2013年2月27日水曜日

世界にひとつのプレイブック(2回目)

監督:デヴィッド・O・ラッセル


 自信を持って、大傑作!
 二回見ると、一見雑に思えるカメラワークも、実はデヴィッド・O・ラッセルの計算通りという感じがしてくる。三回見れば結論が得られそうだが、そんな金はない。
 被写界深度が浅く、クローズアップによる構図→逆構図の切り返しを基調としている。久しぶりに家に帰ってきたブラッドリー・クーパーと、ジャッキー・ウィーバー、ロバート・デ・ニーロが向かい合う冒頭のシーンにおいて、頑なに画面手前に誰かしらの頭、肩をなめる構図。常に人と人が言い分をぶつけ合うこの映画に合っては、この画面いっぱいのクローズアップと頭の「なめ」が非常にマッチしている。例えばこのシーンの前での車内でのジャッキー・ウィーバーとクーパー&クリスタッカーの切り返しでも、ジャッキー・ウィーバーの金髪を常にナメている。あるいはこの狭い車内での構図の素晴らしさ。

 こうした構図・逆構図の切り返しの中で、ブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスをどう捉えるのか、がこの映画のもっとも重要なポイントであるが、まず序盤にブラッドリー・クーパーの顔の側面から正面にカメラが円を描くように回り込む動きが印象的だが、さらにクーパーがローレンスの家に彼女を迎えに来るところでも彼の周囲をカメラが半周する。このカメラの円運動がやがて、二人をいっぺんに収める。それはいつかといえば、二人が初めてダンスの練習をする場面で、二人が座った状態で、まずカメラは壁の鏡の方を映し、二人がちょうどガラス枠の中に収まるとともにカットが割られ、今度はジェニファーローレンスを向かって右側から捉えたまま、クーパーの背後に周り、そのままクーパーに向かって右側まで回り込む。それまで頑なに「ナメられ」てきたクーパーの後頭部を軽やかにカメラが超えて描いた円=サークルの中に二人が収まった感動とともに二人のレッスンが始まり、それまでジョギングのたびに前後の関係で走っていた二人が横に並んで楽しそうに踊ってみせるとき、そしてこの円=サークルに収まった二人が、終盤では二人の力でワルツ=輪舞を踊ってみせ、家族を救ってみせるとき、さらに最後に二人が結ばれたのを祝福するかのように、口づけ合う二人の周りを再び思いっきりカメラが周るとき、この映画は勝利したと言っていいだろう。

 もちろん多くの問題を抱えている。ダンスの練習場にしても、照明が全然ダメだろう。
 またラッセルの美学は抜きにして、もう少し被写界深度の深いショットやキレのある持続があればもっと良かったであろうシーンが無いこともない。
 だが、照明なんて吹っ飛ばせ!だ。
 
  ブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスの吐いた唾をちゃんと捉えてる素晴らしさ。
 デ・ニーロと賭け相手の握手が、クーパーとローレンスのつないだ手へと継承される見事さ。
  偉大な映画。

2013年2月26日火曜日

世界にひとつのプレイブック

監督:デヴィッド・O・ラッセル

 クローズアップがとっても多く、時にそれが運動を阻害している、と言えなくもないが、そう言わせないだけのガッツとエネルギーがある。というより、確かにクローズアップが多いのだけど、視点は決してぶれるわけでもなく、無駄にカメラが揺れるわけでもなく、あるいは過剰なピント送りをするわけでもなく、つまり決して致命的なラインを超えることなく、肝心なところを外さないラッセルの気合いと、それに見事に応える素晴らしい役者陣によって130分突っ走って、走りきった。

 ジェニファー・ローレンスはまるで『フランティック』のエマニュエル・セニエだ。彼女がブラッドリー・クーパーの元妻がダンス会場にやって来た事に動揺してバーにスタスタ歩いていき、「ウォッカ頂戴」と言ってみせるまでを長回しとドンピシャの照明で捉えてみせるとき、あるいはその後何事も無かったかのように艶かしくエキサイティングなダンスを踊ってみせるとき、あるいはクーパーとの初デートにおいて、それまで凡庸にも単調な切り返しでのみ会話をしていたローレンスがティーカップを吹っ飛ばし、見事なカット処理でもって店から出て行くとき、あるいは彼女のメッセージに気づいたクーパーが雨に濡れた夜の舗道を疾走してみせるとき、あるいはクーパーの主治医がスタジアムで彼に遭遇して興奮してみせるとき、あるいはあらゆるジェニファー・ローレンスとブラッドリー・クーパーのダンスシーン、そしてそれまで不当にもあまりいい照明を当てられなかったロバート・デニーロが最後に見事な光の中で息子クーパーを説得してみせるとき、映画がどんどん加速していき、いつの間にか涙が流れている。そういう映画。
 たぶん再見するので、二度目見たらまた更新する予定。

2013年2月25日月曜日

ふしだらな女

監督:アルフレッド・ヒッチコック

 フルショットから始めて、そこに人物が入ってきたり、あるいは一方が他方に近づくことをきっかけに、カッティング・イン・アクションによってカメラが寄る、そこから切り返しになったり、そのまま寄りのショットで会話を描く。というのが一定のテンポに基づいて続く60分間で、その手さばきは見事だ。アトリエで画家がラリータに言い寄る場面、ラリータが憤る夫を引き止める場面、新夫の実家に挨拶に来たラリータ、などなどに対するカメラの寄り。あるいはそのフルショットの強度。
 それと、パーティに来た弁護士とラリータのやり取りではなぜかイマジナリーラインが無視されている。
 ヒッチコックらしい主観ショットも随所に使われていて、窓からの俯瞰で家政婦が警察を連れてくるのを捉えたショットはヒッチコックらしい。
 あるいは冒頭のアトリエでのカット処理が一番見事だと思うのだが、まず酒瓶のクローズアップからカメラが引いて、ラリータと夫を捉えると、さらにカットを割ってカメラが引き、ラリータの肖像画を描いている画家の姿まで含めて捉えたフルショットになり、そこから三人を順番に(やや引き気味の)ミドルショットで映すと、次に画家を内側から映す。はて、これは一体どうした視点変更なのか、と思っていると、次にラリータを映し、ラリータが「お酒をやめて」みたいな仕草をすると、その主観ショットで夫を映す。ということは、前述の内側からの画家のショットはラリータの主観ショットであったということがわかる。つまり酒を飲む夫と画家へのラリータの心情の対比が速やかに行われている。

2013年2月23日土曜日

菖蒲

監督:アンジェイ・ワイダ

 モノローグシーンに一体何の意味があるのか、という事をあまり聞いてはいけないようなところがあって、いやひたすらここだけは退屈なのだが、一方でドラマパート、そして撮影現場のドキュメンタリー映像のやたら凝ったカメラワークなどはいかにも素晴らしい。
 ドラマパート、例えばクリスティナ・ヤンダが青年と接触してから気になり、友人の話そっちのけで視線を青年の方へ向けている描写にしても、カメラの視点がしっかりしているので、青年にピントが合っていないとき、合っているときの描き分けがはっきりしている。こうした処理を見るとついつい安心してしまうぐらいには、僕は保守的な人間だ。知らんけど。
 どう考えても夫のキャラクターが中途半端で、もはやいらないとすら思えるが、それでも最初のシーンで妻と友人を見送った後に涙をこらえる姿を捉えたショットなどは印象深い。
 ここで注目したいのが、まず見送るショットがあり、その次に妻と友人が家を後にするややロング気味の美しいトラッキングショットを挿入してから、再び同じショットで涙をこらえる彼の姿を捉えている点だ。なにという事はない。しかし、これは正しいショットの連鎖だと思う。

 ラストの川辺のシーンではいったん、撮影が中断するハプニングをドキュメンタリーっぽく描いているわけだが、これ、ワイダかなり遊んでるよね?
 その文脈からして、いくつかのドキュメンタリーパートは、極めて深刻そうに挟まれるわけだが、このシーンだけは、「嘘で~す」と言わんばかりの擬似ドキュメンタリーであって、いやそもそも「どうしたんだ?」と深刻ぶるワイダの顔がふざけている(笑)

 で、気を取り直して撮られた川辺のシーンは、何も言うことがないね。ひたすらに素晴らしい。水際の目の醒めるような映像美、ロングの使い方、そうかと思えば被写体に極限まで接近する手持ちカメラの迫力。素晴らしい。

スペル

監督:サム・ライミ

 出来事に対するシンプルな、つまり誰もがそうするであろうリアクションをカッコよく、ドーン!と見せること。それが共感と驚きの狭間にある「映画」の境地だ。
 
 だから「せっかくネコ殺したのに全然ダメじゃねーか!」と憤るアリソン・ローマンがとっても可笑しく、あるいは「霊媒師にお金を払ったよ」と報告するボーイフレンドのかっこよさに素直に感動する。
 こうしたホラー以外の要素における的確な演出が嬉しい。例えば昇進レースは君がトップだ、と言われたアリソン・ローマン、ここでライバルの男の方をチラッと見てほくそ笑む、なんて演出がありそうなものだが、聡明なサム・ライミは決してそういう事はしない。

 ホラーシーンだが、駐車場でのアクション造形は極めてよくできていて、ここは本当に面白かった。ハンカチの軌道を追うようにカメラがパンすると、老婆が後ろにいる、というのもベタだが素晴らしい。このアクションへと至るまでの雰囲気の醸成も見事。特に複雑な事をやるのではなく、照明をそれまでよりダークにして、ヒロインの視線ショットで車を怪しく撮りさえすればオッケーでしょ、という確信。

 そしてラストのエスカレートぶり。墓場を掘り、「てめぇにくれてやる!」とばかりに封筒を突っ込み、「あばよ!」と捨て台詞を吐くアリソン・ローマンが可笑しく、またそのあとのグダグダな展開には笑うしかない。
 

2013年2月11日月曜日

ムーンライズ・キングダム

監督:ウェス・アンダーソン

 蓮實重彦が褒めてたからとか関係なく、予告編を見て非常に期待していたのだが、どうもノレない。縦横のカメラ移動にしても、別になんということはなく、あるいは乱暴に、というか時間稼ぎのように感じられるクローズアップがちょっと厳しい。
 もちろん誰もが驚嘆するであろう入江を映した美しいショット、夜明け前のあの美しい湖とカヌー、黄色と赤の色彩感覚など、普通にいくらでも(楽しく)見ていられる画面ではあるのだが、しかしそれだけに一向に映画が走らず、どんどん減速していくことに失望を隠せない。
 
 例えば森の中を逃げている二人が隊員達に見つかり、対決するシーンにしても、『イングロリアスバスターズ』の劣化版みたいな印象が拭えず、あるいはクライマックスにしても、あれだけ水の迫力を見せておいて、あれでいいんかい!という感じである。
 稲妻の処理だって、ちょっと納得いかない。そもそもキスしたら唇から電流走りました、なんてなんにも面白くないし、そしてあれだけのために、中盤の集団での追走劇を雷で中断したのかと思うと、映画全体に対する不信感が募るばかりである。
 つまり人物達はみなエキセントリックではあるものの、それは「エキセントリックな舞台」を彩る駒に過ぎず、結局のところ、彼ら一人一人の身体は全く露呈することなく、ウェス・アンダーソンの手のひらを走りまわるだけだ。ここに何の愛があるっていうのか。

恐喝(ゆすり) (2回目)

監督:アルフレッド・ヒッチコック

切り返し、視線ショットなどについて。
この映画ではほとんど切り返しがない。アリスの家の雑貨店において、あるいはその奥の居間での恐喝屋との会話において、切り返しらしきショットの連鎖はあるが、それもせいぜい一回ぐらいで、会話は基本的にはバストショット、フルショットで人物の横から捉えたものが基本的になっている。

あるいは視線ショット。冒頭、刑事が犯人の家へ捜索に来るシーンでは、刑事側の視線ショット(これは犯人の部屋に入ったとき)と、犯人側の視線ショット(厳密には視線ショットではない鏡越しのショットと、横の机に置かれた拳銃へ目を向けたときの視線ショット)が使われている。
視線ショットはその人物の視界を提示することで、その人物が置かれた状況を、どちらかといえばその人物に即して主観的に描いていると、とりあえずは述べることができるし、ヒッチコックはこれをよく使う、と思う。
しかしこのシーンの後、アリスがレストランで男に目で合図を送るシーンまで、全く視線ショットがなく、「写実的に」事態が淡々と描かれる(厳密にはアリスとフランクの二人がレストランで空席を探すときに一度視線ショットがつかわれているが)。
だがもちろんのこと、画面の強度においてかなり素晴らしい。
フランク自身の視線ショットはレストランの外で待機しているところを、知らない男と一緒にアリスが出てきたのを目撃するショットで初めて現れる。

恐喝屋が男のアパートメントの前で物陰に隠れてアリスと男のやり取りを盗み見ているシーンがあるが、恐喝屋はアリスの側から観察しているはずで、ここでは二人を横から捉えたショットしか使われていないので、人物の関係的にここでは視線ショットが使われていないことがわかる。

これ以降はいくつかアリスの視線ショットが使われ、例えば最後にも出てくる絵を見るショット、帰路においていくつかの看板や手が死体や包丁に見えてしまうショットなど、アリスの心理を表象したショットが目立つ。「ナイフ」という言葉が反復して強調される音の編集に関しても同じことが言える。

しかしこの映画はアリスの心理的葛藤を描いているかと言えばそうではなく、それがこの映画の面白さで、恐喝屋がアリスの家にやってきてからの妙な会話劇だとか、それから事態が急転して警察の追走劇になるなど、アリスはこの事件からどんどん置いてけぼりになっていく。

2013年2月10日日曜日

第3逃亡者

監督:アルフレッド・ヒッチコック

様々なアイデア、裁判での入れ違い、瞬き、目隠しゲームが楽しく、また、これを今やったら絶対キーラ・ナイトレイだろうという女主人公や、ちょっとマシュー・ベラミーみたいな追われる主人公の掛け合いはなかなか面白い。特に二人が検問で(あまりにも軽率に!!)見つかってしまい、車で逃げるところをスクリーン・プロセスで処理しながら、二人の超楽天的な掛け合いを見せてくれるのがいい。
しかし全体的にちょっと興味のもてない映画ではある。。うむ。。。

舞台恐怖症

監督:アルフレッド・ヒッチコック

 ジェーン・ワイマンの愛らしさがこの映画全編にわたって炸裂しており、彼女のクローズアップはどれも素晴らしく、また彼女が心臓病の振りをして見事に床に転倒してみせるワンショットが何ともかわいい。
 あらゆるショットが素晴らしく、物語の展開など全く追わずともその画面構成だけで見事に楽しめてしまう。
 
 まず冒頭、3ショットにわたって疾走する車を捉えたあと、車内のワイマンとリチャード・トッドが映される。ここで二人はチラチラと後ろを見たり相手を見たりしているのだが、二人の視線は見事なまでに一度も交錯しない。
 ここで「回想」シーンになる。
 この回想シーンは、場所の空間性を強調せずに、かなり人物に寄りながら、ワンショットで見せているのが非常に効果的だ。リチャード・トッドがマレーネ・ディートリッヒの家に入って、そこから階段を上っていくショットは、遠景からぐーっとカメラが後ろから近づいていき、リチャード・トッドを階段と鏡とのまさに「これしかない」という関係において捉え、彼を追っていく。
 そして彼が寝室に入ると、いくつかのショットを挟んだあと、ワンショットで彼がドレスをクローゼットから取る様を追う。そして彼がふと顔をあげると、夫の書斎らしき部屋が見える。この書斎を映したワンショットも凄い。

 あるいはワイマンとマイケル・ワイルディングが初めて出会うバーでのやり取りも見事なカット割り(空気読まず話しかけてくる太っちょのおじさんの絶妙な登場だとか)。
 またワイマンとワイルディングがガーデン・パーティに出かけるタクシーでのシーンがこの映画で最も見事でチャーミングなシーンだろう。ロマンスってのはこういうことである、という感じの、もう何も言うことのない演出の間合いだ。ここは本当に惚れ惚れしてしまう。

 ガーデン・パーティで召使のネリーを上からクレーンで下降しながら捉えたショットも秀逸だ。
 あるいはワイルディングの所作。彼女に刑事であることを伝えたときの帽子をつまんでの会釈だとか、彼女を見送ったあとに彼女の方を振り返る仕草だとかが、何気なく、しかしいい感じで捉えられてるのが嬉しい。二人のロマンスの醸成具合というのが、とにかく素晴らしい。

 ガーデン・パーティでの顛末が若干面白くないような気がするが、しかしラスト15分ぐらいの見事なテンションと、あっけない、しかしそれゆえに「倫理的な」美しいカット処理は凄いというほかあるまい。あと、このラストのちょっと前に、修羅場を乗り越え、涙にくれるワイマンに静かに拍手を送る父との切り返しが美しい。警察がディートリッヒのもとへと向かう物語的には「動的な」展開において、この静かな3ショットをはさむヒッチコックの手腕。
 あるいはワイマンにチャールズ・トッドが真実を打ち明けるシーンの二人の顔、というか目。心理的に何かを表現しているのではなく、ひたすらこの二人の目が露呈している。恐ろしいシーンだ。