢、すなわち「斜め後ろを振り返る」という態勢がこの映画においては何度か繰り返される。そのベースにあるのは、対象を斜め後ろから切り取るというスタイルである。

たとえばシルヴィー・テステューの主観ショットで切り取られる、女性の発疹だらけの肩。あるいは警備員の主観ショットで切り取られるシルヴィー・テステューがよだれを垂らしたショット。
正面ではなく、斜め後ろから切り取る、という一つの映画文法がこれらのショットに結実している、と言ってよいだろう。

あるいは切り返しがすべて内側からであるということ。
とりわけ、シルヴィー・テステューと警備の男が、オープンテラスで見つめあい、会釈する場面の切り返しが印象的だ。青と白のパラソルと、望遠レンズ(?じゃないか、わかんない)で異様に浮き上がったような二人が交互に切り返されるこの2ショットが素晴らしい。

あるいは二人のキスシーンのカット処理の驚き。

レア・セドゥが車椅子を押して坂道を上がっていくのを、警備の男が手伝いに行く場面のカット処理もこれに酷似しているが、このようなシンプルでありながら、一人ひとりの動きが断片化して、周囲との関係が一瞬切断されるような対象の捉え方は映画の醍醐味の一つだろう。

2013年12月5日木曜日

時の重なる女

終盤の、車を運転するクセニア・ラパポルトを真正面から捉えたクローズアップがとってもいい。さらに続く駐車場での視線の交錯、内側からの切り返し。エレベータ内のバストショットも相当力が入ってる。
しかし全体として、ショットの構成が雑であると思う。クローズアップの入り方が暴力的で、しかもそれほど良くない。あるいは引いた時のショットにも(例えばクロード・ミレールのような)キレがあるとは思えない。
あるいは夜の道を歩くこと、に全く楽しさがない。これの前にトリュフォーの『柔らかい肌』を見たからだろうか。運動の方向、視線の方向、カメラの方向、それらの絡み合い、に面白みがない。『柔らかい肌』のまるであらゆる空間をスクランブル交差点のようにしてしまう力がない。無くていいけど。
主観ショットの多用、はそれだけでは力にならない。動く方向と視線と、カッティングのタイミングが重要なのだろう。その点でこの映画はあまりうまくいっていない。

メイドの衣装が良い。

2013年11月25日月曜日

ペコロスの母に会いに行く

監督:森崎東

断片化、反復(と差異)、となんだかいろんな「誘惑」がある映画だと思うが、つまらなかった。

断片化とはつまり、序盤の唐突な回想の入り方、あるいは独立したエピソードを紡いでいくやり方を指す。とりわけ歌声、そして窃視のモチーフ、などは感動的だ。子供たちが教会での合唱を覗き見て、そして縁側で歌いあう、という流れの素晴らしさ。

あるいは反復とはつまり、彼女たちが歌う歌の、時間を隔てての反復であり、その差異である。歌が記憶を媒介するものとして扱われ、その歌われ方が人物達の心理を説明する(友人の死を知って、涙を流しながら歌う)。
この反復の仕方が理屈っぽく、どうも好きになれなかった。
老人の鼻唄はその都度「この記憶を思い出しています」という風に説明され、また老人の徘徊は、「この光景とだぶっています」と説明される(特にラストの祭り)。
なんでそんな風に説明しなきゃいけないのか。

あるいは回想シーンにしても、雪の中、酔っぱらって倒れている加瀬亮を妻が介抱するシーンでは、確かにその唐突な雪に心を奪われはするものの、彼女が加瀬亮を「起こす」動作は省略される。ここは「起こす」動作を撮らないといけないと思う。

竹中直人をめぐる一連のエピソードはつまらなかった。
あるいは岩松了の息子と介護士のロマンスはないのか。ないのか。そうか。

http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/によると、加瀬亮の給料袋が手紙の封筒に使われているらしく、そんな細部気づきませんでした。すみません。

2013年8月3日土曜日

恋人たちの場所

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ

 小屋の中で偶然見つけた赤ん坊の父親がこっちをジロリと見ているショットだとか、あるいはフェイ・ダナウェイの消息がつかめず途方にくれるマストロヤンニの主観ショットで、ダナウェイにもらったドレスを着て喜ぶ使用人を映したショットだとか、「どーでもいい」けど楽しくて仕方ないシーンを仕掛けてくるのは、デ・シーカの素晴らしさと言っていいのだろう。それにしても楽しい映画だ。映写機の前で”Ti Amo!!”と叫びまくるシーンなんて、その悲劇性以上にそこまでやってくれれば何も文句ありません、と言いたくなるようなぶっ飛び方だ。

 さて、この映画では扉の開閉が全部で10回ぐらいしかない。二人が宿泊する丘の上のコテージは、多くの場合、扉が開かれ外とつながっている。
 初めにダナウェイが泊まる屋敷では、オープニングでダナウェイが中に入るまで、扉を3回にわたって開けるわけだが、ここでマストロヤンニが屋敷に来てからを検証してみよう。
 マストロヤンニが屋敷に現れたとき、既にマストロヤンニは門を開けており、こちらに歩いてきている。その後二人は、屋敷の中に入るが、このとき扉を開けるショットは省略されている。さらに、ダナウェイが昼寝するとか言い出して、マストロヤンニが帰ろうとするあたりのシーンを見てみると、まずマストロヤンニが外に出て、扉を閉める。そこからカメラはかなりの時間持続せしめ、マストロヤンニをフォローする。そしてマストロヤンニの主観ショットで、ダナウェイがいるであろう二階の大扉を映す。すると二階ではダナウェイがランジェリーを着て、マストロヤンニを見送ろうと(?)その大扉を開くと、マストロヤンニがいない。しかし車がある。そうしてダナウェイが一階に降りてみると、マストロヤンニがカウチで寝ている。つまり、マストロヤンニは物音立てず、再度ダナウェイの屋敷に侵入していたことになる。扉を(ショットとして)介さずに二人は接近していく。
 なんにしろ、この二人が最初に結ばれるまでの演出はめちゃめちゃ素晴らしい。

 さらに言えば、二人が感極まって口づけと抱擁を交わして、一気に場所を替えてラブシーンに移行する編集が二度ほどされている。ここでも二人は、扉を必要としない。
 サーキットではダナウェイがフェンスを乗り越えようとまでしてみせる。

2013年6月9日日曜日

英国王給仕人に乾杯!

監督:イジー・メンツェル

サービス精神が過剰すぎる。お膳立てがクドく、またあまりにも戯画的なタッチを使いすぎであると思う。これ自体が問題というよりは、こうした説明過剰、過剰な戯画化は、結局のところ「内容と形式の分離」を起こしてしまうがゆえに問題である。
幾何学的、機能的な動きを見せる給仕人達の動きは、動きそのものの美しさよりは、雰囲気というか、なんというかそういう、いわば「甘い方向」に流れている。
あるいはそうした戯画的なタッチが破たんする瞬間の弱さ。ホテル・パリの主任給仕が食器やテーブルをひっくり返して出ていくショットの弱さ。

メンツェルの『厳重に監視された列車』もまた、サービス精神の旺盛な映画だった。しかしそうしたややもすると過剰な説明的描写が、それ自体として、つまりその形式において、「戦時下の物語」という「内容」との緊張感を持っていた。そしてその緊張感が奇跡的であった。

とはいえ、伐採されて倒れる木をフォローしたカメラが、見事に女のバストショットに着地するショットだとか、女性たちのエロスであるとか、ホテル・パリの階段の存在感であるとか、あるいはチホタ荘での食事会がエスカレートして食べ物の投げ合いになっていく楽しさなどは特筆すべき描写だろう。

ホテル・パリの給士長とドイツ人とのやり取りは、もう少し緊張感を持たせられなかっただろうか。

しかし面白い映画ではある。何より現代パートの謎めいた、しかしどこかノスタルジックな描写には力がある。

2013年6月8日土曜日

新学期操行ゼロ

監督:ジャン・ヴィゴ

『炸裂するウィークエンド』とかいう蓮實重彦のウィークエンド評があるけれども、この映画のスローモーションほど「炸裂」しているシーンもない。
視覚の力によって、うそをまことに変えてしまう恐るべき映画の力だよね、これは。

また、中盤の屋外を子供たちと新任教師が散歩するシーンがとても素晴らしい。
校長と教頭が子供たちについて話し合う会話をかぶせて、子供たちの走ったり転んだりする様子を活写している点において、きわめてカッコいい。もともとこういう、(時間的に距離的に)遠く離れた者の科白をかぶせて、ちょっとMTVっぽく(というか説明を最大限省いて)撮った映像がとても好きで、最近では『裏切りのサーカス』の序盤のシーンがまさにそれであって、あそこだけとても気に入っている。科白がかぶさることで、シーンが浮き上がる感じがいい。
それと、ここのシークエンスで、通りかかった女性をみんなで追っかけるというわけのわからないシーンがあるが、女性が逃げて角を曲がる直前までをロングで撮り、曲がる瞬間に彼女の足を映し、さらに追随する子供たちの足を映す、というこのカットの呼吸がとても素晴らしい。このシーンだけでなく、ここのシークエンスは全体として、「リズム」重視で撮られていて、たとえば子供たちがもみくちゃになって転がる横をバイクが通過したりとか、そういう工夫がなされている。

あるいはオープニング。二人の子供がお互いに手品やかくし芸を披露し合うシーン。こんなに幸福感のある描写ができてしまうものか。

2013年6月7日金曜日

海辺の家

監督:アーウィン・ウィンクラー

あまり集中できないまま終わってしまったが、壁を削って強引に窓をつくったり、家をぶっ壊したり、という破壊がある一方で、人が立ち去っては現れる映画でもある。人が立ち去る、というのは何とも言えぬエモーションになる。特にスコット・トーマスの旦那が家の前で彼女と別れるところ。
あるいは立ち去ったと見せかけてバックで戻ってくるスコット・トーマスだとか。

一番良いシーンは、最後まで名前も明かさぬ看護師が、ケヴィン・クラインの頬に手を当てるシーンだろう。「愛する者同士は肌に触れ合うものでしょう」というセリフも美しいが、何より彼女の後ろ髪に当てられたキラキラとした光がブロンドの髪をほとんど神々しいものにまでしていて、このあまりのも「仕事から逸脱した」行為を、視覚的に、強引に説得力を持たせて成り立たせてしまっている。その絶大なるエモーションの力に感動する。

唇を閉ざせ

監督:ギョーム・カネ

出だしのオープンテラスでのムーディな演出、さらに翌朝のあまりのもメロメロな湖畔でのデート、そして突然の災難までの10分間は、近景で体のパーツを追いかけながらサッと遠景に引く、という手法においてクロード・ミレールの『ある秘密』、『リリィ』のように素晴らしい。ともするとMTVみたいになってしまうのだが、ここではむしろ映画ならではの幻惑的な手さばきとして成功していると言ってよいだろう。

中盤になるとこの手法はあまり見られなくなり、あるいはやり手の弁護士の弁論術だとか、二種類もの回想を使っての種明かしだとか、どうにも面倒くさいシーンが目立ってしまう。
特にやり手の女弁護士は、いや良いとは思うが、しかしこのキャラクター自体がはっきりいって不要である。彼女が検事を言いくるめるシーンなど、もはやなぜこんな面倒くさい話についていかなくてはならないのか、と思わせる。
あるいは、彼女の役割は中盤でフランソワ・クリュゼに警察が病院に来ることを教えるというただそれだけのことで、ほとんどこれだけのために要請されたキャラクターなのかもしれないが、しかしこんなのは、診療中の色盲の子どもが窓の外を指さして「あれは何色?」とでも聞いて、パトカーの存在に気づく、ぐらいでいいのではないだろうか。

さて、しかし僕がこの映画でもっとも気に入ったのは、上記のシーンで逃げ出したフランソワ・クリュゼが、ハイウェイを強引に横断して警察を撒くシーンだ。
彼だけが何故か余裕で疾走する車の網の目を抜け、警察は全くついていく事ができない。この辺のご都合主義も面白いが、何より全く進むことができずにイライラし始める警察をフランソワ・クリュゼがドヤ顔で凝視するショットだ。
なぜにドヤ顔なのだ。というより、一応追われている身なのだから、勝ち誇ってる暇があったら逃げろ、と言いたくなるが、しかしフランソワ・クリュゼは、まるでマトリックスのネオのように、ドヤ顔を決める。このバカバカしさに思わず笑ってしまう。素晴らしく決まっている。

なかなか面白い映画ではあるが、中盤~終盤の説明的な展開が致命的でもある。あと、カメラマンの女性が殺されるシーンのあの発砲する瞬間のショットがダサい。
が、黒幕が逮捕されるシーンの、ジョッキーが落馬するショットとのカットバックとか、結構良い。あるいはクリスティン・スコット・トーマスが最高である。
ラストに再会し抱擁を交わした二人を映したカメラはそのまま上空へ上がり、過去の二人を映し出して、終わる。オープニングで見せたメロメロのナルシスティックな演出が、最後に帰ってきて、思わず拍手。

2013年5月28日火曜日

コズモポリス

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

ゴダールみたいに面白い。
リムジンの周囲をぬーっと廻り、ヤバすぎるオーラを放ったガードマン達をまるで『アウトレイジ』のファーストショットのように撮りながら、独特としか言い様のない角度でフィックスするファーストショットからして、もう傑作の予感しかしない。
突発的に起こる数々の現象は何らの伏線も無いまま、そして何の傷も余韻も残さぬまま消えていく。というこの構造自体がおそらくはこの映画のテーマでもあるだろうが、しかしその出来事達は極めて魅力的に撮られているではないか。
暴動、ネズミを投げる男たち、IMFの理事の襲撃現場、ボディガード殺し。

そういえばクローネンバーグが以前、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の演出について、銃で撃たれた遺体の姿を一瞬見せることで、その残虐性を引き出そうとした、みたいな事を言っていたが、今回はむしろ殺された者の姿を決して見せることがない。

洪水のようなセリフの数々も充分刺激的だが、しかしなんといっても被写界深度のめちゃめちゃ深い画面の豊かさこそ、この映画の最大の魅力だろう。

暴動の中を歩きながら車内に向けて話すボディガードの立ち姿なんて、全く見たことのない画だ。
あるいは適度でありながら異彩を放つカメラワークと持続。
サマンサ・モートンがグラスの水を飲むのを、手のアップからフォローして顔のクローズアップになり、背景に暴動が映り込む、というこのショットがとても気に入った。
床屋でのカット割りもいい。
カメラがパンしたあと、そのままカットを割らずガレージが開くとこなんかもゾクゾクする。

あと、言っちゃ悪いが、サラ・ガドンの乗った車が窓の向こうに現れるショットは、『ホーリー・モーターズ』の数億倍決まっている。

すっごい面白い対象を映しながら、常に周辺の出来事が視界に入ってくる。
バスケをする少年、ダイナーで絵か何かを描いている女性、フラッシュをたく記者、などなど。

今年のベストワン決定である!

2013年5月19日日曜日

愛さえあれば

監督:スザンネ・ビア

 イタリアの審美的な風景を捉えたショットが何度か出てくるのだが、あるいはカットを割ってうまいこと鳥が飛んでるのを見せているショットが二回ほど出てくるのだが、いや、どうせその鳥、違う鳥でしょ、みたいなツッコミを若干入れたくなるとはいえ、まぁそれはどうでもいい。
 しかしピアース・ブロスナンがトリーネ・ディアホルムが裸で泳ぐ様子を目撃するシーンの、美しい逆光はどうだ。抗がん剤治療の影響で髪の毛がない女が海で泳ぐという、ともすると説教臭くなりそうな場面ではあるが、この美しい光の描写によってとりわけ忘れがたいシーンになっている。
 あるいはそうした説教臭さを予感させるシチュエーションでありながら、二人が交わす会話の絶妙なまでの意味のなさ(「気持ちよかったわ」、「水が冷たいだろ」)がいいのだ。さらにはピアース・ブロスナンがかけてやる上着がカッコいい。というか、この上着カッコいいな、と思ってたところでこういう場面が来た。
 また、金髪の髪を照らす絶妙な太陽光の扱い。若いカップルが別荘にやってきたときに新妻にあたるあの光。

 ジャンプカットの扱い。例えば浮気現場を目撃してしまった妻と、不倫相手の女が出て行く様をジャンプカット(っぽく)でつなぐシーンなんかは、照明の平板さもあって、ややもすると安い昼ドラみたいでもある。
 しかし一方でいくつかのカッティング・イン・アクションはなかなか決まっているし、大きな物音を起点にカットが割られるリズムの良さもある。

 モリー・ブリキスト・エゲリンドの顔立ち。彼女を見てるだけで充分に素晴らしい。

 ラストはまさしく『最終目的地』なのだが、ここがちょっと甘い。
 『最終目的地』で、オマー・メトワリーとシャルロット・ゲンズブールの二人は、雨の力によって結ばれるのであるが、この映画ではそうした「場の力」といったものが不在であるのが惜しい。
 『最終目的地』が若い二人を結びつけたのに対して、本作は中年の二人であるから、同じものを期待するのは意味がないのだが。

 しかしそれにしてもこの映画は素晴らしい。
 とってつけたようなホモセクシャル描写すら、「酒の力」という感じがする。あるいは赤いドレスをまとったトリーネ・ディアホルムの意外なまでの魅力。彼女が息子を探しに暗闇に消えていく後ろ姿を捉えた1秒にも満たない(ブロスナンの視線)ショットがとてもいい。
 そして僕はブロスナンがセバスチャン・イェセンを固く抱きしめたあの瞬間に、ストレートに感動してしまった。「善悪」の二元論が一切顔を見せることなく、それぞれの人物の「ゆる~い欲望」の衝突だけで映画が動いているからこそ、あの抱擁は、「善悪」とは無縁のところにある「親の愛情」をストレートに表現しているわけだ。とても贅沢な表現だと思う。

 それにしても、スザンネ・ビアの作品は所見なのだが、過去の作品は予告編を見る限り全く見る気が起きない。予告編ですらお腹がいっぱいになるようなクローズアップも、本作にはほとんど見られない。一体どういうことなのか。

 

2013年5月18日土曜日

キング・オブ・マンハッタン

監督:ニコラス・ジャレッキ

 面白く見たが、「傷」の扱いが決定的にダメ。「傷の痛み」が映画にどう関わってくるのかな、と思って見ていたが、終始そうした細部の演出はなく、最後にスーザン・サランドンが思い出したように言及するものの、あろうことかそれはセリフとして処理されるのみであった。
 少なくとも、娘を説得しようとして腹部が痛むとか、ベッドに横たわったときに痛むとか、あるいはラストで登壇する際に椅子にぶつけるか何かして苦悶の表情を見せる、といった演出があれば面白かったと思う。
 
 まぁ逆にそういった細部を全く気にせず、ほどよい照明とほどよいカメラワークで名優と活きのいい若手俳優の演技合戦を撮ればこれだけ面白いというのは確かだろう。ティム・ロスの役どころはとても面白い。

 余談だが、リチャード・ギアの娘役はジョージワシントンか何かの経済学部首席だとか。
監督のニコラス・ジャレッキは元々ギークで、映画の監修をやってるうちに映画が撮りたくなってNYUの映画学部を卒業後、監督達をインタビューしたりいろいろやって、ようやく長編デビューらしく、面白いメンツが集まったことが、この映画の活きの良さにつながってるのかな、とも思う。

2013年5月11日土曜日

汚れなき祈り

監督:クリスティアン・ムンジウ

 ファーストショットとラストショットが相似をなしている。カメラの枠に収められる人々、そしてその視界を遮る列車、あるいは泥。この「隔絶」といった感覚のショットは、三つ目の美しいショットでも見ることができる。それは遠景で美しい家々を映したカメラがそのまま180度ターンし、そのまま手持ちで動いていくと修道院が映り込む、というショットだ。

 祈り、懺悔の省略。なぜ省略したのか。
 
 画面の強度。あるのか無いのかわからない。例えば夜な夜な起きてきたアリーナと詩を読むヴォイキツァの会話をフィックスのワンショットで撮っていたりするが、私にはこのようなショットはつまらないように思える。
 雪景色の審美的な美しさはあるが、多くのシーンはフィックスor手持ちの長いワンショットで描かれており、そこには「美しい構図」のようなものは見られない。
 しかしだからといって、この映画の画面には力がないのか。よくわからない。
 病室や救急搬送された部屋での、周辺の人物達の動きや所作が、視線を惹きつける。カリカリする女医、泣き崩れる救命士、ロウソクをともして祈る救命士、呆然とする修道女といった画面内の様々な「情報」に惹きつけられる。ひきつければいいのか。よくわからない。
 ヴォイキツァとアリーナが一緒に寝るところ。んー、良いんだか悪いんだかわからない。本当にわからない。

 あるいはヴォイキツァがアリーナの兄に妹の死を知らせる場面は、ロングショットだ。このロングショットには胸を打たれる。

 物語が動くのが遅いが、しかし動き出した物語は面白い。アリーナといるときは敬虔深い信者に見え、逆に修道女達といるときはその目つきからして「神なんて信じてません」といった感じのヴォイキツァ。彼女の葛藤とその葛藤をよそに次々と「拷問」する修道女達のコントラストには迫力がある。しかしそれは果たして画面の迫力なのか、物語の面白さなのか。よくわからない。窓を隔ててヴォイキツァとアリーナを映せば、それで画面の迫力と言えるのか、よくわからない。
 
 全然わからない。非常に惹きつけられたのは確かだけれど。
 考えてみると、この監督の前作も、良いんだか悪いんだかわからなかった。
 要するにショットの組み立て方、というのが特に関係のない映画だからだ。でもだからといって興味がないわけでもつまらないわけでもない。それがよくわからん。


 

2013年5月4日土曜日

ホーリー・モーターズ

監督:レオス・カラックス

リムジンに乗ったドニ・ラヴァンが次々と”アポ”に従って変装をし、街やあるいは地下駐車場などに出現しては”アクション”を演じてみせる。
一回目の老人、二回目のスタントマン、三回目のメルド、と続いて、この映画は一種の”反物語”なのだと思わされる。ストーリーではなく、行為が問題なのだと、そう高らかに宣言しているように見える。
しかし4回目の「暗殺」の顛末において、その現実と虚構の境界が見事に崩れ去るのに合わせて、リムジンに乗った男とラヴァンの会話によって、この映画の真の構造が提示される事になる。
簡単に言えば、これは映画が死んだ世界であり、「カメラはその姿を消し」、「見る者が誰もいない」中、かつての俳優達が、ただただアポに従って演じているという世界なのだという事が明かされる。それと同時に、”アポ”と”アポ”の隙間に、次第に現実が入り込んでくる。
それはエリーズという女優とのつかの間の”私語”であり、飛んできた鳩によって一瞬コントロールを失った車であり、あるいはリムジン同士の衝突とそれをきっかけとした、カイリー・ミノーグとラヴァンの”再会”である。
これらは、物語の開始を告げる、あるいは物語を予感させる、現実の相貌が変わる瞬間である。
ラヴァンが窓ガラスを開けると、縦構図でカイリー・ミノーグが奥に捉えられるワンショットが、それを告げているのだし、あるいは彼女との別れの切り返しがその終わりを告げているわけだ。

あるいはエリーズとのやり取り。「次のアポがあるんだ。」「また会いたい。」「君の名前は?」という、あのロマンスの予感。

なるほど、映画の決定的瞬間とは、首尾一貫した物語を脱臼させる瞬間であるだけでなく、物語の予感でもあるわけだ。

しかしだからこそ、この映画にはちょっと不満がある。
エリーズのクローズアップが欲しい。ドライバーと喧嘩するエディット・スコブのクローズ・アップが欲しい。あるいは娘とのやり取りはもうちょっと何とかならんのか。
そして何より、カイリー・ミノーグのミュージカルシーンの照明はさすがに暗すぎやしないか。

オープニングのあの”後頭部達”のインパクト、ラヴァンが出かけるシーンでの滑らかなトラックと屋上で戯れあう子供達の幸福な画(さらにそれと対照をなす別のビルの屋上に配置された警備員達)、あるいは駐車場での”暗殺”シーンの見事な展開、そして逆光でシルエットになったドニ・ラヴァンの肉体、あるいはイスラムのベールを思わせるエヴァ・メンデス(フランスの『ベールの政治学』という本があったね)など、忘れがたいシーン。とても素晴らしい。
しかし上記の不満もあり、あるいはラストはちょっとクドいとすら思う。
いや、めちゃめちゃ面白い映画だったけどね。
ある種のテレビ批判でもあったメルド、そして映画の終末を思わせるこのホーリー・モーターズ、カラックスにはまた映画を撮って欲しいね。


2013年5月3日金曜日

監督:ルイス・マイルストン

才気がほとばしっている映画とはこれだ。
クレジット明けからの、雨の描写がすさまじい。小雨から次第に大雨になっていくのを、砂浜、葉っぱ、井戸、そして雨雲を交互に見せていくモンタージュ、そして大雨になったところでの堂々たる水しぶきの凄み。ゾクゾクするオープニングとはこれだ。

あるいは、見たものであれば誰もが印象に残るであろう長回し。たまに蛇足なのではないか、と思うようなシーンも個人的にはあるが、しかしたとえば冒頭で現地住民の踊りからパンして、歩いていく店主が店の前まで来てイスに座るまでをフォローするカメラワークは極めて見事だ。
また、ジョーン・クロフォードと兵士が店を一周する長回しも、単にフォローするだけでなく、塀をなめたり、店内の様子を奥で捉えたりと、画面の広がりに満ちていて小気味よい。
兵士の一人が帰り際に宣教師達をおちょくっていくシーンでは、円卓の周りを回るという、今ではよく使われるカメラワークも登場して、しかもこれが実に決まっている。

しかしやはり本作の見どころは何と言っても「ドア」と「階段」という映画的装置の見事な扱いだろう。
まずもって、無神論の道楽者達と敬虔な信者達という、絶対にわかり合えないであろう二組がドアと簾を隔てて対立するという状況が映画的だ。おまけに扉の向こうからはオフで音楽が聞こえてくるのだ(さらに言えば、リベラルな医師の存在がたまらない!)。
映画はその境界線を原理主義的思想によって強引に押し入ってくる宣教師の暴力性を告発する。二度目に宣教師が入ってきて、クロフォードとまったく調子の合わない会話を演じてみせる一連のシーンは、カメラの横移動や干された下着の存在感の見事さも加わって非常に面白い。

この映画が傑作であるだけでなく、同時に異端的な存在感を醸し出すのは、単に原理主義者の暴力性を告発するだけでなく、クロフォードがあろうことかその原理主義に取り込まれてしまうという展開ゆえだ。その決定的なシーンは階段において行われる。これはもう、見ろ、と言うだけで十分だろう。すごいシーンだ。

ぼくには少々説明過多に思えるシーンが少しあったが、それでも相当に強烈な傑作だ。

2013年5月2日木曜日

幌馬車

監督:ジョン・フォード

ジョーン・ドルーが最高に美しい。
脱水で倒れるとこももちろんいいけれど、カッティング・イン・アクションで立ち去りかけた後、振り向いてベン・ジョンソンに「お節介は結構よ!」とツンツンしてみせるシーンの照明が素晴らしい。

カッティング・イン・アクションといえば、チャールズ・ケンパー(シャロー役の人ね)が酒瓶を投げた瞬間のカットが決まってる。何でもないシーンではあるけれど。

あるいは馬の疾走。これほど爽快な馬の疾走ってなかなか無いんじゃないか(とか言ってみる)。
まず、主役二人がモルモン教徒達の先導を決断するとき(そもそもこの「決断」自体の荒唐無稽さも賞賛すべきものだが)、ハリー・ケリー・ジュニアの乗った馬が疾走していくショットが抜群である。
あるいはナバホ族からベン・ジョンソンが逃げるシーンの馬の疾走っぷりは凄い。ノーBGMなのでギャロップ音が響き渡るのがカッコいい。

アヴァンタイトルの照明、揺れる電球、あるいはタイトルクレジットの見事な撮影。

あるいはモルモン教徒のリーダーの目配り。彼は最初から最後まで様々な人に注意を向けている。

終盤、急カーブを曲がろうとする幌馬車を捉えたショット群は実にあっさりしているが、これは相当な迫力である。

視線ショットが一つもない。(上記した酒瓶スローのシーンがひょっとすると視線ショットかもしれない)


2013年5月1日水曜日

監督:ウィリアム・ボーディン

まさに最高のアクション映画。
子供達の軽やかな運動をベースにそれを極めてリズミカルに、つまりリアリズムとは無縁の領域で構築していく面白さ。とりわけ籠をかぶってしまった子供が怒って取っ組み合いになるシーン、そしてメアリー・ピックフォードが家主の子供に頭突きするシーン。あるいはワニにあっかんべーをするシーンのショットの組み立て方。

子供の一人が別の家に売り渡されてしまうシーンで、ピックフォードと子供達が倉庫の隙間から手を振る演出が凄い。それまで、深刻な状況設定ながら極めてコミカルに描いていただけに、このシーンでのピックフォードらのあまりの無力さには思わず絶句してしまう。それほどまでにこれは残酷な演出だと言えるだろう。

あるいは、神様がやってきて、子供を連れ去っていくワンショット。今だったら絶対カットが割られるに違いない(割らないとしたらジェームズ・アイヴォリーぐらいだ!知らないけど)。

沼を渡って脱出するシーンなんて本当に素晴らしい。家主が気づいてやって来たときの縦構図。

2013年4月30日火曜日

ファウスト

監督:アレクサンダー・ソクーロフ

 一種のロードムービーのようにして、ファウストとミュラーが街の中を移動し続けるわけだが、この映画が面白いのは、その移動の動機が実にテキトーである点だ。ファウストが行く先々に、何らかのイベントが発生しており(不良による恫喝、死体の運搬、大行列など)、それに対処したり、そこから逃げたりする過程で、いつの間にか次なる場所に来てしまう。そんなような感じで撮られている。酒場に無理やり入れられてしまうシーンなどが典型的だ。
 
 あるいは、ファウストの移動を中心に据えながらも、行く先々での描写においては、むしろ群像劇のように撮られていて、ファウストは傍観者のような立ち位置になっている。だから、例えばミュラーの店に初めてやって来たシーンでも、ファウストはあくまでその他の人物達(布団たたきをする主婦、居眠りをする馬車の御者、あるいは路上で眠っている男)などと同程度の存在感しか示さなかったりする。さらには、ファウストが誤って青年を刺してしまうシーンにしても、その扱いはまるで何事もなかったかのようだ。決して(予告編が言うように)「運命が狂った!」という感じではなく、あくまで酒場の騒音の中で起きた一事件に過ぎない。むしろその直前の、ミュラーがワインを出してみせるシーンのインパクトの方がはるかに強いだろう。
 また、なぜか必ずと言っていいほど、各場面において物陰から様子を伺っている人物が捉えられている。物語上結局絡んでは来ないのだが、それにしてもたとえばワーグナーが帰り際に扉をしめながらこちら側をジーッと睨んでいる描写など、凄いインパクトだ。

 まるでギャング映画のような罵詈雑言の嵐である。常に行く先々で人々が揉めて乱闘騒ぎになる。これはアクション映画だ。 

 画面の美しさが尋常ではない。とりわけマルガレーテが母親とともにベッドに横たわるシーンのフルショット。あるいはファウストとマルガレーテが川に落ちていく俯瞰のショット。あるいは、ファウストとミュラーが揉みくちゃになるシーンの埃の描写も面白い。
 
 やはり2012年のベストはこれで間違いない。

2013年4月21日日曜日

浜辺の女

監督:ジャン・ルノワール

 これは素晴らしい。ナン・レスリーの扱いが中途半端に過ぎたり、冒頭の悪夢がほとんど機能していなかったりと、トータルの完成度では決して最良とは言えないのかもしれないが、しかし要所要所の細やかな極めて効果的な演出に溢れている。
 とても特徴的なのが、オフの声の入れ方だ。もちろん多くの映画でオフの(画面外の)声を聞かせる演出は使われるが、この映画における、「会話に参加していない者が(画面外の)会話の内容を聞いて、事態を察する」という演出はとても素晴らしい。
 ロバート・ライアンがビルとトッド(チャールズ・ビックフォード)の間に事件があった事を察してしまうシーン、そしてジョーン・ベネットが持ち出した絵画に、ビックフォードとライアンが言及しているシーン(ちょっと説明がしづらいね。まぁ作品を見てください)でこのオフの演出が使われている。
 あるいは平手打ちの音を外で聞くという荒唐無稽な演出!

 チャールズ・ビックフォードの存在感が圧倒的である。見るという機能を失った目のギラギラとした輝き。
 最初にロバート・ライアンに出会ったシーンにおいて、ソファーに座ったまま、帰ろうとするライアンの方を振り向いたときのショットが絶品である。このアングルはとても46年の映画とは思えない。あるいは「振り向く」という動作を省略し、「すでに振り向いている」ビックフォードを映し出すことで、違和感を生じさせ、それがサスペンスになる。極めてシャブロル的である。
 
 あるいは浜辺での密会中、浜辺にビックフォードが現れるシーンの素晴らしいこと。このシーンの素晴らしさに関しては何も言う必要が無いだろう。カメラの距離、カットの割り方、音の使い方、その全てが完璧である。
 そしてビックフォードとベネットが並んで昔話に興じるシーンも見事だ。この眼差しね。凄い。
 
 オープニングから中盤にかけて、あるいは終盤にしてもそうだが、この映画ではとにかく視界が狭い。常に霧やら大雨やらが空間を覆っており、人々の視界を曇らせ、場所と場所の距離感を喪失させる(ちょっとクリシェだけれども)。その曇った視界において、多くの人々がほとんど血迷うようにして行動を起こしていく。大雨の中現れたビックフォードに対して「夕食までは無理です」と言いながら夕食をいただいてしまうライアン、突然深遠な話題をしてしまうジョーン・ベネット(ちなみに暖炉に薪をくべた直後のジョーン・ベネットのクローズアップの神々しさは凄い)、そして一度は救援の要請を退けながらも、突風で開いたドアを閉めて一呼吸置いただけで考えを変える駐在員。こうした場所性の喪失+衝動的な行動様式の映画っぷり。
 いやー、こういうのを何度も何度も見たいね。

2013年4月14日日曜日

三月のライオン

監督:矢崎仁司

 素晴らしいと思う。セリフが異常なまでに少ない一方、工事現場の音であったり、瓶の蓋が落ちる音なんかが極めて印象的。
 物語の設定からして、これはいわば「何も共有していない二人」がゼロから関係性を築いていく映画であって、当然そこには二人の身分を動機とする行為よりは、その場その場の突発的な衝動的な行為が重ねられていくだろう。であるからこそ、この映画は断片の集積としてあり、それぞれの断片には何ら関係性がない。それ自体がある意味映画的だが、118分は少し長い感じもする。

 視線ショットがとても多くて、なかでも駄菓子屋の老夫婦が髪を切ってるとこを由良宣子が見るショットが素晴らしい。それに対して序盤に趙方豪がトイレの割れた窓から外を眺めるシーンでは、彼の視線ショットは映されず、窓の外から彼を捉えたショットで処理されている。意図は不明。

 白いテーブルクロスと白いカーテン、そして白い冷蔵庫が太陽光をめいっぱい反射させた画面の美しさには思わず惚れ惚れしてしまう。特に由良宣子が趙 方豪にキスしようとしてやめて、そのまま床に寝そべるシーンの画面は素晴らしい。
 あるいは二人が衝動的に駆け寄って抱き合うシーンもいいね。

 趙 方豪が記憶を取り戻して実家(?)に戻ってきたシーンはセリフがゼロなのだが、彼がヘルメットを頭上の棚に置くだけで、「ああ、思い出したんだ」とわかる。つまり画面が雄弁である。さらにその直後では、彼が(おそらく日課だったのであろう!)コーラを飲みながら床に座って、そのまま流し台に置くという動作を、瓶なしでその動作だけして、流し台にその架空の瓶を置いた瞬間に、実際の瓶が流し台にある事に気づき、思わずそれを手にとり中身を飲む、という一連の演出は上手すぎる。

 駄菓子屋の老夫婦とのエピソードが本当に本当に素晴らしく、実際これで終わってしまってもいいぐらいだと思ってしまった。

2013年4月6日土曜日

リトルチルドレン

監督:トッド・フィールド

 結構傑作。という変なニュアンスだが、被写界深度について。被写界深度についてはもう少し勉強が必要であろうが、しかしとりあえず見た範囲で、というか人と人の奥行の距離とフォーカスの関係についてのみ書いていく。
 まず、冒頭の公園でのシーン。クローズアップを重ねつつ徐々にフルショットなどを織り交ぜるように、だんだん空間が広がっていく感覚がとても面白いのだが、ケイト・ウィンスレットが娘のおやつを忘れて娘が駄々をこねるというシーンがあって、ここのショットは被写界深度が深くとられていて、他のショットはほとんど浅い。
 二日目にパトリック・ウィルソンとケイト・ウィンスレットが出会う一連のシーンでも深度は浅い。この空間の差異、すなわち「手前」と「奥」という明確な差異が効果的に見え出すのは、パトリック・ウィルソンがケイト・ウィンスレットを他の主婦たちが見てるところでハグするというシーンで、ここでは画面手前で主役二人が向かい合い、そのかなり奥(遠く)で主婦たち三人がこちらを見ているという画面高生になっていて、当然フォーカスは手前二人に合っている。そして二人がハグする瞬間にカメラがそのまま回り込んで、反対側から二人だけを映し出すことになる。
 
 ちなみに中盤にケイト・ウィンスレットが週末にパトリック・ウィルソンの家の前に車を停めて様子を伺うシーンがあり、ここでケイト・ウィンスレットとパトリック・ウィルソンを、かなり深い被写界深度で同一の画面上に捉えたショットがある。
 
 さて、次にプールのシーンがある。一日目のプールのシーン(といってもこれは何日か通してのワンエピソードだが)は、割と奥行が強調された画面が多い。子供達二人が走っていくのを捉えたカメラが持続したまま移動してプールを映すなどの、なかなか凝った画面が続く。
 そしてその次に再びプールのシーンがあって、ここでジャッキー・アール・ヘイリーがやってくる。ここで重要なのは、画面の被写界深度が浅いということだ。ジャッキー・アール・ヘイリーが奥から手前に泳いできて、そのヘイリーにフォーカスがあてられ、奥のプールサイドのギャラリーとのフォーカスによる断絶が強調されていると言ってもいい。

 そしてこのジャッキー・アール・ヘイリーという「前科持ちの性心理障害者」をめぐるこの映画の話法に関してはさらに後述する予定だが、最も重要に思われるシーンとして、公園で彼にはち合わせたケイト・ウィンスレットが、最初は見て見ぬフリをしていたものの、彼が泣いていることに気づき、彼の方へと近づいていくシーンがある。このシーンの極めて重要なポイントとして、ケイト・ウィンスレットが歩み寄るその瞬間に、カメラが後ろに回って、手前からウィンスレットの娘、ウィンスレット、そしてジャッキー・アール・ヘイリーの三人を見事な強度でもって、深い被写界深度によって捉えてみせるワンショットだ。少し深読みしすぎかもしれないが、ここで一瞬だけひとつの包摂された空間が形成されたと考えていいだろう。深追いはしない。何よりこのワンショットの見事な強度には打ちのめされる。

 さて、この映画はいささか月並みな言い方をすれば、「差別と偏見」というテーマを持っている。極めて重要なシーンとしてプールでのシーンに戻ろう。ジャッキー・アール・ヘイリーがプールにやってきて、泳ぐところ。ここで我々に与えられている情報は、彼が児童強姦の罪で一度逮捕されているという事と、「最近自転車で近所の子供を物色しているらしい」という噂話だけである。そこでこのシーンがやってきて、しばらくセリフなしで彼がプールを潜って泳ぐ様子が映される。
 これは見事な、というかちょっと驚くくらい大胆なミスリーディングである。彼が実際に子供を物色しているのか、それとも後に彼が弁解するように涼んでいるだけなのか、この一連のシーンではわからないのだが、しかし事前の情報故に、どうしても物色しているように見えてしまうのだ。おそらく見えない人もいるだろう。それはわからない。しかしこの「前科者が物色しているように見える」という”ミス”リーディングこそがこのシーンの最大の狙いであろう。なんとも計算高いが、しかし今どきこのようなシーンを撮れるというのもまた凄いのではないか。よくわからないが。しかしこのシーンの曖昧性、多義性が面白いのは確か。
 
 「差別と偏見による壁を超える」という点に関しては上述のブランコのシーンにおいてまさに一瞬だけ実現されているわけだが、実はその前にいくつか類似したシーンがある。
 ひとつが、アメフトの試合で、パトリック・ウィルソンが敵と握手をするシーン。詳細は省くが、見ていただければわかるように、ここでは「慣習を破って握手をする」というアクションがややコミカルに描かれており、その中心にいる審判はなんと車椅子の障害者である。
 もう一つが、ジャッキー・アール・ヘイリーが母親の搬送された病院の待合室に座っているところに、外人がコーヒー(ココア?だっけ?あれ?)を渡すシーンだ。トゥモロー・ワールド同様、あるいはUnknown同様、やはり映画で本当に手を差し伸べてくれるのは、言葉の通じない外国人なのだ。
 ちょっと面白いのが、このシーンに至るまで、散々「見た目による偏見」のもたらす断絶が描かれ、語られてきた(警官の過去のエピソードはまさにそれが招いた事件だし)にも関わらず、ここでのコミュニケーションは言語ではなく、写真とコーヒー(あれ?ココア?)なのだ。
 
 全体としてはもう少し短くできるだろうし、あるいは最後の「血」が全然ダメだと思うし、ボヴァリー夫人のシーンなんて最悪だと思うのだが、しかし上述した多くの大胆な話法、終盤の唐突なアクションの連鎖など、なかなか面白いと思う。
 また、子供の扱いがとても良い。たとえば二組夫婦の夕食のシーンでは、浮気でつながる大人達のよそで無邪気にじゃれあう子供を映したかと思うと、その後のプールのシーンで子供同士が声をかけることでウィンスレットとウィルソンの間に気まずい空気が流れたり、あるいはラストにウィンスレットが子供を見失い、あわてて探すと、道端の電灯に群がるハエをじっと見つめる子供の姿がある。あるいは子供に関しては一切ナレーションが言及しない。
 このように、一見大人達の情事に巻き込まれる存在としてあるように思われる子供たちが、むしろその無垢さゆえに大人達の関係をさらにこじらせるという面白さがある。子供を感傷の道具ではなく、物語を乱す存在として描いているわけだ。 







2013年3月29日金曜日

トゥモローワールド

監督:アルフォンソ・キュアロン

 劇場公開以来、何度か見直しているが、やっぱり素晴らしい映画だ。

 見事なアクション映画であって、切迫した状況における誰かしらのとっさの運動が映画をどんどんと突き進めており、それは時に衝動的な発砲でもあり、しかしまたある時には反射的に人を「守る」という行為としても現れ、またとっさに機転を利かせることで言語の壁を越えていく。
 
 テロリスト組織の会議で、クライヴ・オーウェンが「公表しろ」と正論をまっすぐぶつけるあのシーンの素晴らしさ。
 Ruby Tuesdayのかかる中、マイケル・ケインが妻を逝かせてやるというのも、どうしようもなく泣ける。

 血しぶきの付着した画面、どこまでも視点に忠実なカメラの扱い。
 
 「車を押しながら走る」という運動のエモーション。

 数ある長回しで一番良いのはどれか。やはりクライヴ・オーウェンが泣き崩れるところだ。

 シドという警察と対面するときのカッティング・イン・アクションが凄い。

 構図、が全然決まっていない、というか、すごく大雑把なレイアウトだけ決めて、手持ちでフワ~っとした感じで撮っている感じがする。でもなぜかこの決まってない画面にとても惹きつけられる。その一要因として、間違いなく繊細な光の扱いが挙げられるだろう。とても素晴らしい。
 また、構図がピシっといっていない、何か『ロング・グッドバイ』のような浮遊感のある画面に加え、画面に現れる牛やネコといった動物や、彫像、そして認知症の老婆、あるいは奥から車がやってきたりといった人物やモノの出入りが、画面の均衡を大きく乱してもいるだろう。とにかく全体的に不穏な画面なのだ。そしてそれがどうにも魅力的というか、ついつい見入ってしまう。

 

2013年3月28日木曜日

断崖

監督:アルフレッド・ヒッチコック

 作品の完成度としてはそれほど高いとは思えないが、しかしここにはファスビンダーの『マルタ』やシャブロルの傑作群に見られるような、「疑惑」だけでストーリーが進んでいく映画の原型がある。(これ以前に同じような作品があれば誰か教えてください)
 『マルタ』は、「変態束縛男?」という疑惑が、「次に殺されるのは私では?」という不安へと変化していき、妻のストレスがピークに達する構造をしていて、これは『断崖』における「金の亡者?」→「殺人者?」という構造と相似をなしているだろう。
 ただこの「金の亡者?」という疑惑そのものが映画として弱く、それが中盤の停滞になっている。『マルタ』の「束縛男」という疑惑も、面白いが、しかしやはり中盤の停滞の一因になっていたと思うがどうか。
 シャブロルの作品においては、怪しいのは「女」である。たとえば『沈黙の女』や『石の微笑』が典型的だろうが、彼女たちにまとわりつくのは、「疑惑」にも満たない、「なんだか様子がおかしい」というレベルのものであって、しかし映画としてはこちらの方が面白いのだ。それはおそらく、運動の方向性が定まらないという面白さだと思う。
 
 さて、この映画では、ジョアン・フォンテーンの描写にややばらつきがある。中盤に関しては、マジで何言ってんのかわからない。お前の方がおかしいんじゃないか、ぐらいの感じであって、しかしこれはどう見てもミスディレクションに思えてしまう弱さがある。「不可解な夫に疑問を覚えつつも、それでも惹かれてしまう」という感じがイマイチ出ていない。
 
 この映画は前半はすごい。メガネ、写真の切り抜きといった小道具の扱い、あるいはフォンテーンが両親の会話を聞いてとっさにグラントにキスする場面の荒唐無稽さ。また、ダンスしたままドアを開けて外に逃げていくなんていうのも楽しい描写だ。何よりこれをワンショットで描いてしまうのがすごい。

2013年3月21日木曜日

シャンヌのパリ、そしてアメリカ

監督:ジェームズ・アイヴォリー

素晴らしい傑作。アイヴォリーの最高作だろう。
冒頭の2階から見下ろすシャンヌと地上のビリーの視線が見事に交わらない。
あるいはその後、シャンヌがビリーへの贈り物としてあげた電車のおもちゃの面白さ。
何て完璧な掴みだろうか!

あるいは様々な学校で行われる授業のなんと魅力的なこと。
最初にビリーをクローゼットに押し込める女教師(その教師に母親が砂をかけるシーンの痛快なこと!)、フランシスの独唱、そしてLet it be!ちょっと反則なぐらいだけど、いやこれだけ見せてくれるんだから文句のつけようがない。

あるいはちょっとした細部の豊かさ。
フランシスがバスの中でシャンヌに声をかけるときのマフラーだったり、あるいはビリーが転校先で牛乳をうまくあけられなかったりという演出のつけかた、あるいは子供時代にシャンヌが出会う謎の少年のディレクションなんかも最高だ。

そしてラストショット。
日記の件でちょっとだけ揉めた家族三人を、そのままフォローして、三人が椅子に座るまで追うとこ。普通、途中でカット割るでしょう(笑)
でも割らずに、まったくもって最適な距離で、滑らかな横移動で、三人を追うこのカメラ。
そして突然三人が踊り始めて、それから日記の件などまるで無かったかのように仲良く池の方へと歩いていくのを、これまたワンショットで、徐々に俯瞰のロングになって、それで、終わってしまう。
このショットで終われる監督がどれほどいるか、とか偉そうな事は言いたくないのだが、しかしこの呼吸こそが映画だ。
そう、アイヴォリーは『最終目的地』のアイヴォリーなのだ。オマー・メトワリーとシャルロット・ゲンズブールが雨の中家に入っていくのを、たった2ショットのロングショットで処理してみせたアイヴォリーなのだ。まったくもって同じような感動が、このショットに凝集されている。それは感傷とは程遠い、もっと透明な愛だ。ちょっとクサいか。

2013年3月18日月曜日

甘い罠

監督:クロード・シャブロル

 主観ショットの使い方。例えば回想シーンと現在のシーンで繰り返される窓から車を捉えたショット。あるいはイザベル・ユペールの写真展の様子を窓からアナ・ムグラリスが覗くシーン、ここでは建物の中で歩き回るイザベル・ユペールを捉えるショット群に、ワンショットだけ窓の外から彼女を捉えたショットが出てくる。そしてそれがややあってから、アナ・ムグラリスの視線を模したものであることがわかる。このように、見る者→見られる者→見る者のリアクション、という典型的な図式を微妙にズラしてサスペンスを醸成するのがシャブロル、特に晩年の傑作群には見られるように思う。

 主観ショット、あるいは視線の問題でいえば、イザベル・ユペールが家に帰宅するとムグラリスとジャック・デュトロンがピアノのレッスンをしているというのを、これは極めてオーソドックスにユペールの横顔のクローズアップ→ふたりがピアノを弾いているショット→ユペールのフルショット(同じショットのまま家に入っていく)という順番で撮っているのだが、この直後、家の中に入ったユペールがふたりがピアノを弾いている部屋を通過していくのを、ピアノの側からカメラがパンで捉えるショットが続く。ここでユペールが歩きながら、こちら側、つまりピアノを弾いている二人を横目でチラッ、チラッと、ほとんど睨むように見ている。ここで重要なのは、カメラが決してユペールの視線の先を描かないという点だ。カメラはユペールが「見る」という情報だけをひたすら提示しているのである。
 つまり、ユペールの「見る」という行為そのものが、この一連のシーンにおける主題となっているのである。
 さらにそのあとのシーンで、買い物から戻ったユペールが、レッスン中の二人の元へ歩いていくなり、アナ・ムグラリスの方をじっと見つめて、それに気づいたムグラリスが思わず演奏を中断してしまうという場面がある。この突然出現した緊張は、しかしユペールが「サーモンを買ってきたわ」と言って会話を切り出すことで中断される。つまりこのシーンは、ただひたすら、「ユペールがムグラリスの方を見た」という物語が語られているわけである。
 いや、もちろんいくつかのサスペンスやスリラー映画において、何者かがこちらを見ている、というスリリングなシーンはいくらでもあるだろう。しかしそれは大抵、見ている者が謎の人物であるか、いるはずのない人間がいる場合だ。
 しかし『甘い罠』のこのシーンにおいては、既に知り合って親しくなった、しかもそこに居て当たり前の女性が見ているのである。そしてそれがサスペンスになっているのである。

 
 ベルタの美しい撮影、特にアヴァンタイトルからのレマン湖、ユペールとブリジッド・カティヨンの面会のシーンの見事な色彩の配置(黒の書棚、ユペールの黒いコート、黒いバッグ、対するカティヨンの着ている白衣、白いティーカップ)。
 あるいは編集のリズム、じっとカメラを持続させるシーンもあれば、(ムラグリスが出かけるシーンのように)軽快な音楽と編集で飛ばすシーンもある。
 アナ・ムグラリスが素晴らしい。髪を束ねている彼女は、どちらかというと神経質でミステリアスな雰囲気だが、髪を降ろした途端最高に美しくなる。ぶっちゃけ前人未到の美しさである。知らんけど
 ムグラリスの、ちょっとバレエのような、かかとをひょこっと上げるような歩き方がとても面白い。

 僕にはこの映画がひとつの完成形、まさに20世紀に終わりに到達してしまった完成形のように思えて仕方がない。とか言ったらいろいろ怒られそうであるが、少なくともこの20年ぐらいの中でも最高の映画のひとつだろう。

2013年3月16日土曜日

シャドーダンサー

監督:ジェームズ・マーシュ


 73年のパート、赤い服を着た少女コレットの弟が、何者かに殺されるまでの数分を、視点に対する忠実性を誇示しながら、あるいは頑なに大人の顔を露光オーバーによって隠しながら子供の顔との対比を際立たせてそれなりの緊張感で描かれ、コレットの視線から閉じられる扉を捉えたショットで閉めくくられると、映画は20年後のロンドンに移る。
 極めて被写界深度の浅い状態で、鮮烈なまでに青い上着を着たコレットの背後を追ったカメラは、そのまま電車に乗る彼女をフォローし、彼女の顔をクローズアップで捉える。
 電車に乗ったのは屋外であったから、窓際に立った彼女の顔は日光によって照らされているが、しばらくして電車がトンネルに入ると、カメラによって持続的に捉えられていた彼女の顔が光と影の完璧なバランスでもって輪郭づけられ、瞬く間にサスペンスが生成するだろう。そのサスペンスの突然の出現に驚く観客に呼応するかのように、危険を察知した彼女はそのまま座席に座り、カメラは彼女の視線ショットでもってそれとなく周囲の様子を捉えて見せる。このシーンの開始では、その浅い被写界深度のせいで、彼女の後頭部以外ほとんど見られなかった視界が徐々に開けていき、あるいはそれほどフォーカスの深度に変わりはないにもかかわらず、前述の瞬く間に出現したサスペンスによって、カメラに映る人物や新聞を持つ手が、途端に存在感を増していく過程は見事である。
 そして危険を察知して彼女が電車を降りると、電車がホームを出発し、向こう側のホームに仁王立ちする男が画面内に入ってくる。この人物は結局このシーンには全く関係がないのだが、しかしその存在がこの地下鉄のホーム全体がすでにサスペンスで満たされていることを告げている。
 やがて彼女が置いたバッグ、そして彼女がホームのドアから脱走した際に、通過電車の風によって倒れた空き缶が首尾よくそのサスペンス性をさらに加速させると、屋外に出た彼女は、持続したワンショットにおいて画面の奥から徐々に近づいてくる二人組の男達によって瞬く間に車に押し込まれてしまう。
 コレットが連れて行かれたホテルには、クライヴ・オーウェンが待っている。彼が待つ部屋はそのカーテンによってドギツい赤色に包まれており、その部屋の扉を挟んで隣に位置した部屋は冷たいブルーを呈している。
 前述の電車のシーンにしても、このホテルのシーンにしても、その「ドキュメンタリータッチ」の撮影スタイルに真っ向から対立するように、その大胆な照明設計がフィクション性を誇示している。

 と、ここまでで大体15分ぐらいだろうか。この15分間に限って言えば、あの『デーモンラヴァー』のオープニングに匹敵するか、事によるとそれ以上の強烈なインパクトを与える素晴らしい出来栄えである。現代映画の進むべき道とはこれだ、とまで思ってしまう凄まじさである。照明設計による一瞬の空間の変化、そして人物が置いていったモノの存在感、そして何の説明もなされぬままに繰り広げられる人物達の運動など、まさに現代の無秩序化した映像文化に抗いながら「映画」の存在証明を提示していると言っていいだろう。
 これだけでチケット代は充分に取り返したので、文句は言うまい。
 それ以降の約100分間の恐るべき停滞ぶりは、おそらく脚本、あるいはベースとなったお話がそもそもつまらないだけなのではないか。
 演出や撮影も、ほとんどこのあまりにもつまらない脚本をどうしていいのかわからないといった風な迷走ぶりで、ただただひたすら真面目に設定されたカメラの視点(フォーカスを合わせないまま奥の会話を聞かせるという『トゥモローワールド』以来(?)の徹底ぶり)(しかしでは一体なぜラストに婆さんが車に乗るまでを徹底して窓から撮らないのか)と、大胆な色使い(赤いコート、青いシーツ、赤いカーテンなど)が行き場を失って佇んでいる。
 クローズアップに関して言えば、冒頭でさえかなり微妙で、これはこの手のドキュメンタリー風手持ちカメラスタイルが遍く抱える問題なのかもしれない。クローズアップがどう入ればいいのか、確かにちょっと見ていてもわからない感じがする。
 ジェームズ・マーシュの今後の作品に注目である!

空軍

監督:ハワード・ホークス

 『コンドル』同様、かつて失敗したものが「その場の流れによって」「知らず知らずのうちに」、もう一度役割を果たす映画であって、だから僕のなかでは、ジョン・ガーフィールドがジョン・リッジリーを助け、機体を不時着させるシーンでこの映画は完結したと言ってもいいぐらいで、というかそれほどこのシーンは震える。
 あるいは戦闘シーンの嘘みたいな迫力。スクリーン・プロセスであってもこれだけの迫力を出せるのだから、凄いとしか言い様がない。ラスト近くの戦闘機が船に落ちて船もろとも爆発、という造形。

 ハリー・ケリーが息子の死を聞かされるシーンで、「1秒たりとも感傷に浸らせない」という映画的感覚が素晴らしい。感傷的なエピソードはすぐさま中断され、しかし中断された者達は感傷を胸に、それを運動に転化させていくわけだ。
 だからこそ上記の戦闘シーンは見事に「戦意高揚」させられるわけだ。

 扉の開閉はパイロットの妹を見舞いに行くシーンだけだったのではないか。それほどこの映画には扉の開閉がなく、つまりアメリカ国民全体がすでに団結している(とまで深読みするのはよそう)。
 主観ショットでひとつだけおかしいのがあって、病床のジョン・リッジリーの視界がだんだんクリアになってハリー・ケリーを捉えるところ。これは間違いなく主観ショットなのだから、ハリー・ケリーはカメラの方を見ていなきゃおかしいね(笑)

 機体の修理をあきらめて燃やすという展開なのかと思ったが、意外にも機体は修理される。だがそこでもたついたせいで多くの犠牲が出ている。

2013年3月15日金曜日

脱出

監督:ハワード・ホークス

一度目はけっこう退屈してしまったのだが、コンディションを整えて二度目を見ると、とても面白い。
ローレン・バコールの佇まいや仕草のディレクションに対する賛辞をよく目にするが、それだけではなく、ショットの組み立て方も明らかにローレン・バコールが絡んでくるシーンでとりわけ気合いが入っていると思う。
最初のローレン・バコールの登場シーンは言うまでもないだろうが、それ以降のハンフリー・ボガードとの部屋の中でのやり取りも非常に繊細に演出されている。というか、常にどちらかが部屋の中を所狭しと動いているので、単純な切り返しの構図にならず、片方をフォローしたまま両者をフレームに収めるというようなカメラワークが多くなっており、それが面白さの要因になっているだろう。
部屋の中のシーンだけでなく、ボガードの元を離れてスリのターゲットへと歩いていくバコールを追ったカメラ、あるいは夜中に歌うバコールのもとへ歩み寄るボガードをフォローするカメラワークなど、シンプルながら非常に素晴らしいショットの組み立てである。

中盤にワインボトルを返しに行ったり戻ってきたりというシーンがあって、ここは脚本の構成が随分偏っていると思うのだが、どうか。
普通、部屋を結局三回も行き来するのだから、どっかで一度別のシーンを挟んでもいいようなものを、何の中断もなくふたりはひたすら両者の部屋を行き来するのである。

ローレン・バコールがボガードの世話焼きをしようとして拒否される一連のシーンにおいては、ボガードが扉を閉じようとしたところで、その扉をバコールが開けて入ってくる。つまりここで少しバコールのボガードへのアプローチが強まっていると言えるだろう。現にその思い故にバコールは空回りしてしまうのだ。そしてそれを悟ったかのようにボガードが彼女にキスをする。

ローレン・バコールが出てこないシーンでは、ショットの組立てが平板な印象を受ける。
特に肝心の海でのミッションの描写が極めてつまらない。

朝食でピアニストにバコールが話しかけるシーンは長い長いフィックスショットだ。こういうのがいいね。
一触即発の雰囲気でここぞとばかりにローレン・バコールがマッチをする。

2013年3月12日火曜日

コンドル

監督:ハワード・ホークス

完璧な物語とは、あるいは完璧な映画とはこういうものを言うのだろう。しっかり再見しておきたい。

セリフの素晴らしさ。「同じところをヤケドしない」とか、あるいはジーン・アーサーがバーの外での、「葬式のように形式だけのものが大嫌いだと思ってたのに、今は全く逆のことを思ってしまってる」という科白の素晴らしいこと。
"Because they don't have bananas!", "Oh, they don't have bananas?", "They don't have bananas!"というリズムの素晴らしさ。

あるいはケーリー・グラントの所作。
一触即発の雰囲気でザッとマッチをする、あるいは椅子を蹴飛ばす、リタ・ヘイワースに水をぶっかけるなど、面白いね。

冒頭の飛行機事故、「600フィート、400フィート」っていう数字と、一瞬の主観ショットだけでこれほどまでに緊張感を醸成できるのかと。震えるほかない。

ラストの因縁のふたりが一緒に操縦するとこ、SUPER8みたいだ。

2013年3月9日土曜日

ル・ディヴォース/パリに恋して

監督:ジェームズ・アイヴォリー

中盤がちょっと退屈。家族の仲が良すぎる、あるいは相手方の夫婦ともっといがみ合わないと面白くない。
でも終盤はどんどん面白くなっていく。
遊園地でのナオミ・ワッツのセリフがとてもいいね。「本当の愛には自由がないの」
マシュー・モディーンがもっと絡んでもいいと思うが、朗読会に彼が現れたところで、ケイト・ハドソン達がひそひそと耳打ちをし始め、協力して追い出すシーンなどシンプルだが面白い。

あるいはマシュー・モディーンが突然現れてナオミ・ワッツに言い寄るシーン。ウィンドウショッピングを楽しむナオミ・ワッツが、これは、と思って店に入る。店に入る直前にカメラが店の中から窓越しにナオミ・ワッツを映し、ナオミ・ワッツがドアを開けて入ってくる。この不意の視点移動の直後に、待ってましたとばかりにマシュー・モディーンが窓の外に現れて大声をあげる。
その後ナオミ・ワッツが店の外に出てマシュー・モディーンを返り討ちにするのを、同じポジションでじっと捉えるのがいい。だから直後のシーンで家のドアを開けたケイト・ハドソンがナオミ・ワッツが倒れているのを発見する場面がショッキングなものになるわけだ。それは今述べたように、カメラがナオミ・ワッツに寄るのを我慢して、心理的な演出をあえて回避しているからに他ならない。

赤へのこだわりも楽しい。ケリー・ザ・バッグ、あるいは終盤のエッフェル塔でのケイト・ハドソンのスカーフ、愛人との最後のランチでもケイト・ハドソンは赤いセーターを着ている。そして『赤い靴』!

ラストのオークションは、そう、あの『最終目的地』のコンサートと同じようにエピローグとして描かれているのだが、こういうのがたまらない。バイヤー達のクローズ・アップにラ・トゥールの絵が挿入されるとこ、シンプルだけどニクい演出だね。

2013年3月7日木曜日

マーサ、あるいはマーシーメイ

監督:ショーン・ダーキン

 ファーストショットに度肝を抜かれる。手前の赤いタオルと奥のジョン・ホークスがパンフォーカスで捉えられていて、最初からいきなり遠近感を揺らされる。
 冒頭の数ショットは本当に見事だと思う。
 そして”コミュニティ”のみんなが寝静まっている中、エリザベス・オルセンが小屋を出ていき、そこから長回しで彼女をフォローする。ここで窓越しにオルセンを見ている女性を捉えているのが見事だ。そしてオルセンが森の中へ消えていくショット。これはジョン・ホークスの主観ショットなのだろうか。なぜそう思わされるかと言えば、前述のように窓越しにオルセンを見る女性をしっかりカメラに収めているために、「オルセンへの視線」を意識させられるからである。
 ちなみにこの映画には明確な主観ショットは皆無である(せいぜい森の中の銃の練習で、真正面にビール瓶を捉えるショットぐらいである)。が、ダンカン・ジョーンズの視点にはゆるぎがない。
 籠の中の乙女であったりSHAMEといった近年のインディ系の映画によく見られる、フィックスによる持続を多用した映画の一種であると思うが、そうでありながらそれらの作品群とは一線を画する独創性がある。これらのインディ映画群(それほど見ていないけれど)は、しばしば画面そのものよりも「フィックスによる持続」自体を売りにしてるとしか思えないショット(要するに無駄に長く、それ故になんか前衛的っぽい感じ)が見られたが、この映画にあってはフィックスの強度そのものが非常に大きいので、画面の緊張感が尋常ではない。湖の見事な撮影。オルセンが最初に湖で泳ぐのを後ろから捉えたショット!

 扉の開閉にも極めて自覚的だ。家を舞台にしていながら、扉の開閉は全部で10回程度だと思われるが、それら10回の開閉は極めて印象的なシーンである。
 まず前述した最初にオルセンが小屋を出て行く時の扉の開閉、あるいは二回目はオルセンを追ってきたコミュニティの一員がオルセンを威圧したあとに店を出て行くショットで、フォーカスは手前のオルセンにあっていながら、後ろの扉の存在感が見事だ。
 あるいはオルセンがホームパーティで激高するシーン。ここでオルセンの姉とその夫が彼女を寝室へと誘導する。よく見ていただきたいのが、夫の方はオルセンを寝室に入れてそのまま外からドアを閉めようとし、それを姉が阻み、オルセンの元へと駆け寄っていくのだ。つまりドアの開閉という運動を通して姉とその夫のオルセンに対するスタンスが一瞬のうちに対比されているのである。ここは全く見事な演出である。
 また、オルセンの運命を狂わせた最大の事件としての、邸宅における惨劇を描いた場面でも、玄関のドアを開けた瞬間にカメラが外から玄関内を捉え、壁の影から女がスーっと家主の背後に現れるショットとなる。人物の配置と間合いにおいて完璧なシーンと言える。
 そして最後の扉の開閉は、コミュニティ内において、トイレに閉じこもったオルセンのもとにジョン・ホークスが突入するシーンであり、ここはこの映画で唯一ジョン・ホークスがオルセンに怒りを表す
場面で、役者の好演もあって凄まじい迫力だ。
さらにこの直後の階段でのひと悶着も全く見事なカメラワークだ(窓の外の椅子とテーブル!)。中盤若干だれるのだが、これらの終盤の圧倒的な展開によって見事に復活したと言っていい。
 以上のように、扉の開閉のたびに事件が起こる映画である。あるいは扉の開閉そのものが事件となっている。これこそがサスペンスだ。


 ※表現先行になりがちな部分がないわけではない。例えばオルセンが現在のパートにおいて湖に飛び込む瞬間にカットが割られて回想パートでオルセンが川に飛び込みコミュニティのメンバーと全裸で戯れるというのも、実は全裸で戯れてるだけで、このショット自体にあまり必然性が感じられないために「2つの飛び込みシーンのモンタージュ」という目的ばかりが目立ってしまっていると思う。要するにちょっとあざとい。
 


2013年3月6日水曜日

沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇

監督:クロード・シャブロル


 最初のショットがサンドリーヌ・ボネールがカフェに入ってきて椅子に座るまでのワンショットだが、ジャクリーン・ビセットの主観ショット気味になっている(厳密には違うとは思うが)。
 この最初のワンショットには、ボネールが歩く姿、そして外から中へと入る運動、主観ショットといったこの映画において極めて重要な要素が凝集されていると言えるだろう。
 この映画ではとにかくボネールの歩く姿が見事に「不可解」である。(邦題は『歩く女』の方がいいだろう(笑))

 主観ショットでは、テレビ画面のショットがいくつかあるが、最も重要なシーンはボネールの視線でイザベル・ユペールを捉えたショットだ。これは初めてボネールがユペールの家に来たシーンで、お互いが完全に意気投合する前だと言える。そして過去の事件の話になったところで、ユペールがベッドの上に座って、ボネールの方を見る。このユペールをカメラがボネールの主観ショットで捉えるため、画面としては真正面からユペールがこちらを見ているという強烈な、そしてこの映画で唯一のショットとなっている。そしてここが結節点となって、ユペールとボネールの極めてブラックな共犯関係が築かれていくことになるだろう。
 このシーンでふたりが過去の事件について晒し、しかも話の流れとしては見てる者からすれば、「このふたりは犯罪者なのかもしれない」という疑惑を持たざるを得ないわけで、異質のふたりが灰色の過去という共通点で結ばれる瞬間である。それがこの主観ショット&ユペールのカメラ目線の演出の正体である。

 あるいは扉の開閉によって事態が展開する脚本のうまさ。初めてユペールが一家の家に入る時は、窓から強引に侵入する。この侵入の時はボネールとユペールの仲はほとんど深まっていないが、この強引な家への侵入のように、ユペールもまたボネールに強引にコミュニケーションを図っているのが面白い。
 
 あるいは何度か出てくる玄関のショットの見事さ。白いカーテン。車を捉えたショットは全て素晴らしい。これは見事な傑作だろう。

赤ちゃん教育

監督:ハワード・ホークス

 主観ショットが全部で18回、扉の開閉が全部で30回ほどある映画なのだが、なぜこんなことを書くかと言えば、扉を開けることによって事件が誘発されたり、あるいは扉の向こう側を見ることで事の真相を知る、という展開が多いからであって、あるいはそれは要するに視覚の聴覚に対する優位性の誇示だと言ってもいいのかもしれないが、まぁそこまで言うこともないでしょう。
 
 一番良いシーンが、酔っ払いの使用人が豹を目撃して、慌てて家の中に入って、女の召使いに衝突して、それによって大量の食器をガシャン!と落としてしまい、その音を聞きつけた各位がその部屋に集合して、事態を察したヘプバーンとグラントが外へ豹を探しに行くというシーンで、とにかく外から中へ、部屋から部屋へ、そして部屋から外へという空間の移動が極めて気持ち良いリズムで描かれている。
 ちなみにこの酔っ払いが豹を見つけるときは主観ショットを使っていないが、一方叔母の友人が暗闇の中で豹を発見するシーンでは主観ショットが使われている。ここではふたりのうち、一人だけが気づくという事がこの主観ショットの選択に至っているのかもしれない。
 あるいはさらに対比を続けよう。酔っ払いが目撃する豹はそこにじっと座っているのに対し、叔母の友人の大佐が発見する豹はスーっと闇夜に紛れてしまう。このスーっと消えていってしまうが故に、主観ショットであることが生きてくる。闇夜に紛れる豹というのは、外側からの構図では撮れないわけだ。主観ショットによる不可解で捉えどころのない光景の提示、というのはひとつの映画史的正解としていいだろう。

2013年3月5日火曜日

主婦マリーがしたこと

監督:クロード・シャブロル

シャブロルによる解説がDVDにあったので、それに少し言及しつつ書こう。
まずイザベルユペールと子供が家に帰ると夫が帰還している、というシーンは映画におけるひとつの転換点であり、シャブロルはここで親子が玄関まで来て家に入るところをわざと長めに撮ったらしい。また息子の視線ショットによって寝ている父親を映している。
 またシャブロルによれば、父親が寝ながら手がズボンの下にあるという点が、彼の今後を暗示しているらしい。知らんがな。
 シャブロル自身が言及しているように、本作は主観ショットが非常によく出てくる。時に鍵穴からの光景としても捉えられるし、あるいはその光景が物語を動かす契機にもなっている。
 特に夫婦の喧嘩を目撃する息子の視線ショットが非常によくできている。
 あるいは扉の向こう、窓の向こうの風景も印象的に撮られている。
 イザベル・ユペールが教室で歌ってみせるシーンでは、思わぬ長回しで極めて美しい窓の外からの画面として捉えられれている一方、そのあとカメラが窓の中へ入るのがあまり好みではない。
 シャブロルいわく、外の世界と中の世界を対比させたのだとか。
 終盤の法廷を中心とした描写はあまり面白いとは思えない。

 イザベル・ユペールの顛末を暗示したガチョウの首切りシーンが面白い。それは「目隠し」という点でも実に印象的だが、あの巨大な被り物や、背景のナチのマークなどの視覚的なインパクトが非常に強い。この映画は全体的に地味で完結で簡素だが、このシーンと法廷の壁にある大きな絵画が非常に強烈な印象を残す。

2013年2月27日水曜日

世界にひとつのプレイブック(2回目)

監督:デヴィッド・O・ラッセル


 自信を持って、大傑作!
 二回見ると、一見雑に思えるカメラワークも、実はデヴィッド・O・ラッセルの計算通りという感じがしてくる。三回見れば結論が得られそうだが、そんな金はない。
 被写界深度が浅く、クローズアップによる構図→逆構図の切り返しを基調としている。久しぶりに家に帰ってきたブラッドリー・クーパーと、ジャッキー・ウィーバー、ロバート・デ・ニーロが向かい合う冒頭のシーンにおいて、頑なに画面手前に誰かしらの頭、肩をなめる構図。常に人と人が言い分をぶつけ合うこの映画に合っては、この画面いっぱいのクローズアップと頭の「なめ」が非常にマッチしている。例えばこのシーンの前での車内でのジャッキー・ウィーバーとクーパー&クリスタッカーの切り返しでも、ジャッキー・ウィーバーの金髪を常にナメている。あるいはこの狭い車内での構図の素晴らしさ。

 こうした構図・逆構図の切り返しの中で、ブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスをどう捉えるのか、がこの映画のもっとも重要なポイントであるが、まず序盤にブラッドリー・クーパーの顔の側面から正面にカメラが円を描くように回り込む動きが印象的だが、さらにクーパーがローレンスの家に彼女を迎えに来るところでも彼の周囲をカメラが半周する。このカメラの円運動がやがて、二人をいっぺんに収める。それはいつかといえば、二人が初めてダンスの練習をする場面で、二人が座った状態で、まずカメラは壁の鏡の方を映し、二人がちょうどガラス枠の中に収まるとともにカットが割られ、今度はジェニファーローレンスを向かって右側から捉えたまま、クーパーの背後に周り、そのままクーパーに向かって右側まで回り込む。それまで頑なに「ナメられ」てきたクーパーの後頭部を軽やかにカメラが超えて描いた円=サークルの中に二人が収まった感動とともに二人のレッスンが始まり、それまでジョギングのたびに前後の関係で走っていた二人が横に並んで楽しそうに踊ってみせるとき、そしてこの円=サークルに収まった二人が、終盤では二人の力でワルツ=輪舞を踊ってみせ、家族を救ってみせるとき、さらに最後に二人が結ばれたのを祝福するかのように、口づけ合う二人の周りを再び思いっきりカメラが周るとき、この映画は勝利したと言っていいだろう。

 もちろん多くの問題を抱えている。ダンスの練習場にしても、照明が全然ダメだろう。
 またラッセルの美学は抜きにして、もう少し被写界深度の深いショットやキレのある持続があればもっと良かったであろうシーンが無いこともない。
 だが、照明なんて吹っ飛ばせ!だ。
 
  ブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスの吐いた唾をちゃんと捉えてる素晴らしさ。
 デ・ニーロと賭け相手の握手が、クーパーとローレンスのつないだ手へと継承される見事さ。
  偉大な映画。

2013年2月26日火曜日

世界にひとつのプレイブック

監督:デヴィッド・O・ラッセル

 クローズアップがとっても多く、時にそれが運動を阻害している、と言えなくもないが、そう言わせないだけのガッツとエネルギーがある。というより、確かにクローズアップが多いのだけど、視点は決してぶれるわけでもなく、無駄にカメラが揺れるわけでもなく、あるいは過剰なピント送りをするわけでもなく、つまり決して致命的なラインを超えることなく、肝心なところを外さないラッセルの気合いと、それに見事に応える素晴らしい役者陣によって130分突っ走って、走りきった。

 ジェニファー・ローレンスはまるで『フランティック』のエマニュエル・セニエだ。彼女がブラッドリー・クーパーの元妻がダンス会場にやって来た事に動揺してバーにスタスタ歩いていき、「ウォッカ頂戴」と言ってみせるまでを長回しとドンピシャの照明で捉えてみせるとき、あるいはその後何事も無かったかのように艶かしくエキサイティングなダンスを踊ってみせるとき、あるいはクーパーとの初デートにおいて、それまで凡庸にも単調な切り返しでのみ会話をしていたローレンスがティーカップを吹っ飛ばし、見事なカット処理でもって店から出て行くとき、あるいは彼女のメッセージに気づいたクーパーが雨に濡れた夜の舗道を疾走してみせるとき、あるいはクーパーの主治医がスタジアムで彼に遭遇して興奮してみせるとき、あるいはあらゆるジェニファー・ローレンスとブラッドリー・クーパーのダンスシーン、そしてそれまで不当にもあまりいい照明を当てられなかったロバート・デニーロが最後に見事な光の中で息子クーパーを説得してみせるとき、映画がどんどん加速していき、いつの間にか涙が流れている。そういう映画。
 たぶん再見するので、二度目見たらまた更新する予定。

2013年2月25日月曜日

ふしだらな女

監督:アルフレッド・ヒッチコック

 フルショットから始めて、そこに人物が入ってきたり、あるいは一方が他方に近づくことをきっかけに、カッティング・イン・アクションによってカメラが寄る、そこから切り返しになったり、そのまま寄りのショットで会話を描く。というのが一定のテンポに基づいて続く60分間で、その手さばきは見事だ。アトリエで画家がラリータに言い寄る場面、ラリータが憤る夫を引き止める場面、新夫の実家に挨拶に来たラリータ、などなどに対するカメラの寄り。あるいはそのフルショットの強度。
 それと、パーティに来た弁護士とラリータのやり取りではなぜかイマジナリーラインが無視されている。
 ヒッチコックらしい主観ショットも随所に使われていて、窓からの俯瞰で家政婦が警察を連れてくるのを捉えたショットはヒッチコックらしい。
 あるいは冒頭のアトリエでのカット処理が一番見事だと思うのだが、まず酒瓶のクローズアップからカメラが引いて、ラリータと夫を捉えると、さらにカットを割ってカメラが引き、ラリータの肖像画を描いている画家の姿まで含めて捉えたフルショットになり、そこから三人を順番に(やや引き気味の)ミドルショットで映すと、次に画家を内側から映す。はて、これは一体どうした視点変更なのか、と思っていると、次にラリータを映し、ラリータが「お酒をやめて」みたいな仕草をすると、その主観ショットで夫を映す。ということは、前述の内側からの画家のショットはラリータの主観ショットであったということがわかる。つまり酒を飲む夫と画家へのラリータの心情の対比が速やかに行われている。

2013年2月23日土曜日

菖蒲

監督:アンジェイ・ワイダ

 モノローグシーンに一体何の意味があるのか、という事をあまり聞いてはいけないようなところがあって、いやひたすらここだけは退屈なのだが、一方でドラマパート、そして撮影現場のドキュメンタリー映像のやたら凝ったカメラワークなどはいかにも素晴らしい。
 ドラマパート、例えばクリスティナ・ヤンダが青年と接触してから気になり、友人の話そっちのけで視線を青年の方へ向けている描写にしても、カメラの視点がしっかりしているので、青年にピントが合っていないとき、合っているときの描き分けがはっきりしている。こうした処理を見るとついつい安心してしまうぐらいには、僕は保守的な人間だ。知らんけど。
 どう考えても夫のキャラクターが中途半端で、もはやいらないとすら思えるが、それでも最初のシーンで妻と友人を見送った後に涙をこらえる姿を捉えたショットなどは印象深い。
 ここで注目したいのが、まず見送るショットがあり、その次に妻と友人が家を後にするややロング気味の美しいトラッキングショットを挿入してから、再び同じショットで涙をこらえる彼の姿を捉えている点だ。なにという事はない。しかし、これは正しいショットの連鎖だと思う。

 ラストの川辺のシーンではいったん、撮影が中断するハプニングをドキュメンタリーっぽく描いているわけだが、これ、ワイダかなり遊んでるよね?
 その文脈からして、いくつかのドキュメンタリーパートは、極めて深刻そうに挟まれるわけだが、このシーンだけは、「嘘で~す」と言わんばかりの擬似ドキュメンタリーであって、いやそもそも「どうしたんだ?」と深刻ぶるワイダの顔がふざけている(笑)

 で、気を取り直して撮られた川辺のシーンは、何も言うことがないね。ひたすらに素晴らしい。水際の目の醒めるような映像美、ロングの使い方、そうかと思えば被写体に極限まで接近する手持ちカメラの迫力。素晴らしい。

スペル

監督:サム・ライミ

 出来事に対するシンプルな、つまり誰もがそうするであろうリアクションをカッコよく、ドーン!と見せること。それが共感と驚きの狭間にある「映画」の境地だ。
 
 だから「せっかくネコ殺したのに全然ダメじゃねーか!」と憤るアリソン・ローマンがとっても可笑しく、あるいは「霊媒師にお金を払ったよ」と報告するボーイフレンドのかっこよさに素直に感動する。
 こうしたホラー以外の要素における的確な演出が嬉しい。例えば昇進レースは君がトップだ、と言われたアリソン・ローマン、ここでライバルの男の方をチラッと見てほくそ笑む、なんて演出がありそうなものだが、聡明なサム・ライミは決してそういう事はしない。

 ホラーシーンだが、駐車場でのアクション造形は極めてよくできていて、ここは本当に面白かった。ハンカチの軌道を追うようにカメラがパンすると、老婆が後ろにいる、というのもベタだが素晴らしい。このアクションへと至るまでの雰囲気の醸成も見事。特に複雑な事をやるのではなく、照明をそれまでよりダークにして、ヒロインの視線ショットで車を怪しく撮りさえすればオッケーでしょ、という確信。

 そしてラストのエスカレートぶり。墓場を掘り、「てめぇにくれてやる!」とばかりに封筒を突っ込み、「あばよ!」と捨て台詞を吐くアリソン・ローマンが可笑しく、またそのあとのグダグダな展開には笑うしかない。
 

2013年2月11日月曜日

ムーンライズ・キングダム

監督:ウェス・アンダーソン

 蓮實重彦が褒めてたからとか関係なく、予告編を見て非常に期待していたのだが、どうもノレない。縦横のカメラ移動にしても、別になんということはなく、あるいは乱暴に、というか時間稼ぎのように感じられるクローズアップがちょっと厳しい。
 もちろん誰もが驚嘆するであろう入江を映した美しいショット、夜明け前のあの美しい湖とカヌー、黄色と赤の色彩感覚など、普通にいくらでも(楽しく)見ていられる画面ではあるのだが、しかしそれだけに一向に映画が走らず、どんどん減速していくことに失望を隠せない。
 
 例えば森の中を逃げている二人が隊員達に見つかり、対決するシーンにしても、『イングロリアスバスターズ』の劣化版みたいな印象が拭えず、あるいはクライマックスにしても、あれだけ水の迫力を見せておいて、あれでいいんかい!という感じである。
 稲妻の処理だって、ちょっと納得いかない。そもそもキスしたら唇から電流走りました、なんてなんにも面白くないし、そしてあれだけのために、中盤の集団での追走劇を雷で中断したのかと思うと、映画全体に対する不信感が募るばかりである。
 つまり人物達はみなエキセントリックではあるものの、それは「エキセントリックな舞台」を彩る駒に過ぎず、結局のところ、彼ら一人一人の身体は全く露呈することなく、ウェス・アンダーソンの手のひらを走りまわるだけだ。ここに何の愛があるっていうのか。

恐喝(ゆすり) (2回目)

監督:アルフレッド・ヒッチコック

切り返し、視線ショットなどについて。
この映画ではほとんど切り返しがない。アリスの家の雑貨店において、あるいはその奥の居間での恐喝屋との会話において、切り返しらしきショットの連鎖はあるが、それもせいぜい一回ぐらいで、会話は基本的にはバストショット、フルショットで人物の横から捉えたものが基本的になっている。

あるいは視線ショット。冒頭、刑事が犯人の家へ捜索に来るシーンでは、刑事側の視線ショット(これは犯人の部屋に入ったとき)と、犯人側の視線ショット(厳密には視線ショットではない鏡越しのショットと、横の机に置かれた拳銃へ目を向けたときの視線ショット)が使われている。
視線ショットはその人物の視界を提示することで、その人物が置かれた状況を、どちらかといえばその人物に即して主観的に描いていると、とりあえずは述べることができるし、ヒッチコックはこれをよく使う、と思う。
しかしこのシーンの後、アリスがレストランで男に目で合図を送るシーンまで、全く視線ショットがなく、「写実的に」事態が淡々と描かれる(厳密にはアリスとフランクの二人がレストランで空席を探すときに一度視線ショットがつかわれているが)。
だがもちろんのこと、画面の強度においてかなり素晴らしい。
フランク自身の視線ショットはレストランの外で待機しているところを、知らない男と一緒にアリスが出てきたのを目撃するショットで初めて現れる。

恐喝屋が男のアパートメントの前で物陰に隠れてアリスと男のやり取りを盗み見ているシーンがあるが、恐喝屋はアリスの側から観察しているはずで、ここでは二人を横から捉えたショットしか使われていないので、人物の関係的にここでは視線ショットが使われていないことがわかる。

これ以降はいくつかアリスの視線ショットが使われ、例えば最後にも出てくる絵を見るショット、帰路においていくつかの看板や手が死体や包丁に見えてしまうショットなど、アリスの心理を表象したショットが目立つ。「ナイフ」という言葉が反復して強調される音の編集に関しても同じことが言える。

しかしこの映画はアリスの心理的葛藤を描いているかと言えばそうではなく、それがこの映画の面白さで、恐喝屋がアリスの家にやってきてからの妙な会話劇だとか、それから事態が急転して警察の追走劇になるなど、アリスはこの事件からどんどん置いてけぼりになっていく。

2013年2月10日日曜日

第3逃亡者

監督:アルフレッド・ヒッチコック

様々なアイデア、裁判での入れ違い、瞬き、目隠しゲームが楽しく、また、これを今やったら絶対キーラ・ナイトレイだろうという女主人公や、ちょっとマシュー・ベラミーみたいな追われる主人公の掛け合いはなかなか面白い。特に二人が検問で(あまりにも軽率に!!)見つかってしまい、車で逃げるところをスクリーン・プロセスで処理しながら、二人の超楽天的な掛け合いを見せてくれるのがいい。
しかし全体的にちょっと興味のもてない映画ではある。。うむ。。。

舞台恐怖症

監督:アルフレッド・ヒッチコック

 ジェーン・ワイマンの愛らしさがこの映画全編にわたって炸裂しており、彼女のクローズアップはどれも素晴らしく、また彼女が心臓病の振りをして見事に床に転倒してみせるワンショットが何ともかわいい。
 あらゆるショットが素晴らしく、物語の展開など全く追わずともその画面構成だけで見事に楽しめてしまう。
 
 まず冒頭、3ショットにわたって疾走する車を捉えたあと、車内のワイマンとリチャード・トッドが映される。ここで二人はチラチラと後ろを見たり相手を見たりしているのだが、二人の視線は見事なまでに一度も交錯しない。
 ここで「回想」シーンになる。
 この回想シーンは、場所の空間性を強調せずに、かなり人物に寄りながら、ワンショットで見せているのが非常に効果的だ。リチャード・トッドがマレーネ・ディートリッヒの家に入って、そこから階段を上っていくショットは、遠景からぐーっとカメラが後ろから近づいていき、リチャード・トッドを階段と鏡とのまさに「これしかない」という関係において捉え、彼を追っていく。
 そして彼が寝室に入ると、いくつかのショットを挟んだあと、ワンショットで彼がドレスをクローゼットから取る様を追う。そして彼がふと顔をあげると、夫の書斎らしき部屋が見える。この書斎を映したワンショットも凄い。

 あるいはワイマンとマイケル・ワイルディングが初めて出会うバーでのやり取りも見事なカット割り(空気読まず話しかけてくる太っちょのおじさんの絶妙な登場だとか)。
 またワイマンとワイルディングがガーデン・パーティに出かけるタクシーでのシーンがこの映画で最も見事でチャーミングなシーンだろう。ロマンスってのはこういうことである、という感じの、もう何も言うことのない演出の間合いだ。ここは本当に惚れ惚れしてしまう。

 ガーデン・パーティで召使のネリーを上からクレーンで下降しながら捉えたショットも秀逸だ。
 あるいはワイルディングの所作。彼女に刑事であることを伝えたときの帽子をつまんでの会釈だとか、彼女を見送ったあとに彼女の方を振り返る仕草だとかが、何気なく、しかしいい感じで捉えられてるのが嬉しい。二人のロマンスの醸成具合というのが、とにかく素晴らしい。

 ガーデン・パーティでの顛末が若干面白くないような気がするが、しかしラスト15分ぐらいの見事なテンションと、あっけない、しかしそれゆえに「倫理的な」美しいカット処理は凄いというほかあるまい。あと、このラストのちょっと前に、修羅場を乗り越え、涙にくれるワイマンに静かに拍手を送る父との切り返しが美しい。警察がディートリッヒのもとへと向かう物語的には「動的な」展開において、この静かな3ショットをはさむヒッチコックの手腕。
 あるいはワイマンにチャールズ・トッドが真実を打ち明けるシーンの二人の顔、というか目。心理的に何かを表現しているのではなく、ひたすらこの二人の目が露呈している。恐ろしいシーンだ。

2013年1月24日木曜日

最終目的地

監督:ジェームズ・アイヴォリー

二回見た。一回目は特にアメリカでの照明がうまくいってないと思ったが、どうも思い違いだった。アメリカでもウルグアイでもそうだが、牛乳や酒、オレンジジュースといった飲み物を実に美しく捉えていると思う。

で、やっぱりこの映画相当変な映画で(笑)、1対1での会話がベースなわけだけど、ひとつの組み合わせは大体一回しか無い。オマーとキャロライン(ローラ・リニー)、オマーとアダム(アンソニー・ホプキンス)はそれぞれ1対1で話すのは一回だ(終盤でキャロラインとはもう一度話すが、それはもう事態を決着させるためのシーンにすぎない)。しかも特にそれらの会話によって何が生まれるわけでもなく、性格の合わない二人が話しました、こうなりましたというだけであって、そう、これはまさに群像劇なわけだ。

それと手持ちカメラのうまい使い方。
アンソニー・ホプキンスと真田広之のカップルが並んで歩くショットと、オマーとシャルロット・ゲンズブールが海岸を歩くショットで手持ちのカメラが使われていたが、何というか、いいアクセントだ。いいアクセント、としか言えないのがもどかしいが、しかしそもそもこれはいいアクセント程度の志向のもと撮られているのではないか。それぐらい、「いいアクセント」だ。

そしてやはりシャルロット・ゲンズブールとオマーの顛末。おそらく意識的に赤が使われていて、まず髪を切っていたときのアンソニー・ホプキンスのズボンが赤かったのだが、ラストのシーンではほとんど同じような赤のシャツを真田広之が着ている。そしてその赤はシャルロット・ゲンズブールの赤い傘へと継承される(そもそもこれはアンソニー・ホプキンスの傘ではないのか!笑)、そうして微妙にカットが割られた2ショットのうちに、一瞬にして二人は赤い傘の中におさまり、我々が呆気にとられている間に屋敷の中に入っていく。ロング気味のフルショットで捉えられた二人の表情ははっきりとは見えないが、しかしどうもシャルロット・ゲンズブールはあの時確かに笑っていたのではないか。そう見えた。
二回見てもやはり、これは本当に幸福なショットと言うほかない。というか、このショットこそが幸福そのものだ。

もうひとつ、ゲンズブールとその娘のポーシャ、そしてオマーが庭で会話するシーン。ここではゲンズブールが独特すぎてシャルロットなまりとしか言い様のない英語で、かつての愛人との記憶を娘にせかされるように照れながら語るのだが、その会話が途切れたとき、ポーシャとオマーが、ふと空を見上げ、それと同時にカメラもカットして夜の星空を映し出す。
別になんというショットでもない。あるいはこの二人が星空を見上げる理由もなければ、何やら「星空」が物語的なモチーフとして関係してくる事もない。ただただ、何ともなしに、二人は星空を見上げるのである。その何のこともない運動が、なぜこれほどまでにエモーションを喚起するのだろうか。
星空を見上げることに何ら意味はない。いや、というより意味がないからこそ、この「意味もなく星空を見上げる」という極めて単純な運動が輝くのかもしれない。よくわからない。でもこれは、泣ける。




2013年1月17日木曜日

ミステリーズ 運命のリスボン

監督:ラウル・ルイス

後編などはほとんど拷問のごとくちんたちんたらと大して面白くもない話をひたすら「説明的に」「絵画のように美しい撮影で」語っているので、ちょっときつい。
が、全編は序盤の照明がちょっと暗すぎる気がするも、人物が画面内に入ってくる、あるいは出て行く瞬間というのが実に面白く、それは例えば少年の母親が神父の呼びかけに応じず去っていく持続ショットにおいて、赤いスカートがスーっと画面から消えていくあの感覚に凝集されてると言えるだろう。
あるいは若き日の少年の父親の前に二度ほど現れては警告をする男も、突然画面に現れては突然消えていき、そして同じショットの中で別の人物が入ってくるという、このフィクション性が良い。
そのタイミングやら現れ方やらが「嘘っぽい」がゆえに、その人物の出現と消失が逆説的にリアルなものとして露呈する。

2013年1月13日日曜日

恐喝(ゆすり)

監督:アルフレッド・ヒッチコック

あまりにも荒唐無稽であり、大英博物館の件などは開いた口がふさがらない。凄すぎる。

照明に関して羅列。
・冒頭、現場に来た刑事二人組のクローズアップを斜めから。刷子からのライトが二人を縞模様に照らす。手前の上司の顔は露光オーバー気味で、奥のフランクの顔の照明が抜群。

・ロンドン警視庁の警部室でのフルショット。グラスが光を力いっぱい反射している。それから正面に座っている警部の顔がかなる光っている。そしてその奥にはタンスがあって、このタンスの影=黒が警部の顔と見事なコントラストをつくっている。手前のソファーの影も見ておきたい。

・犯人の指紋をとるシーン。カメラが指のアップから持続して、ミドルよりやや後ろまで引く。左側の机に光があたっていて、その奥とのコントラストがある。この机を照らすのとおそらく同じ光源でもって、犯人の手、犯人の上着の右半分、刑事と犯人の顔が照らされている。
それとコントラストをなすのが、影に隠れた犯人の上着の左半分。
二人がズレた位置にいるから、影をつくりつつ、二人の顔をしっかり照らすことができる。

・レストラン。アリスの視線ショットで中の様子が映される。上半分が破天荒に明るく、下半分が(客が食事をしているゾーン)が嘘みたいに暗い。こんなの嘘だ(笑)

・夜、トレーシーがアパートの前に立っているショット。街灯で怪しく照らされたアパートは、まるで「屋敷」だ。

・アリスを誘惑した男の家。男がアリスに上に上がっているよう指示し、自分は家主の方へ向かう。カットが一回割られ、カメラが男の正面にまわる。階段の壁にあたった影の感じが凄い。

・アリスがドレスを身体にあてがい、男がピアノを弾くショット。真ん中の壁が真っ黒だ。二人の顔は明るく照らされている。

・ドレスに着替えたアリスは全身真っ白だ・・・。

・殺人を直接見せず、ベッドのゆれるカーテンを映したショットは、それほどのインパクトがない。右手前の黒に対し、左側の照明がそれほどインパクトがない。しかしベッドから出てきたアリスがそこに立った瞬間、画面が引き締まる。

・家に証拠を残していないかとキョロキョロ見渡すアリスのショット。アリスは黒い上着を羽織っており、全体的に黒のトーンだが、右上に例の真っ白なドレスがドーンと存在感を発揮している。そして何度か「ゆれる」。

・アリスの家。アリスがいったん部屋に入り、そのあと降りてくるとき。入るときは、カメラは上にアリスの部屋のドア、真ん中に階段、そして下に1階のキッチンとバランス良く映しているのに対して、出てきたときはカメラが少し上に配置されている。これにより、1階と2階をつなぐ階段の、特に影が存在感を増している(気がする)

・トレーシーが来てから、アリスの父親がトレーシーに席を譲り、そこにトレーシーが座る。で、そこでカッティング・イン・アクションして、トレーシーを正面で捉える。このショットが多分一番凄い。手前右にアリスが敷いた白いテーブルクロスが映り、真ん中左側にはフランクが組む手が映っている。そしてトレーシーの吸う葉巻の煙が怪しくゆらめく。

・自首しに来たアリスが案内に連れられて警部室へ向かう、この廊下!!!!


2013年1月10日木曜日

レ・ミゼラブル

監督:トム・フーパー

それまでパンや食器をくすねていたバルジャンが、旗を持ち上げ、事故現場の馬車を持ち上げ、コゼットを抱きかかえながら疾走し、ガブローシュの遺体を抱きかかえ、瀕死のマリウスを背負って送り届ける。そして使命を果たしたバルジャンは、コゼットに内緒で去ろうとし、馬車に乗ろうとした瞬間、自分の荷物を持ち上げることができなくなる。
ユゴーの原作にどれほど忠実なのかは知らないが、こうした視覚的寓意性において優れた脚本と言えるだろう。

しかしそれにしてもこの演出はヒドい。ちょっと犯罪的ですらある。
ヒュー・ジャックマンが教会で熱唱するシーンのクローズアップは酷すぎて思わずスクリーンから目を背けてしまった。

あるいは、それまで歌、歌、歌で来ていたところで、セックスシーンだけ突然ノーマルな演出にしてショッキングに見せよう(と思ったのかなんだか知らないが)というその品性の下劣さには思わず閉口する。
あるいはエポリーヌが死ぬシーンにおいて、突然取ってつけたようにガブローシュの泣き顔を挟むというこれまた物凄いあざとい演出には呆れる他ない。

あるいはそもそもこの監督さんは物語を語ることすら出来ていないではないか。
とりわけ目が覚めたマリウスの手をとるコゼット、お前はいつからそこにいたのだ。
コゼットが歌いだすとマリウスはそれがコゼットであることに気づく。いや、出会って2日しか経ってないのだが。
そもそもここって、二人の感動の再会のシーンなのに、なぜにこれほどお粗末なのだ。

2013年1月2日水曜日

ニコラ

監督:クロード・ミレール

ハイウェイを疾走するグレーのルノーを後ろから捉えたショットで始まり、それが回想シーンによって父が息子のニコラを乗せてスキー教室へと向かっている車であることがわかる。

ガソリンスタンドに寄りしばらくすると、車は事故現場に遭遇するのだが、この現場を通りすぎるときに、車の窓から横移動で捉えた凄惨な事故現場の描写がなかなか印象的だ(『ウィークエンド』!笑)。

さてこの映画はスキー教室を主軸にしながら、ところどころでニコラの夢や妄想が描かれる構成になっているが、これらの夢や妄想がなかなか面白い。
とりわけ料理番組のテレビ画面が突然、父親が交通事故を起こす場面に切り替わり、担任の女性教師がなぐさめるようにニコラを愛撫するという妄想シーンがとてもエロティック。そしてこのエロティックな妄想ゆえに、映画におけるこの女性教師の存在感がグッと増すのがなかなか巧みだ。

あるいは両親が猿の手にお願いをするたびにそれが叶うという夢も、極めていたずらっぽいというか、見てるこちら側も思わずにやにやしてしまう筋立てだ。それと玄関を右往左往する両親を捉えた横移動がなかなか素晴らしい。

また最終的に妄想/夢と現実との境界が曖昧になったまま、しかしその決定的な侵蝕は描かれないまま、映画は終わってしまう。

照明があまりうまくいってるとは思えない。クローズアップがちょっと多い。

2013年1月1日火曜日

顔のないスパイ

監督:マイケル・ブラント

98分というコンパクトさでありながら、随所に、物語の進行とは微妙にズレた次元で細部を描いてみせる豊かさがある。
例えば少年野球を観戦している母親とリチャード・ギアが客席で話すシーンだったり、あるいはトファー・グレイスの家にリチャード・ギアが招かれての会食、特に玄関先でのギアとオデット・ユーストマンのやりとりがいい。
あるいは序盤に上院議員を監視しているFBIの捜査官が揺らす電球(電球が揺れるというあからさまな記号ではなく、ちゃんと画面造形として決まっている)。

またトファー・グレイスとリチャード・ギアのコンビが様々な重要(時に全く重要でなかったりするw)人物を訪れるにあたって、各パートを見事に描き分け、強烈に印象づけてくれる。

例えば刑務所でカシウスのかつての部下と取引をするシーンでは、リチャード・ギアが逆光によってシルエットになる描写が印象深い。
直後の病院での脅迫シーンも見事な出来栄えだ。

さらにロシア人娼婦の家を訪れるシーンも見事な出来栄えと言って良い。
まず家主らしき女に場所を聞き、二人がそこへ向かうシーンで突然手持ちカメラによる長回しが炸裂する。しかもこの手持ちカメラによる映像も、並んで歩く二人を背後から捉えつつ、前方に洗濯物を捉えてみせる。この洗濯物、というか風は強烈なイメージだ。
さらに言えば直後にリチャード・ギアが娼婦を川岸に追い込んで脅迫する場面も素晴らしい。リチャード・ギアの叫ぶ演技の凄さ、あるいはギアが諦めて彼女を引き上げるときの仰角のショットの強度も凄い。
加えて言えば、ギアが彼女の額に当てていた銃を戻すとき、ジャンプカットが使われている。

ロシア製の服を来ている男を二人で追いかけるシーンでも、3人がほとんど同じぐらいの距離で走るショットの切れ味が良い。

これは相当な傑作でしょう。