2011年12月21日水曜日

放射能問題についての粗っぽいメモ

仮に、今回の放射線の影響により、癌リスクが数%上がったとして、人はその現実を踏まえたうえで、なおも幸せに生きることができるか。

「風評だ」と言う人間と「実害だ」と言う人間。しかし極端な事を言えば、私たちは毎日のように「ストレス」「事故リスク」「不摂生」といった「実害」に曝されているのではないか。
健康リスクが数%上がることで、その人の「幸福度」は低下するのか。
あるいは風評と実害にどれほどの差があるのか。

おそらく、原発事故の最大の問題は、不当に健康リスクが上昇したことであり、さらに被曝には何のメリットもないことだ。

しかしわからないのが、人々の不安が「健康へのリスクが上昇したのではないか、あるいは将来子供が産めないのではないか」という不安なのか、それとももう少し別の意味での不安やストレスなのか。健康へのリスクは心配していなくても、それでも何かストレスや不安があるとするなら、それは
一体どういうものなのか。それは言語化可能なのか。いろんなものがごちゃ混ぜになってるのではないかと推察する。


仮に、いままで何の害も無いと思われていたものが、実は有害であった事が判明したとして、僕たちはどういう気分になるんだろうか。
科学的に考えれば、知っていても知らなくても健康への被害は当然同じである。じゃあそこにどのような精神的、心理的な差があるのか。


放射能の問題は、多分に認識論的なアプローチが可能なのではないか。
例えば仮に、このような説を立ててみたい。
「人はそれを知っているか否かは別として、様々な有害因子に絶えず曝されている。それでも人は様々な体験を通じて幸せになることができる。我々が幸せなとき、我々はそれらの有害因子を忘れているのではあるまいか」と。
ではこの「忘却」という行為は、果たして『善いこと』なのか、『悪いこと』なのか。あるいは『賢明なこと』なのか『愚かなこと』なのか。このあたり、意見を頂戴したいです。

2011年12月13日火曜日

『一般意志2.0』について―国民的大議論って・・・?Part2

あずまんの『一般意志2.0』を読んだ。
本書はTwitterなどにおいて、「とてもわかりやすく、かつ明晰な思想書」と評判であるが(また某アルファ・ブロガーがおそらく1ページも読まずに書評を書いたことでも有名だが)、確かに噂に違わぬわかりやすさと明晰さと思想的深みがある。
とりわけ第1章~第3章における、ルソーの思想的矛盾から出発して、それが全く矛盾せぬ事を緻密かた大胆に暴き出し、さらにそのプロセスを通じてルソーという人そのものを浮き彫りにする筆捌きには、ぐんぐん引き込まれる。

さて、本書を読むまえに、僕は以下の記事を書いた。
『国民的大議論って・・・?』http://gattacaviator-yasaka.blogspot.com/2011/11/blog-post_23.html

僕がこの記事で言いたかったのは、要するに、最近世間で大議論を巻き起こしている「原発の是非」や「TPPの是非」に関して、いくら一般人が議論したところで、その議論の精密さは専門家のそれに比べてどうしても低くなってしまうため、ほとんど意味を成さない(あるいは成すべきでない)し、こうした国民的議論が何らかの合意に達することはほとんど無く、国民の分裂を引き起こしているだけではないか、という事である。

「原発の是非」については、この数週間で多少意見も変わったが、しかし一般的に言ってこのような「国民的大議論」といったものについての疑念は払拭できない。

『一般意志2.0』でもそれに近い記述が散見される。特にアーレント、ハーバーマスに対する批判において、非常に重要な事を述べている。
あずまんによれば、アーレント=ハーバーマスのコミュニケーション論あるいは熟議民主主義は、我々が一定程度の文化や生活様式といったコンテクストの共有している事を前提としており、これを手掛かりに議論の落とし所を探るべきだ、というものである。
さて、では我々はアーレント=ハーバーマスが言うように、一定程度のコンテクストを共有しているのであろうか。
あずまんの答えはNoである。僕も全くそう思う。

Twitter上でしばしば繰り広げられる、放射能を巡る論争を見てみればいい。彼らがわかり合うことなど永久に不可能に思える。
これは「クラスタ」という流行語が象徴するように、所属するクラスタによって、交わされる言葉は同じ日本語とは思えないほど異なり、思想・信条(あるいはその有無)などがまるで異なり、お互いのコミュニケーションの機会がほとんど失われているからだ。
また、放射能に関して言えば、これは情報の氾濫によるところが大きいだろう。
というのも、放射能リスクに関して、いわゆる「楽観派」(池田信夫氏、アリソン教授など)の言説だけ拾っていれば、放射能を心配しなくなるし、「慎重派」(菅谷松本市長、児玉氏、あるいはチェルノブイリ関連のニュース)の言説を拾っていれば、すぐさま大きな不安に襲われることだろう。
さて、果たして楽観派と慎重派が合意に達することなどあり得るのだろうか。Twitterを観察する限り、ほとんど0%に近いように思える。

つまり、少なくともこの国で、これ以上国民全体が「理性的な議論の末に合意に達すること」など不可能なのだ。

これ以降の内容の分析は他の書評で出回っている通りだ。あずまんはアーレント=ハーバーマス的な理性=意識と欲望=無意識の関係の概念を転倒し、さらにフロイトの思想を経由することで、可視化された国民の欲望=一般意志2.0を、理性によって乗り越えるものではなく、かといって理性を支配するのでもなく、理性=エリート熟議に制約を加える「モノ」として捉えることを主張している。(ポピュリズムでも選良主義でもない、その両者が組み合わさった新しい政治的コミュニケーション)

平たく言えば、国民は無理して国民的大議論に興じる必要はない(そんな事をしても池田信夫にコケにされるのがオチだ(笑))。むしろ基本的には無意識の欲望の表出をし、自分の得意分野=クラスタにおいてのみ、理性的な対話に挑めば良い、という事になる。

このような政治思想のもと、人々の生活そして社会はいかなるものであるべきか。あずまんはローティの「リベラル・ユートピア」を採用する(レディー・ガガの「みんな違うという点でみんな同じ」というのに近いと思う)。社会=公の場においては、あらゆるイデオロギーが相対化され、普遍的原理は排除されなければならない。そしてそういった理性的なイデオロギーではなく、「想像力」、「憐れみ」によって人々が否応なく(無意識的に)結び付けられることにこそ希望を見出している。

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さて、以上が『一般意志2.0』の概要である。
非常に直感的に考えたものだが、本書への疑問を一つ。

・想像力の暴走
「苦しみに直面した人々を見たら、誰もが憐れみを持たずにはいられない」というローティの思想は果たしてどこまで妥当だろうか。
人の想像力は「憐れみ」だけではない。人はある光景から、自分勝手な物語を構築する動物である。
例えば先日話題になった群馬大学の早川教授。彼は福島の農家がオウムと変わらないと批判した。その論旨は、放射能のリスクや基準値の問題に薄々気付きながらも、農産物を作り、消費者を危険に曝しているというものだ。
つまり、早川教授は、福島の人々が農作物を作る光景を見て、「自分の利益に拘泥して、消費者を危険に曝している」という物語をつくっている。
しかしもちろん、同じ光景を前にして以下のような物語を構築する人達もいるだろう。

「地震と津波による被害だけでなく、放射能による汚染によってその尊厳を傷つけられた人々が、それでも何とかもう一度、農家としての誇りを取り戻そうとしている」と。

つまり、この震災を前にしては、「想像力」や「憐れみ」すらも国民を分裂させるものになってしまっているのではないか。このような現実を前に、我々はいかにして連帯できるというのか。

2011年12月7日水曜日

『暇と退屈の倫理学』と「古市問題」

『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)を読んだ。
自分はまだそこまで哲学の見識が深くないため、この「暇」や「退屈」というテーマは非常に新鮮だったがが、一方で、筆者の熱っぽい語り口に先導されながら読み進めるうちに、なるほど、これは誰もが一度は考えた事があり、かつ恐くてそれ以降考えるのを辞めてしまっているテーマなのではないかと感じた。

さて、本書は「暇と退屈」という切り口で非常に多岐にわたる分野に切り込んでいて、その全てを語りつくす暇があれば、本書を直接勧めてしまった方が早いだろう。
そこで、本書終盤の、まさにクライマックスといえる、筆者によるハイデッガー哲学批判とその発展に着目してみたい。

と、その前に、タイトルに掲げた「古市問題」について書こう。

・「古市問題」とは・・・
古市憲寿という、僕の大嫌いな社会学者がいるのだが、その古市氏は近著『絶望の国の幸福な若者たち』において、「若者は不幸というが、本人達は幸せなんだから、幸せなんじゃね?」という、バカでも言える主張を展開しているのだが、その中で震災ボランティアに関して、以下のような趣旨のことを言っている。
若者たちは、村々しつつも(内輪で楽しい日常を享受しつつも)、どこかで「非日常」=刺激を求めてムラムラしていて、東日本大震災はその刺激剤として絶好の材料になった。

これは確かにその通りだろう。震災、ボランティアというものが、一つの「非日常」として出現し、日常に退屈する人々がそれに飛びついたと。
しかし、それだけでいいんだろうか。ボランティアに駆けつけるという行為を、それだけで片づけてしまって、いいのだろうか。僕はそんな事を思っていた。

・退屈の第二形式
恥ずかしながら、ハイデガーなど畏れ多くて(笑)読んでいなかったため、國分氏によるハイデガー解説によって、初めて退屈の三つの形式という概念に触れた。
詳細は省くが、その中で退屈の第二形式というものが出てくる。これは退屈をしのぐための「気晴らし」という行為そのものが、あろうことか退屈に結びついてしまっている状態のことで、例えば、気晴らしに出かけたパーティでおしゃべりや音楽を楽しみながらも、実のところ全体を通して退屈している状態である。

これを國分氏がユクスキュルの理論に依拠しながら批判的に発展させている。

退屈の第二形式とは、一つの環世界から別の環世界へと移動する「環世界移動能力」が大変高い人間において普遍的に見られる、人間らしさそのものである。
つまり、一つの世界に「とりさらわれ」る(=夢中になる)時間が、他の動物に比べて非常に短いたえ、人間は常にいろいろな環世界へと移動しなければいけない。よって、一つ一つの環世界(例えばパーティ)は非常に脆弱であり、この脆弱性をして人間の「退屈」という気分を生んでいるのだ。

そしてハイデガーがこの第二形式を批判したのとは反対に、國分氏はこの第二形式を(上述のように)、人間らしい生のあり方として、むしろ肯定する。

それは単にパーティに行くこと=気晴らしを称賛するのではない。パーティ会場での思わぬ出会いが、日常に「不法侵入」することで、新たな出会いと思考の場を創造し得るという点において、称賛しているのだ。

・震災=不法侵入?
さて、こうして考えると、東日本大震災は、まさに人々の日常に「不法侵入」し、多くの人間達をして、思考せずにはいられなくし、我々を<動物化>させた。つまり、震災が一つの(脆弱ではない)強固な環世界として、我々に出現したのだと。

そう考えると、古市氏の指摘は、こう言いかえることが出来る。

普段の日常生活に突如として「不法侵入」した「震災」に人々は「とりさらわれ」、多くの人間が募金活動やボランティア活動を行った。しかし、それも環世界であることには変わりはなく、いくら強固とはいえ、やがてその綻びを見せ始める。そしてやがて人々は別の環世界に戻ることを決めてしまう。

・これでいいのかwww
さて、古市氏と國分氏の論が見事に呼応してしまった。が、本当にこれでいいのか!!
しかもあろうことか、國分氏はこの<動物化>を称賛しているのだから、ある意味で震災を(動物化の契機として)肯定していると言えなくもない。
しかし、一方で國分氏は最後の最後で次のような文章を記している。

世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちに満ち溢れている。―戦争、飢饉、貧困、災害―私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。(中略)退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考できるようになる。

これを手掛かりにボランティアというものを解釈するならば、それは私たちの、「ぶっちゃけ退屈だけど、幸せな日常」を、震災によって奪われた人々に取り戻させるために、被災地に駆けつけるのだ、という風になるだろう。
もちろん、これは非常に理想的・夢想的な解釈であるが、しかし一人でも多くの人々がこうした精神を持ってボランティアに向かうことが出来たならば、それは大変素晴らしいことだ。
そのためには、一人でも多くの人々が、この日常に積極的な価値を見出さなければならないだろう。
そしてそれを担うのは、パーティも含めた、文化と芸術だと思う。特に、芸術は、それ自体で素晴らしい刺激でありながら、同時に我々のこの日常を称賛する力を持つ。
アルフォンソ・リンギス的に言えば、それは「合理的共同体」とは別の、価値語によって生を聖化する力が出現する、あの共同体である。

・合理的共同体=退屈の元凶?
人はその一生涯において、常に意味にとらわれている。何をするにも、何を見るにも、そこに意味がなければ、「悪いこと」だと考える。例えば別に受験するわけでもないのに、受験勉強をすることは、全く無意味なもので、人間はそうした行為を嫌がる。
つまり、何事も何物も、それが何のためにあるのか、という思考によってそれを理解しようとする。
しかしこの発想を続けるとどうなるか。
なぜ勉強するのか⇒いい大学に入るため⇒というのも就職するため⇒というのも安定した生活を得るため⇒というのも、生き抜くため⇒さて、僕はなんで生きているんだ?
という事に行きつく。つまりそもそも生きている意味など誰も知らないため、結局あらゆる物事は「無意味化」してしまう。これがロジカルシンキングなるものの最大の弱点である。
國分氏の本書では言及されていないが、こういった事も「退屈」に深く関わっていると思う。

つまり、合理的な思考を続ける限り、我々は日常の生を称賛し得ない。
ではどうすべきか。
意味から価値へと移行することだ。意味がなくとも美しいものなど、この世にはいくらでもある。それらの「無意味な美」に出会うことが、人生の醍醐味だとしたら?

つまり、合理性とは別の秩序に支配された、感性の環世界を創造し続けること。これが文化と芸術に与えられた使命であり、我々が日常から享受すべき「幸せ」なのだと思う。

2011年11月29日火曜日

アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』について

リンギスはアメリカの哲学者で、レヴィナスの『全体性と無限』の英訳者として知られる。
タイトルにある「共同体」とは、一般的に言う場所を有する一つの共同体のことだけではなく、むしろ我々の生活環境を覆い尽くしている、一つの「規範」や「コード」のことである。

我々が「共同体」として意識するあらゆる共同体は、リンギスの言う「合理的共同体」である。
「合理的共同体」において人々は、「観念化された指示物の観念化された記号を交換している」のである、とリンギスは言う。これはどういう事かといえば、「合理的共同体」におけるコミュニケーションは、その企図された理念=メッセージを本質としており、僕が書く「A」という文字と彼女が書く「A」という文字は、いずれも「A」という一つのアルファベットとして受け取られる。
あらゆるコミュニケーションが、合理的に分節化されていく、これが合理的共同体である。

リンギスが射程するのは「合理的共同体」とは別の、もうひとつの共同体である。リンギスはこの「もうひとつの共同体」=「何も共有していない者たちの共同体」を、様々な表現を用いて描く。その筆致は極めて詩的で、なるほど、レヴィナスを想起させるほどに想像力に富む。
少し単純化して言えば、彼女が書いた「A」をアルファベットの「A」という理念として受け取る事は、すなわち彼女の筆跡、筆圧を全て捨象することと同じであり、リンギスが射程するのはむしろこの筆跡や筆圧そのもののコミュニケーションである。

第二章「顔、偶像、フェティッシュ」で熱っぽく語られる「価値語」が、その「もうひとつの共同体」のコミュニケーションを担う。
いくつか引用しよう。
・言語は根本的に、識別する手段ではなく、聖化する手段である

・『君は何て美しいんだ!』と言うのは、美しいものに対するリアクションではなく、『美しいもの』を祝福や涙で迎えるために使うものである

・肯定的な価値語は、その確固とした意味を、二項対立の定義から獲得するのではない。そこにある善、ありあまる豊かさ、求めずして与えられる恵み、大いなる過剰は反対カテゴリーに対する対立からその意味を獲得するものではない。比較するものでもない。

以上は、本書では直接言及していないが、言うまでもなくソシュールを起源とする構造主義へのアンチテーゼである。
人は美しいものを見て「美しい!」と感嘆するとき、それが「醜くないから」美しいと感じるのでもなく、あるいは「~より美しいから」美しいと感じるのでもない。ただただありあまる美しさの過剰に直面し、さらにそれを聖化するために「美しい!」と感嘆するのである。
つまり、価値語とは、単なる言語ではなく、対象を聖化する力なのである。
このような価値語の射程のもと、リンギスはレヴィナスに多分に依拠して(いると思われる)、「大地」、「空気」、「光」について語る。

・光で物を見る目は、見ることを享受する。日光の暖かさによって愛撫され、養われる生命は、温められることを享受する。大地によって支えられている歩みは、歩くことを享受し、(中略)、空気を吸い込む肺は、気持ちのいい空気を味わうことを享受する。

すなわち「価値語」や「感嘆」を生み出す「享受」を生み出すのは、光が対象に当たるからであり、空気が対象の温かみや音を伝えるからである。

リンギスが最終的に行きつくのは他者であり、他者の死であり、「死の共同体」である。

・彼または彼女が人生の終着点にある状況は、その人のそばに行く私たち、その人の傍にいなければならない私たち自身が、語りの極限に追いつめられる状況でもある。

・本質的なのは語られるべき内容で、語る事と誰が語るかは非本質的なこと、という状況ではもはやなくなるのである。まさにきみがそこにいなければならず、語らなければならないのである。

・本質的なのは、語ることであり、きみの手が、今この世を去ろうとしている人の手にさし伸ばされ、(中略)、きみの声の暖かさが、その人のところに届くことなのである。

・それはコミュニケーションのはじまりなのである。

レヴィナスがそうであったように、本書もまた、合理的な分節によって失われる他者性に注意を向けている。それは「合理性」という没個人的な記号とは別の手段によるコミュニケーションであり、「個」の称賛である。

・自分の役割が課す命令や、文明社会の共同事業が課す命令によって、他者の死を正当化し、他者の死を彼あるいは彼女にまかせて立ち去る自由などないのである。


グローバル資本主義の下、あらゆるモノや人が合理的に判定され、拷問(!)されるこの社会において、人々がもう一度他者へと開眼し、「もうひとつの共同体」を形成してくれることを願う。
(という思いつき)

2011年11月23日水曜日

「国民的大議論」って・・・

・原発の是非を議論する?

原発については様々な視点があると思いますが、単純に「善い、悪い」、あとは「便利、不便」、「安全、危険」などが思いつきます。
で、原発をこのまま維持するのか廃棄するのかっていう事、あるいは野田政権は脱原発依存を宣言していますので、じゃあいつ全部停めるのかっていう事は、あらゆる視点から考えなければいけない事でしょう。経済のこと、外交のこと、エネルギー資源のことなど、もはや僕のような一般人の手には負えません。
「原発無くてもイケる」かどうかっていうのは、当然のことながらいろいろなデータや数字をもとに決めることですから、これを一般人が議論するのはほとんど不可能と言ってもいいでしょう。

「経済とか外交とか、そういう事じゃなくて、福島の人が土地を奪われてるんだから、こんな非倫理的なもの今すぐやめろ」という意見も目にしますが、僕はこういう人達を説得できる術を持っていません。ただ一つ言えるのは、後述しますが、そんな単純な話じゃないだろう、という事です。


・「国民的大議論」の功罪

何が言いたいかというと、時間軸も含めた、原発維持or脱原発の議論が今日国民的な大議論になっているわけですが、これは果たして良い事なんだろうか、ということです。
別にこれはTPPでも何でも一緒なのですが、「国民的大議論」というものは、結局お互いの理論的欠点がいくらでも出てきてしまうため、精巧な議論など不可能です。
(実際、これは僕自身の話ですが、TPPについて、飯田泰之の話を聞けば賛成になるし、中野剛志の話を聞けば、反対になるわけです笑)
僕などは、賛成意見っぽいことを言った後、専門家の反対意見などを聞くと、自分の無知無学ぶりに情けなくなり、もう二度と意見など表明してたまるか!という気持ちになります。

この「国民的大議論」が生んだものは何だったのかというと、国民の大分裂です。
震災後、多くの人が(擬似的にしろ)一つになり、助け合いの精神を持ち、被災地・被災者の支援に努めました。しかし、次第に原発の事故やそれに伴う隠ぺいの暴露により、国民の関心はいつしか原発事故の状況→首都圏は大丈夫なのか→放射能って何?→原発は停めるべきかどうか→再生可能エネルギーのポテンシャルはどうなのか、という風に推移してきました。
結果的に、多くの人々が再生可能エネルギーに関心を持ち、(いくらか過剰な反応も見受けられるものの)放射線に対する知識を得た事は素朴に良い事だと言っていいのだと思います。
しかし一方で、震災直後に多くの人の中に、少し照れくさい気持ちと一緒に芽生えたあの利他心、あのかけがえのない日常への賛歌はほとんど失われ、原発維持派と脱原発派の不毛な罵り合いが今日まで続いています。


・「国民的大~」

僕たちは何を議論すればいいのでしょうか。
原発の維持or廃炉でしょうか。僕は違うと思います。
原発をそうした経済的合理性とは別の視点から、「反省し合う」事が重要ではないかと思います。
先ほど、「原発は非倫理的なものだからすぐ廃炉だ!」という意見にも触れましたが、なるほど確かに原発は倫理的な危うさを持ったものなのかもしれません。しかし逆に言えば、僕たちは、というか人類は、その倫理的に危険なものを活用することでこれほどの繁栄を得てきたのです。
(これは一意見に過ぎませんが)であれば、僕たちがすべきは、そうした「非倫理的な繁栄」を反省し、そしてそれをある種の苦しみと共に受け入れ、その苦しみと教訓を、次世代につなげていく事ではないでしょうか。あるいは、そういった教訓や苦しみを分かち合う事こそが国民規模で行うに値することなのではないでしょうか。

※国民の政治や経済に関する「未熟な」議論の意義について僕は否定するつもりはありませんが、まだうまく整理が出来ません。東浩紀『一般意志2.0』にそのヒントがありそうなので読もうかと思います。

2011年11月13日日曜日

物語についての雑感

『コンテイジョン』という映画を見た。監督はスティーブン・ソダーバーグで、かつて『トラフィック』において麻薬が「ウイルスのごとく」広がっていく様を描いた監督である。
 『トラフィック』は麻薬にまつわる三つのエピソードを描き、それらを決してあからさまにストーリーとしてつなげることなく、あくまで断片的に描くことで逆にその麻薬の広がりの断ち切りがたさ、自動増殖的側面をあぶり出したと言えよう。
 『コンテイジョン』もまたそのような解釈の下で見ることができる。未知のウイルスが発生、パンデミックが起こり、CDCのスタッフが現地調査に向かったり、ワクチンの開発に努めたり、あるいはネット上で支持を集めるブロガーがデマなのか真実なのかもわからないような情報を拡散させたり、あるいは平凡な家庭の家族が死に、残された父娘がサバイブしたり、といったエピソードが、ほとんどつながりもなく描かれ、それぞれがそれぞれのフィールドでやるべきことをやるのみだ。
そして、結局このウイルスは例えばどこかしかの国家が開発した兵器であるとか、そういった陰謀説にいくわけでもなく、結果としてはただウイルスが流行し、やがて鎮まる、というあまりにも「非物語的な」あらすじを辿ることとなる。
これはある意味で、我々観客に突きつけられた痛烈な批判として受け止める事も出来るだろう。ウイルスが発生して多くの人々が死ぬ。普通であれば、我々はその原因を知りたいと願う。なぜならその「原因」を知ることで、我々はその「原因」を「敵」とみなし、恨むことができるからである。
しかし、ウイルスのパンデミックにおいては、誰が悪いわけでもないのだ。ローレンス・フィッシュバーンが映画終盤で握手の起源について語る際に、「ウイルスにもそれくらいはわかってほしい」とつぶやく。しかしウイルスは「悪意」を持ってるわけでもないので、ウイルスを非難したところで何の心の充足も得られない。
こうした「物語なき物語」に、我々は耐えられるのか。あるいは、敵不在の災難(それは地震であり津波であり・・・)において、我々は何をすべきなのか。
この映画には答えがない。映画はひたすらに起こるであろう現象を、極めて客観的な視点で描き、そして例えば薬局で暴動が起きようと、その暴動は何か新しい展開を引き起こすわけでもなく、唐突に始まり、自然に終わる。
こうした暴動、あるいは家宅侵入が、ガラス窓などの媒介物を通して映される。
この物語なき世界においては、絶望しかない。しかもそれはいわゆる『ダークナイト』的な、正義の不在による絶望よりもはるか向こうにある、絶望なき絶望、とでもいうものだ。
こうした起承転結といった大枠不在の、すなわち「大きな物語」が不在の中で光るのが、小さな物語達だ。
『コンテイジョン』における小さな物語とは、例えばマット・デイモンの娘と彼氏のやり取りとその帰結であり、あるいはマリオン・コティヤールが中国の農村の子どもたちに英語を教えている牧歌的なシーンであり、ローレンス・フィッシュバーンとその妻の愛であり、ジュード・ロウが死んだ知人の写真の前で立ち尽くすワンショットであり、ジェニファー・イーリーとその父親の束の間のサイエンス談義である。これらのエピソードはその全てが、彼ら/彼女らの社会的立場とは遠く離れた位置でのエピソードであり、真の人間の交流でもある。
 大きな物語が不在の社会に、真正面からぶつかっていくのは自殺行為だ。
これらの小さな物語にこそ価値を見出すべきなのだ。ただし、これらの小さな物語を享受するためには、もちろん生きていなければ達成することが出来ない以上、ウイルスの致死能力の前では無力だ。死んだらそこで終了だ。
しかしウイルスへの恐怖に対しては有効なはずだ。
社会的な不安が蔓延している今こそ、無数の小さな物語たちに注意を払おう。

しかし、こんなことを言うまでもなく、世の中は小さな物語で埋め尽くされている。では、変革のためには、これらの物語がどうあるべきなのか。
それはおそらく、「大きな物語の不在」とセットに小さな物語が享受されなければならないだろう。大きな物語の不在を自覚せずに、小さな物語に拘泥するのは、単に漫然と過ごしているのと同じだ。
誰もがもう一度大きな物語の喪失を自覚することこそが、まず何よりも大切だろう。