2017年6月4日日曜日

ジュリエッタ

監督:ペドロ・アルモドバル

アドリアナ・ウガルテのパートは、きわめてクラシカルな、それでいて大変力のある演出のうねりで魅せ、エマ・スアレスのパートはベルイマンのように鬱々とした亡霊のように流れる時間と孤独の表象が胸を打つ。

加藤幹郎が言うように、列車はエロスとタナトスが表裏一体となって人々を激情へと誘う装置であり、海=大海原もまたそのような装置としてある。列車を降りた老人は死に、列車内では男女が体を交わらせる。さらにその男女は海の真ん中、船の上で抱き合い、しかしやがて男は大海原で非業の死を遂げるだろう。

それにしても、列車における演出は、アルモドバルらしからぬ(というのも、彼はここまで丹念な空間的演出を施すタイプではないので)見事な達成である。枝が窓に当たる瞬間に初老の男が客席にやって来る。男はジュリエッタに話しかけようとするも、ジュリエッタの方は彼を良く思わずに退席してしまう。彼がジュリエッタに向けた最期の視線が、彼女に一生付きまとう(この視線の演出自体はアルモドバル的だが)。
ジュリエッタが次に食堂車へ行くと、そこにはショアンが座っている。二人は一度も眼を合わすことなく、窓の外の雄鹿を目撃することで心を通わせる。しばらくのシーンのあと、電車が急停車して、どうやら非常事態が起きたことが予感されるのだが、ジュリエッタはそのとき、最初にいた席に初老の男性の鞄が、席に置いてあるのを発見する。肝心の男はいない。
最初、ジュリエッタはその鞄を手にとるが、勝手に見るのは良くないと思ったのだろう。逡巡した挙句、椅子に戻す。しかし、窓の外で一人の男性が走っていく姿が横切ると、ジュリエッタは再び鞄を手にとり、チャックをあけ、それが全くの空であることを発見する。
ここが大変重要な部分なのだが、窓の外で男が走っていく姿は、別にそれ自体直接は彼女が鞄を開けることを後押しはしない。しかし間違いなく、彼女はその「光景」によって、鞄をあけることを決意するのである。この非言語的因果関係の視覚的な構築こそが、この一連のシーンにおける見事な到達である。ちなみにこのシーンはワンショットの持続した時間で撮られており、それがさらにこのシーンを力強い(彼女の逡巡を同じ速度で観客が共有する)、決定的なものにしている。
(終盤、ロレンソがジュリエッタの日記を見つけるシーンはこのシーンと相似形を成す持続ショットだ。)

以上のような逡巡や心変わりこそが、この映画の重要なテーマであり、おそらくアリス・マンローの小説に通底するテーマでもあろう。
序盤、ジュリエッタがマドリードに残る決断をするのは、ベアと偶然すれ違ったからだ。
あるいは、ショアンは、ジュリエッタと口論した挙句に、漁に出て、帰らぬ人となる。
その一つ一つの選択や心変わりが、彼女自身の人生に重くのしかかり、罪の意識に苛まれる。

あるいは彼女の脳裏に焼き付く「視線」の数々。初老男性の視線、アンティアの最後の別れの視線、マリアンの恐るべき視線。


それでも映画が希望を与えるのは、多発性硬化症に苦しむアバとジュリエッタの、慎ましくも美しい光が差し込む病室での会話があるからだし(この死に直面した穏やかさこそがアルモドバルだ!)、ロレンソが彼女を「見守って」いるからだ。

ジュリエッタと娘たちが見に行く映画は、『ウィンターズ・ボーン』だ!(シングルマザーの過酷な運命を描いた秀作)