2023年1月30日月曜日

SHE SAID その名を暴け

 監督:マリア・シュレーダー

キャリー・マリガン、ゾーエ・カザン、パトリシア・クラークソン


サマンサ・モートンがカフェから立ち去っていく姿を窓から捉えたショット。それを見送るゾーエ・カザンの表情。NYT本社で相手の代理人と対峙するキャリー・マリガン。周囲の椅子は逆さになっている。そしてゾーエ・カザンとザック・グレニエールのレストランでの対峙、会話のやり取り(ホロコーストが間接的に言及される)。

そして名前を出すこと。名前が原稿に載ること。その原稿を全員で静かに読み直す光景。

物語としても、そして演出としても、原稿に載った固有名詞に全てが賭けられている。という意味で、これは一つの歴史映画だ。(その意味で、「その名を暴け」という邦題は100パーセント作品の精神を裏切っているということも付け加えておきたい。)


2023年1月27日金曜日

エマニュエル・ベルコ 『ミス・ブルターニュの恋』『太陽のめざめ』『愛する人に伝える言葉』

日仏の特集上映などには行けないため、その全貌の一コマすら把握できていないとは思うが、それでも近年のフランスの女性監督はかなり層が厚いという感触がある。レア・ミシウス、アリス・ウィンクール、ジュリア・ディクルノーらの作品の、気持ちの良いまでの行動主義的な作品は、粗はありつつも、全面支持したくなるような勢いがある。また、彼女たちがしばしば共同脚本のようなかたちでコラボレートしている点も、孤発的ではなく、まさに「波」として盛り上がっているということの現れなのだろう。

さて、そこにエマニュエル・ベルコである。2014年の『ミス・ブルターニュの恋』で処女長編を撮り、以後さらに2回、カトリーヌ・ドヌーヴを主演に据えて映画を撮っているという、それ自体がすさまじい事だが、今回『愛する人に伝える言葉』を劇場で鑑賞し、慌てて過去2作品を見た次第。


『愛する人に伝える言葉』(2021)
ブノワ・マジメル、ドヌーヴ、セシル・ドゥ・フランスの豪華共演だが、主治医役が本物の医師というのだから驚きだ。太陽のめざめを見たサラ医師が監督に声をかけたことがきっかけらしい。
末期癌を宣告されたマジメルの、最期の1年弱をどう過ごすか、という話。マジメルがアクティングスクールの講師をしていて、そのレッスンはかなり身体性が高く、また感情的表出を迫る。「別れ」を表現する芝居のレッスンが、わかりやすく彼の状況にオーバーラップする。一方では、マジメルとドヌーヴ親子の確執、そして生き別れた息子の存在、そして主治医とのドラマ、さらには主治医の助手(ドゥ・フランス)との関係など、ずいぶんたくさんのドラマが用意されている。エマニュエル・ベルコの美点は、たくさんのドラマを用意しつつ、それらをあまり一生懸命語らないところだ。あるいは無理に決着させないと言えば良いだろうか。母と息子の確執のドラマは、確かに一見「和解」しているように見えるが、実のところ、それほど深く互いを理解し合ったという感触はなく、また結末は見ての通り、決して居心地の良い着地ではない。また、行き別れた息子との再会を望むマジメルだったが、これも結末は見ての通り、、。こうした素直に着地しない脚本は、加害/被害のスッキリ分けられきれない部分への配慮とも言えるかもしれないが、いずれにしろ一つのドラマを中心に持ってくるのではなく、複数のドラマが一つのconstellation=布置を形作るような構成が、とりわけ本作では奏功しているように思う。何より、死の間際にあっても、家族=古い関係の修復だけが強調されるのではなく、新しい関係が最期まで人生を彩っていく展開には、とてつもない希望を感じた。

『ミス・ブルターニュの恋』(2013)
前半はドヌーヴの一人旅、後半からはネモ・シフマン演じる少年(孫)とのロードムービーという構成の作品だが、前半も後半も凄い。処女作でこんな映画を撮れてしまうのか。
前半はドヌーヴが、愛人が自分以外の若い愛人と結ばれていたことを母親から知らされ、意気消沈して衝動的に車であてもなく彷徨うという展開。実は冒頭からしばらくは見どころ薄めに感じていたのだが、60歳の未亡人がタバコを求めて車を走らせるという話が2013年に成立してしまっていることに途中から感嘆しながら見ていた。特に、最初に出会う老人が、タバコを自作で巻こうとしてなかなか巻けないというギャグみたいな展開が良い。孫のシャルリが出てきてからは、彼の独壇場である。道中でドヌーヴと喧嘩になって失踪してしまうのだが、ようやく見つけて車に乗ったと思ったら再び喧嘩になって、またもや走って行ってしまうというこの怒涛ぶり。『リコリス・ピザ』など足元にも及ばないエネルギーである。
最終的に、シャルリの父方の祖父の元へと一緒に行くことになるが、そこでボヤとウサギの脱走が重なる場面があって、このあたりの出来事の連鎖もうまく描けている。ボヤというとトリュフォーの『隣の女』を想起するが。
しかし何より、最後に出てくる「クロード・ミレールに捧ぐ」に感動した。


『太陽のめざめ』(2015)
ろくでもないシングルマザーに育てられた不良少年のろくでもない成長物語。矯正施設などが出てくるあたり、ダルデンヌっぽい感じもあるが、ダルデンヌほどの厳格さはない。ドヌーヴは彼を担当する判事役(このへんの制度の部分はよくわからないが)。
それにしても、『ミス・ブルターニュ~』では8歳の男の子に振り回され、本作では16歳の不良少年に悩まされ、『愛する~』では息子に先立たれるというカトリーヌ・ドヌーヴの役柄の変遷がそれだけで興味深い。
『ミス・ブルターニュ』を先に見たこともあり、不良少年の突発的な暴力描写の見事さには驚かないが、復学の面接でぶちギレて出て行ってしまう場面は思わず笑ってしまった。この不良少年の不良ぶり、out of controlな部分は、この映画では深刻な問題であるとともに、どこか笑えるものとして演出されていると思う(俯瞰ショットの扱い、あまり暗さのない照明、手紙の練習の執拗な反復など)。彼が横転事故を起してしまってからは、悲劇の色合いが増すのだが、しかしそれ以降が意外とサラッとしている。このへんの展開の選択には議論がありそうではあるが、トリアーのように何でもかんでも事態を悪化させればいいものでもなく、難しい。
誰もが驚嘆するであろう、病院での場面だが、清掃員が突き飛ばされる様子をしっかり捉える演出にも好感が持てるし、二人の抱擁を見てさっさと手術室に戻ってしまう医師達の描写が最高だ。まだ3つしか見ていないが、こういう部分にベルコらしさを見るし、今のフランス映画のノリの良さを感じる。


さて、こうしてみると、『ミス・ブルターニュ~』や『太陽~』が、移動によって活気づいていく堂々たる活劇だったのに対して、末期がん患者を扱うことで移動を禁じつつも、衰弱する身体や手の交錯、人の出入り、視線のドラマによって重層的な空間を形成してみせた『愛する~』には、早くも作家としての成熟と飛躍が感じられ、現代の巨匠と言ってしまって良いのではないかと思うがどうか。




2023年1月19日木曜日

女ともだち

 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

(全部ネタバレ)

アントニオーニはこの映画のあとに『さすらい』を挟んで、60年に『情事』を撮り、以後モニカ・ヴィッティを主役にした作品を連続して撮ることになる。それらの映画群は、不安になるほどだだっ広い空間と無機質な建築、俗世にまみれた人々の狂乱を背景に、女性(が代表する人間?)の実存的不安がきわめてユニークなリズムとコードによって綴られていき、そのインパクトたるや凄まじく、アントニオーニの代名詞というべき作品群だ。ゆえに、そうしたモチーフがそれほど際立っていないこの『女ともだち』は、ともすると『情事』の習作のような立ち位置で語られるかもしれない。実際、男女数人で訪れる海辺のシーンの不埒なやり取り、その後の列車でのシーンなどはたしかに『情事』を思わせるそれだ。あるいは『情事』において「女ともだち」が失踪する理由が明かされぬ一方で、本作ではある程度はっきりと動機が示唆されている点などに、「アントニオーニらしさ」の欠如を見ることもできるかもしれない(原作はチェーザレ・パヴェーゼの短編小説で、こちらではむしろ自殺の原因はかなり曖昧な描写にとどまっているらしく、動機をはっきりさせたのはアントニオーニによる脚色であるとのこと。)。『情事』以降の作品では通俗的世界と精神的世界の対比がかなりはっきりとしていて、その狭間で揺れるモニカ・ヴィッティの予想できない感情の起伏に魅力があったといえるが、本作の場合は、基本的には通俗的世界の枠内で心理的物語が語られていると言えるだろう。見る者を当惑させるような空ショットや、何を考えてるのかわからないモニカ・ヴィッティのような人物はここには出てこず、男女、あるいは女同士の卑俗で不愉快な人間関係が語られる。それでも、表面的な人間関係がやがて破局を迎えるときに、かつてあったはずの人間性(それはローマとトリノの対比でもあり、復興前後のトリノの対比でもある)が失われつつあることへの危機感は共通しており、しかもそれを表現する手つきは全く凄いとしか言いようがない。ピカソのキュビズム以前の絵画が普通に凄いのと同じように、アントニオーニによる全くもって見事な不倫ドラマ、階級ドラマであると言ってよい。

敗戦後、少しずつ復興を遂げつつあるトリノを舞台にした物語である。主人公のクリエラはトリノで生まれ、ローマで服飾業を営んできた女性であり、トリノに支店をオープンさせる大役を任されている。ホテルの隣室の女性(ロゼッタ)が自殺未遂を図ったことから、ロゼッタの周囲の友人たちとかかわるようになる。それと並行して、開業する支店の工事を行う建築技師(カルロ)との恋愛も描かれる。クリエラの周囲において、複数の世界が交錯する様を、アントニオーニは一貫してカメラの持続と移動、人物の配置によって滑らかに描いてみせる。冒頭では、ホテルの使用人が隣室で昏睡状態のロゼッタを発見するのだが、そんなことを露も知らぬクリエラは自室で優雅に風呂を沸かしているのだ(「湯気」のショットで始まるのがアントニオーニらしい)。この最初のエピソードで、「異なる世界の併存」が強烈に印象付けられるのだ。それ以降も、クリエラとカルロが絡む場面は、必ずと言っていいほど、画面上での人物の往来が描かれ、単線的な関係の構築はなされない。
特に終盤の場面を見てみよう。カルロと会う約束だったクリエラが、ロビーで上司と出会い、ローマで働かないかと打診される。それを快諾したところにカルロがやってくる。クリエラは上司を見送ったあと、カルロとともに、奥のバーへと入っていき、別れ話をすることになる。このように、クリエラの(華やかな)社交や仕事の世界と、(労働者階級である)技師との恋愛が、シームレスな人物の移動によって橋渡されていく。
以上のように、画面上での人物の往来は、本作にあっては主題との連関を強く感じさせる演出手法ではあるが、一方でアントニオーニ自身がこの演出をかなり好んで多用しているようでもあり、例えばレストランの場面では「これは本当に食べられるのか?」とシェフに尋ねる客が最初に出てくるし、ロレンツォとロゼッタの屋外での抱擁の場面では、最初に画面手前を通過した馬の隊列が、画面奥を通っていくという凝った演出がなされている。
もっとも成熟した演出が見られるのは、ロゼッタの友人であるモミナが恋人と部屋で愛し合う場面だろう。二人が窓際で口づけを交わすとき、窓の外に男性が見える。するとカメラは屋外から部屋を捉え、男性に気づいた二人がブラインドを降ろす様子を捉える。そして逆光のシルエットで抱擁する二人がばっちり見えるのだ。そしてこの外にいた男性が実はロレンツォであり、彼は彼で、ロゼッタと待ち合わせをしているのだった・・・。というこの一連の流れはアントニオーニの全作品のなかでも最も秀でた演出の一つではなかろうか。

被写界深度を深く設定し、人物の往来によって著しく活性化したショット群は、公共世界を多層的に捉える一方で、画面内の人物達はいつもそうした公共を逃れ、プライベートな空間を探しているようである。ロレンツォとネネの夫婦が住む家には敷居がほとんどなく、玄関と寝室がつながっている。そのためか、内緒話をしようとしてカーテンを閉めたり、ドアを占めたり、場所を移動したりといった動作が反復される点も興味深く、アスガー・ファルハディの映画を想起した。

最後に一点。ロゼッタが自殺したことは、群衆のなか、救急隊が水死体を担架に乗せて運び、落ちていたコートを拾う、という出来事をたった2ショット(俯瞰ショットとフルショット)で示される。この簡潔な提示は、現代ではなかなかお目にかかれなくなってしまったものだ。


以下のサイトを参考にしました。
https://www.criterion.com/current/posts/4095-le-amiche-friendsitalian-style?fbclid=IwAR1T0YAJ1qSclRva7M33JknhJnJek8ilQKqiwuYcTPHJXvmEv4OVx2-xyZc





2023年1月7日土曜日

ケイコ 目を澄ませて

 監督:三宅唱


全体的に感動よりも違和感の方が強く、あまり入り込めなかったのだが、高架下の、まるでクラブシーンのようなライト点滅のショットが良い。HIP-HOP好きの三宅監督ならではのショットかもしれない。
それと、ラストに、対戦相手を顔を合わせることでケイコの心理が好転する展開が胸を打った。
のだが、このラストも含めて、(『ドライブ・マイ・カー』もそうだったが)いわゆる「心を閉ざした若い女性が、だんだん感情を表に出していく」というドラマツルギーが、ふつうに紋切りすぎるんじゃないのか。この映画ではケイコが難聴という設定になっていて、中盤で日記が読み上げられることで、「実はこんなに色々考えていたんだ」みたいな気付きを与える構造になっているのだが、だから何なのかという気になってしまった。
というより、ケイコの心理ドラマとして作ろうとしているのかがイマイチわからず、ケイコがボクシングを続けるかどうかで引っ張る意味がわからなかった。なんか色々人が出てくる割に、誰も重要な役割を果たしていないような。

ボクシングジムの人間達も、大事なところは結局、強引に口で言うというのは甘えじゃないのか。「家から遠い」で怒るのも意味がわからない。
相手が難聴であることを知らないがゆえのディスコミュニケーションの例がやたら出てくるが、これも羅列されているようにしか思えず。

あと、COVID-19が流行っているという設定っぽいのだが、物語上はCOVIDがなくても成立するし、設定のわりに病院で普通にマスク外してたり、そもそもお見舞い禁止なんじゃないかとか、気になって仕方なかった。
相変わらず、「無表情で警句を吐いてくる医者」像も日本映画ならではの不愉快な描写。「頭のレントゲン」というのも、ちょっとねぇ(MRIのことかしら)。


2023年1月4日水曜日

拘留 / 検察官 / レイプ殺人事件 / Garde a vue

 監督:クロード・ミレール

ミシェル・セロー、ロミー・シュナイダー

80年代の金字塔だろう。素晴らし過ぎる。

冒頭からこれでもかと降る雨が、窓を覆うなか、脱線に脱線を重ねる渋い尋問が続いていく。クローズアップとフルショットの構成の妙。カメラが引いたときの照明にもしびれる。いつしか雨は止んでいた。時折挿入されるイメージショット(少女の死体、灯台の光、あるいは霧笛の音)も抜群にカッコよく、またこうしたイメージの集積がミシェル・セローの「自白」を構成しているに違いない。この現実と虚構の戯れと倒錯は、次作の『死への逃避行』へと引き継がれる。

そしてロミー・シュナイダーの謎めいた魅力もすごい。真っ暗な部屋で語り合うシュナイダーと刑事。全編を通して、この映画の「尋問」はおしなべて「語らい」へと変貌していく。出てくる人間が全員幸せそうじゃない、というのが良い(大晦日の取り調べ室なのだから)。

夜明けに終わる映画としても忘れがたい。何から何まで最高だ。


あのこと

 監督:オードレイ・ディヴァン

中絶を題材とした映画は、近年でも『4,3,2』、『16歳の瞳に映る世界』など秀作が続いており、そして本作。共通するのは、手持ちカメラで一人称的ナラティブを徹底していく点である。正直いうと、(おそらくはヨーロッパでは相当なインパクトと影響を残していると思われる)『4,3,2』以降、中絶映画は手持ちカメラで被写界深度浅く、が定番になってしまっているのではないかと思ってしまうほどには、「またか、」となってしまった。画面サイズはスタンダードが選択されており、これでもかというほど世界が狭く捉えられる。上にあげた2作は、シスターフッド的な要素がフィーチャーされていたが、本作の主人公はそれに比べるとかなり孤立状態に置かれていると言って良い。上の2作は、そもそも妊娠をした女性とその協力者の関係性が突出して描かれていたのに対して、本作の場合は、「知り合いはいっぱいいるけど誰も積極的に協力してくれない」という意味で、突出した関係性は存在せず、ただ薄いつながりだけが複数あるということが露わにされている。しかしそれでも最後に反目していた寮の同級生が助けてくれるのであるから、そこには希望があるのかもしれない。

序盤に講義が終わったあとに三人で校舎の外の広場で陽光を浴びながらお喋りするショットは、彼女が着ているストライプシャツの発色が良く、陽光の加減も美しく、大変素晴らしかった。しかしそれ以降、即物的でショッキングな描写が続くものの、これぞというショットはなかったように思うし、大学生同士の関係性の描写にももっと工夫があって然るべきではないか。中絶映画で「ありながら」、冒頭から女子大生たちの性的欲望をかなり掘り下げている点は極めて新しいと言える。

2023年1月1日日曜日

ナイブズアウト グラスオニオン

 前作は「ギリギリオッケー」であったがゆえに「大変素晴らしかった」のだが、本作はあまり乗れない。
大ヒットを記録した知的なミステリー映画の続編ということで、前作をいかに上回るか、というところが製作陣(あるいは知的な脚本家ライアン・ジョンソン)のチャレンジであったに違いない。そして実際のところ、この映画は多くの点で「前作を上回っている」。色々とアップグレードされている。とりわけ映画の構成に仕掛けられた伏線とネタばらしのスケールにおいて。しかし、逆に言えば、前作に比べて「度が過ぎている」。
「さっきのあの場面は実はこうでした」というショットが延々と続く中盤はどうだろう。確かにライアン・ジョンソンは、単なる知的ミステリーオタクではなく、ショットの構成において抜群のセンスがある。しかしそうはいっても、やっぱりこれは単なる説明なのだ。これならば素直に、姉の復讐を誓うジャネール・モネイが大胆に変身していくアドベンチャースリラーにした方が良いじゃないか、とどうしても思ってしまう。求めるものの違いといえばそれまでだが。

また、ジャネール・モネイの変容ぶりは確かに物語の旨味として仕込まれてはいるが、前作ほどの心躍る感覚はない。それは、前作におけるアナ・デ・アルマスの変容ぶりが、その都度直面する危機に対して「体が勝手に、」式のヒッチコック的ハプニングによって駆動されていたのに対して、本作のジャネール・モネイは、あくまで「真実に向かって酒飲んで行きまっしょい!」式の全き能動性によって駆動されているからだ。これでは運動が躍動しないのだ。

もちろん、相変わらず良き中年男性としてのダニエル・クレイグの良さ、エドワード・ノートンの若々しい芝居、ジャネール・モネイの溌剌としたパフォーマンスは見ていて楽しい。人物が集まったときではなく、散り散りになったときこそ活きる空間設計と照明の妙にも感心するが。

(追記)
反復になるざるを得ない制約のなかで、それをいかに視覚的に豊かにするかに腐心したあとがある、という意見もあり、なるほどと思った。
https://twitter.com/HWAshitani/status/1607245547857137665