監督:トッド・フィールド
結構傑作。という変なニュアンスだが、被写界深度について。被写界深度についてはもう少し勉強が必要であろうが、しかしとりあえず見た範囲で、というか人と人の奥行の距離とフォーカスの関係についてのみ書いていく。
まず、冒頭の公園でのシーン。クローズアップを重ねつつ徐々にフルショットなどを織り交ぜるように、だんだん空間が広がっていく感覚がとても面白いのだが、ケイト・ウィンスレットが娘のおやつを忘れて娘が駄々をこねるというシーンがあって、ここのショットは被写界深度が深くとられていて、他のショットはほとんど浅い。
二日目にパトリック・ウィルソンとケイト・ウィンスレットが出会う一連のシーンでも深度は浅い。この空間の差異、すなわち「手前」と「奥」という明確な差異が効果的に見え出すのは、パトリック・ウィルソンがケイト・ウィンスレットを他の主婦たちが見てるところでハグするというシーンで、ここでは画面手前で主役二人が向かい合い、そのかなり奥(遠く)で主婦たち三人がこちらを見ているという画面高生になっていて、当然フォーカスは手前二人に合っている。そして二人がハグする瞬間にカメラがそのまま回り込んで、反対側から二人だけを映し出すことになる。
ちなみに中盤にケイト・ウィンスレットが週末にパトリック・ウィルソンの家の前に車を停めて様子を伺うシーンがあり、ここでケイト・ウィンスレットとパトリック・ウィルソンを、かなり深い被写界深度で同一の画面上に捉えたショットがある。
さて、次にプールのシーンがある。一日目のプールのシーン(といってもこれは何日か通してのワンエピソードだが)は、割と奥行が強調された画面が多い。子供達二人が走っていくのを捉えたカメラが持続したまま移動してプールを映すなどの、なかなか凝った画面が続く。
そしてその次に再びプールのシーンがあって、ここでジャッキー・アール・ヘイリーがやってくる。ここで重要なのは、画面の被写界深度が浅いということだ。ジャッキー・アール・ヘイリーが奥から手前に泳いできて、そのヘイリーにフォーカスがあてられ、奥のプールサイドのギャラリーとのフォーカスによる断絶が強調されていると言ってもいい。
そしてこのジャッキー・アール・ヘイリーという「前科持ちの性心理障害者」をめぐるこの映画の話法に関してはさらに後述する予定だが、最も重要に思われるシーンとして、公園で彼にはち合わせたケイト・ウィンスレットが、最初は見て見ぬフリをしていたものの、彼が泣いていることに気づき、彼の方へと近づいていくシーンがある。このシーンの極めて重要なポイントとして、ケイト・ウィンスレットが歩み寄るその瞬間に、カメラが後ろに回って、手前からウィンスレットの娘、ウィンスレット、そしてジャッキー・アール・ヘイリーの三人を見事な強度でもって、深い被写界深度によって捉えてみせるワンショットだ。少し深読みしすぎかもしれないが、ここで一瞬だけひとつの包摂された空間が形成されたと考えていいだろう。深追いはしない。何よりこのワンショットの見事な強度には打ちのめされる。
さて、この映画はいささか月並みな言い方をすれば、「差別と偏見」というテーマを持っている。極めて重要なシーンとしてプールでのシーンに戻ろう。ジャッキー・アール・ヘイリーがプールにやってきて、泳ぐところ。ここで我々に与えられている情報は、彼が児童強姦の罪で一度逮捕されているという事と、「最近自転車で近所の子供を物色しているらしい」という噂話だけである。そこでこのシーンがやってきて、しばらくセリフなしで彼がプールを潜って泳ぐ様子が映される。
これは見事な、というかちょっと驚くくらい大胆なミスリーディングである。彼が実際に子供を物色しているのか、それとも後に彼が弁解するように涼んでいるだけなのか、この一連のシーンではわからないのだが、しかし事前の情報故に、どうしても物色しているように見えてしまうのだ。おそらく見えない人もいるだろう。それはわからない。しかしこの「前科者が物色しているように見える」という”ミス”リーディングこそがこのシーンの最大の狙いであろう。なんとも計算高いが、しかし今どきこのようなシーンを撮れるというのもまた凄いのではないか。よくわからないが。しかしこのシーンの曖昧性、多義性が面白いのは確か。
「差別と偏見による壁を超える」という点に関しては上述のブランコのシーンにおいてまさに一瞬だけ実現されているわけだが、実はその前にいくつか類似したシーンがある。
ひとつが、アメフトの試合で、パトリック・ウィルソンが敵と握手をするシーン。詳細は省くが、見ていただければわかるように、ここでは「慣習を破って握手をする」というアクションがややコミカルに描かれており、その中心にいる審判はなんと車椅子の障害者である。
もう一つが、ジャッキー・アール・ヘイリーが母親の搬送された病院の待合室に座っているところに、外人がコーヒー(ココア?だっけ?あれ?)を渡すシーンだ。トゥモロー・ワールド同様、あるいはUnknown同様、やはり映画で本当に手を差し伸べてくれるのは、言葉の通じない外国人なのだ。
ちょっと面白いのが、このシーンに至るまで、散々「見た目による偏見」のもたらす断絶が描かれ、語られてきた(警官の過去のエピソードはまさにそれが招いた事件だし)にも関わらず、ここでのコミュニケーションは言語ではなく、写真とコーヒー(あれ?ココア?)なのだ。
全体としてはもう少し短くできるだろうし、あるいは最後の「血」が全然ダメだと思うし、ボヴァリー夫人のシーンなんて最悪だと思うのだが、しかし上述した多くの大胆な話法、終盤の唐突なアクションの連鎖など、なかなか面白いと思う。
また、子供の扱いがとても良い。たとえば二組夫婦の夕食のシーンでは、浮気でつながる大人達のよそで無邪気にじゃれあう子供を映したかと思うと、その後のプールのシーンで子供同士が声をかけることでウィンスレットとウィルソンの間に気まずい空気が流れたり、あるいはラストにウィンスレットが子供を見失い、あわてて探すと、道端の電灯に群がるハエをじっと見つめる子供の姿がある。あるいは子供に関しては一切ナレーションが言及しない。
このように、一見大人達の情事に巻き込まれる存在としてあるように思われる子供たちが、むしろその無垢さゆえに大人達の関係をさらにこじらせるという面白さがある。子供を感傷の道具ではなく、物語を乱す存在として描いているわけだ。
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