2021年9月30日木曜日

死への逃避行

 通算3回目の鑑賞になるが、見れば見るほどハチャメチャな映画である。
もちろん、「見るー見られる」の関係性を主軸に様々な感情を交錯させるやり方は、ミレールが一貫して得意としたそれだが、この倒錯ぶり、この展開の突き抜けぶりは、彼のフィルモグラフィのなかでも出色である。
とりわけステファーヌ・オードラン演じる奇矯な女が絡むエピソードや、ヒッチハイクで知り合った不良少女との束の間の逃避行劇などは、無くてもいいようなサイドエピソードだし、実際よくわからない(笑) しかし、例えば後者のエピソードで、ふたりが銀行強盗をはたらく場面で、ミシェル・セローが人質としてその他大勢と一緒に床に座らされているあたりの描写の可笑しさはどうか。モーテルでのいきなりの発砲も割と意味不明だし、検問破りのシーンもその後、事態がいったん落ち着くことを考えると、なくても良い。むしろこのシーンをみるとそろそろクライマックスかと思うのだが、そうでもない。もう一個ホテルを経由することになる。

もしかすると、ミレールとしては、「見る - 見られる」の映画的モチーフや、虚構と現実をめぐる思わせぶりなストーリーなど、ちょっと凝り過ぎなところが気になって、あえてこういうあっても無くても良いような謎エピソードを入れたのかもしれない。実際、前者の映画的!なモチーフに終始するだけでは、この笑っちゃうような読後感は生まれないだろう。

もちろん、見る - 見られるの主題は、抜群の効果を発している。特にプールサイドでの殺人場面や、盲目の画商がバスにひかれるシーンのカット処理のスピード感が良い。こういう大事なシーンを外さないからこそ、全体として見事な緩急が生まれているのだ。
あとは空港のシーンではアジャーニがカメラ側を見るショットとセローがカメラ側を見るショットをわざとカットバックでつないでいるが、実は見ている方向が違うというトリッキーなことをやってもいるが、こういうのも良い。

2021年9月26日日曜日

ある結婚の風景

 監督:イングマール・ベルイマン

だいぶ久しぶりにベルイマンを見た。数年前に何本かまとめて見たのだが、本作は未見だった。自分にとっては『叫びとささやき』がワンオブベストだが、この作品はその後に撮られた作品だ。第2話までは抑制のとれた、夫婦のちょっとしたすれ違いをさりげなく描いているが、第3話で一気にボルテージが上がる。
『ドライブ・マイ・カー』のレビューで、これならエステル・ペレルのレクチャーを聞いた方がマシだと書いたのだが、この作品で展開される夫婦の受難は、本当にそのまんまエステル・ペレルの『不倫と結婚』に書いてある※。
ユーハンが求めているのはポーラそのものではなく、ポーラに出会って生まれた新しい自分の姿なのだ。ユーハンはマリアンにかなり明け透けにすべてをぶちまけ、4年前から君にはイライラしていたとまで言って憎しみをぶつけ、そのまま出て行ってしまう。しかもマリアンがショックのあまり友人にそのことを話すと、何と友人達はユーハンの浮気を知っていたという(これも『不倫と結婚』に出てくるエピソードだ)。
第4話では久しぶりに夫婦が家で再会する。ユーハンはアメリカの大学への転任が決まっており、ポーラとの愛以上に自分の人生の悟りを得意げに語る。曰く、人間はどうやったって孤独なんだと。マリアンはマリアンで、当初のショックからはわずかに立ち直りの兆しが出ていて、新しい彼氏がいて、またセラピーにも通っている。セラピーで日記や考え記録することを勧められ、その内容をユーハンに語り聞かせるが、ユーハンは眠ってしまう。マリアンはいつも誰かのために自分の感情を殺していたという気付きを得つつあるが、ここではまだ過去の傷から完全に立ち直れてはいないし、お互いにピリピリしていてコミュニケーションも刺々しい。
第5話になると立場が逆転している。マリアンはかなりの程度立ち直り、一方のユーハンはポーラとの生活に疲れ、アメリカ行きもなくなり、人生のどん底にいるようである。
ユーハンのこの転落ぶりは身につまされる。平穏なる結婚生活に息苦しさを覚え、ポーラという新しい愛人に出会うことで、新しい自分を発見、ついでにアメリカ転身まで決まっていたが、それらすべて崩れ、妻も愛人も名誉も失い、孤独な大学教授として鬱屈をためこんでしまっているのだ。
そしてその自分の人生への失望が爆発し、マリアンとユーハンは壮絶な喧嘩をしてしまう。
ここは見ていて辛い。帰ろうとするマリアンを部屋に閉じ込めて、挙句手を出してしまい、惨めに泣いてしまう。

この作品の主題の一つとして、「お互いの感情をすべて曝け出す」ということがあると思う。しかしそれが本当に良いことなのか、というと、この作品を見ても確信が持てない。
もはや本音なのか何なのかもわからない、行き場のない憎悪を剥き出しにすることが、危機を乗り越えるために、人間として成長するために必要なのだろうか。
第6話は一転して穏やかな流れが支配する。まずマリアンが母と会う。母は読書の途中で眠ってしまって、マリアンがやってきて起きる。この描写が穏やかそのものだ。
マリアンと母の会話では、母がほとんどの感情を隠したまま、夫が亡くなってしまったということが語られる。そのため、夫が亡くなっても、全く寂しくないのだと言うのだ。これはマリアンが辿っていたかもしれない妻像でもあるだろう。マリアンは、ある意味ではユーハンの不貞の「おかげで」、自分の感情を曝け出し、自分の殻を脱ぎ捨てることができたのかもしれない。しかしそれでも、マリアンの母よりマリアンがそれだけ幸福なのか、それはわからない。観客の判断にゆだねられる。ここには時代の変化、フェミニズムとの関係など、様々な視座があるように思う。
最後、ユーハンとマリアンが別荘で一夜を共にする。マリアンがユーハンを見つめて、「こんなに優しいのは久しぶり。大好きよ」と涙を流して伝えるシーンには思わず泣かされる。一難去っての、平穏。ユーハンが言うように、「お互い愛し合っているけど、やり方がまずいだけ」だった二人が、お互いにとって適切な距離感を見つけ、その束の間の幸福に身を浸して、作品は完結する。


※HBOでジェシカ・チャスティンとオスカー・アイザック共演でリメイクされるらしいのだが、なんとその監修にエステル・ペレルが入っている。

2021年9月20日月曜日

仙台短編映画祭2021 新しい才能に出会う

 『ニヒル』
岐阜で撮られた11分の作品。開始から、こじらせた女子大生のサディスティックなモノローグが続くが、残念ながらその内容にはあまり興味がわかない。しかしながら、彼女が自転車を走らせるのをフォローしたカメラが、画面奥でジョギングをする中年男性を捉え、パニングしながらそちらをフォローするショットが、妙に白々しい不思議な雰囲気を持っていて印象的であった。しばらく後のシーンで、この男と河原で遭遇し(高校時代の数学教師という設定)、彼がややニヤけた顔で背泳ぎの練習をする様子を主人公が目撃する。
この見る-見られるの関係をサルトルを引用して強調するというアクセントがあるが、二人を捉えたロングショットがなかなか堂に入っていて、画面右側が橋、左が川、というイメージ。もう少し左側の川が、あるいは遠くの景色が良ければ、アントニオーニ的になったかもしれない。ちょっと惜しい。


『SHIBUYA, Tokyo, 16:30』
ズビャギンツェフが好きだという大冨いずみ監督は、すでに長編作品も撮っている実力者。
自転車を止めて鍵をかけて降りる場面のアクションつなぎを見れば、優れた作家であることがすぐにわかる。そしてそこから続く、明確な権力勾配を背景にした室内劇は、確かにズビャギンツェフの『裁かれるは善人のみ』を思わせる空間造形、そして人物のアクションである。
映画プロデューサーを演じる俳優が嘘みたいに上手なのと、視点ショットによる距離感の創出がワールドクラスで、思わず身を乗り出して見た。
照明と色彩にも演出が行き届いており、ブラインドからさす西日にブラウンのニットがよく映えていた。
その辺のメジャーな映画監督よりもはるかに実力がある。素晴らしい。
ソファから立ち上がって、テーブルに足をぶつけてしまう、という繊細なアクションも見事だ。
他のスタッフが入ってきてから、ラストに至る帰結が、やや弱い。もうひと捻りあればアカデミー短編映画賞も夢ではなかった。

『誰のための日』
このような自主製作映画で、このような宴会シーンを造型できてしまう。これもまた、そこらへんのメジャー映画よりも堂に入っている。また、この宴会シーンで、それぞれの親戚の具体的な関係を説明しないのも潔い脚本と言える。
メインパートの喧嘩シーンは、逆に少しクリシェにはまっている印象を受けた。
いや、喧嘩とはこんなものなのだが、しかしこんなものである喧嘩をただ見せられても困るので、やはりどこかのタイミングで意外なアクションを入れてほしかった。
ラストの自販機のシーンは、なぜか自販機の前だけ道路が沈んでいて、映画的な高低差が生まれていた。ロングショットで終わるのも正解。

ということで、久しぶりに参加した映画祭、素晴らしかった。
ただし、トークで登壇した相田冬二、多くの尺を自分の映画論や解釈の話に割いていたが、さすがに作り手の人達がかわいそうになった。こういう気付いたら自分ばっかり喋っている映画評論家って、いるんだよな。大体、「実際物語とかセリフはどうでもよくて、もっと細部のちょっとした描写が大切ですよね」とか、シネフィル崩れみたいな事を言っていたが、いやそれ同意はするけど、作り手の前で言うことじゃないだろう。あんたの意見を押し付ける場じゃないんだよ。
しかも、2作目は間違いなくジェンダーの問題がメインテーマであるにもかかわらず、「私はそこにこだわらずあくまで映画として見たい」という謎のエクスキューズを置いていたが、お前がずっとベラベラ喋ってる状況それ自体が「男社会」の縮図であることに気付かないのだろうか。
観客からは、3作品とも女性の生きづらさを扱っていながら、抵抗よりも鬱屈と諦念が表出されているのが気になった、という意見(引用不正確)があり、相田氏の全ての発言よりも意義のある発言であったし、これを各作家がどう受け止めるかが割と重要だと思った。
あえて指摘すれば1作目と3作目にはこの"批判"(というと言い過ぎだと思うが)があたるかもしれない。映画の構造として、「色々あったけど、とりあえずハッピーエンド」みたいな「おさまりの良さ」が、むしろ野心を欠いたものと映るかもしれない。




オリエント急行殺人事件(1974年)

 監督:シドニー・ルメット

1回目見た時は、ただひたすらイングリッド・バーグマンの芝居に見惚れて、あとは普通かな、と思った。あと、アルバート・フィニーのポワロのせいで(?)あまり集中できなかった。
ところが、大変恥ずかしながら、バーグマンの尋問シーンがワンショットで撮られていることを後で知り、慌てて見直した。そうすると、確かにバーグマンのシーンはワンショットで撮られており、しかも途中でアルバート・フィニーの背中をぐるりと回って彼女のクローズアップに移行するようなカメラワークもあって、実に見事なそれであった。そしてよくよく見ると、この映画は意外にもショットが少ないではないか。セリフこそ膨大であり、また途中で過去の回想を細かくインサートするので気付かなかった。全然見れていなかったと反省。
あとはアクションつなぎがいくつかやられてて、ほとんど完璧。お手本のようなそれ。
特にヴァネッサ・レッドグレーヴの尋問に見かねて、ショーン・コネリーが制止するジャン・ピエール・カッセルを殴って入ってくる場面のアクションつなぎがこれ以上ないスムーズさ。
これぞというワンショットはないが(何なら冒頭の船が一番美しい)、ショットのつなぎが全然気にならない、これぞ名職人の技、という感じ。
見直してみるとアルバート・フィニーのポワロにもだんだん愛着がわいてくるから不思議だ(笑)
とはいえ、とにかくこの映画はバーグマンだ。この小さな役でこれほどの印象を残せる(しかも全く嫌味がない)女優など後にも先にもバーグマンだけだ。バーグマンがこの世界に生まれて本当によかった。

2021年9月17日金曜日

動く標的

 ポール・ニューマンの探偵映画。
ローレン・バコール、ジャネット・リー共演というわけで期待させるのだが、お二人とも友情出演みたいなレベルで、この扱いは残念。
お話も大して面白くもなく、悪役もめっちゃ弱いのだが、にもかかわらず捨てがたい魅力がある一本。1960年代というハリウッドの低迷期に作られたこの犯罪映画は、まさにその低迷ぶりを象徴するような人物が出てきて、この斜陽感、没落感が、今見ると不思議な味わいなのだ。

特に、かつてのスター女優で、今は中年太りのおばさんとなってしまった女性を、シェリー・ウィンタースが怪演してみせるのだが、彼女のベロンベロンになっていびきをかく醜態ぶりが楽しいのだ。そういえばポセイドン・アドベンチャーでもデブをいじられていた(笑)
このあたり、『何がジェーンに起こったか』を彷彿とさせるような人物である。怪しい新興宗教まがいの施設も出てきて、まさに60年代という感じだ。
ラストが潔くて好感。

2021年9月11日土曜日

ゴッド・セイブ・アス マドリード殺人事件

あの傑作『おもかげ』を撮ったロドリゴ・ソロゴイェンが2016年に撮った作品。
これまた見事な面白さ。この人は、人間のタガが外れる気まずさ、怖さを描くのが巧いんだ。肉体的な暴力は瞬間的だが、決して消えることのない暴力性がべったりとまとわりついているのがわかる。同僚をボコボコにする刑事に、女の扱いに慣れていない吃音持ちの刑事のタッグが魅力的。特に後者のリオネル・メッシのような佇まい。遺体のポーズを真似ることから事件の捜査を開始していくポリシーがまず面白い。捜査の過程も知性と直観のバランス感覚が素晴らしい。犯人の造型も見事に怖い。ネックレスやオレンジといった細部の扱いも良いが、唯一ある追走シーンがまた凄いテンションだ。暴力的な刑事と吃音を抱える刑事が、一気にボルテージを上げて犯人を追いかけるそのギアのかかりっぷりがたまらない。映画はこうでないと!

ラストシークエンスも素晴らしい。豪雨と車の組み合わせは、『おもかげ』でもやっていたね。

あえていびつなショット構成を狙っていると思うが、ちょっとこれに目が慣れるのに時間がかかった。が、後半はむしろとても安定したショット構成になっていたと思う。
ロドリゴ・ソロゴイェン、本物ですね。

2021年9月9日木曜日

ドライブ・マイ・カー

 フィクションとリアリティの行き来が全くうまく行っていないのではないか。「チェーホフは恐ろしい」という科白に比して、演者がフィクションに巻き込まれていくダイナミズムがこの映画にはなく、この映画における「演劇」や「フィクション」や「過去のトラウマ」はすべて機能的な記号として首尾よく配置されているだけのようにしか思えない。
まぁラストの手話の呼吸、間合いなんかは「お見事」なのだが、なぜ最後に拍手を入れたのかわからなかった。あのままフェードアウトしてエンドクレジットじゃダメなのか。

霧島れいかの官能性は『寝ても覚めても』と同じ監督が撮ったとは思えないそれで感嘆するし、赤い車が走っていく様を捉えた俯瞰ショット、水面を映したショット(特にフェリーでシーンはアントニオーニの『情事』やゴダールの『ソシアリズム』を彷彿とさせる)、島の旅館で原稿を練る西島の後ろ姿を捉えたショット、タバコを上に上げるショット、オーディションでの岡田将生を捉える横移動、岡田将生が隠し撮りする相手を追いかけて画面から消え、しばらくして戻ってくるあの時間の使い方、、、

と、良いところをあげればキリがない。しかしだ、濱口竜介は明らかに、そんな「映画的ですね!」という感想を拒否しようとしている。もう画面の時代は終わった、運動の時代は終わりですよと言わんばかりに、過去のトラウマを何度もセリフとして表出させ、西島や岡田の反省の弁を延々と説明するその確信犯的な演出はどうか。
どうか、と言っといて何だが、私はこんな映画は嫌いだ。
見ている間、濱口竜介はなんて図々しい監督だろうと思った。岡田将生が西島らを評して、「細かすぎて伝わらないものを表現している」というセリフを吐く、この作家の自意識の肥大はどうしたことか。ほとんどゴダールレベルの図々しさだ。しかしここにゴダールのような倫理があるだろうか。
私には何やらとんでもなく高いところから説教されているようにしか思えず、しかしこれならエステル・ペレルの不倫についての講義を聴いていた方がよっぽどマシではないか。
「辛いことはいっぱいあるけど、亡くなった人の分まで頑張って生きていかないとね」からのあのエピローグには怒り心頭である。

カンヌの審査員達も、本当は全然ダメだと思ってるけど、批評家大絶賛だから仕方なく脚本賞だけあげた、というのが本当のところじゃないのか。

とても誠実な映画、とか、傑作、とか、そんな受容の仕方で本当に良いのか。
いま思えばあの映画が全てを変えた、という記念碑的ポジションになるか、きれいさっぱり忘れ去られるか、それは歴史が判断することだろう。

(追記)
そういえば、濱口の映画では、モノの動きが画面を活気づけるということがほとんどなく、「人」しか出てこない。
西島が楽屋で服を放ったとき、ドサッと着地した服の柄や色を誰が覚えているだろうか。岡田将生の着ている服は日本映画には珍しいぐらいにオシャレで注意を惹くが、しかし彼は決してそれを脱いだりすることはなく、ファッションショーの域を出ない。三浦透子の帽子はどこへ行ったか。西島が飲むコーヒーはついぞ画面に現れない。ピストルのフォルムもまるで思い出せない。とりわけ腹立たしいのは、三浦が雪の中投げる花の処理だ。
モノがほとんど止まった世界で、人間だけが自分をさらけ出している。それが退屈なのかもしれない。



2021年9月3日金曜日

レリック 遺物

 監督:ナタリー・エリカ・ジェームス

オーストラリア製のホラー映画。
家をめぐるオーソドックスなホラーに、祖母、母、娘の女三世代の物語を混ぜたストーリー。
俯瞰ショットとか、さびれたテニスコートのネットのショットがなかなか堂に入っていて、また、祖母の登場シーンがなかなか雰囲気があって良い。
ホラーそのものは「家モノ」と言ってよい、オーソドックスなそれだが、そこに認知症の祖母のケアをどうするか、という要素を入れ込むことで、祖母への視線に捻りが生まれるのが上手。
認知症の主観的経験をスリラーテイストにしたのが『ファーザー』なら、こっちはその逆をやったような位置づけか。
前日に指輪をくれたはずの祖母が、指輪を盗まれたと思って力づくで取り返そうとする場面には唸った(その直前の娘が床に座って、祖母がソファに腰掛けているショットがグッド!)。

ただ、最後が尻すぼみ。相当いろんな伏線を張っていた気がするのだが、割と未消化に終わっている。と、シナリオにケチをつけたくなるのは、実は見せ方があまり巧くないからでもある。部屋が実はめちゃめちゃ広くて奥まで迷い込んで戻れなくなる、という展開は盛り上がるのだが、しかしその脱出過程はずいぶん単調。
未消化なまま終わるのも一つの作戦なのかもしれないが、もうちょっと膨らませてほしかった。


2021年9月1日水曜日

リミッツ・オブ・コントロール

 ジャームッシュについては自分は完全に初心者で、数年前に『ダウン・バイ・ロー』や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を見て、面白いなと思いつつ、生意気ながら自分好みではないな、と思っていた。
正直、新作も結構スルーしていた(←失格)が、『パターソン』は文句なしに素晴らしいと思った。が、それも含めて、なんかズルいな、こちらとしては全然付け入るスキがないなぁ、と感じていた。

しかし先日、レトロスペクティヴで『ゴースト・ドッグ』を見たら、オールタイムベスト級の面白さで、これは大変気に入ったし、この映画のイザック・ド・バンコレが主演なのであれば見るしかないと、DVDを借りて見た。

スーツがオシャレ、ホテルや美術館の空間、オープンカフェの店員とのやり取りの面白さなど、極めて表層的に楽しめる映画でもあり、同時に映画作家への目配せもある(ティルダ・スウィントンがウェルズやヒッチコックの映画を語る)。
たしかにブレッソンであり、ヒッチコックだが、しかし大真面目にこれらの作家を模倣しているという感じでもない。物語もひたすら「ハッタリ」を続ける映画であって、むしろ映画とはハッタリを如何に続けられるかの勝負だという宣言のように感じた。実際、見事に続け切っている。
神出鬼没のヌード女性(パス・デ・ラ・ウエルタ)の存在感が素晴らしい。映画のモチーフは極めて虚無的であるが、彼女の「遺体」に向けられた視線には熱がこもっていた。