2023年12月30日土曜日

フェラーリ

 監督:マイケル・マン


アヴァンタイトルで、アダム・ドライバーがレースで快走する合成映像が白黒で提示され、バックには非常に牧歌的な雰囲気の歌が流れる。ここで暗転してFERRARIのタイトルが出ると、審美的な夜明けのショットを挟んで、老けメイクを施したアダム・ドライバーが、寝室から誰も起こさないように出ていき、玄関先の坂道を途中までエンジンをかけずに降りていき、しばらくしてエンジンをかけて車を走らせていく。このオープニングが本当に素晴らしい。

車も乗らず、F-1なんてほとんど見たことがない人間なので、映画が舞台とする1957年のフェラーリの状況などまるで知らずに見たのだが、てっきり『ラッシュ』とか『フォード vs フェラーリ』のようなスペクタキュラーなレース映画なのかと思いきや、ほとんどのシーンが雲行きの怪しい経営の話、ペネロペ・クルス演じる妻との尋常ではない殺伐とした関係性に重点が置かれ、レースの場面でも、抜くか抜かれるかのような醍醐味はほとんどなく、むしろ不慮の事故でバタバタと人が死んでいく、その不条理とやりきれなさが強烈に印象付けられる。終盤の恐ろしいシーンでは、もうレースなど見たくないという気分にさせられる。最初に述べたような若き日のようなレースは、すでに無いのだ(だからわざわざモノクロの映像を最初に据えたのだろう)。

思い出されるのが、あまり良い出来とは言えなかったものの嫌いになれぬデミアン・チャゼルの『ファースト・マン』である。月旅行という一見ロマンたっぷりのミッションが、実際には冷戦という政治と組織の論理に支配され、乗組員はその駒に過ぎないという諦念とともに描かれたのと同様に、派手なカーレースを、まるで「神のごとく」(教会のシーンが強烈だ)更なるスピードを求める人類史の悲惨として描いているように思われる。

比較的被写界深度の浅いショットで、ピント送りを多用するスタイルははっきりと好みではない。特に室内劇において、手前と奥でわざわざピントを交互に合わせる意味がわからない。しかし、ここぞというときのフルショットの格好良さ(トライアルサーキットで仁王立ちするアダム・ドライバーの後ろ姿!)、花束をめぐる遊び心満点の演出、冒頭の家の描写など大事なところで決して外さないからこそ、多少せわしないシーンがあっても視覚的な充実度が非常に高いのだ。ペネロペ・クルスの迫真の大芝居(彼女が息子の遺影の前で微笑むシーンの静かな感動)も感嘆したし、ラストも、あぁこうやって終わるのか、と思わせてそのまま終わる。映画とはこれだ。



2023年12月28日木曜日

2023年ベスト映画

1. 午前4時にパリの夜は明ける (M・アース 仏)

2. シー・セッド She Said(M・シュラーダー 米)

3. フェラーリ(マイケル・マン 米)

4. ター TAR (T・フィールド 米)

5. すべてうまくいきますように (F・オゾン 仏)

7. ヨーロッパ新世紀 (C・ムンジウ ルーマニア)

9. エンパイア・オブ・ライト (S・メンデス 英)

10. The Holdovers (A・ペイン 米) / EO(イエジー・スコリモフスキ ポーランド)

次点. フェイブルマンズ(S・スピルバーグ 米)
次々点: 君たちはどう生きるか(H・Miyazaki 日)

主演男優賞:マイケル・キートン(『ワース 命の値段』)
主演女優賞:ソフィ・マルソー(『すべてうまくいきますように』)
助演男優賞:メルヴィル・プポー(『それでも私は生きていく』、『マイ・ブラザー』)
助演女優賞:ヴァレリー・ドレヴィル(『サントメール ある被告』)

※ フェラーリとThe Holdoversはアメリカで鑑賞。フェラーリは遂にこういうレース映画がつくられるようになったか、と思った。全然痛快じゃない。スピードにとりつかれた人類史の悲惨。

今年はこの一本!というものはなく、考えるたびに順番が変わりそう。

旧作では、スクリーンで見た『若草物語』、『脱獄の掟』、『ザ・ドライバー』が良かった。またMUBIで見たグザヴィエ・ボーヴォア『若き警官』が素晴らしかった。あとはメルヴィルの『仁義』、これもオールタイムベストの一本だ。




2023年12月22日金曜日

若草物語(1933)

 (Dryden Theater 35mm)

すごいシーンが少なくとも3つある。

・父が帰ってきたシーンで、病床のベスが立ち上がってふらつきながら父のもとへと歩み寄るショットだ。直前に他の姉妹が父と抱き合う場面を映し、カットを割ってカウチから立ち上がるベスのフルショット。そのままカメラが後退しながら、前方へ歩み寄るベスをフォローする。父が画面内に入り込んだところで、抱擁。

・ベスの臨終のシーン。鳥!

・終盤近く、キャサリン・ヘップバーンが食卓から玄関へと進む瞬間、カットが割られて、カメラは玄関口に置かれる。ヘップバーンが玄関の方へと一人寄ってきて、壁際の死角に隠れて、亡きベスへ向けて言葉を送る。

いずれもおや?っと思わせるカッティングが先行し、そのあとにそのショットの狙いがわかるという構成になっているのだ。

また、終盤でヘップバーン演じるジョーとローリーが2階の部屋で言葉を交わすシーンが、単純な構図・逆構図の切り返しで撮られているが、実は切り返しのショットはこのシーンだけなのではないかと思うがどうか。それぐらいここの切り返しショットが新鮮に映った。

ド名作。観客もみな笑って楽しんでいた。

2023年11月24日金曜日

脱獄の掟

(Dryden Theaterにて35mmで鑑賞)

 監督:アンソニー・マン


ジョン・アルトンとマンの組み合わせとしては、MUBIの配信で見た『Tメン』しか知らなかったのだが、警察のプロモーション的な側面が濃厚な作品ではありながら、サウナで犯人を探す場面で、大量の湯気によって視界が遮られながらも、犯人がぬーっと姿を現すといったシーンが非常に印象的だった。本作でもクライマックスにおいて、霧によって視界を遮られたなかでの銃撃戦があり、こうしたところに共通点がうかがえる作品となっている。ただ、そうしたモチーフの一貫性などどうでも良いぐらい、とんでもないレベルの視覚的充実と絶妙な説話法によって、どんな絵画よりも美しく、それでいてノワールならではの毒々しい閉塞感をたたえたほぼ完璧な作品に仕上がっていると思う。

冒頭の接見シーンからして見事なカット構成だと思ったが、全編にわたって深い縦構図のショットが横溢しており、たとえばレイモンド・バーが手下の積み重ねたトランプタワーを無慈悲に破壊するショットでは、画面手前でトランプタワーがグシャっと潰されて、凄い迫力だ。

あるいはクレア・トレヴァーがタクシーから2階に上がってきて(ここに至る窓越しのサスペンスも素晴らしいが)部屋に入ったあと、奥の部屋で着替えているマーシャ・ハントと初めて対面するのだが、ここで普通なら二人のミドルショットの切り返しでも入れることが予想されるが、なんとトレヴァーが画面奥で、部屋の中のハントに軽く会釈するだけなのだ(ハントは画面に映ってもいない)。こうした語りの効率性、視点の維持は、もちろん予算による制約など非美学的要因も大きいと思われるが、それにしてもこのように想像力を喚起させるようなショットを見るのは嬉しい。

映画は非常に面白い構造をしていて、主人公は脱獄囚のデニス・オキーフだが、恋人のクレア・トレヴァーのモノローグがときどきオーバーラップする演出がなされていて、それは多くの場合、マーシャ・ハント演じるアンとオキーフとの情事(の予感)への嫉妬、あるいは絶望の言葉であり、それでいてこの映画で最も極端な変化を遂げるのがそのマーシャ・ハント演じるアンなのだ。"A littele decency"を求めて仕事をしていた彼女が、オキーフを救うべく男を銃撃してしまい、思わず部屋の外へと走っていくシーンでは、扉の外がそのまま家の裏口になっていて、そこからまっすぐと海へと続く道になっている。彼女がドアを開けて画面奥の海の方へと走っていくショットは見事というほかない。              その後浜辺で接吻したオキーフとハントだったが、オキーフは意外とそっけなく、翌朝にハントを車から降ろし、代わりにトレヴァーが向かいの車から降りてくる。二人が無言のまますれ違うのを俯瞰で撮るのだが、ここがまるでスパイ映画の人質交換のようなのだ。なんとかっこいい映画を撮るのだろうか。

それと、やはりクライマックスが見事だ。あまり見せ場がないままハッタリ野郎の印象すらあったレイモンド・バーが、実に巧妙にオキーフに一発撃ち込むのがものすごい早業で、まさに西部劇の手触りなのだが、続く炎のシーンがまた見たこともないような造形で驚いた。




2023年9月9日土曜日

クロエ (なぜアトム・エゴヤンは過小評価されているのか)

 監督:アトム・エゴヤン

結構久しぶりに見たのだが、やっぱりアトム・エゴヤンには圧倒的な語りのセンスがある。

てっきりエゴヤンのオリジナルストーリーなのかと思っていたが、実はアンヌ・フォンテーヌの『恍惚』(原題はナタリー)のリメイクであった。

エゴヤンとフォンテーヌでは、6対2でエゴヤンの圧勝である。

群像劇ではないのだが、人物から人物へとフォーカスが移動していく手捌きは、スウィート・ヒアアフターから微塵も衰えていない。とりわけアヴァンタイトルで、クラブからアマンダ・セイフリッドが出てくるのを俯瞰で捉えると、カットバックしてそれを窓から見下ろすジュリアン・ムーアの姿を捉える。ジュリアン・ムーアは産婦人科医としてクリニックを営んでいるのだが、オーガズムに達したことがないという患者に、「オーガズムはただの筋肉の収縮よ」と教え諭す場面が冒頭にあり、これがちゃんと伏線になっている。このクリニックやムーアの家も含めて、出てくる建物が基本的にガラス張りで、見晴らしの良い/プライバシーのない空間になっている。セイフリッドの話に出てくる植物園は、そのなかでも他人からの視線から身を隠す絶好の場所なのだということがよくわかる。こうした空間造形、視線の演出を基本としつつ、さらに各所で見事なアイデアが散りばめられている。

例えばアマンダ・セイフリッド演じるクロエの造型。『恍惚』のエマニュエル・べアールは基本的にはクールで謎めいた美女なのだが、クロエの方はちょっと子供っぽさがある。自転車でズッコケてみせる場面だったり、くしゃみが止まらなくなるところ(「亜鉛を飲めば大丈夫」)など、なかなか大胆でユーモラスな味付けがされている。ちなみに自転車でズッコケるシーンは、ジュリアン・ムーアの気を引くためにやったように見えるのだが、天然なのかもしれない。このどこまでわざとなのかわからない所作が、一番ラストに効いてくる。彼女はわざと手を離したのだろうか。

また、セイフリッドの報告を聞くために、二人はさまざまなカフェで落ち合うのだが、セイフリッドがリーアム・ニーソンといよいよ一線を超えたという話をする場面で、映画では初めて雪が降る。映画の雪は、魔法であり、虚構である。(ちなみに映画のラストは春。この時間の推移の変化も見事なものだ)

上述した特筆すべきポイントは『恍惚』にはなく、これほどリメイクした意義を感じさせる映画もない。物語上も結構要所要所で違いがあって、これは好き嫌いが別れるかもしれないが、エゴヤン版はラストショットから逆算された実に巧妙な脚本だと言って良いだろう。

ということでエゴヤンの見事な傑作だと思うが、この映画もまた、まったく評価されていないのだから、世の批評家はいったい何を見ているのだろうか。本作にしろ、またカンヌでこき下ろされた(エゴヤン自身がショックを受けたという)『白い沈黙』にしても、題材がいささか俗っぽくなったということはあっても、その演出のボルテージはいささかも衰えていないと思うがどうか。

ところで、フォンテーヌの『恍惚』はいささか中途半端な作品になっていて、上述の通りエゴヤンの圧勝だと思うのだが、しかしながら微笑するファニー・アルダンの存在感、ジュディス・マグルの弾き語りなど、フランス映画特有の抗い難い魅力があるのも確かであった。。




2023年8月19日土曜日

AVA (Directed by Lea Mysius)

 フランス映画界で絶好調活躍中のレア・ミシウス長編デビュー作。主演はノエエ・アビタで、傑作『午前4時にパリの夜は明ける』で神秘的な美しさをまとったホームレス女性を演じた人だ。大きな目が鋭い光を放つが、彼女は網膜色素症で間もなく夜盲症になる。そのことを医者に告知された彼女は、マフラーで目を覆って視覚に頼らずに歩くなどの訓練を始める。2作目の『ファイブ・デビルズ』でも嗅覚が異様に鋭い少女が出てきたが、視覚以外の五感へのアプローチが彼女の発想の源なのかもしれない、と考えるだけでワクワクさせられる。

さて、映画は物語の統一性よりも活き活きとした行動主義に彩られ、上記の五感モチーフも実際には大して重要性を帯びない、というところが長編デビュー作らしくて良いじゃないか。インディアンのような格好で、二人してヌーディストビーチの訪問客を次々脅して回る場面は『気狂いピエロ』を思わせるが、そのほかにも忘れ難いイメージが数多くある。最初に犬を盗むシーンの横移動と視線ショットの扱いも素晴らしいし、晴天の浜辺での仰角ショット、波打ち際の戯れなどなど。笑えるシーンもたくさんある。母親の話を聞くまいと目を塞いで歩くと看板に顔面を強打する場面、母親のセックスを子供たちを連れてみんなで覗く場面。やっぱりこの人は才能がある。

2023年8月11日金曜日

サントメール ある被告

 監督:アリス・ディオップ


カミュの異邦人を思わせる「身勝手な殺人」をめぐる法廷劇だが、その前段階として主役のラマ(カイジ・カガメ)のパートがある。そこでは、まず彼女はマルグリット・デュラスについて大学で講義し(女性への暴力を題材とする)、その後夫とともに実家へ赴く。実家では、まさに異邦人のごとく視線を泳がせ、座るべき場所を見つけられないでいる。特に、居間に入った彼女を、カメラが真正面のバストショットで撮るが、まるでその「視線」を避けるように、彼女はどことも言えぬ空間に自分の視線を彷徨わせる。この実家のパートは何か決定的な出来事が起こるわけではないのだが、会話は歯切れが悪く、正面で対峙した者同士の会話はなく、常に斜めでのやり取りに終始しており、これが法廷劇の構造的伏線となっているのは明らかだろう。被写体とオフ空間の関係、視線の演出が非常に繊細で、ヒリヒリとした感触が画面に横溢している。

実家を出ると、彼女はサントメールに一人で赴き、そこで行われる、自身の15ヶ月の娘を海に捨てて殺害した罪で起訴されたアフリカ生まれの女性ロランス(ガスラジー・マランダ)の裁判を傍聴する。陪審員をクジで決める場面を延々と見せるあたりから、”スローシネマ”的な志向性が前面に出てくる。初日の裁判の様子もかなりの尺をつかって、裁判長(ヴァレリー・ドレヴィル。大変充実したパフォーマンス。)とロランスのやり取りをメインに描いていく。途中、ラマを含む傍聴人のリアクション・ショットが映るが、誰がどんな人物なのかを映画は説明しない。たとえば手前に映っていた初老の男性が、その後証人として立つことで、それが誰なのかがわかる。この初老男性はロランスと同居していた人物なのだが、証言する彼を真正面から捉えたバストショットは、非常に繊細なライティングと衣装との関係が成立していて、力のあるショットだ。

さて、法廷劇のパートでは、主にフィックスショットにより、発話する主体や、その証言を聞く人々にカメラが向けられている。裁判長や証言者はほぼ真正面のショットで捉えられる。弁護士の最終弁論は完全にカメラ目線となっているが、裁判長と証人は微妙にズレた位置から捉えられている。このあたりは一貫しているが、ロランスについては、かなりさまざまな角度から捉えられており、それも初日、二日目、三日目と裁判が進展するにつれ、カメラの位置も微妙に変化する。これはやや抽象的に言えば、複数のパースペクティヴによって被告人が分析されていく流れに沿った演出上の意図とも解釈できるが、それにしても演じるガスラジー・マランダの強烈な視線が、(色調的にも)モノトーンなショットのテンションを持続させている。彼女は常に、話す相手(裁判長、検事)をじっと見据えて喋っているが、実際に犯行に及んだ日の出来事を物語るときは、裁判長の方ではなく、(その日の光景をありありと思い出すように)斜め上の宙を見つめながら話している。それに聞き入る裁判長の瞳がわずかに潤んでいる、というような視覚的なドラマが同居している点にも言及しておきたい。

さて、冒頭述べたように、ラマは「人見知り」で、他人の視線を恐れているように見える。それはひょっとすると、最初の講義のシーンでデュラスのモノローグを読み聞かせるとき、スクリーンが壇上にいる彼女を隠す機能を持っている(彼女は生徒たちの視線を避けながら朗読している)という点にも表れているのかもしれないが、裁判の後半になって、ラマとロランスの視線が交錯する、思わず息を呑むような瞬間がある。これは、観客にとってもロランスの視線を初めて(そして唯一)受け止めるショットになっていて、ともすれば全体のトーンを壊しかねない賭けのようなショットだが、結局このショットがあるからこそ、本作はヴェネチアを席巻したのだろう。まったく見事なシーンだ。ラマはロランスの視線に「曝され」、精神の均衡を揺さぶられることになる。しかし最後の最後に、傍聴席のラマを真正面から捉えるショットが挿入される。このような構造的な巧さが、映画の緊張感を最後まで持続させていると言って良いだろう。

裁判と裁判の合間に、サイドエピソードが挿入されるのだが、こちらも実に的確なカメラワークとフィックスショットの使い方をしていて、たとえば初日の裁判のあとに、ラマが被告人の母親の元へ歩み寄っていくショットが見事だ。この被告人の母親も大変なくせ者で、ショットのたびに印象が変わるように構成されている。レストランで、ラマがハラミを頼んだ途端、「そんなに食べるの!?」と驚く場面は笑ってしまった。だが、彼女が証人として立つ場面は実に厳しいシーンとなっている。

実際の法廷での証言記録をそのままセリフとして採用しているという触れ込みだが、パリ大学の教授の、「アフリカ生まれの大学生が、20世紀初頭のヨーロッパ哲学をやるなんておかしいですよ」という差別的な発言も実際のものなのだろうか。

さまざまな映像素材の活用も特徴的。戦時中のナチスに占領されたフランスで髪を剃られる女性たちの映像、テレビの映像、パゾリーニの『王女メディア』のフッテージ、子供時代のホームビデオの映像、1分程度の回想シーンなど。これらのイメージが映画に厚みを与えているかというとやや疑問が残り、個人的には力強い法廷劇と合間のサイドエピソードだけでもよかったのではないかと思った。


2023年6月17日土曜日

TAR ター

 完全な感想文となってしまうのだが、この映画にあっては、人物や車の動き、人が部屋を出たり入ったり、横切ったり、カーテンを開けたり、それをカメラがパンでフォローしたり、ドリーで追ったり、といった断片的な運動の集積を、観客としてただ見ているということに理由もなく喜びを感じ、別にそれ以上を望まずとも、160分の長丁場を楽々と過ごしてしまえた、ということにつきる。

●学校に来たブランシェットが、ペトラを送り出してから、反対方向にいるいじめっ子ヨハンナの元へと歩いていく。画面奥には、反対方向に歩きつつも、ブランシェットの動線を見守るペトラが映っている。

●トイレにやってきた人物がそのままトイレの個室に入ると、画面奥の洗面台の前にいたブランシェットが、手前に移動したあとに、下から個室を覗こうとする。これが直後のオーディション場面の伏線となり、足音で直感したブランシェットが、いったんつけた評価を消しゴムで消す。消しゴムで消す音もしっかり録音されている。

●家に帰ったブランシェットがニーナ・ホスと対面する。薬をとりにいったフリをして画面奥左から、画面手前に来て、右側の洗面台へ。それから薬をとってきた素振りで再び画面奥左へ進み、ここでカットして、反対側からのポジションからのショットになり、いったんブランシェットが画面手前側の部屋に消えて、音楽を再生し、二人で抱き合って、キス。奥には赤い照明。

●最も込み入っているシーンでは、玄関のドアをどんどん叩く音がして、ドアを開けると隣人が憔悴した様子でブランシェットに来るように要求する。部屋に入って左側へ進むと、便失禁をした老婆が倒れている。ブランシェットが隣人と一緒に老婆を持ち上げてポータブルトイレに乗せる。カットが割られると、ブランシェットが服を脱いでゴミ箱に捨て、一生懸命体を洗っている。するとベルが鳴り、急いで服を着て開けると、髪の濡れたソフィー・カウアーがいる。その後車でいささか冗談を言い合ったあと、別れ際にくまのぬいぐるみを忘れたことに気づき、ブランシェットが彼女の消えた廃墟のようなアパートへ進むと、暗い通路に迷い込み、後ろから獣がこちらをうかがっている。恐れ慄いたブランシェットが走って外に出ようとして、右に曲がって階段を登るが、登り切る直前に足を引っ掛けて、顔面を地面に打ち付ける(顔面自体は画面手前に映る壁によって見えなくなっている)。すぐにカットが割られると、キッチンで氷を叩き割るブランシェットのショットに切り替わり、手前からニーナ・ホスがやってくると、怪我をした顔をこちらに見せる。ニーナ・ホスがそれを見てギャッ!と驚く。その後、窓辺で休んでいると、ペトラが「四つ足歩行」で彼女の元に歩み寄ってくる。

●このシーンとは反対に、ブランシェットがニーナ・ホスに驚かされるシーンもある。ブランシェットがニューヨークから帰ってきたあと、手前からニーナ・ホスが現れると、ブランシェットがギャッ!と驚く。

●また、ニューヨークにおいて、ホテルに帰ってきたブランシェットとカウアーが、エレベーターを降りて反対側に進む。ブランシェットが夕食に誘うが、カウアーはそっけなく断る。その後、ブランシェットがTwitterを見てると、若干スキャンダラスな動画が流れ、動揺して薬を飲もうとするが水がないため、水を取りに部屋を出る。カメラが滑らかに右側にパンすると、ちょうどエレベータに乗り込むカウアーの姿が映る。

●学校の前でブランシェットがペトラを迎える。後から赤いコートのヨハンナが親と一緒に画面左へと歩いていく。そのあとニーナ・ホスがやってきて、ペトラを彼女から引き離して、画面右側に立ち去っていく。これを車の窓越しのフィックスで撮る(ここは凄くミヒャエル・ハネケっぽい)

●ブランシェットが外出しようと階段を降りている間に、隣の家の老婆と思われる遺体が運ばれてきたため、踊り場でブランシェットがそれを避ける。カメラがパンして階段上を映すと、隣人がそこにいる。

●隣人の家族が騒音のクレームを言いにきたシーンで、ブランシェットが最後に扉を閉めてしまうのだが、家族(妹?)の左手がそこに映り込んでいる。

などなど、挙げたらキリがないのでこのへんで。

ちなみに物語との関係で言うと、

ブランシェットは赤毛に弱い。悪夢の中でブランシェットの顔に手をかける(ベルイマンの『ペルソナ』を思わせる)赤毛の女性は、クリスタ?それともオルガ?

ペトラに書斎に一人で入らないように注意するシーンがあり、ペトラは入ってないと言うが、義母が家を訪れているシーンでは、ペトラが書斎でカーテンの影に隠れている。一人で入っているではないか!


ちなみにこの映画の物語を、キャンセルカルチャーについての映画と理解することは私には難しい。確かにキリトリ動画によって窮地に立たされる映画ではあるものの、映画はその「起承転結」をかなりズタズタに断片化して提示しており、その明らかに断片化されたものについて、各々が想像力を働かせてピースをつないでいくことは重要だが、結局リディア・ターなる人物が過去に何をして、果たして本当にキャンセルカルチャーなるものの犠牲になったのかどうかという点は、不問のままである。

そして、私には、とっかかりの主題として確かにそうした現代の趨勢をテーマとしつつも、トッド・フィールド自身は、それらをめぐって人物が右往左往する、その運動にのみ興味があったのではないかと思いたくなる。それほどまでに透明な運動と発話の連続で成立している映画であるし、是非一度、この映画の字幕をまったく読まずに、画面で展開される線と面の運動を注意深くみることを推奨したい。それはカンディンスキーの美しい抽象画を見るような体験になるだろう。





2023年3月24日金曜日

逆転のトライアングル

 監督:リューベン・オストルンド

なんと適当な邦題。

オストルンドは以前どこかのインタビューで、「この人物はこういう性格だからこういう行動をする、というようなシナリオは書きたくない。人間であればこういう行動をとってしまうだろうというシナリオを書きたい」というような主旨の発言をしている。彼はヒッチコック主義なのだ。実際、彼の映画では(といっても近作の2本しかみていないが)、ちょっとした悪戯心が仇になって事態が悪化したり、その時々の衝動や偶然によって人物関係が(たいてい悪い方向に)変化していく。もちろん、そこにある種の現代人ならではの神経症的パーソナリティも絡むので、決して純粋な「巻き込まれ型」の映画というわけでもないのだが、事態を動かすために「心理」よりは「出来事」を用いるのは確かだろう。

本作でいえば、序盤にファッションのコレクションで、全員席を一つずつずれることになり、右端に座っていたカールがあえなく弾き出されてしまったときの情けない感じ、あるいはロシアの富豪に「プールに入れ」と言われて断れなくなる船の従業員など、オストルンドらしい描写が横溢している。後者の"I say, N,,N,,N,,I say Yes!"のところなんかは、『ザ・スクエア』のときのエリザベス・モスとクレア・バンズのやり取りを彷彿とさせ、オストルンド・ファンとしては嬉しい描写であった。

しかしながら、中盤の客船のパートについていえば、多くの場面は本人の言う「人間ならこういう行動をとるだろう」というよりは、「今どきの金持ちはこんな感じだろう」という描写に見えてしまい、そこまで弾けない。ウッディ・ハレルソンや、ロシアの富豪についてもキャラクター先行、かつ図式先行の感が強い。客室からインターナショナルがかかるというのは、オストルンドにしてはお寒いネタではないか。

とはいえ、船がいよいよ揺れているなか、食事が次々と運ばれ、客が嘔吐しているにも関わらず機械のように料理を運び続ける乗務員の描写などから、一気に不条理劇にテイストが変わっていく。ブニュエル的な不条理とも言えるが、デスメタルを流してトイレを爆発させるのがさすが笑 しかも大波にさらわれて漂流するのかと思いきや、実際に漂流する理由は全然違う、これなんかはなくてもいいような筋なのだが、こういうところも意地が悪い。

さて、島についてからは立場が逆転するという触れ込みだが、富豪の男どもは、そんなヒエラルキーの逆転など気にもせず、従うところは従って島の生活を楽しんでしまうのだから、なかなかしぶとい連中である。

島のパートはなかなか撮影が決まっている。赤い救命ボートのデザインがとても良い。夜のシーンではコントラストの強い画面が時に美しく、また森から聞こえる動物の鳴き声が<外部>を予感させる。スティック菓子を盗んだことがバレるシーンでは、男2人 vs 女3人の言い合いがあるが、このあたりのカット処理も見事なものだ。このあたりは、第I部のカールとヤヤのエピソードがそのまま島に来ても続行するような趣で、第I部も含めて、とにかくショットの構成が絶妙である。第I部で特に良いのが、レストランの場面で、ヤヤが立ち上がるとカメラが引いてレストランの全体を映すカットつなぎ。レストランからタクシーに乗る場面ではばっちり雨が降っている。エレベーターのシーンではエレベーターが閉まりそうなところでカールが何度も手を挟んでくる描写が笑える。

全体としては、「クソ」だらけの資本主義社会の外部で主従関係が逆転するかと思いきや、そんな外部はありませんでしたという皮肉で、『地獄の黙示録』、『アド・アストラ』的な主題が通底している。

前作にあったような、「意味がよくわからない/なにが起きているのかわからない、視野が限定された断片的なエピソード」が減ったのはアメリカ資本ゆえだろうか?そこが少し寂しいといえば寂しいのだが、しかしオストルンドの腕前は健在とみた。

ヤヤを演じたチャールビ・ディーンは昨年急逝。ご冥福を祈ります。




2023年2月3日金曜日

2022年ベスト映画

1. パリ、13区

2. 愛する人に伝える言葉

3. ファイブ・デビルズ

4. ふたつの部屋、ふたりの暮らし

5. ウェストサイド・ストーリー

次点. パラレル・マザーズ

次々点:スティル・ウォーター、ブラック・ボックス

主演男優賞:ブノワ・マジメル(愛する人に伝える言葉)

主演女優賞:ルーシー・チャン(パリ、13区)

助演男優賞:リッカルド・スカマルチョ(3つの鍵)

助演女優賞:アリアナ・デボース(ウェストサイド・ストーリー)

特別賞:ポーランドに行った孤児たち

2023年1月30日月曜日

SHE SAID その名を暴け

 監督:マリア・シュレーダー

キャリー・マリガン、ゾーエ・カザン、パトリシア・クラークソン


サマンサ・モートンがカフェから立ち去っていく姿を窓から捉えたショット。それを見送るゾーエ・カザンの表情。NYT本社で相手の代理人と対峙するキャリー・マリガン。周囲の椅子は逆さになっている。そしてゾーエ・カザンとザック・グレニエールのレストランでの対峙、会話のやり取り(ホロコーストが間接的に言及される)。

そして名前を出すこと。名前が原稿に載ること。その原稿を全員で静かに読み直す光景。

物語としても、そして演出としても、原稿に載った固有名詞に全てが賭けられている。という意味で、これは一つの歴史映画だ。(その意味で、「その名を暴け」という邦題は100パーセント作品の精神を裏切っているということも付け加えておきたい。)


2023年1月27日金曜日

エマニュエル・ベルコ 『ミス・ブルターニュの恋』『太陽のめざめ』『愛する人に伝える言葉』

日仏の特集上映などには行けないため、その全貌の一コマすら把握できていないとは思うが、それでも近年のフランスの女性監督はかなり層が厚いという感触がある。レア・ミシウス、アリス・ウィンクール、ジュリア・ディクルノーらの作品の、気持ちの良いまでの行動主義的な作品は、粗はありつつも、全面支持したくなるような勢いがある。また、彼女たちがしばしば共同脚本のようなかたちでコラボレートしている点も、孤発的ではなく、まさに「波」として盛り上がっているということの現れなのだろう。

さて、そこにエマニュエル・ベルコである。2014年の『ミス・ブルターニュの恋』で処女長編を撮り、以後さらに2回、カトリーヌ・ドヌーヴを主演に据えて映画を撮っているという、それ自体がすさまじい事だが、今回『愛する人に伝える言葉』を劇場で鑑賞し、慌てて過去2作品を見た次第。


『愛する人に伝える言葉』(2021)
ブノワ・マジメル、ドヌーヴ、セシル・ドゥ・フランスの豪華共演だが、主治医役が本物の医師というのだから驚きだ。太陽のめざめを見たサラ医師が監督に声をかけたことがきっかけらしい。
末期癌を宣告されたマジメルの、最期の1年弱をどう過ごすか、という話。マジメルがアクティングスクールの講師をしていて、そのレッスンはかなり身体性が高く、また感情的表出を迫る。「別れ」を表現する芝居のレッスンが、わかりやすく彼の状況にオーバーラップする。一方では、マジメルとドヌーヴ親子の確執、そして生き別れた息子の存在、そして主治医とのドラマ、さらには主治医の助手(ドゥ・フランス)との関係など、ずいぶんたくさんのドラマが用意されている。エマニュエル・ベルコの美点は、たくさんのドラマを用意しつつ、それらをあまり一生懸命語らないところだ。あるいは無理に決着させないと言えば良いだろうか。母と息子の確執のドラマは、確かに一見「和解」しているように見えるが、実のところ、それほど深く互いを理解し合ったという感触はなく、また結末は見ての通り、決して居心地の良い着地ではない。また、行き別れた息子との再会を望むマジメルだったが、これも結末は見ての通り、、。こうした素直に着地しない脚本は、加害/被害のスッキリ分けられきれない部分への配慮とも言えるかもしれないが、いずれにしろ一つのドラマを中心に持ってくるのではなく、複数のドラマが一つのconstellation=布置を形作るような構成が、とりわけ本作では奏功しているように思う。何より、死の間際にあっても、家族=古い関係の修復だけが強調されるのではなく、新しい関係が最期まで人生を彩っていく展開には、とてつもない希望を感じた。

『ミス・ブルターニュの恋』(2013)
前半はドヌーヴの一人旅、後半からはネモ・シフマン演じる少年(孫)とのロードムービーという構成の作品だが、前半も後半も凄い。処女作でこんな映画を撮れてしまうのか。
前半はドヌーヴが、愛人が自分以外の若い愛人と結ばれていたことを母親から知らされ、意気消沈して衝動的に車であてもなく彷徨うという展開。実は冒頭からしばらくは見どころ薄めに感じていたのだが、60歳の未亡人がタバコを求めて車を走らせるという話が2013年に成立してしまっていることに途中から感嘆しながら見ていた。特に、最初に出会う老人が、タバコを自作で巻こうとしてなかなか巻けないというギャグみたいな展開が良い。孫のシャルリが出てきてからは、彼の独壇場である。道中でドヌーヴと喧嘩になって失踪してしまうのだが、ようやく見つけて車に乗ったと思ったら再び喧嘩になって、またもや走って行ってしまうというこの怒涛ぶり。『リコリス・ピザ』など足元にも及ばないエネルギーである。
最終的に、シャルリの父方の祖父の元へと一緒に行くことになるが、そこでボヤとウサギの脱走が重なる場面があって、このあたりの出来事の連鎖もうまく描けている。ボヤというとトリュフォーの『隣の女』を想起するが。
しかし何より、最後に出てくる「クロード・ミレールに捧ぐ」に感動した。


『太陽のめざめ』(2015)
ろくでもないシングルマザーに育てられた不良少年のろくでもない成長物語。矯正施設などが出てくるあたり、ダルデンヌっぽい感じもあるが、ダルデンヌほどの厳格さはない。ドヌーヴは彼を担当する判事役(このへんの制度の部分はよくわからないが)。
それにしても、『ミス・ブルターニュ~』では8歳の男の子に振り回され、本作では16歳の不良少年に悩まされ、『愛する~』では息子に先立たれるというカトリーヌ・ドヌーヴの役柄の変遷がそれだけで興味深い。
『ミス・ブルターニュ』を先に見たこともあり、不良少年の突発的な暴力描写の見事さには驚かないが、復学の面接でぶちギレて出て行ってしまう場面は思わず笑ってしまった。この不良少年の不良ぶり、out of controlな部分は、この映画では深刻な問題であるとともに、どこか笑えるものとして演出されていると思う(俯瞰ショットの扱い、あまり暗さのない照明、手紙の練習の執拗な反復など)。彼が横転事故を起してしまってからは、悲劇の色合いが増すのだが、しかしそれ以降が意外とサラッとしている。このへんの展開の選択には議論がありそうではあるが、トリアーのように何でもかんでも事態を悪化させればいいものでもなく、難しい。
誰もが驚嘆するであろう、病院での場面だが、清掃員が突き飛ばされる様子をしっかり捉える演出にも好感が持てるし、二人の抱擁を見てさっさと手術室に戻ってしまう医師達の描写が最高だ。まだ3つしか見ていないが、こういう部分にベルコらしさを見るし、今のフランス映画のノリの良さを感じる。


さて、こうしてみると、『ミス・ブルターニュ~』や『太陽~』が、移動によって活気づいていく堂々たる活劇だったのに対して、末期がん患者を扱うことで移動を禁じつつも、衰弱する身体や手の交錯、人の出入り、視線のドラマによって重層的な空間を形成してみせた『愛する~』には、早くも作家としての成熟と飛躍が感じられ、現代の巨匠と言ってしまって良いのではないかと思うがどうか。




2023年1月19日木曜日

女ともだち

 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

(全部ネタバレ)

アントニオーニはこの映画のあとに『さすらい』を挟んで、60年に『情事』を撮り、以後モニカ・ヴィッティを主役にした作品を連続して撮ることになる。それらの映画群は、不安になるほどだだっ広い空間と無機質な建築、俗世にまみれた人々の狂乱を背景に、女性(が代表する人間?)の実存的不安がきわめてユニークなリズムとコードによって綴られていき、そのインパクトたるや凄まじく、アントニオーニの代名詞というべき作品群だ。ゆえに、そうしたモチーフがそれほど際立っていないこの『女ともだち』は、ともすると『情事』の習作のような立ち位置で語られるかもしれない。実際、男女数人で訪れる海辺のシーンの不埒なやり取り、その後の列車でのシーンなどはたしかに『情事』を思わせるそれだ。あるいは『情事』において「女ともだち」が失踪する理由が明かされぬ一方で、本作ではある程度はっきりと動機が示唆されている点などに、「アントニオーニらしさ」の欠如を見ることもできるかもしれない(原作はチェーザレ・パヴェーゼの短編小説で、こちらではむしろ自殺の原因はかなり曖昧な描写にとどまっているらしく、動機をはっきりさせたのはアントニオーニによる脚色であるとのこと。)。『情事』以降の作品では通俗的世界と精神的世界の対比がかなりはっきりとしていて、その狭間で揺れるモニカ・ヴィッティの予想できない感情の起伏に魅力があったといえるが、本作の場合は、基本的には通俗的世界の枠内で心理的物語が語られていると言えるだろう。見る者を当惑させるような空ショットや、何を考えてるのかわからないモニカ・ヴィッティのような人物はここには出てこず、男女、あるいは女同士の卑俗で不愉快な人間関係が語られる。それでも、表面的な人間関係がやがて破局を迎えるときに、かつてあったはずの人間性(それはローマとトリノの対比でもあり、復興前後のトリノの対比でもある)が失われつつあることへの危機感は共通しており、しかもそれを表現する手つきは全く凄いとしか言いようがない。ピカソのキュビズム以前の絵画が普通に凄いのと同じように、アントニオーニによる全くもって見事な不倫ドラマ、階級ドラマであると言ってよい。

敗戦後、少しずつ復興を遂げつつあるトリノを舞台にした物語である。主人公のクリエラはトリノで生まれ、ローマで服飾業を営んできた女性であり、トリノに支店をオープンさせる大役を任されている。ホテルの隣室の女性(ロゼッタ)が自殺未遂を図ったことから、ロゼッタの周囲の友人たちとかかわるようになる。それと並行して、開業する支店の工事を行う建築技師(カルロ)との恋愛も描かれる。クリエラの周囲において、複数の世界が交錯する様を、アントニオーニは一貫してカメラの持続と移動、人物の配置によって滑らかに描いてみせる。冒頭では、ホテルの使用人が隣室で昏睡状態のロゼッタを発見するのだが、そんなことを露も知らぬクリエラは自室で優雅に風呂を沸かしているのだ(「湯気」のショットで始まるのがアントニオーニらしい)。この最初のエピソードで、「異なる世界の併存」が強烈に印象付けられるのだ。それ以降も、クリエラとカルロが絡む場面は、必ずと言っていいほど、画面上での人物の往来が描かれ、単線的な関係の構築はなされない。
特に終盤の場面を見てみよう。カルロと会う約束だったクリエラが、ロビーで上司と出会い、ローマで働かないかと打診される。それを快諾したところにカルロがやってくる。クリエラは上司を見送ったあと、カルロとともに、奥のバーへと入っていき、別れ話をすることになる。このように、クリエラの(華やかな)社交や仕事の世界と、(労働者階級である)技師との恋愛が、シームレスな人物の移動によって橋渡されていく。
以上のように、画面上での人物の往来は、本作にあっては主題との連関を強く感じさせる演出手法ではあるが、一方でアントニオーニ自身がこの演出をかなり好んで多用しているようでもあり、例えばレストランの場面では「これは本当に食べられるのか?」とシェフに尋ねる客が最初に出てくるし、ロレンツォとロゼッタの屋外での抱擁の場面では、最初に画面手前を通過した馬の隊列が、画面奥を通っていくという凝った演出がなされている。
もっとも成熟した演出が見られるのは、ロゼッタの友人であるモミナが恋人と部屋で愛し合う場面だろう。二人が窓際で口づけを交わすとき、窓の外に男性が見える。するとカメラは屋外から部屋を捉え、男性に気づいた二人がブラインドを降ろす様子を捉える。そして逆光のシルエットで抱擁する二人がばっちり見えるのだ。そしてこの外にいた男性が実はロレンツォであり、彼は彼で、ロゼッタと待ち合わせをしているのだった・・・。というこの一連の流れはアントニオーニの全作品のなかでも最も秀でた演出の一つではなかろうか。

被写界深度を深く設定し、人物の往来によって著しく活性化したショット群は、公共世界を多層的に捉える一方で、画面内の人物達はいつもそうした公共を逃れ、プライベートな空間を探しているようである。ロレンツォとネネの夫婦が住む家には敷居がほとんどなく、玄関と寝室がつながっている。そのためか、内緒話をしようとしてカーテンを閉めたり、ドアを占めたり、場所を移動したりといった動作が反復される点も興味深く、アスガー・ファルハディの映画を想起した。

最後に一点。ロゼッタが自殺したことは、群衆のなか、救急隊が水死体を担架に乗せて運び、落ちていたコートを拾う、という出来事をたった2ショット(俯瞰ショットとフルショット)で示される。この簡潔な提示は、現代ではなかなかお目にかかれなくなってしまったものだ。


以下のサイトを参考にしました。
https://www.criterion.com/current/posts/4095-le-amiche-friendsitalian-style?fbclid=IwAR1T0YAJ1qSclRva7M33JknhJnJek8ilQKqiwuYcTPHJXvmEv4OVx2-xyZc





2023年1月7日土曜日

ケイコ 目を澄ませて

 監督:三宅唱


全体的に感動よりも違和感の方が強く、あまり入り込めなかったのだが、高架下の、まるでクラブシーンのようなライト点滅のショットが良い。HIP-HOP好きの三宅監督ならではのショットかもしれない。
それと、ラストに、対戦相手を顔を合わせることでケイコの心理が好転する展開が胸を打った。
のだが、このラストも含めて、(『ドライブ・マイ・カー』もそうだったが)いわゆる「心を閉ざした若い女性が、だんだん感情を表に出していく」というドラマツルギーが、ふつうに紋切りすぎるんじゃないのか。この映画ではケイコが難聴という設定になっていて、中盤で日記が読み上げられることで、「実はこんなに色々考えていたんだ」みたいな気付きを与える構造になっているのだが、だから何なのかという気になってしまった。
というより、ケイコの心理ドラマとして作ろうとしているのかがイマイチわからず、ケイコがボクシングを続けるかどうかで引っ張る意味がわからなかった。なんか色々人が出てくる割に、誰も重要な役割を果たしていないような。

ボクシングジムの人間達も、大事なところは結局、強引に口で言うというのは甘えじゃないのか。「家から遠い」で怒るのも意味がわからない。
相手が難聴であることを知らないがゆえのディスコミュニケーションの例がやたら出てくるが、これも羅列されているようにしか思えず。

あと、COVID-19が流行っているという設定っぽいのだが、物語上はCOVIDがなくても成立するし、設定のわりに病院で普通にマスク外してたり、そもそもお見舞い禁止なんじゃないかとか、気になって仕方なかった。
相変わらず、「無表情で警句を吐いてくる医者」像も日本映画ならではの不愉快な描写。「頭のレントゲン」というのも、ちょっとねぇ(MRIのことかしら)。


2023年1月4日水曜日

拘留 / 検察官 / レイプ殺人事件 / Garde a vue

 監督:クロード・ミレール

ミシェル・セロー、ロミー・シュナイダー

80年代の金字塔だろう。素晴らし過ぎる。

冒頭からこれでもかと降る雨が、窓を覆うなか、脱線に脱線を重ねる渋い尋問が続いていく。クローズアップとフルショットの構成の妙。カメラが引いたときの照明にもしびれる。いつしか雨は止んでいた。時折挿入されるイメージショット(少女の死体、灯台の光、あるいは霧笛の音)も抜群にカッコよく、またこうしたイメージの集積がミシェル・セローの「自白」を構成しているに違いない。この現実と虚構の戯れと倒錯は、次作の『死への逃避行』へと引き継がれる。

そしてロミー・シュナイダーの謎めいた魅力もすごい。真っ暗な部屋で語り合うシュナイダーと刑事。全編を通して、この映画の「尋問」はおしなべて「語らい」へと変貌していく。出てくる人間が全員幸せそうじゃない、というのが良い(大晦日の取り調べ室なのだから)。

夜明けに終わる映画としても忘れがたい。何から何まで最高だ。


あのこと

 監督:オードレイ・ディヴァン

中絶を題材とした映画は、近年でも『4,3,2』、『16歳の瞳に映る世界』など秀作が続いており、そして本作。共通するのは、手持ちカメラで一人称的ナラティブを徹底していく点である。正直いうと、(おそらくはヨーロッパでは相当なインパクトと影響を残していると思われる)『4,3,2』以降、中絶映画は手持ちカメラで被写界深度浅く、が定番になってしまっているのではないかと思ってしまうほどには、「またか、」となってしまった。画面サイズはスタンダードが選択されており、これでもかというほど世界が狭く捉えられる。上にあげた2作は、シスターフッド的な要素がフィーチャーされていたが、本作の主人公はそれに比べるとかなり孤立状態に置かれていると言って良い。上の2作は、そもそも妊娠をした女性とその協力者の関係性が突出して描かれていたのに対して、本作の場合は、「知り合いはいっぱいいるけど誰も積極的に協力してくれない」という意味で、突出した関係性は存在せず、ただ薄いつながりだけが複数あるということが露わにされている。しかしそれでも最後に反目していた寮の同級生が助けてくれるのであるから、そこには希望があるのかもしれない。

序盤に講義が終わったあとに三人で校舎の外の広場で陽光を浴びながらお喋りするショットは、彼女が着ているストライプシャツの発色が良く、陽光の加減も美しく、大変素晴らしかった。しかしそれ以降、即物的でショッキングな描写が続くものの、これぞというショットはなかったように思うし、大学生同士の関係性の描写にももっと工夫があって然るべきではないか。中絶映画で「ありながら」、冒頭から女子大生たちの性的欲望をかなり掘り下げている点は極めて新しいと言える。

2023年1月1日日曜日

ナイブズアウト グラスオニオン

 前作は「ギリギリオッケー」であったがゆえに「大変素晴らしかった」のだが、本作はあまり乗れない。
大ヒットを記録した知的なミステリー映画の続編ということで、前作をいかに上回るか、というところが製作陣(あるいは知的な脚本家ライアン・ジョンソン)のチャレンジであったに違いない。そして実際のところ、この映画は多くの点で「前作を上回っている」。色々とアップグレードされている。とりわけ映画の構成に仕掛けられた伏線とネタばらしのスケールにおいて。しかし、逆に言えば、前作に比べて「度が過ぎている」。
「さっきのあの場面は実はこうでした」というショットが延々と続く中盤はどうだろう。確かにライアン・ジョンソンは、単なる知的ミステリーオタクではなく、ショットの構成において抜群のセンスがある。しかしそうはいっても、やっぱりこれは単なる説明なのだ。これならば素直に、姉の復讐を誓うジャネール・モネイが大胆に変身していくアドベンチャースリラーにした方が良いじゃないか、とどうしても思ってしまう。求めるものの違いといえばそれまでだが。

また、ジャネール・モネイの変容ぶりは確かに物語の旨味として仕込まれてはいるが、前作ほどの心躍る感覚はない。それは、前作におけるアナ・デ・アルマスの変容ぶりが、その都度直面する危機に対して「体が勝手に、」式のヒッチコック的ハプニングによって駆動されていたのに対して、本作のジャネール・モネイは、あくまで「真実に向かって酒飲んで行きまっしょい!」式の全き能動性によって駆動されているからだ。これでは運動が躍動しないのだ。

もちろん、相変わらず良き中年男性としてのダニエル・クレイグの良さ、エドワード・ノートンの若々しい芝居、ジャネール・モネイの溌剌としたパフォーマンスは見ていて楽しい。人物が集まったときではなく、散り散りになったときこそ活きる空間設計と照明の妙にも感心するが。

(追記)
反復になるざるを得ない制約のなかで、それをいかに視覚的に豊かにするかに腐心したあとがある、という意見もあり、なるほどと思った。
https://twitter.com/HWAshitani/status/1607245547857137665