2022年11月27日日曜日

ある男

 監督:石川慶

東北大学卒業後にポーランドで映画を学んだという、尊敬するしかない大先輩石川慶監督の最新作。

正直言って、前々作と前作にはさっぱり乗れなかったのだが、本作は、荻野洋一氏が「ネガティビティの専制」と評し、日本映画の伝統の系譜に位置付けてみせた『愚行録』ばりの並々ならぬボルテージを持った素晴らしい作品に仕上がっており、安心、そして驚愕した。

本作品も、戸籍の交換という『悪い奴ほどよく眠る』を彷彿とさせる題材であり、過去の惨劇の描写は今村の『うなぎ』さえも思わせる(意地の悪い役で柄本明が出ている!)。  

まずもって、冒頭の演出の連鎖には驚愕した。安藤サクラが文房具店のレジに立っていて、これを表情が見えない後ろからの俯瞰ショットで撮り、カットが切られ正面にカメラが据えられると、安藤の頬に涙が見える。さて、このあと窪田正孝が入ってくると、しばらくして停電が発生する。一緒に店裏のブレーカーをつけると、電気がつき、窪田の頬の傷がばっちり映るのだ。あえて解釈をすれば、触れられたくない過去=闇に光が当たる、それを見てしまうことの緊張。映画全編にわたって走るこの戦慄を、冒頭のこの流れるような演出が象徴しているのだ。妻夫木が登場する飛行機のシーンでも、太陽の光が顔に直に当たると、すぐさま妻夫木がカーテンを降ろすのだ。これまではポーランドのピョートル・ニェミスキが撮影を担当していたが、本作は近藤龍人が担当したようだ。被写界深度の浅いショットが多く、そこは好みではないものの、ライティングとの関係が非常にうまくいっており、極めて心地よいショットの連鎖であった。

『愚行録』で臼田あさ美の怪演を引き出した石川監督だが、今回は清野菜々が良い役柄である。観客としては妻夫木との関係に、もう少しあれこれあっても良いと思ったが、最終的には物語的な機能が優先されており、そこが少し残念(安藤、真木、清野がいずれも魅力的ながら、ちょっとバランスを意識しすぎたか、飛び抜けて際立つ女性キャラクターがいない。また、清野、仲野の帰結はおさまりが良すぎると思った。とはいえ、話が転調するたびに主役級の俳優が次々出てくる構成は単純に楽しい)。

単なる雰囲気ではなく、撮影の選択、ロケーション、俳優の芝居によって生み出された緊張感が全編続くなか、例えば窪田正孝の一周忌に現れた兄を名乗る男と安藤の、「大佑じゃないです」「いや大佑さんです」の応酬には思わず笑ってしまった。

それと、これはセクシャリティをめぐる映画でもある。窪田が鏡に映った自分の姿に怯えて、行為が中断してしまうシーンがわざわざ2回も描かれるが、彼と安藤の間には娘が生まれているのだ。この経緯を省略するのも良い。

フラッシュバックによる苦しみや、柄本のケレン味ある悪役像は、日本映画がやりたがる事だが、たいていやり過ぎて散々な出来になる。石川監督はこうした描写を八分目ぐらいでさっと切れる聡明さをもっているので、映画のバランスが崩れず、最後までテンションが持続するのだ。


2022年11月25日金曜日

備忘録

「 ヨーロッパ映画」というものがあるとすれば、我々の知らないコードで人々が行動する映画、と言いたい。アメリカ映画では、「理不尽な」出来事によって人々が苦しむことはあっても、その苦しみは理解可能だし、その理不尽さに立ち向かうことで「あり得ない」奇跡を起こすことが感動を呼ぶのだ。

だが、ロメールやゴダールやファスビンダーを見るとき、我々が目にする人物たちは、まったく我々の知らないコードで動いているようにみえる。コード・アンノウンというやつである。

もしも人間が、現在とはまったく違うコードに従って生きたら?それは革命だ。

だから、ゴダールやソクーロフやベルトルッチにワクワクするのだろう。


2022年11月4日金曜日

パラレル・マザーズ

 監督:ペドロ・アルモドバル


ペネロペ・クルスとミレナ・スメットの二人のシングルマザーの、子供の取り違えをめぐる物語が主軸でありながら、アルモドバルらしく、いくつかの(あるいは無数の)サイド・エピソードによって多層化されている。今回はそこに、スペイン内戦の犠牲者の物語が絡む点が、過去作品とは一見異なる印象を与える(ボルベールでは夫の遺体を埋めたペネロペ・クルスが、家族を掘り起こそうとする物語だ)。実際、掘り起こされた人骨をカメラが捉えたのち、あっさりと暗転するエンディングには、例えばワイダの『カティンの森』のエンディングのような、「明かされた歴史の前では余計な言葉は一切いらない」とでも言うような潔ささえ感じられる。また、こうした題材ゆえの選択なのだろうか、アルモドバルの映画では見たことがないほどに深い被写界深度が設定されており、人物のクローズアップは後ろの背景がばっちりと映っていてかなり奇異な印象をもたらす。DNA検査の結果に動揺し、ベッドの上で電話をかけるペネロペ・クルスを画面奥に捉えたパンフォーカスでは、彼女の身体に夕日があたっているのだが、絞ったレンズでこのようなコントラストを出す技術には感銘を受けた。

一方で、物語の展開のさせ方は、アルモドバルの過去作品と似通っている。都市の自立した女性が、ついつい母性本能を刺激されて、気弱な若い女性の世話をする展開。あるいは、恋人が去ってしまった悲しみを抱えたまま田舎へ帰る展開。特に、真相を告げられたミレナ・スメットが、ほとんど躊躇なく子供を連れて行ってしまう場面の厳しい演出が素晴らしい。ミレナ・スメットはペネロペ・クルスのメイドとして働いているわけだが、この場面ではミレナ・スメットがベビー・キャリアをつけるのをペネロペ・クルスが手伝わされ、挙句、荷物も持ってエレベータのスイッチも押させられるという、一時的な主従関係の逆転が描かれているのも興味深い。いつもなら、去っていく人間の姿を捉えた視線ショットを挟むのがアルモドバル流のメロドラマだが、去っていくミレナ・スメットと我が子を見送ることしかできないペネロペ・クルスの姿を固定した視点からじっと凝視するように撮るのだ。

視覚的なモチーフにも事欠かない。例えば電話番号を紙にメモする所作の反復、綿棒で粘膜をこする動作の反復、ざるでジャガイモをゆすぐ動作と土砂をゆすって選り分ける作業の確信犯的シンクロ、あるいは頭蓋骨。

「PC内に偶然脚本を見つけた男が、それを舞台にしたところ、その舞台を目にした古い恋人が脚本を書いた男のもとを訪ねてくる」ような(ペイン・アンド・グローリー)、あるいは「夫に去られた女がカフェで流れる歌謡曲に耐えられず外に出ると、医学生のデモに巻き込まれて、そこに友人がかけつけて抱擁を交わし、空には紙吹雪が舞い、、、」(私の秘密の花)というようなヒトとモノの映画的連鎖反応が、本作ではあまり見られない。その意味では、アルモドバルの最良の映画ではないだろう。しかし、誰に見守られることもなく「突然死」してしまった子供の物語を通して、忘却に抗い、自国の歴史を語ろうとする意志の前では、そんな些細なことはどうでもよい。