2013年5月28日火曜日

コズモポリス

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

ゴダールみたいに面白い。
リムジンの周囲をぬーっと廻り、ヤバすぎるオーラを放ったガードマン達をまるで『アウトレイジ』のファーストショットのように撮りながら、独特としか言い様のない角度でフィックスするファーストショットからして、もう傑作の予感しかしない。
突発的に起こる数々の現象は何らの伏線も無いまま、そして何の傷も余韻も残さぬまま消えていく。というこの構造自体がおそらくはこの映画のテーマでもあるだろうが、しかしその出来事達は極めて魅力的に撮られているではないか。
暴動、ネズミを投げる男たち、IMFの理事の襲撃現場、ボディガード殺し。

そういえばクローネンバーグが以前、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の演出について、銃で撃たれた遺体の姿を一瞬見せることで、その残虐性を引き出そうとした、みたいな事を言っていたが、今回はむしろ殺された者の姿を決して見せることがない。

洪水のようなセリフの数々も充分刺激的だが、しかしなんといっても被写界深度のめちゃめちゃ深い画面の豊かさこそ、この映画の最大の魅力だろう。

暴動の中を歩きながら車内に向けて話すボディガードの立ち姿なんて、全く見たことのない画だ。
あるいは適度でありながら異彩を放つカメラワークと持続。
サマンサ・モートンがグラスの水を飲むのを、手のアップからフォローして顔のクローズアップになり、背景に暴動が映り込む、というこのショットがとても気に入った。
床屋でのカット割りもいい。
カメラがパンしたあと、そのままカットを割らずガレージが開くとこなんかもゾクゾクする。

あと、言っちゃ悪いが、サラ・ガドンの乗った車が窓の向こうに現れるショットは、『ホーリー・モーターズ』の数億倍決まっている。

すっごい面白い対象を映しながら、常に周辺の出来事が視界に入ってくる。
バスケをする少年、ダイナーで絵か何かを描いている女性、フラッシュをたく記者、などなど。

今年のベストワン決定である!

2013年5月19日日曜日

愛さえあれば

監督:スザンネ・ビア

 イタリアの審美的な風景を捉えたショットが何度か出てくるのだが、あるいはカットを割ってうまいこと鳥が飛んでるのを見せているショットが二回ほど出てくるのだが、いや、どうせその鳥、違う鳥でしょ、みたいなツッコミを若干入れたくなるとはいえ、まぁそれはどうでもいい。
 しかしピアース・ブロスナンがトリーネ・ディアホルムが裸で泳ぐ様子を目撃するシーンの、美しい逆光はどうだ。抗がん剤治療の影響で髪の毛がない女が海で泳ぐという、ともすると説教臭くなりそうな場面ではあるが、この美しい光の描写によってとりわけ忘れがたいシーンになっている。
 あるいはそうした説教臭さを予感させるシチュエーションでありながら、二人が交わす会話の絶妙なまでの意味のなさ(「気持ちよかったわ」、「水が冷たいだろ」)がいいのだ。さらにはピアース・ブロスナンがかけてやる上着がカッコいい。というか、この上着カッコいいな、と思ってたところでこういう場面が来た。
 また、金髪の髪を照らす絶妙な太陽光の扱い。若いカップルが別荘にやってきたときに新妻にあたるあの光。

 ジャンプカットの扱い。例えば浮気現場を目撃してしまった妻と、不倫相手の女が出て行く様をジャンプカット(っぽく)でつなぐシーンなんかは、照明の平板さもあって、ややもすると安い昼ドラみたいでもある。
 しかし一方でいくつかのカッティング・イン・アクションはなかなか決まっているし、大きな物音を起点にカットが割られるリズムの良さもある。

 モリー・ブリキスト・エゲリンドの顔立ち。彼女を見てるだけで充分に素晴らしい。

 ラストはまさしく『最終目的地』なのだが、ここがちょっと甘い。
 『最終目的地』で、オマー・メトワリーとシャルロット・ゲンズブールの二人は、雨の力によって結ばれるのであるが、この映画ではそうした「場の力」といったものが不在であるのが惜しい。
 『最終目的地』が若い二人を結びつけたのに対して、本作は中年の二人であるから、同じものを期待するのは意味がないのだが。

 しかしそれにしてもこの映画は素晴らしい。
 とってつけたようなホモセクシャル描写すら、「酒の力」という感じがする。あるいは赤いドレスをまとったトリーネ・ディアホルムの意外なまでの魅力。彼女が息子を探しに暗闇に消えていく後ろ姿を捉えた1秒にも満たない(ブロスナンの視線)ショットがとてもいい。
 そして僕はブロスナンがセバスチャン・イェセンを固く抱きしめたあの瞬間に、ストレートに感動してしまった。「善悪」の二元論が一切顔を見せることなく、それぞれの人物の「ゆる~い欲望」の衝突だけで映画が動いているからこそ、あの抱擁は、「善悪」とは無縁のところにある「親の愛情」をストレートに表現しているわけだ。とても贅沢な表現だと思う。

 それにしても、スザンネ・ビアの作品は所見なのだが、過去の作品は予告編を見る限り全く見る気が起きない。予告編ですらお腹がいっぱいになるようなクローズアップも、本作にはほとんど見られない。一体どういうことなのか。

 

2013年5月18日土曜日

キング・オブ・マンハッタン

監督:ニコラス・ジャレッキ

 面白く見たが、「傷」の扱いが決定的にダメ。「傷の痛み」が映画にどう関わってくるのかな、と思って見ていたが、終始そうした細部の演出はなく、最後にスーザン・サランドンが思い出したように言及するものの、あろうことかそれはセリフとして処理されるのみであった。
 少なくとも、娘を説得しようとして腹部が痛むとか、ベッドに横たわったときに痛むとか、あるいはラストで登壇する際に椅子にぶつけるか何かして苦悶の表情を見せる、といった演出があれば面白かったと思う。
 
 まぁ逆にそういった細部を全く気にせず、ほどよい照明とほどよいカメラワークで名優と活きのいい若手俳優の演技合戦を撮ればこれだけ面白いというのは確かだろう。ティム・ロスの役どころはとても面白い。

 余談だが、リチャード・ギアの娘役はジョージワシントンか何かの経済学部首席だとか。
監督のニコラス・ジャレッキは元々ギークで、映画の監修をやってるうちに映画が撮りたくなってNYUの映画学部を卒業後、監督達をインタビューしたりいろいろやって、ようやく長編デビューらしく、面白いメンツが集まったことが、この映画の活きの良さにつながってるのかな、とも思う。

2013年5月11日土曜日

汚れなき祈り

監督:クリスティアン・ムンジウ

 ファーストショットとラストショットが相似をなしている。カメラの枠に収められる人々、そしてその視界を遮る列車、あるいは泥。この「隔絶」といった感覚のショットは、三つ目の美しいショットでも見ることができる。それは遠景で美しい家々を映したカメラがそのまま180度ターンし、そのまま手持ちで動いていくと修道院が映り込む、というショットだ。

 祈り、懺悔の省略。なぜ省略したのか。
 
 画面の強度。あるのか無いのかわからない。例えば夜な夜な起きてきたアリーナと詩を読むヴォイキツァの会話をフィックスのワンショットで撮っていたりするが、私にはこのようなショットはつまらないように思える。
 雪景色の審美的な美しさはあるが、多くのシーンはフィックスor手持ちの長いワンショットで描かれており、そこには「美しい構図」のようなものは見られない。
 しかしだからといって、この映画の画面には力がないのか。よくわからない。
 病室や救急搬送された部屋での、周辺の人物達の動きや所作が、視線を惹きつける。カリカリする女医、泣き崩れる救命士、ロウソクをともして祈る救命士、呆然とする修道女といった画面内の様々な「情報」に惹きつけられる。ひきつければいいのか。よくわからない。
 ヴォイキツァとアリーナが一緒に寝るところ。んー、良いんだか悪いんだかわからない。本当にわからない。

 あるいはヴォイキツァがアリーナの兄に妹の死を知らせる場面は、ロングショットだ。このロングショットには胸を打たれる。

 物語が動くのが遅いが、しかし動き出した物語は面白い。アリーナといるときは敬虔深い信者に見え、逆に修道女達といるときはその目つきからして「神なんて信じてません」といった感じのヴォイキツァ。彼女の葛藤とその葛藤をよそに次々と「拷問」する修道女達のコントラストには迫力がある。しかしそれは果たして画面の迫力なのか、物語の面白さなのか。よくわからない。窓を隔ててヴォイキツァとアリーナを映せば、それで画面の迫力と言えるのか、よくわからない。
 
 全然わからない。非常に惹きつけられたのは確かだけれど。
 考えてみると、この監督の前作も、良いんだか悪いんだかわからなかった。
 要するにショットの組み立て方、というのが特に関係のない映画だからだ。でもだからといって興味がないわけでもつまらないわけでもない。それがよくわからん。


 

2013年5月4日土曜日

ホーリー・モーターズ

監督:レオス・カラックス

リムジンに乗ったドニ・ラヴァンが次々と”アポ”に従って変装をし、街やあるいは地下駐車場などに出現しては”アクション”を演じてみせる。
一回目の老人、二回目のスタントマン、三回目のメルド、と続いて、この映画は一種の”反物語”なのだと思わされる。ストーリーではなく、行為が問題なのだと、そう高らかに宣言しているように見える。
しかし4回目の「暗殺」の顛末において、その現実と虚構の境界が見事に崩れ去るのに合わせて、リムジンに乗った男とラヴァンの会話によって、この映画の真の構造が提示される事になる。
簡単に言えば、これは映画が死んだ世界であり、「カメラはその姿を消し」、「見る者が誰もいない」中、かつての俳優達が、ただただアポに従って演じているという世界なのだという事が明かされる。それと同時に、”アポ”と”アポ”の隙間に、次第に現実が入り込んでくる。
それはエリーズという女優とのつかの間の”私語”であり、飛んできた鳩によって一瞬コントロールを失った車であり、あるいはリムジン同士の衝突とそれをきっかけとした、カイリー・ミノーグとラヴァンの”再会”である。
これらは、物語の開始を告げる、あるいは物語を予感させる、現実の相貌が変わる瞬間である。
ラヴァンが窓ガラスを開けると、縦構図でカイリー・ミノーグが奥に捉えられるワンショットが、それを告げているのだし、あるいは彼女との別れの切り返しがその終わりを告げているわけだ。

あるいはエリーズとのやり取り。「次のアポがあるんだ。」「また会いたい。」「君の名前は?」という、あのロマンスの予感。

なるほど、映画の決定的瞬間とは、首尾一貫した物語を脱臼させる瞬間であるだけでなく、物語の予感でもあるわけだ。

しかしだからこそ、この映画にはちょっと不満がある。
エリーズのクローズアップが欲しい。ドライバーと喧嘩するエディット・スコブのクローズ・アップが欲しい。あるいは娘とのやり取りはもうちょっと何とかならんのか。
そして何より、カイリー・ミノーグのミュージカルシーンの照明はさすがに暗すぎやしないか。

オープニングのあの”後頭部達”のインパクト、ラヴァンが出かけるシーンでの滑らかなトラックと屋上で戯れあう子供達の幸福な画(さらにそれと対照をなす別のビルの屋上に配置された警備員達)、あるいは駐車場での”暗殺”シーンの見事な展開、そして逆光でシルエットになったドニ・ラヴァンの肉体、あるいはイスラムのベールを思わせるエヴァ・メンデス(フランスの『ベールの政治学』という本があったね)など、忘れがたいシーン。とても素晴らしい。
しかし上記の不満もあり、あるいはラストはちょっとクドいとすら思う。
いや、めちゃめちゃ面白い映画だったけどね。
ある種のテレビ批判でもあったメルド、そして映画の終末を思わせるこのホーリー・モーターズ、カラックスにはまた映画を撮って欲しいね。


2013年5月3日金曜日

監督:ルイス・マイルストン

才気がほとばしっている映画とはこれだ。
クレジット明けからの、雨の描写がすさまじい。小雨から次第に大雨になっていくのを、砂浜、葉っぱ、井戸、そして雨雲を交互に見せていくモンタージュ、そして大雨になったところでの堂々たる水しぶきの凄み。ゾクゾクするオープニングとはこれだ。

あるいは、見たものであれば誰もが印象に残るであろう長回し。たまに蛇足なのではないか、と思うようなシーンも個人的にはあるが、しかしたとえば冒頭で現地住民の踊りからパンして、歩いていく店主が店の前まで来てイスに座るまでをフォローするカメラワークは極めて見事だ。
また、ジョーン・クロフォードと兵士が店を一周する長回しも、単にフォローするだけでなく、塀をなめたり、店内の様子を奥で捉えたりと、画面の広がりに満ちていて小気味よい。
兵士の一人が帰り際に宣教師達をおちょくっていくシーンでは、円卓の周りを回るという、今ではよく使われるカメラワークも登場して、しかもこれが実に決まっている。

しかしやはり本作の見どころは何と言っても「ドア」と「階段」という映画的装置の見事な扱いだろう。
まずもって、無神論の道楽者達と敬虔な信者達という、絶対にわかり合えないであろう二組がドアと簾を隔てて対立するという状況が映画的だ。おまけに扉の向こうからはオフで音楽が聞こえてくるのだ(さらに言えば、リベラルな医師の存在がたまらない!)。
映画はその境界線を原理主義的思想によって強引に押し入ってくる宣教師の暴力性を告発する。二度目に宣教師が入ってきて、クロフォードとまったく調子の合わない会話を演じてみせる一連のシーンは、カメラの横移動や干された下着の存在感の見事さも加わって非常に面白い。

この映画が傑作であるだけでなく、同時に異端的な存在感を醸し出すのは、単に原理主義者の暴力性を告発するだけでなく、クロフォードがあろうことかその原理主義に取り込まれてしまうという展開ゆえだ。その決定的なシーンは階段において行われる。これはもう、見ろ、と言うだけで十分だろう。すごいシーンだ。

ぼくには少々説明過多に思えるシーンが少しあったが、それでも相当に強烈な傑作だ。

2013年5月2日木曜日

幌馬車

監督:ジョン・フォード

ジョーン・ドルーが最高に美しい。
脱水で倒れるとこももちろんいいけれど、カッティング・イン・アクションで立ち去りかけた後、振り向いてベン・ジョンソンに「お節介は結構よ!」とツンツンしてみせるシーンの照明が素晴らしい。

カッティング・イン・アクションといえば、チャールズ・ケンパー(シャロー役の人ね)が酒瓶を投げた瞬間のカットが決まってる。何でもないシーンではあるけれど。

あるいは馬の疾走。これほど爽快な馬の疾走ってなかなか無いんじゃないか(とか言ってみる)。
まず、主役二人がモルモン教徒達の先導を決断するとき(そもそもこの「決断」自体の荒唐無稽さも賞賛すべきものだが)、ハリー・ケリー・ジュニアの乗った馬が疾走していくショットが抜群である。
あるいはナバホ族からベン・ジョンソンが逃げるシーンの馬の疾走っぷりは凄い。ノーBGMなのでギャロップ音が響き渡るのがカッコいい。

アヴァンタイトルの照明、揺れる電球、あるいはタイトルクレジットの見事な撮影。

あるいはモルモン教徒のリーダーの目配り。彼は最初から最後まで様々な人に注意を向けている。

終盤、急カーブを曲がろうとする幌馬車を捉えたショット群は実にあっさりしているが、これは相当な迫力である。

視線ショットが一つもない。(上記した酒瓶スローのシーンがひょっとすると視線ショットかもしれない)


2013年5月1日水曜日

監督:ウィリアム・ボーディン

まさに最高のアクション映画。
子供達の軽やかな運動をベースにそれを極めてリズミカルに、つまりリアリズムとは無縁の領域で構築していく面白さ。とりわけ籠をかぶってしまった子供が怒って取っ組み合いになるシーン、そしてメアリー・ピックフォードが家主の子供に頭突きするシーン。あるいはワニにあっかんべーをするシーンのショットの組み立て方。

子供の一人が別の家に売り渡されてしまうシーンで、ピックフォードと子供達が倉庫の隙間から手を振る演出が凄い。それまで、深刻な状況設定ながら極めてコミカルに描いていただけに、このシーンでのピックフォードらのあまりの無力さには思わず絶句してしまう。それほどまでにこれは残酷な演出だと言えるだろう。

あるいは、神様がやってきて、子供を連れ去っていくワンショット。今だったら絶対カットが割られるに違いない(割らないとしたらジェームズ・アイヴォリーぐらいだ!知らないけど)。

沼を渡って脱出するシーンなんて本当に素晴らしい。家主が気づいてやって来たときの縦構図。