2014年6月11日水曜日

『チェンジリング』と『プリズナーズ』

『プリズナーズ』は『チェンジリング』をいやでも想起させる。
わが子の失踪、親と警官の対立、真相の内容。
そう思って、『チェンジリング』を劇場公開以来見た。こんなに胸が痛む映画だったか、、、、いや、確かに非常にキツい、心が壊れそうになる映画であったという記憶はあった。しかしここまで来る映画だったか。。。見終わってしばらく、言葉が出ない、という感じ。
権力システムに呑みこまれながらも必死に戦う女性、という意味では『ブラックブック』のようでもある。
『ブラックブック』のヒロインは、確かにそのアグレッシブさにおいてひたすら待ち続けるアンジェリーナ・ジョリーとは対照的だが、しかし彼女もまた権力システムの犠牲者であり、「悲しみに終わりはないの!?」と泣き叫ぶ姿は、本作で何度も涙を流すアンジェリーナ・ジョリーと相通ずるものがある。

さて、『プリズナーズ』と『チェンジリング』であるが、まず子供の失踪の描き方について。
『チェンジリング』の「失踪の予感」は、以下のように描かれる。
まずアンジーが外出する。それを見送る息子とアンジーのカットバック。そしてそのままアンジーの視線ショット、ではないショットにおいて、しかしアンジーの位置から捉えられる息子のショット。その姿が、手前の柱によって隠れてしまうまで切り取られる。ここですでに「これが最後の二人の視線の交錯なのだ・・・」という予感がする。まったく周到な演出。
あるいはその後、アンジーが乗り遅れてしまう路面電車。これは急いで帰ろうとするアンジーを出世の話を持ちかける上司が映画的に”妨害”することで生じるイベントであるが、この路面電車に乗り遅れる、というささいな出来事が、見事に決定的な出来事として描かれている。
それは要するに、上司が出世話を持ち掛けて妨害する、という「バカバカしい」説話的ご都合主義が、逆にこの出来事を異化せしめている、ということでもある。もちろんアンジーが路面電車を乗り過ごすその描写自体もまったく見事なカット捌きであるが。

以上のように、『チェンジリング』において息子の失踪は、息子が「いなくなってしまう」、あるいは母親と息子が「はなればなれになってしまう」ものとして予感される。
一方で、『プリズナーズ』における失踪の予感は、「誘拐の予感」である。なぜなら『プリズナーズ』の冒頭で強調されるのは、父と息子の関係ではなく、謎のRV車からの子供たちを捉えた視線ショットや、家の玄関を捉えた不吉なショットだからである。ここに『チェンジリング』的などうしようもなく運命的な悲劇の予感はなく、ひたすらサスペンススリラーとしてのそれが描かれていると言ってよい。

ショットの比較としては、これぐらいしか思いつかなかった・・・すまん。。。
ところで、映画研究塾の『チェンジリング』評を見てみると、
http://movie.geocities.jp/dwgw1915/newpage155.html
ここでは物語がねつ造され、閉じられてしまうことに対して、それでも直視し、掘り起こすことがこの映画の主題である、といったことが書かれている。
つまり権力によって、勝手に物語=事件が、閉じられて=解決されてしまうことに抵抗して、真実を見ようと、掘り起こすこと。

この観点から見るなら、『プリズナーズ』における真実の提示は、いささか『チェンジリング』に比べて劣ると言える、かもしれない。
いや別に劣ってない。のだが、『チェンジリング』に合わせて『プリズナーズ』を作り替えるなら、メリッサ・レオの科白によって真相を提示するのは、ちょっと弱い、と言えなくもない。言わないんだけど。
それに、『プリズナーズ』のレビューでも書いたように、この映画における「それでも見る」という主題は『チェンジリング』と同じくらい映画的に心をうつものである。

しかし『チェンジリング』の、あのラスト。。。ちょっとヤバい。。。。こんなヤバかったっけ。。。アンジーは何度も涙を流すけれども、あのラストの涙の流れ方、頬の伝い方、、、カメラのあの、ひたすら固定されたポジションからアンジーを捉えるその厳格さ、過酷さ、、、決して真正面から捉えない。それはあの涙を捉えるためなのだとしても、このまったく動こうとしないカメラはいったい・・・

少年が、「もういい」と警官に止められても、まるで何かに取りつかれたかのように土を掘り続ける、というのも、もう何と言っていいのか・・・


2014年6月6日金曜日

プリズナーズ

監督:ドニ・ヴィルヌーヴ

(ややネタバレ)
ヒュー・ジャックマンとテレンス・ハワードの、それぞれの娘が姿を消す。雨の中を探し回ってきたらしいジャックマンの息子が家に入ってきて、「雨だし、たぶん外にはいないだろう」と告げると、まだ単なるイタズラだと思っているハワードが、「帰ったらお仕置きしないとな」と笑う。カメラはそのままカットを割らずに、リビングに向かう息子をフォローしながらパンすると、ちょうどヒュー・ジャックマンが戻ってきて、「家にいなかった」と告げる。この一言で緊張感が走り、二つの家族が一か所に集まってくる。するとジャックマンの息子が「さっき怪しいRV車がいた」と打ち明け、それだ!という感じで男たちが家を飛び出す。
上記の展開が、ノーカットで撮られる楽しさ。ここの撮影楽しかっただろうなー、というのとは別に、物語が動き出す重要な場面で、このように監督が「ワンショットで撮る」という一工夫を入れてくれている、といううれしさが大きい。だからこそ、物語が走ると同時に、映画も走る。

映画は知的障害の容疑者を拘束して拷問するヒュー・ジャックマンと、捜査を続けるジェイク・ギレンホールを描き分け、時に二人は対峙するわけだが、とりわけジェイク・ギレンホールのパートが素晴らしい。ギレンホールの佇まい、異様なマッチョぶり、オールバックの髪が崩れたときの妙なクールさ、あるいは激高したときの迫力ぶり。ジャックマンのパートが拷問の是非をめぐるめんどくさい道徳バナシに陥りそうになるなか(あまり陥っていないのが素晴らしい。よく耐えてるというか。上から目線だが笑)、ギレンホールの周辺では次々とご都合主義的にイベントが発生し、それに見事な迫力と俊敏さでギレンホールが対処する、その連続であって、つまり痛快アクション映画なのだ。
撮影もそれを見事にサポートする。特にとっさの判断で模倣犯を捕まえる一瞬のアクションとカットさばきが素晴らしい。
「あ、久しぶりにこういう刑事モノ見たな!」という気分にさせてくれる。

あるいは車のフロントドアを突き破る木の枝、壁につきささったハンマーの存在感。

映画の主題は、「耳をすませば」である。冒頭、子供たちがRV車に誰かが乗っていることを察知するのは車内から音楽が聞こえてくるからだ。閉じ込められたものの叫び、そしてラスト。
こうした目に見えない領域からのかすかな音に耳をすませる、というテーマ性が、この物語上のミステリーの核心部分と共鳴しているあたりに、作家としての野心を感じるが、しかしこの映画は「耳をすませる」以上に「目をこらす」映画だ。僕はラストのギレンホールの車の疾走のことを言っているのだが、ここでは直前の銃撃戦で頭部を負傷したために視界がかすんでしまったギレンホールが、それでも子供を救うために、懸命に目をこらして運転をするという感動的な描写がなされている。彼が寸でのところで発見する”Emergency”の文字の輝きは一体なんだ!

目をこらして、懸命に前を見つめること。

僕は今まで、「見ること」なんて言われても胡散臭い映画史的教義としか思っていなかった。”見ること”というコトバに反応してるだけじゃないか、と。
しかし違った。
見る姿、見ようとする姿、そこには純粋なエモーションがあった。ジェイク・ギレンホールがそれを教えてくれた。ありがとう、ギレンホール。

それとその直前の、ギレンホールが子供を抱え上げて倉庫から連れ出すショットがむちゃくちゃ良い。
この映画、本当に良いよ。保証するわ。



※時々監督はロジャー・ディーキンスなのではないか、というショットが随所にある。たとえば最初にジェイク・ギレンホールがRV車を発見する場面の光の感じだとか、あるいは子供たちの無事を祈って町の人々が蝋燭を持って集まってくる場面の光の配置だとか、あるいはモーターボートからのクソ無意味な撮影。

2014年6月4日水曜日

不安

監督:ロベルト・ロッセリーニ

なんとなく敬遠してたロッセリーニ。かなり前に『無防備都市』や『ドイツ零年』を見て、いや見ると同時にネオレアリズモなるものの「お勉強」をして、「凝視すること」とか調子に乗って舞い上がってたのが懐かしい。今思えば、あのとき僕はあの映画群を見ていなかったに違いない。もう一度見直さなくては、と思う。
それぐらいにこの『不安』は素晴らしい。無駄なカットが一つもないにも関わらず、そこには物語の枠に収まらぬ余剰があふれている。すげー。

ショット数は全部で150~160ぐらいなんじゃないかと思うが(75分だから、2ショット/分)、どうしてこんなにも少ないかといえば、二人の人物が室内や屋外で話すシーンがほとんどワンショットで撮られているからだ。
終盤のレストランでの大胆なクローズアップの応酬をのぞけば、切り返しはほとんどなく、カメラは動き回る人物たちを見事にフレームに収める。その配置、照明の設計。月の光に美しく照らされたイングリッド・バーグマンは即座に落ち着かないそぶりで歩き、やがて逆光のシルエットが浮かび上がる。

あるいは車や人物の往来をとらえたショット。バーグマンが家から会社に向けて車を走らせる。その走り出した車をとらえたフィックスショットは、明らかに過剰に持続する。物語のつなぎとして要請されただけに過ぎない車を走らせるショットなのに、車がスーッと向こうの方に消えていくまで、カットが割られない。「ああ、なんか車が走るのっていいね。このまま撮ってたいね。」と言っているようだ。知らんけど。しかしこちらとしても、「このまま見てたいっす」である。

理屈はわかんけれども、対象を撮る、それを見る、という喜びが、この映画には満ちている。満ちていない映画と満ちている映画の違いなどまったくわからないけれども。

ところで音楽会のシーンは素晴らしい。脅迫する女が音楽会にやってきて、夫のいない間にバーグマンのところにやってきて指輪を取っていってしまう、というまぁそれほど大した場面ではないのだが、この場面で時折インサートされる音楽会のピアニストの姿や観客の拍手する様子をとらえたショットがことごとく効果的なのだ。というか、こんな地味なシーンにもかかわらず、これぞ映画だ!と思わずにはいられないシーンである、これは。知らんけど。

というのも、このインサートされるショット群はすべてロングショットというか、単に遠景から「様子を捉えた」ショットである。ピアニストの顔はまったくわからない。ただ人が舞台で、演奏して、演奏を終えて、あいさつして、というプロセスを撮っているに過ぎない。ピアニストと観客は、単なる背景、装置であるわけだ。
しかしこの装置、プロセスをとらえたショットが、バーグマンと恐喝女のやり取りに「重ね合わされる」。すると途端にこのピアニストと観客達の一連のインサートショットは、バーグマンを取り残してどんどん進行しまう時間と空間を表象し始めるのだ。ヒッチコック的な手触りだとも言えるが、このように「主人公が世界(ここでは音楽会)から無視されること、置いてかれること、主人公の心理や主人公が紡ぐ物語とは別の力学で、世界が勝手に動いてしまうこと」、これだ。『三つ数えろ』、『コンテイジョン』、『眠れる美女』などなど。たわごとか。


さて、僕が最も感動したのは、子供たちの家をバーグマン夫婦が訪れるシーンだ。
ベンツのボンネットに据えられた固定カメラが、車が走る道筋をとらえていると、その先に家があって、子供たちがいて、というこの幸福なワンショット。そしてその後のバーグマンと娘を手前に、夫と息子を奥に配置した縦の構図。この縦の構図に至るまでの人物の流れるような動き。なんという手さばきだろう。
さらにラストでは、上記した固定カメラがとらえる幸福なワンショットが反復される。素晴らしい。
車がたどる道筋をとらえること。これがこの映画の、幸せの形式なのだ。身近な幸せに戻ること。