2015年11月8日日曜日

バニーレークは行方不明

監督:オットー・プレミンジャー

素晴らしすぎる!これぞ映画だ。
「あらすじ」の緊急性に対する、現実世界の時間の多様さ。その多様さを生き抜くヒロイン、キャロル・リンレー。
緩やかなスリラー。完璧。


新居の入り口へと続く階段。その階段を軽やかに駆け上がっていくキャロル・リンレーの姿がまず印象的だ。これに対して、保育園でキャロル・リンレーがわが子を探そうと階段を昇っていくと、大勢の子供たちがその行く手をふさぐ。
このようにしてキャロル・リンレーがわが子を探そうとすればするほど、様々なキャラクターやイベントがその捜索を邪魔する。この「邪魔」こそが、まさにこの映画のもつ多様性であるだろう。
気味の悪い家主の存在、クレイジーな保育園長、ヒロインをバーに誘って会話に興じる警部、あるいは子供が失踪したニュースがたちまちThe Zombiesのライヴ映像に変えられてしまうこと。そのThe Zombiesの曲がBGMとして映画全体のムードを脱臼させてしまうこと。あるいはそうした「邪魔する能力」を最後の最後でヒロイン自身が披露すること。
物語が決して一直線には進まない状況に対して、カメラもまた流麗な動きでもって戯れる。



キャロル・リンレーが病院から抜け出すシーンの、ベッドからすり抜ける身のこなしが何とも素晴らしい。



2015年10月8日木曜日

サムシング・ワイルド

監督:ジョナサン・デミ

最高!
まず、タク・フジモトの美しい撮影。メラニー・グリフィスの顔をフロントガラス越しに捉えたいくつかのショットの抒情。さまざまな車、さまざまな衣装を見る楽しさ。
ほとんどのシーンが車を走らせることで展開する。とりわけ序盤の、ジェフ・ダニエルズがレストランから走って逃げ、メラニー・グリフィスが走らせる車にダイブするシーン。そしてこのときのメラニー・グリフィスの手口を利用してレイ・リオッタを出し抜くシーンの何とくだらないこと。
ラストにジェフ・ダニエルズがレイ・リオッタに”勝利”する瞬間の、真正面からの両者のクローズアップの切り返しが、まったくジョナサン・デミらしい素晴らしさ。


2015年9月12日土曜日

レッズ

監督:ウォーレン・ビーティ

素晴らしい。歴史的事象についてその起承転結を決して親切には提示してくれないので、ともするとセリフや場面に置いてかれそうになる部分もあるが、映画にとってそんなことはほとんどどうでも良い。

このダイアン・キートンとウォーレン・ビーティの関係性。このような史実を描いた映画で、これほど充実した男女の描写は稀ではないか。それは常に、各場面において、二人の距離や視線を繊細に演出しているからに他ならない。

・口論の末に立ち去ろうとするも、結局扉の前で立ちつくしてしまう二人を描いたショットは何とも愛らしい。
・一方でキートンも立ち去るときには立ち去るサバサバぶりで、このメリハリのあるキャラクタリゼーションが効いている。
・党内が分裂し、ビーティが扇動者となって党員を地下に集めるシーンでの、キートンに向けられた俯瞰ショットが素晴らしい。
・あるいは、はるばるフィンランドまで行った挙句にビーティに出会うことができなかったキートンを捉えたシンプルで美しい描写。

扉の効果的な使用は最後まで続く。終盤、プラットフォームでキートンがビーティを待つが、ついに列車からビーティが現れずに扉が閉められてしまう瞬間の絶望的な印象があるからこそ、その直後の再会にストレートに心を打たれるだろう。
ビーティの書いた詩の内容を最後まで見せないことも、抒情に流れない重要なポイントだと思う。

ジャック・ニコルソンの役どころが大変素晴らしい。ビーティとキートンの関係性も素晴らしいが、ここにニコルソンが入ってくることで、お互いがお互いを批評しあうより緊張感のある関係性が生まれている。
ビーティは、歴史が動こうとしているときに前衛的な個展の批評に励んでいるキートンを批判し、キートンは、作家としての立場を維持せず活動にのめりこむビーティを非難し、そんなキートンをニコルソンが男と革命の話に興じながら寝たいだけだろうと痛烈に皮肉ってみせる。
それにしても、このジャック・ニコルソンの役柄は面白い。実在の人物だからこそ、という点もあるだろうが、僕はすっかり、ビーティが帰ってきた夜にニコルソンは自殺するものだとばかり思っていた!

2015年9月8日火曜日

クラッシュ(1996)

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

「交通事故は破壊的というよりは生産的出来事だ。性的エネルギーの解放だ」←最高に痺れるセリフだ。
高層ビルからハイウェイを見下ろした俯瞰ショット、夜のネオンとカメラのなまめかしい動き、女優達の無表情と恍惚の瞬間の連続性。
心理ではなく、「セックス」や「車の疾走」といった出来事によってつながれた因果が、我々を常日頃から慣れ親しんでいる通常のドラマ構造から”解放”し、極めて不安定でどこへ行くとも知れぬ不気味な語りの流れへと誘惑する。

ジェームズ・スペイダーとホリー・ハンターの出会いの何とエロティックでスリリングなことだろう。
廃車を並べた駐車場での二人の視線の交錯。この時点ではまだ、両者には”ノーマルな”道徳がまとわりついており、スペイダーの表情は事故の加害者としての自責の念を感じさせるものである。しかしホリー・ハンターは初めて両者が病院で出会ったときのようには気が立っておらず、スペイダーとの何気ない会話に興じてくる。
それからスペイダーが彼女を送っていくといって、二人のドライブが始まるわけだが、ここでの、両者の肩のあたりをクローズアップで撮った妄執的と言ってよいショットが何度もインサートされ、徐々に映画が、静かにその旋律を変える。
すると突然車が割り込んできた拍子に、スペイダーがコントロールを失い、危うく再び事故を起こしそうになる。するとホリー・ハンターがスペイダーの手に自身の手を重ね、ハンドルを操作し、安全な場所へと停車させる。何とエロティックな展開。そしてこの「再び事故を起こしそうになった」という「物語上の大事件」を前にして、まるで感情的動揺を見せぬ両者は、やがて車の中で口づけを交わし、体を重ねるだろう。
そのあまりに”不自然な”展開を、我々は何の違和感もなく受け入れてしまう。完ぺきな演出だ!

肌の傷や車体の傷への執着は不気味でじっとりしていながら、映画全体は観念的ではなくむしろ身体的で、不思議な軽やかさすら感じさせる。
キューブリックの遺作が"Fuck"というセリフで終わる2年前に、Fuckで終わる映画が創られている。
事故現場をして「芸術的作品だ」というセリフがあるが、この映画こそまさに芸術だ。


2015年8月23日日曜日

涙するまで、生きる

傑作。それほど凝った演出をしているわけでもなく、オリジナリティや作家性を感じるようなシーンは皆無と言っていいと思うけれど、にもかかわらず、これは正真正銘の傑作だ。真っ正直な映画。

たとえば、風にはためく衣服を撮っているからこそ、地面に落ちている血のついたシャツが存在感を帯びる。
あるいは、内と外をさえぎるガラス窓を経由する丁寧な視線の演出。そしてそれがあればこその、ガラス窓が割られる瞬間の強度(音響が大変すばらしい)。

荒野を歩く二人を捉えたショットはどれもすばらしい。
大雨の描写もすごい迫力だ。

ヴィゴ・モーテンセン演じる元兵隊のフランス人と、一緒に目的地を目指すことになるアルジェリア人モハメドの対比。
たとえば追手が学校まで襲撃に来たときの描写。きわめて機敏に動くモーテンセンに対し、モハメド座って祈るばかりだ。
あるいはモーテンセンが道中で通行人を殺してしまったときの、モハメドの妙な落ち着き。

雨宿りのつもりで入った小屋に屋根がなかった、というエピソードはモーテンセンのリアクションもあってとてもコミカルだが、二人に笑いは起きない。このあたりの”極限感”が見事だと思う。
あるいは二人がやっと笑ったと思ったらゲリラ兵達が突然やってくる、というのもすばらしい演出だ。

洞窟で政府軍が襲撃してくる描写も迫力があるし、モーテンセンが洞窟の外に歩み出る場面もオーソドックスでありながら、これしかない、という印象を受ける。

荒野を歩いた果てに、立ち寄る町。
そのつかの間の休息が、主役二人に潤いを与え、映画自体にも新しい風を吹かせる。そうであればこそ、「生きること」というあまりにシンプルなメッセージが、きわめてヴィヴィッドに観るものに伝わってくる。『エッセンシャル・キリング』とか『最前線物語』のようなすばらしさ。

ラストも大変すばらしい。シンプル・イズ・ベストを地で行く大傑作。


2015年7月12日日曜日

羊たちの沈黙

監督:ジョナサン・デミ

やっぱり傑作。
なんといってもレクター博士の脱走シーン。スキャンダラスでセンセーショナルな描写と、サスペンスとしての正確無比なイメージの構築。まったくもって凄いなぁ。

カメラの位置、カットの割り方、一瞬一瞬が驚きの連続であって、クローズアップやミドルショットが中心であるにもかかわらず、ショットの入り方、カメラの寄り方が独特であるために、空間の広がりという意味では見事な到達をみせているだろう。

キャサリン誘拐シーンの聡明なカメラワークに心を躍らせ、地下壕でのキャサリンとバッファロー・ビルの切り替えしにハッとさせられる。
クラリスの指にふれたレクターの指は、そのまま手錠を器用に外して見せる繊細な指使いの伏線だ。
唐突に挿入される回想も、たった2回しかないという慎ましやかさで、それなのにあのカメラのドリーと曇り空によって強烈な印象を残す。
あらゆる瞬間が驚きというか不意打ちというか。そして気づいたらクライマックスという。

2015年7月5日日曜日

摩天楼を夢みて

監督:ジェームズ・フォーリー

面白い。圧巻の演技合戦とはこれだ。
マッチョイムズについての考察であり、いささか大げさに過ぎる部分はあるにしても、最後まで物凄い説得力だ。照明、カッティング・イン・アクションの冴え。
ジャック・レモンのキャラクターの変遷ぶりにはビックリする。怪演。
アレック・ボールドウィンはウルフ・オブ・ウォールストリート!という感じだ。

2015年7月4日土曜日

きみはいい子

監督:呉美保

尾野真千子が子供の手をとり、マンションの通路を歩いていく。画面の外からは池脇千鶴が子供をあやす楽しそうな声が重なり、子供はその声につられて羨ましそうに後ろを振り返る。きわめて象徴的なショットであり、事態のありようをまっすぐに伝える。
このショットによって、観客は尾野真千子の子供に同情するだろう。もちろんこのショットの前に、すでに尾野真千子に何度も叩かれるシーンが出てくるのですでに同情しているわけだが、このショットはそんな子供の境遇が、池脇千鶴の子供の境遇と残酷なまでに対比される瞬間をとらえており、「こんな暴力的な母親の元に生まれてしまったかわいそうな子」の不運さを、観客はこれでもかと見せつけられる。

にもかかわらず、喫茶店で池脇千鶴に冗談で「ウチの子になる?」と言われた少女は、真剣な顔で尾野真千子に抱き付く。尾野真千子はこの少女の気持ちを受け止めることができず、とっさにトイレに立ってしまう。少女は母親の後を追い、鍵のかかったトイレの前で泣きわめくしかない。
純粋な「母親への愛」だけなら、抱き付くだけでも良い。そうではなく、少女はトイレに立った尾野真千子を不安そうに追いかける。ここには母親の心理を繊細に汲み取りながら何とか良い関係性を維持したいと願う少女の思いがこめられてはいないか。
また、この池脇千鶴の「ウチの子になる?」というセリフは、終盤でも反復されるのだが、どうもこれはわざと言っているわけで、決して軽はずみな気持ち(だけ)で言ったわけでもなさそうである。

つまり、そうした人物達のさまざまな思いや配慮、意図を的確に示唆すること。そのことにこの映画は成功している。

あるいは誰かが誰かを見守っている、気を配っているということ。

無邪気に遊ぶ自分の娘に、尾野真千子が何度も神経質そうに視線を送るその最中に、まさに池脇千鶴が尾野真千子のことに気を配り、何とか彼女を救おうとしていたということ。それが美しい抱擁として結実すること。

あるいは、障害のある息子のことを、老婆が透明なまなざしで見守ってくれていたということ。そのことにハッと気づかされて涙が止まらなくなること。

マンションの通路も印象的だが、学校の廊下も印象的だ。長回しによって出来事が多重的に描かれるシーンがいくつかあり、なかなか優れた効果を発揮している。(教室の外に静かに横移動するカメラ!)

多くのエピソードが消化不良である。たとえばクレームをつける母親達の存在は、決して物語を押し進める存在ではなく、ひたすら社会的な諸条件として提示されるにとどまる。
あるいは高良健吾が生徒たちに出す「宿題」も、妙に偽善臭い。
しかしそれらの消化不良ぶりは同時に、高良健吾という新米教師の無力さとともにある。消化不良な形で過ぎ去ってしまうことが、その都度現実のどこにも進んでいかない諸状況として立ちはだかる。たとえば児童虐待の疑いは、証拠不十分として曖昧にされる。
そうした「物語にすらならぬ絶望的諸条件」を提示しながら、ラストシーンではそれを何とか未消化なまま終わらせずに、物語にしようとする決意が描かれている。
物語にすらならぬ閉塞状況から一歩抜け出して、物語をつくっていこうとすることそれ自体が、物語となっている。
しかしだとすればやっぱり映画は、というかフィクション映画は、その先の、つまり本来の物語を積極的に構築していくべきなのではないかとも思ってしまう。

あと、場面が転換する際の編集。叫び声→叫び声、みたいな音の重ね方を多用していて、良いんだけど、そんなに多用するもんでもないんじゃないか、と思った。ああいうのは一つぐらい、おっ、と思わせる程度に使えば良いのではないか。

しかし、全体としては、ちょっと良すぎなくらいの傑作だと思うがどうか。後から振り返ると、印象的なシーンばかりだ。







2015年6月13日土曜日

海街diary

監督:是枝裕和

前作『そして、父になる』では、子供が撮っていた福山の寝顔の写真を、福山自身が発見することで、福山は何かを感じとっていた。つまり、カメラの写真が映画のひとつの重要なアイテムであった。
にもかかわらず、『海街diary』では写真という写真が省略されている。広瀬すずが走って持ってくる父親の形見の写真は、ついにスクリーンに映ることがない。家の中に飾ってある”はず”の姉妹たちの祖母、祖父の写真も、ついにスクリーンに映ることがない。映画内で死ぬことになる二人の人物の遺影も写されない。

さて、『そして、父になる』以前の是枝監督の作品を見ていないので、大きなことは言えないが、しかしこのことは『そして、父になる』からの流れからして、決しておかしくはない。
なぜなら、『そして、父になる』で重要だったのは、写真という「思い出」ではなく、カメラという「まなざし」であったからだ。福山がカメラのメモリに残された自分の写真を見て感じ取るのは、「息子のまなざし」なのだ。
そうであれば、この映画においても、是枝監督は『そして、父になる』同様、”思い出”には興味がない。重要なのは”まなざし”である。

たとえばこの映画においては、二人の人物の別れ際に、必ずと言っていいほど、片方の人物が振り返る。
大竹しのぶは、駅で綾瀬はるかと別れる際に、立ち去ってからもう一度彼女の方を見る。
堤真一は、浜辺で綾瀬はるかの元を離れる際に、もう一度振り返り、手を振る。
花火の夜に前田旺志郎と別れる広瀬すずは、去り際にもう一度彼の方を振り返る。
何かが名残惜しそうに、終わっていく。そのような感触が、映画に刻まれているようにも思える。それは、近年まれにみるシンプルで美しいアヴァンタイトルにおける、長澤まさみの”振り返り”によってすでに予感されている。
逆に大竹しのぶが姿を現すシーンにおける視線の泳ぎ方なども印象的だ。


映画全体としては、美しい瞬間や出来事、エピソードの積み重ねの合間に、時折暗い影が見え隠れするような構造で(暗い工場の夫婦、食堂の顛末、夏帆が働く店の店長、長澤まさみの恋人の顛末、、)、何らかのドラマの展開を期待させるのだが、それらは特に掘り下げられることはなく、むしろ最終的には広瀬すずの”私の居場所問題”にドラマが収斂していくのは、なんだか安易な感じもする。
たとえば綾瀬はるかと堤真一の関係性にしても、いくらなんでもあっさりしすぎではないか。

一方で、一見善良そうな体裁でありながら、広瀬すずの飲酒やヌード(!)、長澤まさみの露骨なセクシーショットなど、なかなかしたたかな映画でもあるだろう。広瀬すずの爪に長澤まさみがマニキュアを塗るシーンは、『ミツバチのささやき』を想起した。

また、序盤の、葬式に向かう電車に座る長澤まさみと夏帆の顔に当たる光、あるいは広瀬すずを後ろに乗せて前田旺志郎が自転車を漕ぐシーンなど、ちょっとビックリするぐらいに美しいシーンもある。後者のシーンなどは、本当にただこれだけで泣けてしまった。


2015年5月29日金曜日

デモンシード

監督:ドナルド・キャメル

『2001年宇宙の旅』の、あの超有名にして不毛なクライマックスの映像にあからさまにインスパイアされたような映像が出てくる。
『2001年~』がきわめて精密な設計とある種の”高級感”を持ったSFであるのに対して、こちらはすごく雑(笑)。しかしこの雑さがなんとなく楽しめる。ほとんど確信犯的な語りの省略は、やりたいことだけやりましたという潔さがあるし、人工知能プロテウスが具現化した多面体の高速回転も面白い。
しかしやはり映画としての雑さは否めない。このジュリー・クリスティーはあまり良くないのではないか。
おそらくこのモチーフをより現代的に(人工知能からより生物学的、遺伝学的に)発展させたうえで、緻密な物語として完成させた映画が、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の傑作『スプライス』だろう。本作はその先駆けとして見るとなかなか味わい深い。


2015年5月24日日曜日

マイ・プライベート・アイダホ

監督:ガス・ヴァン・サント

『ドラッグストア・カウボーイ』と比べると、とっ散らかってるが、その分瑞々しい。ともに盗みを働く仲間たちの、お祭り騒ぎのような暴れ具合がとっても可笑しい。キアヌ・リーブスが酒瓶を一口グイっと飲んで、それを仲間に放り投げ、仲間がキャッチして、もう一人がくわえてるタバコを取りあげ、そのまま調子よく階段を上っていく、という一連の描写が、いかにも楽しいインディ映画だ。

それでいて、『ドラッグストア~』同様に、もの悲しく、切ない。
家族のような仲間と、その別れ。最後に車に乗せられて運ばれるという帰結も、『ドラッグストア~』と共通している。
あるいはホームビデオによるノスタルジックな過去の映像。

あるいは自然風景の描写。美しい風景であると同時に、それが主人公の心象風景として何度も反復され、サイケデリックな雰囲気すら獲得していく。
ある景色に捕らわれたようにぼーっとする描写というのも、『ドラッグストア~』や『誘う女』に出てきた。

夢の中でリバー・フェニックスがキアヌ・リーブスに告白して、抱擁を交わすシーンが、非常にシンプルでありながらもっとも感動的だと思う。うまいなーと思うのは、この夢のシーンが終わってリバー・フェニックスが目を覚ましたときに、彼自身のリアクションを撮らずに、バイクが停止しているところにパトカーがやってきて・・・という展開を速攻で持ってくることで、わかりやすい余韻(キアヌ・リーブスへの思いを隠して苦しんでいるのだ、という)をつくらずにあっけなく進んでいく点。


アメリカの田舎の風景とともに、イタリアの田園風景も出てくる。この田園風景がまた魅力的だ。

リバー・フェニックスの神経質そうな立ち振る舞いは、少しドゥニ・ラヴァンを思わせたりもするが、あれほど”即物的”でも”本能的”でもない。何とも言えぬもの悲しさがある。

それと、街並みの切り取りかたがやっぱり素晴らしい。キアヌ・リーブスとリバー・フェニックスが入り浸るカフェを外から映したショットなんか最高だ。その中で仲間たちが一方的に喋りまくるのを無造作につなげたような描写もたまらなく良い。

2015年5月22日金曜日

キングの報酬

監督:シドニー・ルメット

久々に再見。じわじわと面白くなりそうで、えっ?てぐらいあっさり終わってしまうあたり、「食い足りなさ」は残るが、この「虚をつかれた感じ」こそがリチャード・ギア演じる主人公の最終的な帰結に一致するのではないか。

選挙コンサルタントを描いた映画としては、最近では"NO"があった。冒頭では南米の総選挙を前にした候補者の"Say No!"という演説がある。

音楽に合わせてビートを刻むリチャード・ギアの姿が何度も挿入される。これが彼の集中力を高めるやり方なのだろう。”候補者を当選させる”ことだけに集中して、仕事に取り掛かる。その仕事を行う場所である彼のオフィスは、やたらと天井が低く作られている。彼の相棒的存在である分析家のアジトも非常に狭い。この映画における室内のシーンの多くが、そんな狭窄感に包まれているように思う。その狭い世界の中で、候補者を政治の世界に送り込む、つまり"POWER"を操作するのが、彼の仕事であるわけだ。
ニューメキシコ州知事候補のCM撮影を行っているシーンで、モニタールームからスタジオにゆっくりと降りてくるリチャード・ギアの姿が、その揺るぎない自信と、選挙コンサルタントと候補者の力関係を一瞬で表象してしまう。

だが映画が描くのは、とことんまでにout of controlな現実世界だ。彼の知らぬところで陰謀がうごめき(しかしその陰謀の描写のなんと味気ないことか(笑))、選挙は予想外の結果を見せる。それをテレビ中継で知った彼は、呆気にとられ、ジュリー・クリスティと見つめ合う。この最後の二人の演技が大変素晴らしく、このショットですべてを許してしまう。

シークエンスはじめのロングショットがどれも素晴らしい。空港でのジーン・ハックマンとのやり取り、ホテルのカフェでジュリー・クリスティーにあてられたキラキラとした照明の美しさ。


2015年5月6日水曜日

ブギーナイツ

監督:ポール・トーマス・アンダーソン

いわゆるPTA作品というのを、今まで全く見たことがなかった。初PTA。
精神的父親、精神的母親、マッチョイズム、性と暴力、ドラッグといった、いかにもなテーマを2時間半に詰め込んだ映画で、正直消化不良な部分が散見される。

ジュリアン・ムーアの役柄は、『ラブ・ストリームス』のジーナ・ローランズを思い出す。だらしなく、愚かなゆえに、家庭を失い、自責の念に苦しむ。彼女の居場所はポルノ業界にしかない。
というより、ここで描かれるポルノ業界は、居場所を失った人々が集まってくる場所で、要するに疑似家族だ。

前半の70年代の場面は、マーク・ウォールバーグがスターダムにのし上がるまでを一気に描きながら、ラストにウィリアム・H・メイシーの発砲と自殺を持ってくることで、不吉な予兆、あるいはこの疑似家族が抱える闇を印象づける。

予想通り80年代にはファミリーが分裂し、分裂したそれぞれの人間は、それぞれの場所でパッとしないどころか、暴力的事件に巻き込まれ、やがて元に戻ってくる。
マーク・ウォールバーグはドラッグに溺れ、道端では若い不良に絡まれ、性的恥辱を受ける。あるいは仲間の暴走によって発生した銃撃戦を何とか逃げ出す。
ドン・チードルはポルノ俳優という出自により銀行からの資金を断られ、偶然遭遇した強盗事件で生き残り、金を奪う。
バート・レイノルズとヘザー・グラハムは、ビデオの普及とともに凋落するポルノ映画界で新しい作品をつくるべく、いわゆる”素人ナンパもの”を撮影するが、暴力沙汰になってお蔵入り。
ウィリアム・H・メイシーがまき散らした血しぶきのごとく、彼らが抱える問題が一気に噴き上げる。

これらの事件の描き方は、時に足早にすぎ、雑な印象も与える。あるいはマーク・ウォールバーグが巻き込まれる事件と、バート・レイノルズとヘザー・グラハムのパートを並行モンタージュで描くというやり方にも、疑問を持つ。確かにこの手のモンタージュによる盛り上げ方、行くとこまで行っちまった感を醸成するやり方は、アメリカ映画の常套手段ではある(具体的な歴史とかはよく知らんが、まぁよくあるよね)。しかし、それにしてもこの唐突なモンタージュは雑だ。おそらくそれは、双方の、つまりウォールバーグが抱える問題と、バート・レイノルズが抱える問題をあまり良く描けていないため、のっぴきならぬ感情の爆発としての暴力がここにはないからだ。

一方で、アルフレッド・モリーナの邸宅での銃撃シーンに至るまでの演出は非常に優れている。
同居する中国人が鳴らし続ける爆竹の音、用心棒の黒人が銃を持っていることを示すショット、そしてウォールバーグら3人の何を考えてるかわからぬ雰囲気が、暴力的帰結までの時間をじわじわと演出する。

ラストのシークエンスショットが素晴らしい。
バート・レイノルズが自分の邸宅を歩き回る。そこにはドン・チードルら、従来の仲間がいるものの、同じシークエンスショットで撮られた70年代のあの乱痴気騒ぎはもはや影を潜め、プールサイドの風景も、静かでもの悲しい。
レイノルズが最後に訪れる部屋では、ジュリアン・ムーアがメイクをしている。レイノルズは静かにジュリアン・ムーアの顔に手をやり、言葉をかける。喪失感を抱えたファミリー達の再スタートが、優しい筆致で描かれる。

ラストショットは鏡の前で再スタートを切るマーク・ウォールバーグだ。スコセッシ『アビエイター』のラストに似ている。





2015年5月4日月曜日

フィラデルフィア

監督:ジョナサン・デミ

実に迫力のある映画だ。
トム・ハンクスの私生活はほとんど描かれない。仮装パーティと、法廷での回想シーンぐらいなものだ。アントニオ・バンデラスとトム・ハンクスは一度もキスをしてないのではないか。
徹底して私生活を描かず、見る者の想像力にゆだねている。
二人が尋問のリハーサルをするシーンで、トム・ハンクスの顔に当てられた赤みがかった光線が美しい。
冒頭のバンデラスとインターンの医師との対立が面白い。

カメラ目線を多用している。人物はよくカメラの方を見ている。これはいくつかの意図、効果を感じさせる。デンゼル・ワシントンのオフィスにトム・ハンクスがやってきて、「エイズだ」と告げると、ワシントンは動揺し、視線が泳ぐ。そうした視線の泳ぎがワシントンのPOVとしても、あるいはトム・ハンクスのPOVとしても提示される。真正面にカメラを据えることで、視線の揺らぎが強調される。

デンゼル・ワシントンに法学生が絡んでくるシーンがある。そこで法学生がゲイをネタにするのに対して、デンゼル・ワシントンが怒りを露わにする。「こういう奴がいるから・・・」とも言う。当然のようにこれは自分にも向けられている。自分もまた妻とゲイをネタにした会話を楽しんでいたりするからだ。デンゼル・ワシントンは、だから、この映画を通して、過去の自分と向き合わなくてはいけない役柄だ。そのモチーフとして”鏡”の存在があると言ったら、深読みが過ぎるかもしれないが。

差別や偏見をテーマにした映画において、偏見や差別意識を抱えた人間が主役に配され、徐々にその偏見を克服していくようなストーリーは、いくつかあると思うが、あまり思い浮かばない。
『クラッシュ』(ポール・ハギス)とかは、ちょっとまた毛色が違う気もするが。

ある女の存在証明

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

難解きわまりない。深遠であるとか、抽象的であるというのではなく、ただひたすら、混乱をきたしたフィルムだ。それが面白い。異様に惹きつけられる。
この映画を一回見ただけで筋が追えてしまう人は、よほどの情報処理能力か集中力を持ってるに違いない。僕は2回見て、ようやく時系列がなんとなくわかったが、しかしそれでも解せぬシーンはたくさんあった。しかしそんなことがどうでも良いと思えるほど、映像の説得力がある。
特に、あの窓を介した、見つめ合い、別れ。階段の造形。霧。ヴェネチア。
ひょっとするとアントニオーニで一番好きな映画かもしれない。

アントニオーニのインタビュー本で、この映画についても語られている。(その名も、『アントニオーニ 存在の証明』だ。(フィルムアート社))
そこで彼が言うには、この映画の人物たちは、これまでの作品の人物のように実存の危機には陥っていない。むしろ葛藤に苦しんでいる、と述べている。で、その証拠に(?)、今回は人物と背景の強い絆を弱くした、事実を捉え、人物の心理に重きを置いた、というようなことを言っている。
なるほど、60年代のアントニオーニにおいては、確かに人物は行動よりも背景との関係によって描かれていたと言っていいだろう。無機質で広大なコンクリートの、<過剰な稀薄さ>が、人物の存在的危機をまるごと表象していたのかもしれない。
そういった視点で見ると、確かにこの映画では、背景はあくまで人物の周囲で起きる出来事を捉えたものであり、その意味では物語に奉仕する画面である(しかしあまりの情報量と<不親切さ>ゆえに物語が錯綜しまくっている)。
また、女性たちは、モニカ・ヴィッティ的無表情さを持たず、確かに何かに苦しんでいるように見える。マーヴィであればそれは、上流階級という出自、あるいはその象徴である父の手から逃れることかもしれない。イーダの葛藤とは何なのか。あまりにも物事を受け入れすぎてしまう自分との格闘だろうか。なかなか難しい。
だがそれでも、名高い霧のシーンは、60~70年代のアントニオーニを彷彿とさせる。

「科学」というモチーフが多少関連しているように思える。
主人公のニッコロが、婦人科医である姉のオフィスでマーヴィと電話するとき、「映画監督は何でも視覚化したがる」と言う。そのときニッコロが見ているのは、骨盤部のX線写真である。
あるいはラストシーンでは、ニッコロのナレーションで、人間がいつか太陽の内部の組成を研究して云々、というセリフが出てくる。
対象の内部を探ろうとすることが、本作のテーマの一つになっている。それは心理を探ろうとすることかもしれないし、自分の中にあるインスピレーションを明確化しようとすることかもしれない(ニッコロは常に女性の顔を探している)。



2015年5月1日金曜日

誘う女

監督:ガス・ヴァン・サント

最近で言うと、『ゴーンガール』に似通っている映画。メディアにおける虚構のイメージによって自分の思うままにことを運ぶ女をニコール・キッドマンが演じている。『ゴーンガール』は途中で見るのやめちゃったんでアレなのだが、あちらが自分のつくられたイメージにうんざりするのに対して、こちらはとにかくそのイメージを利用しまくる。その犠牲になるのが、ウブな高校生たちで、彼らはイメージ通りのニコール・キッドマンを崇拝し、あろうことか「清純」であると思い込む。車のヘッドライトに照らされながら踊るニコールキッドマンを捉えたショットが反復されるあたりにそのことがよく表れているだろう。

少し単調で、跳ねていかない。メディアのイメージと自分の頭の中のイメージとが交錯しながら飛躍していくような、アトム・エゴヤンのような面白さに欠ける。
それでもニコール・キッドマンはきわめて魅力的だし、印象的なシーンもある。船上のマット・ディロンに手をふるキッドマンの後ろ姿など。

2015年4月30日木曜日

ドラッグストア・カウボーイ

監督:ガス・ヴァン・サント

マット・ディロンが言う、「いつ降りるべきかの合図を探している」。彼はその合図に取りつかれている。犬の話、ベッドの上の帽子といったジンクス。
このジンクスというモチーフは、人生の身も蓋もなさの裏返しだ。身も蓋もないなかで、「降りる」という決断をするためにこそ、彼はジンクスに頼る。

そんな一人の男の精神的には過酷な物語を、これほど軽快に語ってみせる素晴らしさ。
粋な音楽の使い方、ヴァン・サントらしい年配の男の存在、広大な大地を捉えた俯瞰ショット、美しく時に不吉な空、街のビル群、そうした主人公たちの周囲の描写が、この映画を軽快に、しかしどこか切なく、苦みの効いた映画にしているだろう。

ヤク中映画の主人公というのは、ヤクに溺れて堕ちるとこまで堕ちてグダグダになっていくというのが定番だと思うが、この映画のマット・ディロンは徐々に勢いがなくなってはいくものの、しかし行動力を失わないところが面白い。


大胆な省略が二度ある。
一度目は刑事がマット・ディロンらの家をめちゃめちゃにする描写の省略。
二度目はマット・ディロンが病院を脱出する描写の省略。

マット・ディロンとケリー・リンチの別れが二度描かれる。
一度目はマット・ディロンが去り、二度目はケリー・リンチが去る。


2015年4月5日日曜日

2014.1~2015.3までの映画を振り返る

2013年についてはこっち

いろいろ書こうと思ったものの、なんだか忘れたものも多いので、良かったのを箇条書きで。

・プリズナーズ(米 ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
 物語をただ進めるのではなくて、一個一個のシーンをスクリーンに刻印しながら進んでいく、その手腕が素晴らしい。全編にわたっての大雨のすさまじい存在感、終盤のジェイク・ギレンホールが運転する車の疾走、などなど。極上のサスペンス・ミステリーというのは、こういうのじゃないかな。
ちなみに同じ監督の作品『複製された男』は、駄作だぜ。



・デビルズ・ノット(米 アトム・エゴヤン)
 『プリズナーズ』同様、ある家族の子供がいなくなり、容疑者が逮捕される。『プリズナーズ』が真相にぐいぐいと近づいていくのに対し、こちらは映画の進行とともに真実がうやむやにいなっていく。その混乱ぶり、イメージの執拗さが、エゴヤンらしい傑作。いわゆる「極上のサスペンス・ミステリー」ではないけどね。



・エレニの帰郷(ギリシャ テオ・アンゲロプロス)
 昨日、ついにマノエル・ド・オリヴェイラが106歳で亡くなった。アンゲロプロスもこの作品を遺して亡くなってしまった。ベルイマンも、アントニオーニも、アンゲロプロスも、亡くなってしまった。
 それにしても、痛切。しかし痛切さの中に、軽快さもあり、謎めいてもいる。すべてが新鮮で、驚きに満ちていて、とっても感動する。『エレニの旅』の続編だけど、まぁ、あんま関係ないので、いきなりこっち見てもいいと思う。




・さらば、愛の言葉よ(仏 ジャン=リュック・ゴダール)
 シャブロルが亡くなったのは、数年前だったか。ヌーヴェルバーグの人たちで残っているのは、アグネス・ヴァルダと、このゴダールだけだ。満員の劇場で、3Dメガネをかける、という行為自体が、ゴダールに嘲笑われているかのようだけども、良かった。
 ゴダールとか、キューブリックとかの作品というのは、映画を見ている本数に限らず、この映画はこの人にしか撮れない、という感じがする、まぁ要するにとってもオリジナリティがあるわけで、今回も、ああゴダールだな、という感じなのだけど、でも、それにしても見事な3D映像でした。







・6才のボクが、大人になるまで(米 リチャード・リンクレイター)
 これは本当に素晴らしかった。いきなりColdplayの名曲Yellowがかかって、武装解除されちゃったのだけど、それから続くありふれた、しかしとっても愛おしいシーンの連続に、ああこれはずーっと見ていられる映画だと確信した。
 美しい時間の流れ。それは、12年間という長い時間で起きた変化でもあり、1分間の男女の会話を長回しで切り取ったショットでもある。さまざまな時間を、光によって、表情によって、声によって、感じ取ること。

・プロミスト・ランド(米 ガス・ヴァン・サント)
 絶好調ガス・ヴァン・サント。『永遠の僕たち』も素晴らしかったけど、今回は社会派寄り。貧しい田舎町での天然ガス採掘をめぐる物語。福島原発以降、この手の題材にはより敏感になってしまうが、この映画が素晴らしいのは、あらゆるシーンにおいてあらゆる人物を平等に扱っている点だ。さまざまな人々が、印象的だ。そういう映画は、なかなか見られるものではない。

・君が生きた証(米 ウィリアム・H・メイシー)
 上にあげた2作品と、この『君が生きた証』を一緒に見ること。それが多分現代で最も有意義な時間の過ごし方のひとつだろう。お互いにとても似ていながら、それぞれに個性的な物語、演出がある。特に『プロミスト・ランド』と『君が生きた証』の類似性はすごい。特にラストがね。








・ヴェラの祈り(露 アンドレイ・ズビャギンツェフ)
 処女作『父、帰る』から、ずいぶん輸入されるのに時間がかかった。しかも数々の国際映画祭で賞をとっているのに。『ヴェラの祈り』は、ものすごく荘厳で神秘的な匂いすら立ち込める美しい映像の連鎖でありながら、重大な出来事はつねにその裏で起きているという、ある意味では「何も語らない映画」であり、しかしそれ自体が様々なことを語ってもいる映画だと言える。






・神々のたそがれ(露 アレクセイ・ゲルマン)
 よくわかんないけど、すごかった!

・郊遊-ピクニック-(台湾 ツァイ・ミンリャン)
 よくわかんないけど、すごかった!


・ある過去の行方(仏 アシュガー・ファルハディ)
 『プロミスト・ランド』や『君が生きた証』が、中盤~終盤にかけてある一つの「嘘/真実」がグイっと物語を変転させるのに対し、この『ある過去の行方』、というよりアシュガー・ファルハディの作品(『彼女が消えた浜辺』、『別離』)は、次々と新しい事実が突き付けられ、そのたびに喧嘩が起きる。一貫している。本作はだから、前二作と比べて大きく前進しているわけではないとは思うが、しかし僕は今、ファルハディ監督の新作を一番見たいと思っている。



・マイブラザー 哀しみの銃弾(米 ギョーム・カネ)
泥臭い、兄弟の宿命もの。かなり面白かった。ラストも、そう来ますかと。『プロミストランド』的な、批評性をうちに秘めた穏やかな秀作もいいけど、こういう、ハードな殴り合いと罵倒合戦も、映画の醍醐味だよね。


・女神は二度微笑む(インド 監督忘れた)
とっても面白い。欠点もたくさんあるけど、その分良いとこもたくさんあって、総じて全面擁護したくなっちゃう映画だね。楽しい見せ場もたくさんあり、視覚的にも面白い。そして人物のキャラクタリゼーションがなかなか凝っているため、ユーモアも上々。楽しい楽しいアクションサスペンス映画っすね。もっと拡大公開されてほしい。



・自由が丘で/ソニはご機嫌ななめ (ホン・サンス)
この二本については、いちいち言葉を並べるのも野暮かも。
『自由が丘で』は、なんだかズレてる、なんか様子が変、という映画。でもそのズレや行き違いが、人と人が交流する楽しさだよね、と。まぁなんか、そういう映画だ。
『ソニはご機嫌ななめ』は、もう少しストレートというか、ああ、これをやりたいのね、というのが明確かな。僕は『自由が丘で』の方が好き。





・フランシス・ハ(米 ノア・バームバッハ)
あんまり覚えてないけど、ずいぶん面白く、そしてうまいなーと思った記憶がある。とにかく、小品なのに、すげー上手いんだよね。



2014年は、仙台メディアテークで見た、濱口・酒井両監督の震災ドキュメンタリーがとても素晴らしかった。それらと併映されたのが、カラックスの『ポンヌフの恋人』、そして溝口健二の『夜の女たち』で、どちらも凄すぎて圧倒された。「スクリーンで繰り広げられている出来事にただただ圧倒される」という意味では、この2本は最強だと思った。
加えて、新文芸坐シネマテークのクレール・ドゥニ『35杯のラムショット』も素晴らしかった。

IndieTokyo、というか、大寺眞輔さんがやろうとしているのは、アート映画を商業主義と対立させるのではなく、アート映画ならではのマーケティングを展開することで、それによってアート映画そのものの体験の質を向上させましょうということだと思っている。とりあえず、IndieTokyoの今後の活動に期待が高まっている。



2015年3月22日日曜日

ファニーとアレクサンデル

監督:イングマール・ベルイマン

ベルイマンはテレビ映画などを入れると30本以上の映画を撮っている人で、また年代によっても作風がかなり違っていることから、容易にベルイマンについて語ることはできないはずで、僕自身まださらっと十数本を見ただけなのだが、しかしこの『ファニーとアレクサンデル』は、ベルイマンの集大成!という印象を非常に強く感じた。

たとえば”牢獄”というメタファー。エクダール家もある種の牢獄であるが、エミリーが嫁いだ先の主教の家もまた牢獄であるし、また子供たちの避難先にも文字通りの牢獄が存在し、そこに謎めいた美青年が住んでいる。
ベルイマンの映画を見ると、いつも、人生は牢獄だ。と思ってしまう。あちらへ行ってもこちらへ行っても、地獄が待っている。そこからは抜け出すことはできない。

『冬の光』を見れば良い。どこへ行こうとも救いはなく、神は沈黙したままだ。

『恥』もまたそうだ。どこへ行こうと待っているのは暴力とモラルの荒廃だ。

『叫びとささやき』では、部屋を行ったり来たりせわしなく動くが、どの部屋でも重たい重たい現実があり、それに気づいたとき、扉はなかなか開かぬ扉としての存在感を増す。

『蛇の卵』もまた、荒廃したドイツではどこに行こうと暴力があり、やがて主役二人は文字通りの牢獄に閉じ込められる。あるいは警察の尋問中に逃げ出したデヴィッド・キャラダインの顛末を見れば、その”逃げ場のなさ”が見て取れるだろう。

あるいは『狼の時刻』においても、そうしたモチーフは見て取れると思う。

「人生という牢獄」に抵抗する手段は様々である。
『恥』で夫婦はお互いに見た「夢」について語る。戦前の美しかった街並み、人生に思いをはせるのだ。
『叫びとささやき』では死体がよみがえる。

また『不良少女モニカ』や『夏の遊び』は、島での生活そのものが「現実からの逃避」という儚い抵抗であった。

本作『ファニーとアレクサンデル』においても、夢、亡霊、幻覚、読み聞かされる物語、といったモチーフが横溢しており、さらに言えば、終盤の主教の屋敷と謎の美青年の住む牢獄を交互に映し出し、それらが互いに共鳴しあうという見事な並行モンタージュによって、イメージが現実を超える瞬間すら創出してしまっている。ラストのセリフは「想像力によって空間と時間を超える」だ。

まさしくファンタジー映画として『ファニーとアレクサンデル』は君臨している。
しかし現実とファンタジーに対するベルイマンの視線は極めてシニカルなものだといえる。
主教との再婚は、人生の悲しみから救われるためのエミリーの決意だったが、その決意は見事に裏切られ、さらなる牢獄が待っていた。しかしその牢獄においては、幻覚さえも時には敵であり、実際、かつて屋敷に住んでいた女性たちの亡霊はアレクサンデルに露骨な敵意を示し、アレクサンデルを追い詰める。
そこはまさに地上の地獄と言ってよい空間であり、エミリー、ファニー、アレクサンデルはやっとの思いでそこを抜け出すわけだが、3人が戻ってきた場所とは、そう、エクダール家だ。
それは第1章で描かれるように、人間の醜悪さ、みじめさ、強欲さが凝縮されたような空間だ。そこに戻ってくることが、この映画における「ハッピーエンド」なのだから、全く現実とは救いようがない。(アレクサンデルの元にはあろうことか、死んだ主教の亡霊までもがつきまとうことになる!)


上でもふれた第一章の一家の描き方が全く素晴らしい。自暴自棄のあまり妻に暴力をふるうカール(妻を突き飛ばす瞬間のカッティング・イン・アクションがすごい)、性欲がとどまることを知らぬグスタヴ(セックス中にベッドが外れるシーンのバカバカしさ!)。
夫(オスカル)を亡くしたエミリーの絶叫も、決して彼女の姿を大映しにせず、ドアの隙間からだけ彼女の姿と夫の亡骸を捉えるという演出が極めて優れている。
オスカルの死に際のベッドサイドの演出も濃密なことこの上ない。

悲しむエミリーに主教が手を差し伸べる瞬間の演出が大変すばらしい。ここでは、涙を流すエミリーの首元に後ろから主教が手を差し伸べ、彼女に触れるかどうかというタイミングで、劇的なチェロの音色が挿入される。
さて、その後、主教がアレクサンデルを説教し、ムチを打つシーンがあるが、ここでそのままアレクサンデル主教の部屋を出たあと、残されたファニーの顔に、同じように主教が手で触れようとする。ここでファニーはサッと顔をそむけて、主教の手を拒むのだ。拒まれた手の震えを捉えたクローズアップがすごい。

書ききれないぐらい見事な演出、演技の数々であり、この映画ほどあっという間に終わってしまった映画はない。










2015年2月27日金曜日

ヴェールの政治学 その2

 第三章は、「世俗主義」と銘打ってあり、フランスでは「ライシテ」と呼ばれている。
 
 


 世俗主義の一般的な受け止められ方は「近代」と結びついている。すなわち、


 世俗主義は近代―民主主義への扉であり、理性と科学による迷信、感情、絶対的な信念への勝利―のしるしとして受け取られている。この観点からすれば、国家の近代化とは宗教を抑制するか私的なものにすることである。(p.109)


 
さて、この章ではまず、「ライシテ」の歴史的起源とその変遷を追いかけつつ、アメリカの「世俗主義」との違いを明瞭に記述している。
要点をまとめれば、
フランスでは宗教と結びついた権力を打破した歴史を持つのに対し、アメリカはヨーロッパの支配者たちによる迫害から逃れた宗教的なマイノリティの場(p.105)であるため、


フランスでは宗教から個人を守るのだが、アメリカでは宗教は国家から守られ、国家は宗教から守られるのである。(p.106)


この本は一貫して、ヴェール禁止派の視野狭窄、態度の硬直化を批判しているので、「なるほど、アメリカのように宗教に寛容になるべきだなぁ(アホヅラ)」となってしまいそうになるのだが、そうではない。続けて著者は、アメリカでキリスト教原理主義が政治に介入している事例に言及している。


今や宗教集団のメンバーが、しばしば民主主義の名のもとに、固有の信念と利害を認めるように要求しはじめ、世俗主義を市民としての権利を十全に享受するための障害だと見なすようになった。(p.106)


フランスの側からすれば、合衆国でキリスト教福音派の政治勢力が増大していることは、強力な世俗国家が緊要であるという正反対の証になる。(p.107)


硬直化した世俗主義=ライシテの強要は、ともするとイスラーム圏の人々に対する差別やアイデンティティの剥奪(第4章で詳述されている)につながってしまう。しかしだからといって、世俗主義の完全な放棄は、宗教的圧政の原因にもなりかねない。そうしたジレンマを著者は語っている。


ではどう考えればいいか。まずは、近代↔伝統、世俗主義↔宗教、という二項対立を解体することから始める。というのも、宗教は決して絶対的で硬直化した非民主的で非近代的なものと言うべきではないからだ。


宗教はその宗教を特徴づけてきた「伝統」に反する独自の合理性や論理を持つだけでなく、時間をかけて発展も遂げてきた。神学者や宗教法学者は、社会、経済、政治状況との関連で、拠り所となるテクストを再解釈してきた。(p.110)


あるいは、世俗主義は宗教を抑制することではない。近代とは宗教をなくすことでも宗教と対立することでもないからだ。


多くの国家が国民の宗教的信念を承認し、折り合いをつける方法を見出すことで世俗化してきた。(中略)世俗国家によるこうした宗教の扱いは、(中略)世俗主義の原則を解釈したり、再解釈したりしてきたことの結果であったのである。(p.110)


著者が強調するのは、フランスの近代化とは(その他の多くの世俗国家と同様に)、宗教を締め出した歴史ではなく、宗教と折り合いをつけてきた歴史なのだということで、前者に固執することがスカーフ禁止法への執着につながっているし、イスラム差別の道具にもなっている、ということである。
その「折り合いの歴史」についてはぜひ本書を読んでほしい。






以上のことから、本章で著者は、
 
 
 


 ある種のスカーフ禁止法の提案者たちが主張するように、彼女ら/彼らが承認する型の世俗主義のみが実現可能なものだと結論づけるのは誤りだろう。スカーフ禁止法の提案者たちは、格好の反証となる歴史があるにもかかわらず、1789年に遡り、国内の学校で主教を断固として拒否したことで共和国は統一されたと主張した。これはライシテの「共和国モデル」という異名を持つものだ。(p136)


と、画一的なライシテの解釈に疑問を呈し、かつて教育連盟(教育に関する有志連合)が提示したライシテの概念をそこに対置する。


教育連盟は、方針を記した起草文書の改定第一版で、ライシテとは「民主主義の良心」であり、「科学的思考が化石化して教条化するのを防ぎ」、「その計り知れない文化的重要性を否定することなく、宗教を適度に抑え込むため」の努力であると主張している。(p.137)


考えてみれば、宗教的アイデンティティを持つ子供を学校から追い出せば、その子供が別の考え、世俗的価値観に触れる機会も奪ってしまうことになる。
しかし、


学校とは実際に民主主義のゆりかごであり、その民主主義において差異は仲介され、調停され、慣行は批判的に再検討されて改定され、不朽の真実を教条的に主張することのんあい状況で、盛んな討論が可能となる。その意味では、学校は市民権のための、異種性から成る統一体として概念化された国民の仕事に参加するための準備を行う場所である。そうした国民においては、有権者の差異は資源として理解されるのであって、欠陥として理解されることはないのである。(p.138)




以上が第3章のおおざっぱな要約になる。
第4章の個人主義では、「その1」で触れたように、スカーフを着用する主体にとってのスカーフが持つ意味が、通時的にも共時的にも多様であり、その意味ではまさしく個人主義の観点から、(両親に反対されているにもかかわらず)ヴェールを着用する少女がいるということなどを指摘している。
第5章ではフェミニズムを扱っている。多くのフェミニストがイスラムのヴェールを女性の抑圧と考えている点、そしてこうした面でだけスカーフを考えることは、ある種のイスラームがそうであるように女性を客体化する家父長的帰結を生んでしまう、ということを指摘している。


というような感じであり、これはとっても面白い本なのでぜひ読んでください。

2015年2月19日木曜日

冬の光

監督:イングマール・ベルイマン

マックス・フォン・シドーが自殺した現場に牧師がやってくるシーン。
牧師が現場に車で来て、警察官と軽いやり取りをし、遺体まで歩いていき、それを何か袋のようなもので覆い隠すのを手伝い、それから遺体を警察車両に運び、そうしてまた自分の車に帰っていく様子をすべて数カットのロングショットで捉えている。

このマックス・フォン・シドーは映画冒頭で牧師のところに妻に連れられ、そのあともう一度牧師と話し説得されたのちに自殺を遂げているので、牧師としては自分の説得(実はそれはほとんど自身の信仰の弱さを告白したものなのだが)が何の効果も持たず、あっけなく死んでしまった、という存在であって、だから通常であれば、ここには遺体と牧師をそれぞれ切り替えしでつなぐクローズアップのようなものがあると予期されるのだが、ここではそうした一切の寄りのショットが排除されている。これをどう捉えるか。

マックス・フォン・シドーが牧師のところを訪れるのは、上記したように2回ある。
そのいずれもが、牧師が眠り込んでいたところで、いつの間にか来ている、というような扱いをされていて、この牧師が眠り込んでしまっている時間の描き方がとってもうまい。

撮影も素晴らしい。The モノクロ映画といった感じの雪の描写。光と影の作り方。窓の外の景色。河。

ヴェールの政治学(みすず書房) その1

(著)ジョーン・W・スコット (訳)李孝徳

めずらしく本のレビュー。

フランスでは2004年に公立学校で、イスラームのスカーフを主とする宗教を誇示するものの着用を禁止する法案が可決された。
本書はこのいわゆる「スカーフ論争」を、まず第一章でその歴史的経緯に触れ、これまで3回スカーフ論争がヒートアップしたということ、そしてそれは国民戦線などの極右政党が勢力を強めるたびにそれに妥協する形で槍玉にあげられてきたという点を挙げたうえで、続く第2章から順番に、「人種主義」、「世俗主義(ライシテ)」、「個人主義」、「セクシャリティ」といった観点(もちろんそれぞれがそれぞれと複雑に結びついている)からアプローチをすることによって、西洋文明 VS イスラーム という単純な二元論を批判しつつ、論争全体を考察している。

ちなみに「ヴェール」というのは、主に法案賛成派がこのスカーフを指すときの呼称として使われる、ということらしい。この「わざわざ『ヴェール』と呼ぶこと」もまた、本書では分析されている。



まず「人種主義」との関連で見たとき、これはフランスのアルジェリアを主とする植民地支配、そしてアルジェリアの独立、ならびに北アフリカからの移民の流入といった歴史的経緯があり、そのなかで植民地とその現地住民、移民とその文化圏に対する、フランス人による差別が続いていると本書は指摘している。

北アフリカからの移民、あるいはイスラーム教徒に対しては、「野蛮」、「未開」といったイメージがつきまとった。
そして、アラブ/ムスリムの劣等生を表象するために、時代ごとにさまざまな特徴が選び出されてきた。宗教的実践や農作業、思い込みでしかない性癖、家族構成、男性のトルコ帽や女性のヴェールなどのような着衣などである。・・・フランス人のまなざしにおいては、ヴェールは、ながらく共役不可能な差異とイスラームの同化不可能性の象徴であってきたのである。

重要なのは、フランスの植民地政策以来続く「啓蒙的なレトリック」と、人種主義的な「客体化(同化は不可能)」の間にある矛盾(=文明化の使命のパラドックス)であるという。
すなわち、包摂するという約束が、フランス人になることを選んだ者に履行される一方で、「文明化」が必要だとしてこれらの人々を有標化するまさにその特徴は、彼女ら/彼らが約束を現実化できないようにするものなのである。(p.102)

要するに、「野蛮」であるがゆえに啓蒙が必要なのだが(抑圧されているがゆえに解放が必要なのだが)、「野蛮」であるがゆえに啓蒙されない(抑圧されているがゆえに解放されない)ということではないか。


植民地時代においては、現地住民のフランス人による描写が主にそのイメージを形成しており、特にセクシャリティの面においてその「客体化」が露骨であり、その中心的表象装置として「ヴェール」が扱われていたという。

アラブ人男性は犯罪性と性を結び付けて描かれたものの、アラブ人女性は、アルジェリアとフランス双方で、フランス植民地主義者の想像を駆り立てた。早いうちから、(富と探検が誘引だった)征服に伴う空想は性的な征服の体裁をとることになった。

この時代から〔19世紀中頃〕、漫画ではこうしたテーマ―勝利したフランス兵が「戦利品」として原住民女性を奪い去る―が描かれている。

ヴェールは挑発にして性の否定であり、セックスアピールでありながら性を拒否するものでもあった。ハーレムは、監獄にして娼館であり、束縛にして自由奔放の場所であったのである。


「人種主義」の章では、アルジェリア戦争におけるヴェールの意味づけの変遷が、表象文化論的に分析されていて興味深い。
この頃には、植民地支配を継続すべきという声と、フランス人とムスリムは融和不可能だから独立させてよろしい、という声で二分されていたらしい。アルジェリア人の側は独立に向かって前進していたわけだが、そうした独立勢力にとってのヴェールが持つ意味はきわめて複雑で、ややもすると矛盾したものですらあったという。

なるほどヴェールは、フランスによるアルジェリア占有の拒否であり、アルジェリア人にとって自立したアイデンティティを主張する方法であった。しかし、民族主義的・社会主義的革命の指導者たちの多くは、自分たちを近代化主義者だと考えていたから、彼らにとってもヴェールは最終的には克服されなければならない後進性のしるしであった。(p.73)

加えてヴェールはフランスに対する戦争において有用な道具になった。男であれ女であれ、戦闘員は武器や爆弾を秘密裡に運ぶことができたからである。(p.74)

後述するように、学校でのスカーフ着用においても、法案の反対派のなかには、近代化すればヴェールはいらなくなる、つまりヴェールを着用しなくなることが学校教育のゴールであると考え、その入り口を閉ざしてはいけない、という論理もあるのだという。

フランツ・ファノンの説明では、革命家にとってのヴェールの位置づけは難問であったことがわかる。ファノン自身は、将来的には男女間の不平等の伝統的な象徴はなくなるだろうと想像していたものの、ヴェールが植民地支配に抵抗するあり方だとも理解していた。「黒人を創りだすのは白人男である。しかし黒人性を創りだすのは黒人である。ヴェールに対する植民者の攻撃に、被植民者はヴェールの礼賛を対置する」

もともと宗教的な帰属であったものが、差別の対象となり、それゆえにそれが被差別者のアイデンティティになり、さらには(武器を秘密裡に運ぶのに使われたという意味では)転覆の道具、闘争の手段(ということは、解放の象徴)となっていったわけである。

以上が第2章「人種主義」の大まかな要約であるが、その他の章と共通するのは、そこには「ムスリム」あるいは「移民」に対する画一的なバイアスとそれに依拠した西洋vsイスラームという二項対立の強化があるということであり、この章では特にその「人種主義的なバイアス」が「セクシャリティ」などと結びつき強化され、「ヴェール」がその象徴となっていったということが詳述されていることになる。











2015年2月12日木曜日

デビルズ・ノット

監督:アトム・エゴヤン

最近やたらと評価の低いアトム・エゴヤンだが、『クロエ』のユーモラスなサスペンスぶり、『秘密のかけら』の充実ぶりは素晴らしい。『アララトの聖母』の有無を言わさぬ迫力も忘れ難い。

さて本作。子供が友達と出かけたまま失踪し、やがて死体で発見される、という筋書きは、『ミスティック・リバー』や『チェンジリング』、最近で言えば傑作『プリズナーズ』を思い起こさせる。
とりわけ子供(くそ可愛い)が友達と遊びに、自転車に乗って家を出ていき、干してある洗濯物で姿が見えなくなる場面を、リース・ウィザースプーンの主観ショットで映し出す演出は、『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリーと息子の最後のシーンのように、「これが二人の最後です」と雄弁に語っている。

しかしこの映画はその悲劇性をひとまず保留し、自転車を走らせる子供たちのショットを撮り、さらに森の中へと入っていくショットに子供のナレーションをかぶせる。そして後になってわかるように、このナレーションは全くの「でたらめ」であるのだから、何と戦略的で知的な演出だろう。

さて、映画は子供たちの遺体が発見されるまでを、ものすごいスピードで描いていく。その語りの速度はちょっと異様なほど速いのだが、極めて的確なカメラポジションと繊細なアクターズ・ディレクションによって単なるダイジェストになることを賢明に避け、そこに映画的時間を定着させている。

例えばウィザースプーンの夫が夜になってウィザースプーンを迎えに来たシーンでの、車内の夫と店の前のウィザースプーンの縦の構図の強度。
あるいは別の失踪した子供の両親が、警官の聞き取りに応じている間に、その警官に不審人物の情報が入る。そして発見されたレストランに行くとその不審者はもうそこにはおらず、どこかへ消えてしまったことがわかり、警官はそのまま車を走らせる。しかしその不審者の血痕が壁にべったりとついており、それを捉えたショットが一気に映画の緊張感を高める。
その緊張感の高まりと呼応するように、親たちは警官に対して怒りの叫び声をあげる。
警察署で怒鳴るウィザースプーンの演技は圧巻だ。

さらにそこにコリン・ファースの存在が入ってくる。
カフェのテレビでウィザースプーンのインタビュー映像を見る。そして遺体が発見された現場で、泣き崩れるウィザースプーンを見る。これら主観ショットが挿入されるタイミングの完璧さ。

コリン・ファースは一貫して「見る人間」として描かれる。最初のオークションのシーンでも、最終的にコリン・ファースが落札するのだが、最初は様子をじっくりと観察している。
あるいはテレビを見る、写真を見る、非公開となった審理の様子を窓越しに見る。弁護士ではなくそれに協力する調査員であるために、彼はひたすら「傍観者」の位置にいるわけだが、このキャラクター造型の狙いは非常にわかりやすい。
要するに、「ちゃんと見ましょう」ということだ。
様々な偏見や誤解を捨て、じっくり見ましょう。こうした知的マッチョな位置づけ、作品における優等生としてこのコリン・ファースがいる。しかしそれが決して説教臭くならず、程よいヒロイックさとコリン・ファースによる抑制の効いた演技が素晴らしい。
あとコリン・ファースは声が良い。

圧巻は弁護士2人とコリン・ファースが法廷の玄関口で言い合う場面だろう。
「お前ら取り調べの映像ちゃんと見たのかよ!」と吠えるコリン・ファースに対し、「うるせぇな、そんな時間ないんだよ!てめぇがロースクール行けよ!」と返す弁護士。それを階段の上から目撃してしまうウィザースプーン。
こんな生真面目なやり取りがこんなに盛り上がってしまうものかという、『プロミスト・ランド』的感動を覚える。

リース・ウィザースプーンに戻ろう。
この映画におけるリース・ウィザースプーンのキャラクター造型は、実に面白い。
例えば『チェンジリング』におけるアンジェリーナ・ジョリーと比較すると、同じ子供を失った母親にもかかわらず、そのたどる道は全く異なる。
『チャンジリング』においてアンジェリーナ・ジョリーは、批判の標的とされ、攻撃され、そこに手を差し伸べる人間が現れ、闘う。
一方、本作のウィザースプーンは、被害者でありながら、一貫して傍観者であり、裁判の様子をただ見ているに過ぎない。そして裁判を見ているうちに、それに疑問を抱くようになり不信感を募らせることになる。

この流れで最も重要なシーンが、知的障害を抱えた被告人の、取り調べ時の証言が、法廷で流されるシーンだろう。
「子供をなにで縛ったか?」という質問に対し、「ロープ」と答えると、ロープで縛られた子供の足を大写しにしたショットが挿入される。
ここで法廷に戻り、すぐさま「実際には靴ひもだった」と証人が答えると、今度は靴ひもで縛られた子供の足を大写しにしたショットが挿入されるのだ。
一見するとスベりまくっているこの演出は、一体何か。

実はこの瞬間が、ウィザースプーンの”疑念”の始まりなのである。
この子供の足のショットの直後に、ウィザースプーンは隣の夫に「どうして犯人がそんなこと間違えるの?」と聞くと、夫は「些細な間違いじゃないか」と諌める。
つまりこのロープと靴ひもで縛られた足のショットは、「これが些細な違いでしょうか?」と、「わざわざ」示されているのではないだろうか。だからこそここまで大げさに、この二つのショットが挿入されているのではないか。

そしてこの”疑念”を抱いたウィザースプーンを、カメラは横から捉える。この視点は映画において初めてとられたポジションであり、突如として示されるウィザースプーンの横顔に思わずドキッとするのだが、今度はウィザースプーンがカメラの方に目をやる。するとその先にはコリン・ファースが座っている。視線に気づいたコリン・ファースが、ウィザースプーンの方を見る。
ラストシーンを除いて、この二人はほとんど言葉を交わすことがないのだが、しかしこの、二人の視線が交錯した瞬間は、物語上極めて重要である。
なぜならここで初めてウィザースプーンは、自分が信じ込んでいる”真相”に疑問を持つからだ。疑問を持ち、宙づり状態となったウィザースプーンを、まさにその心的変化に呼応するように、横から彼女を切り取る。
あまりにも優れた演出だ!

二人が初めて言葉を交わすのは、ラストになってからだ。
そこでウィザースプーンが、「決して私たちを忘れないでほしい」と言うと、コリン・ファースは「忘れられない。あなたがテレビに出ていた映像、あなたの子供の写真、決して忘れられない」と告げる。
これが素晴らしい。
ここに至るまで、映画はことごとく「イメージの信用おけなさ」を語っている。テレビの映像、服装で人を判断したり、過去の映像の”邪悪さ”を安直に事件に結びつけたりと、とにかくイメージの曖昧さを物語ってきた。
しかし最後になって、コリン・ファースは「イメージの忘れ難さ」を口にするのだ。
イメージはしばしば、人の目を曇らせ、真実を遠ざける。
しかし一方で、イメージは人と人とを結びつけるのだ。それは中盤でコリン・ファースが見る悪夢のように、Traumaticな作用を及ぼすこともあれば、正義を実践する道を開くこともある。そのようなイメージの可能性を、アトム・エゴヤンは最後に雄弁と語る。
そして子供たちが橋を渡っていくショットで幕を閉じる。

この映画は、『チャイルド・コール』とともに見られるべき映画である。

追記:ちなみにウィザースプーンは何度も泣くのだが、決して涙を流さない。何度も比較して申し訳ないが、『チェンジリング』でアンジェリーナ・ジョリーが何度も大粒の涙を流すことは極めて対照的である。









2015年1月23日金曜日

とある記者会見を見て。

たとえばある映画に対する感想を僕みたいな素人がネットで放言する理由は、まず、自分の発言など何の影響力もないだろうという前提のもと、たとえ影響があっても(たとえば制作者の目にとまる)それは別に倫理的に問題のないことだと思うから。
つまりある映画に対する僕の批判・非難が制作者の目にとまっても、それは倫理的に問題がないという確信があるから。とはいえ僕は、ある作品を批判することと、その作品をつくった人間を批判すること、あるいはその作品を誉めている人を批判することは、どれも全く異なる次元の問題であり、それぞれに境界線を引きつつ、その線を超えるべきか超えないべきかをその都度考える必要があると思っている。結局のところ何の影響力がないにしても。
というのも、それは相手への配慮というだけでなく、作品と作り手と鑑賞者を一緒くたにすることで、自分の世界観が単純なものになってしまうリスクがあるから。

ある作品の感想ーそれがネガティヴなものでもーをネットで放言するのは、他の人と意見を共有できたり、異なる意見に触れたりするきっかけになるから。そうした機会は、自分の感性の確認したり、自分が見えていなかった視点に気づかされたりすることで、自分の感性をさらに磨くためにも大事な契機だと思う。だから常に、別の視点、別の解釈を希求したいとも思う。

逆に言えば、そうした意義がないのであれば、いちいちその作品を批判したり嘲笑したりなんて、しないと思う。何の意味もないばかりか、場合によっては他人を傷つけるから。

あるいはまた、その作品が客から金を取る作品である場合と、それが例えば友人が試しに作った自主制作の作品である場合とでは、僕はスタンスを変えると思う。タダで視聴しといて、友人が作った作品を辛辣に批判する気なんて、とうてい起きないと思う。

でももしかしたら、いつもより穏やかな言葉づかいでもって、その友人に、自分のできる範囲でアドバイスする事はあるかもしれない。たぶんその時には、その作品の欠点の指摘なども含まれると思う。その指摘がすでに誤りの可能性もあるが、たとえ妥当だったとしても、その指摘は、相手のためを思っての指摘でなければならないと思うし、相手の納得や、それによる成長につながらないのだとしたら、それは僕の失敗だと思うし、それなら自分よりももっと効果的な事を言ってあげられる他の誰かがアドバイスしてくれることを願って、僕は口をつぐむことにしたい。
そんなことを思った。

2015年1月12日月曜日

その街のこども TV放送版

演出:井上剛

佐藤江梨子が死んだ友人の父親に会いに行く一連のシーンが素晴らしい。
それはもちろん、一つだけ灯りのついた部屋の存在と、それをあくまでロングショットで捉えること、によるところもあるが、それ以上にまた、一度コンビニへ行った森山未來が走って公園に戻るというディレクション、そして佐藤江梨子が戻ってきてからの、二人の、手を振る/振らないのやり取り、といった演出の複雑さが素晴らしいのではないか。
つまり、”一つだけ灯りのついた部屋”というビジュアルに満足せず、あくまでその空間で役者を行き来させるからこそ、公園の二人とロングショットで捉えられた父親の、二つの空間の差異が、静的な(図式的な)ものにならず、ダイナミックなそれになっているのではないか。

ちなみに、この映画は、『コラテラル』なのではないか、というのが見たときの印象だった。上記のシーンで『コラテラル』を想起せずにはいられなかった。

居酒屋の撮影が意味不明なのだが、それでもついつい引き込まれるのは、会話が素晴らしいからだろうか。
居酒屋での対立→鞄を同じロッカーに預けていたせいで再会→二人で歩く流れに、、、という展開の心地よさ。あるいは佐藤江梨子がいったん居酒屋に戻ってくるシーンの省略の的確さ。

ラストの二人の抱擁。
キスはしないのだが、これはキスをしないのが日本流、というよりは、もはやこの二人は、唇と唇を合わせるなどという器用なことはできず、ひたすら抱き付くことしかできない、それぐらい切ないのだ!と解釈したら、勝手に泣けてきた。

2015年1月5日月曜日

狂気の行方

監督:ウェルナー・ヘルツォーク

何よりも楽しい。これが大事だ、何よりも大事だ、と言うわけでもないのだが、まぁ難しいことは言わずに一回目はとりあえずこの映像を楽しんでればいいんじゃないか、って感じもする。
"映像の質"というものが何で決まるのかは知らないけど、この映画に出てくるいくつかの映像にはビックリした。
オートミールがコロコロ転がるのを超至近距離でフォローしたショット。劇場があるガラス張りの建物内の撮影、ホテルのロビーの撮影、演劇のリハーサルにおいて、人物だけに光が当たり、彼ら彼女らが暗幕に浮かび上がったように見える幻想的なショット、そしてマイケル・シャノンがバットと剣を持ってゆっくりと家の中に入ってくるショット。

最近は3Dでドキュメンタリーを撮ったりしている(未見)ヘルツォークは、そういえばこれのひとつ前の『バッド・ルーテナント』ではイグアナを至近距離で撮った荒っぽい映像を挿入したりしていたが、それでも『バッド・ルーテナント』というのはほとんどが、オーソドックスなカッチリとして構図を決めた優れたショットで構成された映画だったと思う。

一方でこの映画は、全編ほとんどが手持ちのハイビジョンカメラが、ゆっくりと漂うような動き方をする。フォーカスの定まらないカメラワーク、と言うと、この映画の「フォーカスの定まらない物語」を秀逸に表象してると言えてしまいそうだ。カメラ同様に、物語も、どこに行くのかわからない。というよりいつになったら物語が進むのだ、といった感じである。

男が母親を殺害して自宅に立てこもる。
その男の動機を探るべく、刑事が事件が起きた向いの家の住人、恋人、そして男が所属していた劇団の監督に話を聞く。それら人々の語りとともに、男自身の過去が回想として次々と挿入される。
どうやら男はペルーでおかしくなってしまったらしいことがわかる。
次第に回想の語りそのものも常軌を逸していく。突然人物が固まったり、何の説明もないまま場面が転換したり、、、
中毒性のある映像というのは、こういうのを言うのだろうか。

と、まぁものの見事に物語の焦点をぼやかし、イメージと戯れる巨匠ヘルツォークの優等生ぶりを味わえる、と言ったら生意気すぎるか。

しかしそれにしても、回想において、マイケル・シャノンがいよいよ母親を殺害しようかという一連のシーンの、見事な緊張感は、ヘルツォークが大変優れたストーリーテラーであることを十分に証明している。