2014年2月22日土曜日

ニシノユキヒコの恋と冒険

監督:井口奈己

井口監督の作品は初見。

冒頭近くの、ニシノユキヒコが交通事故に遭うシーンの演出がまったくもって素晴らしい。
赤と黄の美しい花を手前に配した構図で竹ノ内豊をカメラがとらえると、松葉杖で歩く女性が彼を呼び止める。すると彼女はバランスを崩して、それを介抱しようと駆け寄ったところで、トラックが突っ込んでくる。というところで、ここでは松葉杖、彼女が落としたリンゴが転がっていく様が、そしてトラックが、さらに言えば事故の瞬間をとても深刻に受け止めているとは思えないバカバカしくも可笑しい表情リアクションが、快活な形で連鎖している。おお、これぞ映画だ、となるが、その後このような映画的なシーンに立ち会うことはできなかった。
ところでこのシーンでは竹ノ内豊のシャツの色が違った気がする。

庭の風だとか、別にすごくもなんともないわけで。

『愛おしき隣人』の方が百倍面白い。

2014年2月4日火曜日

アメリカの新作3本

ロン・ハワードの『ラッシュ』、スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、デヴィッド・O・ラッセルの『アメリカン・ハッスル』

まず3本ともに共通するのが、大量のモノローグ(しかも複数のキャラクターによる)だろう。映画の序盤において、彼らは全員自らの生い立ちを語り始める。スコセッシの場合は、もちろんこれまでの彼の作品の多くにおいてそういうスタイルをとってきたし、今回は金融社会版『グッドフェローズ』、または『カジノ』といった趣だから、まぁそれほど驚くことではないかもしれない。
だがいずれにしろ、ずいぶんとモノローグが多く、またセリフも多い。だからダメとは言わないが、ではこのモノローグがどれほど機能していると言えるのか。あまりしていない。
というかそもそもモノローグが機能するとは一体どういうことなのか。それは生い立ちなりあるいはトリックや作戦などについてモノローグによって大ざっぱに全体を語りつつ、その具体的な細部や見せ場を画面が補うことで、その道程が生き生きと視覚として刻まれるときに、機能したと言えるのではないか。そう考えるなら、モノローグだけを切り取って考える必要はない。

例えば『ウォールストリート』においてラりっていたディカプリオの昨夜の言動を妻や警官が話し、それが回想として画面によって提示される場合も同じだ。あるいは『アメリカン・ハッスル』でブラッドリー・クーパーが「首を絞められた!」と話し、その首を絞められたシーンが回想として提示される場合もそうだ。
これは何なのだ。これの何が面白いのだ。画面はひたすら一歩前に話された言語的事実をなぞって見せるだけだ。そこに視覚のレベルでの驚きはない。

別に何てことのない映画だが『裏切りのサーカス』の序盤に、「ブタペストに汽車で行ってだれだれに会ってこい」という指令とともに、そのブタペストに男が降り立ち歩く姿が捉えられるシーンは極めてサスペンスフルだった。そこではブタペストで要人に会うという筋(ここにサスペンスはない)にこの画面(サスペンスフル)が合わさることで、ブタペストの要人に会うヤバいミッションであることが理解されるわけだ。これがモノローグが機能した瞬間だろう。
あるいは『つぐない』の洪水のシーンでも良い。詳述しないが、あそこには画面によって抒情が生まれているではないか。
だがこれに関して私は十分に考えたことがない。モノローグ/ナレーションについては、やっぱり今後も映画で多用されるだろうから、それについては考えざるを得ないだろう。キューブリックとか?あるいはゴダールとか?知らんけど。

だが例えば、『リトルチルドレン』という傑作がある。この映画には、それこそ『バリー・リンドン』みたいなナレーションが入る。しかし、この映画の見どころの一つと言ってよいジャッキー・アール・ヘイリーがプールに入るや否や人々が逃げていくシーン。ここでは一切ナレーションがない。ここでナレーションが入る危険は十分にある。例えば「彼は決して児童の水着を見に来たわけではなかった。彼はただ水泳をしにきたのだ」とか。しかしこんなナレーションが入ったらこの映画は台無しである。説明しないこと、それは他者の他者性を守ることだ。不気味な他者を不気味なまま捉えることだ。
今回の三本の映画には、言ってしまえばそうした「存在のサスペンス」がまるでない。日本の識者からの反響が続々なのもうなずける(とか言ってはいけない)。
『ラッシュ』と世界仰天ニュースの違いを指摘せよ。


しかし,『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の終盤の夫婦喧嘩のシーンは全くもって素晴らしい。
ディカプリオ邸のキッチンと部屋の位置関係が良いため,縦構図が決まっている。
あるいはステディカメラ(?)での長回しも充分な迫力である。そして車庫でのマーゴット・ロビーの一撃。これがガラスを割るだけでなく,時間差でディカプリオの血が垂れるという出来事の伏線になっているのが素晴らしいのだ。あるいはディカプリオの視線ショットで捉えた車外の光景はこの映画一番の力のあるショットだ。
まさに、驚くべきショットが決して予定調和的でない仕方で重ねられていく映画の醍醐味がこのシーンにはある。夫婦喧嘩をすることが重要ではない。夫婦喧嘩をするにあたって,人々がどういう動きをして,何を壊し,どこでそれが終われば,良いショットの連鎖を重ねることができるか。これである。なぜディカプリオの車はバックで車庫を出るか。出なければならないか。それはその後にディカプリオの視線ショットを持ってくるためである。

『ラッシュ』においても、ニキ・ラウダが嫁さんと初めて出会うシーンはそれなりに面白い。イタリアンスタイルと言ってポーズを決めるしぐさが良い。あるいはあくまで絵を決め過ぎないラフな縦構図での二人の出会い方にも好感が持てる。

追記:『ラッシュ』を再見したが50分で退席。レース後のパーティでの二人の会話の照明はあまりにもまずい。また、ジェームズ・ハントと妻の喧嘩にしても、もっと工夫すべきだ。この直前の、ヘスケスが破産したことを告げるシーンにしても、あまりにも説明的。別に説明的であってもいいが、それを無意味なカット割りでごまかそうとしてる感じがあまりにしょーもない。それと俯瞰のロングショットがいちいち決まってない。特にクラッシュした車を捉えたショットだとか、結婚式のショットだとか。「ま、とりあえずここらで俯瞰ショット挟みますかー」みたいなノリにしか見えない。知らないが。撮影はドグマ95の人だけど。