2012年9月29日土曜日

エージェント・マロリー

監督:スティーヴン・ソダーバーグ

これはちょっとなー・・・。完全に確信犯である事をわかったうえで、それでも浜辺のシーンはまるで学生映画みたいだ。何やってんだとしか言いようが無い。
電話の相手がマロリーだとわかりカッと目を見開くユアン・マクレガーとか、あるいはバルセロナでジーナ・カラーノが延々と敵を追うのを延々と追ってみたりとか、まぁいろいろ面白いような気もするが、総じてこれは単なる「スタイリッシュ・アクション( )」って感じである。こんなんダメであるw

2012年9月25日火曜日

つぐない

監督:ジョー・ライト

大傑作!と言ってしまおう。例えば18歳のブライオニーを、なぜシアーシャ・ローナンに続投させないのか、とか、時制いじるのは無駄じゃね?とか、最後クドくね?とか、まぁいろいろ文句はつけられそうな映画ではあるが、しかし僕はこの映画を全面的に擁護してしまいたい。なぜか。それはすべてのシーンを全力で演出する心意気、つまり決して「ストーリーテリングでは終わらせん!」という映画作家としての気合いをしかと受け止めたいからだ。
水中に潜るという運動の反復、ブライオニーの視点ショット(噴水、図書室、玄関前)、浜辺の見事なシークエンスショット。セシーリアのタバコの吸い方、湖へ飛び込むフルショット、海岸で佇む逆光で黒く染まったセシーリアと海の見事なコントラスト、ロビーが靴を拾いにいった先で大量の死体を発見するシーン。セシーリアとロビーが再会した際の二人の手の動きを捉えたショット(前半部分で机の下で手を重ねるシーンとの見事な対比!)。
あるいはロビーがブライオニーに手紙を渡すため彼女を呼びつけるシーン。物語上は単にブライオニーを呼びつける→ロビーが手紙を渡す、というだけの「すじ」でありながら、ここではブライオニーがロビーのところへ走っていくまでの過程をすべて見せる。その過程で水たまりをひょいとかわすブライオニーをしっかりと捉える点に「演出」を感じる。

このように数え切れない豊かな細部が時に時制を超えて、物語上の視点を超えて、次々と繰り出され、その最終的な映画の構造が明らかにされるとき、その一つ一つのシーンの「真実」は意味を失い、ひたすらイメージの戯れだけが残る。

2012年9月24日月曜日

デーモンラヴァー

監督:オリヴィエ・アサイヤス

近景の美学とでも言うべきか。被写界深度をうんと浅くして、人物と空間を完全に切り離し、物事の推移を決してクリアには見せない。それでいながら、画面はひたすらゴージャスな印象を与える。それは例えば一瞬のロングショットの切れ味(終盤のヘリコプターのショット!カーチェイスの俯瞰!)であり、あるいは創意に満ちたクローズアップの数々(コニー・ニールセンとクロエ・セヴニーの車でのシーンなど)による。
つまり、極めて狭い範囲に被写体を絞りつつも、その被写体はそこらへんの映画の画面の数倍豊かさに満ちているわけだ。
この「掴み」があるからこそ、逆にこのような浅い被写界深度でしか表現できない数々の芸当とでもいうべき演出が堪能できる。とりわけ冒頭の空港での見事な長回し、人物の配置、そして女同士の殴り合いのものすごい密度、暴力性。

砂漠のシーンはほとんどストーリーが意味不明であるにも関わらず、次に何があっても「オッケー!いくらでもついていくよ!」と言いたくなるような、完全に「突き抜けて」しまっている。このような体験は極めて稀有だが、いやしかしこれぞ映画を見る喜びだ。

※個人的な好みを言えば、これほどホテル、レストラン、ガラス貼りの高層ビルといった映画的シチュエーションであれば、やはりロングとフルショットと奥行きの深い画面が見たかったと言いたいところだが、しかしそれではここまでの狂気性は出なかったに違いない。

2012年9月21日金曜日

ロルナの祈り

監督:ダルデンヌ兄弟

手持ちカメラによって被写体を一見無造作に撮ることで、「リアルに」見せつつ、決して心理的に本当らしくなく、ひたすら歩いたり走ったり抱きついたりという運動を鮮やかに撮ってみせた『ある子供』に対して、この映画はいささか窮屈な印象を受ける。

僕にはこの映画のほとんどの画面には驚きがないと思う。
それは例えば病室でロルナが頭を壁に打ち付けるシーンを見ても、「過剰なリアリティ」が運動そのものの「光景」を上回ってしまっている。このシーンには画面の強度が、運動の軽快さがない。あるのは「まるで本当に頭を打ち付けているのではないか」という映画そのものとは無縁の驚きだ。

逆にロルナがクローディに水をやるシーンのワンショットはすごい強度だ。室内照明が嘘みたいに調和し、深いコントラストをつくりだし、ロルナがクローディに水をやる構図が、まるでひとつの絵画のように浮き出ている。

ラストにしても、これが映画的に優れているとは全く思えない。
森の駆け抜けるシーンがあるが、残念ながら駆け抜け方がつまらない。
想像妊娠をしている女性の強迫的な行動を撮っても、その行動を映画的に切り取ることができていないので、物語的な意味しかない。

2012年9月20日木曜日

小さな泥棒

監督:クロード・ミレール

冒頭、車が画面を横切ると同時にシャルロット・ゲンスブールがスキップ気味で道を渡るカットが、この作品の良さを凝集してる。とっても安定したカットと編集で組み立てながら、人物たちの動きに遊び心がたっぷりあって、物語ではなく人物のアクションを見る喜びに溢れている。

一時拘留されていたゲンスブールを伯父が迎えにきたシークエンスがとても好きだ。ゲンスブールは一度万引きが発覚して伯父が怒鳴りちらしたばかりだ。今回もそのような展開になると思いながら、拘置所の門から二人が出てくる様子を見る。すると伯父は怒鳴りちらすというよりは、半ば呆れ気味にゲンスブールのお尻を蹴っ飛ばす。そしてゲンスブールがそれに「何すんの!」と怒る。そんなノリで二人が家に帰っていく様をロングショットで捉えた夜の美しさね。こんなに優しさに満ち溢れた演出ってあるんだろうか。

地味ながらこれは相当すごい作品だと思う。

2012年9月16日日曜日

刑事ベラミー

監督:クロード・シャブロル

これはかなり映画というメディアに厳格な作品ではなかろうか。
例えばこの映画には、これといった「あらすじ」がない。確かにあらすじを述べることはできるが、それは実際読んだだけでは、はっきり言ってとてもつまらないものだ。というのも、オープニングで見せられる死体を巡るミステリーは、早々に全く持って平凡な真相とともに解決されるのだし、ベラミーの弟もいろいろと企ててはいるものの、結局最後まで何も行動を起こさずに終わるのだから。

しかしこの映画はとんでもなく面白い。それは極めて細部が充実しており、人物達の一挙手一投足が面白く、それを捉えるカメラワークが、我々に見る喜びを教えてくれるからだ。
誰もが好きにならずにはいられないであろうスーパーの店員、マンホールに落ちそうになったベラミーが突然涙をこらえきれなくなる面白さ、あるいは妻の快活で優しさに満ちた仕草。二人が喧嘩して、妻がベラミーにビンタまで喰らわせたあとに、何事もなかったかのように抱擁を交わす二人を見る喜び。

あるいはベラミーが弟に怒って椅子から落とすシーンの面白さ。「殴ってやろうか!」⇒「どうせ兄貴はそんなことできないだろ」⇒「ほれ!」という、この間合いの可笑しさね。見なきゃわからないんだけど。

まるでそれまでの経緯などほとんど無視するかのように、その瞬間瞬間に突発的に繰り出される「殴る」、「泣く」、「抱き合う」といった運動の数々が、この何のドラマ性もないストーリーを走らせるシャブロルの手さばきは、なるほど遺作にふさわしい見事な出来栄えだろう。限りなく透明な映画。

2012年9月14日金曜日

ある秘密

監督:クロード・ミレール

この圧倒的な一大映像叙事詩を前には、誰もが言葉を失うのではないか。映画に出来得るあらゆる技術を可能な限り使い尽くし、めくるめくイメージの世界を2時間味わわせてくれる。こんなに素晴らしい事はない。

何から書けばいいのかわからない、というより全ての画面、一つ一つの画面の全ての細部が輝いていて、もうこれについて何か書くという事が野暮に思えるぐらいだ。

ひとまずオープニングから書こう。
優雅なクラシック曲で幕をあけるオープニング。母親のタニヤが子供フランソワを連れてプールサイドを歩くショットでは、フランソワの顔にカメラがセットされ、二人の横を平行して移動していきながら、時折プールサイドの光景がインサートされる。その中でも子供が水辺を駆け抜けるワンショットの瑞々しい感動。また、上記したようにカメラは子供の高さに合っているため、母親のセシル・ドゥ・フランスは、その胸元、脇が映っているのみであるが、これほどに官能的なショットがあっていいのだろうか!
また、タニヤがジャンプ台にあがるため、プールサイドにフランソワは放置され、ゆっくりとプールの中に入っていくが、その奥から別の子供がプールにジャンプすることで、水しぶきがあがり、それがフランソワにかかり、フランソワが怯える。このショットが、後に出てくるフランソワの異母兄弟であるシモンが、逆にプールに元気よくジャンプするショットと対照をなしているのが面白い。

全編を通じて、カッティング・イン・アクションが冴えわたっている。ぬいぐるみを箱にしまう手つきのアップ、子供を抱き締める腕のアップなど、アクションの瞬間とともに(まるでブレッソンのように)アップを入れてくる。しかしかと思えば、アンナがシモンを平手打ちするショットでは、シモンがアンナのタバコを持つ手をコツンとやるアップショットから始めて、アンナの平手打ちとともに一気にカメラが引いて見せる。この引きの画のなんたる迫力。この映画のハイライトとも言える。

タニヤ、アンナ、マキシムをめぐる三角関係の描写も冴えまくっている。
視線の交錯とすれ違いだけで三人の関係性を完璧に描いて見せる手腕。そしてこれこそが映画を見る喜び。
とりわけ結婚式のパーティにおいて、マキシムがタニヤの方を見つめる。それをまずはタニヤを手前、マキシムを奥に配した縦の構図で切り取り、次にマキシムがバストショットで右側に視線を向けると、友人に手品を披露して満面の笑みを浮かべるアンナがいる。マキシムの視線ショットで捉えたアンナが、カメラに向かってにっこりとほほ笑むと、それに呼応するようにマキシムが笑いかける。これだけの事であるが、しかしこれこそが映画なのである。
あらゆる名作を抜き去って、もう史上最強の映画って言ってしまいたいぐらいの超絶大傑作映画である。


2012年9月13日木曜日

ジェーン・エア

監督:キャリー・ジョージ・フクナガ

『闇の列車、光の旅』の監督が、なぜこうなるのか。それは手持ちカメラメインの手ぶれ映像からフィックス主体への作風の変化の事ではなく、端的に画面の強度の低下である。
『闇の列車、光の旅』で見せた、深夜に一台の列車が轟音とともに到着し、寝ていた人々が一斉にムクムクと起き上がる逆光のショット、あれを超える画面をついに見ることがなかった。
それは画面が、「あらすじ」に支配されてるからに他ならないだろう。
美しい撮影は、ただただ絵葉書のように美しいだけであり、あらすじの背景と化し、ストーリーの進行に従属しているだけだ。
ミア・ワシコウスカが家から逃げ出す。その走り方のなんというつまらなさ。あるいはその撮り方の凡庸さ。美しい自然を背景にロングで横に移動しながら撮れば映画になるわけではないだろう。

幼少時代のジェーンが学校に連れていかれた時の、学校に到着したシーンの俯瞰ショットは良かった。画面上側の冷たいライティングと下部の学校側の暖色系のライティングの対比が面白い。

しかしやはりどうしても、全く画面の驚きがない。
邸宅でのボヤのシーンも、まるで創意工夫が見られない。あるいはファスベンダーの妻が現れたときのシーンにも何ら驚きはなく、「ああ奥さんキチガイになっちゃったのね」という印象しかもたらさない。

ファスベンダーの部屋に何人かの友人や女がやってくるシークエンス。
ワシコウスカが出ていく、その出ていき方のつまらなさ。
ピアノを弾くファスベンダーにあたっていたフォーカスが手前のワシコウスカに切り替わり、そうしてワシコウスカが立ちあがって、出ていく。こんなつまんねー演出があるかよ!!
部屋から出ていく、というのはもっと決定的に描かないといけない。それは空間の差異、ライティングの差異によって際立たせないといけない。それをやらない手抜きさ。


逆に例えばファスベンダーに幻滅したワシコウスカが急いでドレスを脱ぐシーンでは、ギッチギチのドレスのヒモを一生懸命とろうとする指先のアップだ。
逆になぜ今「ギッチギチ」と表現したかと言えば、それはカメラがヒモを一生懸命にとろうとする指先を映したからに他ならない。
だから私は「ギッチギチ」と表現できるのだし、ワシコウスカが来ていたドレスがギッチギチであることもまた立派な物語の一部なわけである。そのような細部こそが「あらすじ」を超えるのであり、驚きをもたらすのである。


2012年9月5日水曜日

ある子供

監督:ダルデンヌ兄弟

近景から始まり、ワンショットが持続して遠景に至る、というショットが何度も出てきて、とりわけ車の周りを二人がぐるぐる周りながら、公園まで走っていくカットなど絶品。あるいはその一個前のショットは運転中にちょっかい出しあっててすごく危なっかしいのに、カメラは決して前方の窓を映さない。
近景と遠景の使い分けが物凄くうまいのだろう。
ひったくりからの一連のシーンは手持ちカメラとは思えない、しかし手持ちカメラでしかあり得ないような見事なショットとカットの連続で、これは燃えた。

子供のいない乳母車を押して歩くブリュノのショットがいくつか出てきて、そう思うと今度は少年が乗っていないスクーターを押すブリュノの姿が出てくる。(映画研究塾的に言えば、このスクーターのショットから逆算して撮ってる)
あんなにせっせと押していた乳母車は店に売るのだし、スクーターもすぐに少年に返すのだし、考えてみれば赤ん坊もあれ以来一度も触れる事がなく終わる。そうやってモノとモノ(あるいは金)を交換しながらひたすらに動き続ける様を見ていると、見てるこちらとしては、「ブリュノは~すべき」とか「ブリュノはクズ」といった価値観が消え、ひたすら見ることによってしか反応することができなくなる。

基本的にカメラはブリュノの行動を捉え続ける。そして多くの場合、車が通る「ザ―」っという音が聞こえていて、それはまるで物事がただひたすら同じリズムで生起しては消滅していくような感じで、それはブリュノの行動を捉えつつも、そこに心理的アクセントというようなものがなく、要するに何か決定的なブリュノの行動があったりするわけでもなく、全てが同じように捉えられる。だから最後に見せる二人の涙も、それがハッピーエンドやあるいはビターエンドというわけでもなく、あるいは決定的な二人の「生まれ変わり」なわけでもなく、ただひたすらまた新たな日々が続くだけなのだ。そうした全くドラマティックさを欠いた映画でありながら、上記のような豊かさを包含した、あまりに映画的な傑作である。