2020年12月21日月曜日

2020年ベスト映画

1. ナイチンゲール
2. おもかげ 
3. ナイヴズアウト 
4. ペイン・アンド・グローリー
5. パリの恋人たち
6. レ・ミゼラブル
7. シチリアーノ 裏切りの美学
8. リチャード・ジュエル
9. その手に触れるまで
10.スパイの妻
次点:淪落の人
その他:リトル・ジョー、コロンバス、異端の鳥

主演男優賞:ポール・ウォルター・ハウザー(リチャード・ジュエル)
主演女優賞:アナ・デ・アルマス(ナイブズ・アウト)
助演男優賞:寄川歌太 (滑走路)
助演女優賞:サラ・ベイカー(ディックロングはなぜ死んだのか)
      レティシア・カスタ(パリの恋人たち、シュヴァルの理想宮) 

特別賞:地獄の黙示録 ファイナルカット版

2020年6月25日木曜日

ナイチンゲール

監督:ジェニファー・ケント
出演:アイスリング・フランシオシ、バイガリ・ガナンバル、サム・クラフリン

 ★ 目覚める
映画はまずクレアが夫であるエイデンに起こされる、そのクローズアップで始まる。目を開けると、そこにはエイデンがいる。さらにショットがフルショットに切り替わると、横で赤ん坊が眠っているのがわかる。
本作では、眠ったり、あるいは気絶したクレアが目を覚ますシーンが幾度となく出てくる。自宅でイギリスの兵士らに襲われ、気絶させられたあとに目を覚ますと、赤ん坊と夫の死体が目に入ってくる。彼女がアボリジニのガイドであるビリーとともに森を進んでいく過程では、森の汎神論的なイメージの中で彼女は何度も悪夢を見る。この悪夢は、死んだ夫や兵士が顔のほとんど見えないぐらいの暗い影として現れ、声がこだまして、彼女をじりじりと苦しめるのだが、そんな悪夢にうなされる彼女をビリーが揺り起こすシーンがある。また、終盤では悪夢と現実がない交ぜになったまま、彼女が川へ落下するシーンがあるが、その後に彼女が目覚めると、今度はブラックバード(ビリーを象徴するマンガナ)が彼女のもとへ現れる。悪夢にうなされる、そこから目覚める、という展開を繰り返しながら、彼女の旅は続く。木々が生い茂り、星が輝き、月が怪しく光る空が、彼女の暗い旅を見つめる。

★ 銃の扱い
クレアは復讐にとりつかれたまま、英国兵士を追っていく。そこで偶然、赤ん坊を殺した臆病な男に遭遇する。そしてとうとう追い詰めた先で、彼女はショットガンを放つ。が、銃筒を支えきれず、銃弾は足に当たる。もう一発撃とうとするが、引き金を引いても弾は出ない。その自分の頼りなさ、みじめさを痛感するように、彼女は叫び、ナイフで兵士を刺し、銃で顔を殴り続ける。このときのクレアは復讐を遂行する女ではなく、「復讐すらまともに出来ぬ」みじめさを痛感する一人の人間である。人を殺める重み、家族を殺された喪失感、そして自分への失望がない交ぜになった彼女の叫び、血に染まる顔。ここは本作で最も重要かつエモーショナルなシーンだ。
結局彼女は二度と銃を発砲しないだろう。最大の目的である中尉を見つける場面でも、彼女は発砲を躊躇して逆に撃たれてしまう。彼女が唯一撃った弾は、虚しく下に逸れたその一発だけである。さて、もう一人、銃を扱えない人間が出てくる。それが、英国兵士に仕える少年エディだ。
彼は威勢のよさを買われて、中尉から銃の使い方を習うが、ビリーを撃つよう命じられた場面で、彼もまた銃筒を支えて切れず、上へと弾を逸らしてしまい、ビリーは一命をとりとめる。彼もまた、自分のふがいなさに思わず泣きじゃくるだろう。
その顛末も含めて、ちょっと異例の存在といえるこの少年エディは、その臆病さにおいて、いやむしろ、未だ人間性を失っていない人間として、クレアと秘かに通じているのだ。それに対して、見事に銃弾を命中させる白人達との対比は明らかである。

★森と街
本作は、村から森に入り、そして街に出て、一度森に戻って、また街へ行く、という順番で、主人公二人の旅路と英国兵士団の道程を並行して描く構成になっている。
上述したように森は、悪夢と現実がない交ぜになり、死者の声がこだまし、木々が人々を俯瞰し、月が怪しく輝き、精霊が鳥となして現れる、汎神論的なイメージとともに描かれる。この森においては、アボリジニが圧倒的優位に立っている。ビリーは足痕から英国兵士たちの行く先を正確に推測し、また先に待つ危険を素早く察知して身を隠す。ビリーが姿を消すと、途端に不安になって周囲を探し回るクレアの描写はそれと対をなしている。
ところが、終盤、ローンスセストンの街に到着すると、今度はクレアがその大胆さを存分に発揮する。兵士達の元へ堂々と歩んでいき、中尉の悪行を大佐の前で告発するのだ。その姿を、ビリーは身を隠しながら窓越しに、恐る恐る見つめる。ここでは完全に、クレアの方が優位に立ち、ビリーをガイドするのである。
環境によって、人物たちの優位性が変化していく、相互依存的、相互扶助的な関係性も本作の魅力のひとつだろう。
(ところで、上記のクレアが兵士達を前に中尉を告発するシーンの直後に、玄関先で倒れるのだが、その後ろ姿を捉えたショットが素晴らしい。)

★横に並んで歩く
映画の多くの場面が、ビリーとクレアの森を進んでいく旅路を描いているが、二人が横に並ぶことは少ない。例えば森の入り口の場面では、クレアはビリーを警戒して、銃を構えながらビリーの後ろから馬に乗って進むし、ビリーもまた、衝動的に突き進むクレアを追わずに、別の道を迂回する。また、そもそも「手前-奥」の縦構図で同一画面に収まることも、驚くほど少なく(ゼロではない)、二人を映すショットがカットを挟んで独立していることが多いのだ。これは森のシーンだけではなく、クレアがレイプされるシーンだとか、英国兵士達の道程を描く場面でも、(もちろん徹底的ではないにせよ)複数の人物を画面に収めることよりは、それぞれの人物をカットを割って画面に納めていくスタイルが優先されているように思われる。それはある種の分断なのかもしれないし、もっと身体的な監督のリズムなのかもしれない。だが、どういった意味があるにせよ、以下の理由でこのことは自覚的な演出プランであると確信する。
それが、二人で並んで歩くショットである。ビリーが英国兵士集団に捕らえられることで、クレアとビリーは離れ離れになってしまう。しかし紆余曲折を経て、二人は思いがけぬ再会を果たす。それは、真正面クローズアップの内側からの切り返しでまず描かれるだろう。そしてその次のシーンでは、二人が横に並んで歩くのを真正面からとらえたミドルショットが続くのだ。カットを一回割ったうえで、2ショット続けてこの歩く姿が描かれていることから、演出家としての力点がここに託されているのは間違いなく、そもそもこの二人が横に並ぶショットが初めて出てくることは観客も(意識的/無意識的に)気付き、得も言われぬ感動を覚えるだろう。
二人が横に並ぶのを真正面からとらえるショット、というのは、例えばアルモドバルが多用するそれだが、適切なタイミングで、適切なフレーミングの下に出現すると、素朴で普遍的な美しさをもたらす。

★太陽
ラストは日の出で終わる。ちょうど早朝にクレアが目を覚ますショットで始まることを考えれば、ある種の円環構造になっていると言えるだろう。日の出とともに始まり、悪夢の夜を通り抜け、もう一度朝を迎える、という構造である。彼女が最後に太陽を見つめながら歌う歌は、来たる夏に、愛する人と生活していく喜びを歌ったそれである。この太陽は、彼女の未来、新たな"目覚め"と言えるかもしれない。そしてそれをまた、ビリーも一緒に見ている。彼は銃弾に倒れ、死にかかっている。彼は太陽を見つめて、「太陽、俺の心臓」とつぶやく。彼は視線の先に、何を見ているだろうか。太陽は、多くの暴力、死を目撃した二人の瞳を癒すように、照らしているようにも見える。それは、『硫黄島からの手紙』で二宮和也に照った夕陽のようでもある。

★ハリエット
同じタイミングで、シンシオ・エリヴォ主演の『ハリエット』を見た。
『ナイチンゲール』が、英国兵士に支配され、家族を奪われたアイルランドの女性とアボリジニの男性の旅路を描いた作品であるとすれば、『ハリエット』は白人の奴隷として自由を奪われ、家族を失った黒人女性のハリエットの旅路を描いた作品である。驚くべきことに、『ハリエット』もまた、ミンティ=ハリエットが、"目覚める"シーンで始まる。また、ミンティ=ハリエットは頭部外傷の後遺症で、突然睡眠発作に襲われ、そのまどろみのなかで、神の声を聴きそれに導かれて、森を駆け抜けていくのである。
また、ハリエットが善人の助けで草原に出て、街を目指すシーンでは、太陽が彼女の瞳を照らし、彼女もその太陽を見つめる(よりエンターテインメント性の高い『ハリエット』では、この太陽は端的に"希望"と言って差し支えないだろう)。
他にも支配者側の卑屈な所有欲を暴き立てる点や、二人とも特別な歌声を持っていること、街と森を行き来する構造、川を渡る場面が重要な転換点になっている点など、『ナイチンゲール』と『ハリエット』の共通項は驚くほど多い。
ただ、『ハリエット』が雄大なロングショットと見事な伴奏曲で、(ややサスペンスを欠きつつも)一流の娯楽作として魅せるのに対し、『ナイチンゲール』はスタンダード・サイズで、あえて視野を狭く取りつつ、視点とイメージによって空間を拡張していきながら、陰惨さとユーモアを多義的に露呈していく凄みがある。


ここ数年で随一の傑作と言っていいのではないか。

















2020年4月9日木曜日

王国(あるいはその家について)

監督:草野なつか

パソコンの小さいスクリーンで見たので、そこはご了承願う。

「あるいは~」というサブタイトルが如何にもなのだが、まぁそれは良いとして。

実演ではなくリハーサルによって表象する、という実験的な映画である。
筋立てとしては、休職して地元に帰った女性(アキ)が、かつての幼馴染夫婦+一人娘と交流を持つが、様々な価値観の対立などがあり、いったん疎遠になる。が、台風の日に娘を預かったアキが、橋でその子供を突き落としてしまう、というものになっている。「なぜアキは、幼馴染の娘を殺したのか」という動機がミステリーとなって、そこに接近するようにして人物達のやり取りが(リハーサルによって)描かれる。

手法を別にすれば、それほど突飛なテーマではない。
非常に粗っぽくまとめるなら、幼馴染夫婦の「家」は、温度や湿度までコントロールされた、「家族だけの場所」であり、アキはそこに入り込めないし、入りたくもない。しかしアキとしては、幼少時に椅子とシーツでお城を作った親友との、二人だけの二人にしかわからない関係性(=王国)が失われたこと、あるいはそこから親友が立ち去り、「家」の方に行ってしまった事、あるいはそこに囚われていることに、「傷ついて」いる。それが台風の日の一時的な晴れ間(台風の目に入っている状態)に、彼女の内面を激しく揺さぶり、娘を突き落とすに至るわけだ。王国を取り戻すために異物を排除すること。
このことが、アキが読み上げる、幼馴染に宛てた手紙に語られる。

少し脱線するが、これはいわば「意味の場」(マルクス・ガブリエル)をめぐる物語とも捉えられるだろう。いみじくもガブリエル自身が、「意味の場」というものを(単なる「対象領域」とは違って)杓子定規に割り当てられた部屋の空間そのものというよりは、間取りや配置によってその都度変わる部屋の表情(←不正確)というような意味合いで説明していることとも重なるが、簡単にいえば、ここでは幼馴染の夫が設定している意味の場と、二人にしかわからない意味の場が、対立、衝突し合っているのだと言える。思弁的実在論の立場にたてば、それぞれの意味の場が間違いなく実在していることになる。

まぁそれは良いとして。
で、上記の物語を、リハーサルの反復によって描こうというのが、野心的である。
まだ見たことがないのだが、今村昌平の『人間蒸発』は途中で実演とメイキングが混合するような作りになっているというから、それと近いのかもしれない。
あるいは、何か表象しがたいものを表象していく過程を役者のリハーサルによって描こうというモチーフは、篠崎誠の『SHARING』を思い出させる。日本のインディ映画では、意外とこういうのが多いかも?例えば濱口竜介の作品世界とも決して遠くないと思うのだがどうか。(もちろん、アトム・エゴヤンも)

見ている側としては、セットや服装などが変わりつつ何度も反復されるリハーサルを見ながら、徐々に肝心のシーンを想像していくことになるだろう。少なくとも私はそうだった。あるいはリハーサルという「嘘」にあっても、セリフを読み上げる役者達からは、それ以上の感情の変化、言葉の受肉が感じられるだろう。少なくとも私はそうだった。
こうした反復による表象プロセスそのものが、一種の「王国」の形成になっていて、見る者はその合言葉を共有しているのだ、と大寺眞輔氏が指摘しているが、まさにそういうことでもあるだろう。

だが、こうした表象困難なものの表象プロセスを共有することで、私たちは果たして「シネマ」に接近しているのだろうか。いや、そんな原理主義的なことを言いたいわけではないのだが、例えば上記したアキが幼馴染への手紙を読み上げるシーンは、ワンショットで最初から最後まで語られ、こちらは否応もなくアキの心理状況、そして娘を突き落とすという行為についての想像と分析を膨らまさせられるのだが、これは「文学」ではないの?と。
あるいはそもそも、あえて断片的なリハーサルの光景を時系列も交錯させながら構築していく手法をとっていながら、この(明らかに筋立て上、最も重要な)手紙のシーンは狙ったように最初から最後まで通して読み上げられることによって、最終的に、直接的な言語的メッセージが勝ってしまってはいないか。だとすると、それはもう、この手紙だけで良いわけで、時系列を交錯させること、断片性を強調すること、あえてリハーサルを描くこと、城南高校のあれこれについての会話をあえて反復することの効果も、正直薄くなってしまっていると思う。
150分、なんだかんだで見続けてしまったので、その力量は素晴らしいものがあるが、うーん、手紙一枚で終わりじゃん、と。次作に期待。

(ところで、こうした実験的な、あえて「作り物」であることを強調することで、表象を脱構築していく手法によって、新鮮な日本映画が誕生したことは良いことだが、これがいざ劇映画としてリアリゼーションされると、とたんに三島の『Red』みたいなことになってしまうから、ちょっと複雑な気分ではある。)





















2020年3月16日月曜日

淪落の人 Still Human

監督:オリヴァー・チャン
主演:アンソニー・ウォン、サム・リー

フルーツ・チャンが製作に名を連ねているが、監督は本作が初長編監督で、脚本も担当している。その脚本がなかなか巧い。クルセル・コンサンジ演じる家政婦と、アンソニー・ウォン演じる障碍のある男の交流が基軸となるのだが、一方が他方へと何かを贈与するときに、ある種のサプライズが仕掛けられている。
アンソニー・ウォンからは、サプライズで誕生日プレゼントをあげる、さらに洗濯籠の底にカメラを忍ばせておく、そしてポートフォリオを秘密裏につくっておく。一方、クルセル・コンサンジは、アンソニー・ウォンの写真をコンテストに(内緒で)提出する、花束の注文の際に、息子に秘密のメッセージを入れておく、というように。あるいは、妹への写真のプレゼントも然り。サプライズによって、事前の行動の意味が明らかになる。
これはある意味で、お互いの「照れ屋」な性格の表象でもあるのだが、同時に映画としての構成の巧さにもつながっている。というのも例えば、アンソニー・ウォンが教える「クソありがとう」という広東語は、後からそれを教えたことが判明するようになっているし(実際に教えている部分は巧妙に省略されて、観客は何を教えているのかわからない。後からこの言葉を教えていたと知る。)、クルセル・コンサンジが授賞式に着ていくドレスのタグを切るという行為を描くことで、その前の「服の返品」の意味がわかる。

また、撮影の独創性も光る。おそらく多くが自然光のもとに撮影されたと思われるが、俯瞰、仰角、あるいは床すれすれの視点など、めいっぱいカメラの位置を動かして、あるいはカーテンやサッシなどの小道具を使って、狭い部屋の多様な表情を四季折々に見せていくことに成功している。
あるいは坂道を車いすで移動する際の団地の光景や、市場のショットも瑞々しい。

また、現実の時間に、過去や未来、あるいは仮想現実の時間を織り交ぜる手法も効いている。ベッドから転落したアンソニー・ウォンのショットから、過去の工事現場の事故現場のショットが挿入され、また、その後アパートの回廊において車いすから立ち上がるイメージ・ショットが続く。このイメージ・ショットでは、アパートから見える空を映したカメラを、回転させながらズームする面白いショットになっていて、とても良い(事故現場のショットから連続しているので、地面→空というアクロバティックな空間体験を観客に要求する)。しかもその後、カメラを(再度)手にしたクルセル・コンサンジが、アパートの下から空を撮るシーンもあり、二人の気持ちのつながりがうまいこと表現される。
また、「福」の字を逆さにして貼る、というのも、こうした空のイメージと通底するモチーフだろう。
そして、クルセル・コンサンジが誤って転倒したあとに、アンソニー・ウォンが、立ち上がって彼女を助けに行くイメージ・ショットは、持続したワンショットで表現されている。全編ワンショットなどという何のためにやってるのかわからない映画が流行する一方で、こういう、ここぞというタイミングで持続ショットが使われている映画を見ると、救われる。

アンソニー・ウォンのブロークン・イングリッシュがとにかく楽しい。
また、サム・リーが、キェシロフスキ映画のザマホフスキのような、チャーミングな雰囲気。
これは傑作。

2020年3月13日金曜日

Red

監督:三島有紀子

とにかく、セリフの稚拙さが、まったくもって救いようがない。
「こんな部屋に住んでたんだ、、こんな景色を見てたんだ、、、」というセリフ、あるいはセリフ回しをはじめ、この映画で夏帆が演じる女性は、申し訳ないが「ただのバカ」にしか見えない。これは演出の問題である。
第一、この映画で起きていることは、まったく劇的ではない。ただ人妻が浮気してるだけである。別にそれは良い。しかし、それをさも何かとんでもなく切迫した、衝撃的ななにかであるかのように見せるハッタリ演出は、完全に場違いである。
大雪のなか妻夫木と夏帆が身を寄せ合いながら歩く、その姿は、まるで戦場を逃れてきた孤児のような姿なのだが、単に飯食ってから駐車場を歩いているだけなので、滑稽なことこの上ない。
また、妻夫木が鼻血を出して倒れて定食屋の二階で休ませてもらっているところで、定食屋の女将と夏帆がタバコを吸うシーンが、本当に本当にひどい。なんと、1分ぐらい謎の沈黙が続いたあと、女将の方が「女は大変だねぇ」とつぶやき、終わる。何なのだ!!!
そもそもこの映画は、意味のない沈黙が多すぎる。大雪を背景に、男女が沈黙してれば何かが生まれる?生まれないよ。ただのバカップルだこんなものは。さすがにこんな映画が未だに作られてしまっているというのは、この国の現実として相当マズい。
端的に、何かを叙述するということが全くできていない。プレゼンも出来ないのにリプレゼント(表象)などできるわけがない。
『パラサイト』はつまらないが、叙述はちゃんとしている。この映画にはそれがない。

要するに、愛着障害を抱えた女が平凡な幸せを求めて結婚しちゃったが、やっぱり無理だった、妻夫木君と刹那的に生きるほうが良かった、と、ただそれだけの事なのだ。
それを120分間延々と、中身のない沈黙と感傷的な音楽と、AV以下のベッドシーンで埋めている。本当に犯罪的。二度と映画撮らないでほしい。




ナイブズ・アウト

監督・脚本:ライアン・ジョンソン

ダニエル・クレイグ演じる探偵が、アナ・デ・アルマス演じる看護師をガイド役に謎解きを展開するミステリー映画。
映画は、各々のキャラクターの証言を切り口に、事件があった日の出来事を回想として描いていく。同じ出来事を異なる視点で描くことで、事態の全体像を漸進的に明らかにしていく手法をとっていて、部屋の向こうから聞こえてきた会話が、別の回想ではその会話の当事者の視点で描かれる。あるいは、先に回想シーンを描いたうえで、その内容を証言者が「ごまかす」という順番もある(例えばC.プラマーに浮気のことを問い詰められた事を
、ドン・ジョンソンがごまかすといった具合)。こうした、物事の裏と表を、視点の移動による見え方のギャップによって、物語を様々な方向に複層的に展開していく、まずはその巧みな脚本を褒めるべきだろう。正直、冒頭から回想が何度も挿入されたときには、「またフラッシュバックの多用か」と辟易してしまったのだが、意外にも映画はそれによってリズムを失うことがない。これは、回想以外のシーンの演出、カット捌きが非常にエキサイティングであることによるだろう。
特に、一通りの尋問が終わったあと、部屋の外へ出ていくトニ・コレット→C.プラマーの部屋で手紙を探すドン・ジョンソン→そのジョンソンが外に投げた野球ボールを後景に、邸宅から出てくる探偵と刑事を捉えたショット→アナ・デ・アルマスが聞き耳を立ててるところにダニエル・クレイグが窓の外からヌッと現れるショットの連鎖が素晴らしい。というか、この一連のシークエンスで一気に映画が加速した印象を持った。
あるいは、邸宅周囲の風景の、70年代のイギリス映画のようなしっとりとした美しさも忘れ難い。

さて、ではこの映画は、物語の意外性、視点を変えることで真実が変わっていくことのおもしろさに尽きるかというと、それだけにとどまらない。
この映画の最大の魅力は、真実が明らかになるにつれ、アナ・デ・アルマス演じる看護師のパーソナリティがどんどん深みを増していく点だろう。
人の好さそうな、しかしちょっと内気で危うさを抱えた看護師が、様々な出来事を機転に、大胆さと狡猾さを露わにしていく。
例えば庭先の足あとをズタズタ歩いて消してしまうところ、ビデオテープのネガをこっそり回収してしまうところ、火災現場でD・クレイグに見つかり、決死のカーチェイスを展開するところ、クリス・エヴァンスにゲロをお見舞いするところ、、、と、事態の展開とともに彼女自身が覚醒していく、まさにヒッチコック的な活劇を体現していくのが素晴らしい。それでありながら、看護師としての人徳すらも巧妙に映画としてフィーチャーするのだから、まったく見事な脚本、演出と言うほかあるまい。
ラストの、コーヒーをすする姿は天晴れである。

いかがわしくも優しいダニエル・クレイグ、ジェイミー・リー・カーティスの発狂ぶり、マイケル・シャノンの悪役ぶりも素晴らしい。
「ドーナツの穴が埋まったと思ったら、それもまたドーナツ」(大意)というセリフも素晴らしい。
『女神の見えざる手』に匹敵する、文句なしの娯楽作品。



















2020年1月27日月曜日

リチャード・ジュエル

監督:クリント・イーストウッド
出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、ニナ・アリアンダ

制服の映画である。
冒頭から警備員の服装に身を包んだジュエルの姿が描写され、彼の私服姿は出てこない。
映画の中心となる中央公園での仕事では、背中に「SECURITY」と書かれた白ポロシャツを着ている。これは彼にとっては不本意な仕事なのだが、それでも彼は嬉しそうにこの制服を着て、たくましく仕事をしている。妊婦に水を上げるサービス精神を見せつつ、少しでも怪しい人間を見たら妥協せず追いかける。
彼が制服を脱ぐのは、FBIに訓練用ビデオという嘘の理由で同行させられてからである。逆にそれまでは、家の中でもずっと「SECURITY」のポロシャツを着ているのだ。そしてFBIでの一件があって、サム・ロックウェル演じる弁護士ワトソンが家にやってきてからは、それまでと打って変わって、彼はずっと私服である。

権威を疑い始めること、権威から敵視されること。それが、制服を脱いで私服になるということだ。反骨精神の塊のようなサム・ロックウェルが、いつもカジュアルな恰好をしているというのも、明確なコントラストとして表現されるだろう(ついでに言えば、アトランタ・ジャーナルの記者もまた、冒頭でもっと胸元が開いた服を着ようかしら、などと言っている。このあたりは後述。)。

映画のクライマックスは、キャシー・ベイツの涙の会見のあと、ジュエルとワトソンでFBIのオフィスに行って尋問を受けるシーンである。このシーンの直前に映画は、ジュエルとワトソンが各々の場所で、ネクタイを締める様子を「わざわざ」描く点に注目されたい。

ジュエルは鏡の前に立ってネクタイを締め、ワトソンは秘書のナディア(ニナ・アリアンダ)にネクタイを締めてもらう。ジュエルのそれは、鏡が重要なモチーフとなっている(制服にアイデンティティを求める自分自身の姿を見て何を思うだろうか)であろうし、ワトソンのそれは、ナディアとの親密な様子が観客に味わい深い印象を残すだろう。
こうして初めてスーツに身をつつんだ二人が対峙するのは、これまたスーツに身を包んだFBI捜査官である。
彼らが全員同じ格好で対峙するのは、このシーンだけである。
あえて物語的な意味を見出すのであれば、ここで初めて、全員が対等な関係として対峙するのである。
これは、権威を内面化してしまった素朴な市民が、権威を疑いはじめる映画だ。それが服装の変化によって語られているのである。見事な「フィクション」である。
映画は、エピローグとして、警官の服装に身を包んだジュエルの姿を最後に見せる。
サム・ロックウェルの最後のセリフは、"Look at you"だ!


☆セクシズム批判について
さて、本作は、アトランタ・ジャーナルの女性記者の描写をめぐって、批判されている(それでもアメリカにおいては、近年のイーストウッド作品の中ではおおむね好評な部類に入るから、ポリコレ一辺倒という逆バリはあたらない)。
このモデルとなった女性記者は、実際にはセックスでネタを取るという行為はしていないにもかかわらず、映画ではそのように描かれているし、また(上述したように)胸元を強調する服装にしようかしら、というセリフや、豊胸しようかしら、というセリフが出てくるが、実際の彼女自身は腰痛に苦しんでおり、むしろ乳房を軽くする手術を受けていたとのことで、こうした「脚色」が、セクシズムであるとして批判されている。

ところで、女性がお色気作戦で任務を遂行していく映画は、歴史的にも多い。パッと思いつくものだと、M:I:IV ゴーストプロトコルで、ポーラ・パットン演じるエージェントが、アラブの富豪(だったか?)をお色気作戦で罠にはめて任務を遂行するシーンがある。
こうした描写についてのフェミニズム的な分析にはあまり明るくないのだが、こうした「ハニートラップ」は、ある種の「被抑圧者による抑圧者への反撃」とも解釈できる。
たとえばアルジェリア戦争において、ムスリムがヴェールを、武器を調達する道具や顔を隠す道具として使用したように、抑圧の原因(セクシャリティ)を武器として転用することで、抑圧者に反撃をくらわすという面がある。川島雄三の『しとやかな獣』がまさにそういう映画である。
なので、田舎の女性記者が、FBIという権力にセクシャリティを使って取り入り、ネタを掴んだ、という描写は、必ずしも何の前置きもなくセクシズムだ、とはならない(ただし、『バイバイ ヴァンプ』とかいうクソは、問答無用の差別)。
結局のところ、「あらすじ」や「題材」にかかわらず、映画全体として演出がどうか、という点が最も大事なのではないだろうか。
「事実と違う脚色をすることで、実際の人間を貶める権利がフィクションにあるか」という話もあるし(オリヴィエ・アサイヤス『冬時間のパリ』でそうしたテーマが語られている)、実際、アトランタ・ジャーナル側の訴訟理由もそこなのだが、映画という一つのフィクションについて真剣に考える際には、この『リチャード・ジュエル』という作品が全くのフィクションであった場合にも、議論に耐えうるような論点を提示することが、映画の未来にとっては大事なのではないか。

そのように考えた場合、「セックスでネタを取る」というステレオタイプな描写を取り上げるだけでは不十分だと思う。それ以降の描写についても考えないといけない。

映画は中盤、ジュエルと母のやり取りが口喧嘩に発展し、沈鬱な雰囲気になってしまったところで、弁護士ワトソンが、「反撃の準備はできてるか」と口火を切ることで、重大な転換を迎える。
このシーンの直後、ジュエルと弁護士ワトソンがアトランタ・ジャーナルのオフィスに乗り込み、ワトソンがかなり辛らつに女性記者を罵る。これはこれでずいぶん一方的な描写なのだが、その後映画は、女性記者が事件の現場から電話ボックスまでの距離がかなりある事に気づき、以前FBI捜査官を誘惑したバーでそのことを問い詰めるものの軽くあしらわれてしまい(「お前なんか相手にしていない」といったセリフがある)、場面変わって、キャシー・ベイツの感動的な記者会見においては、その光景を見ながら、懺悔の涙を流すという展開を、やや性急に物語る。
このとき、映画において、この女性記者が背負わされているものはなにか。

ひとつは「世間」である。
上記したように、「反撃の準備はできてるか」の一声でジュエルとワトソンは形勢逆転に打って出る。脚本として、これほど鮮やかな転換はない。この形勢逆転は、要するに「世間の反応」を180度ひっくり返すというものだ。この「世間」の代表をさせられているのが、この女性記者だ。彼女が現場から電話ボックスまでの道を歩いて真実に気づくシーンの妙な性急さ、あるいは記者会見で「一人だけ」涙を流すというわざとらしい演出も、「世間」の表象を背負わされたものだと考えると、合点がいかないこともない。
そしてそれと対照的に、あくまでジュエル犯人説を貫こうとするFBI捜査官の頑固さもここで際立ってくる。ある意味では、一緒になってジュエルを陥れた二人が、この反転を契機に袂を分かつ、というこの展開が、そのまま世間と権力の関係性として表象されていると解釈することができる。

しかし一方で、「女性だけが懺悔させられる」、「FBI(男性)はお咎めなし」という展開そのものに、セクシズムの匂いを嗅ぎとることもできるだろう。それは、ヒッチコックにおいて常に女性が制裁を受ける立場にあるという指摘に典型的な視点である。
正直、私自身はこの映画を見たときに、その印象を強く持った。そして上記の女性記者だけ一人涙を流すという描写にも鼻白んだ。

どちらの解釈もあり得ると個人的には思うし、よくよく精査すればどちらの解釈も素人の思い付きに過ぎない見当違いのシロモノかもしれない。

いずれにしろ、本作を、「現実と異なる脚色をしたこと」、「セックスでネタを取るキャリアウーマンを描いたこと」によってのみ批判するのは、それ自体は(社会的に)正当なことであっても、映画についての議論としてはやや不十分だと感じる(むろん、映画は映画内部でのみ論じられねばならないという古びたお題目を唱えるつもりはない。映画と現実という二元論を乗り越えることが、ここで企図していることだ)。

特に本作は、上述したように、物語の起承転結を、「制服/私服」というメタファーによって描いている点や、(リアルサウンドの映画評で荻野洋一氏が指摘しているように)「みぞおちを抑える」という言葉無き仕草によって、主人公のおかれた状況を言葉以上に雄弁に物語る演出からわかるように、視覚的なモチーフやメタファーを巧みに使った非常に高度な「フィクション」である(当然だが、ここで「フィクション」は「現実」の対義語ではない。人間は「フィクション-内-存在」である。)。
そうであるからには、そのフィクションの構造や趣向を見定めたうえで、さらに現代社会という時代背景を十分視野に入れて議論を重ねていくことが、大事なのではないだろうか。



※ ちなみに女性記者が電話ボックスと現場の間を歩いてみる、という描写は確かにやや性急なのだが、しかし最近のイーストウッドにおける「電話」のモチーフを考慮すると、妙に印象的なシーンであることも否定はできない。

※ 荻野洋一氏の指摘では、みぞおちを抑える仕草を典型的な心臓疾患の症状としているのだが、逆流性食道炎による胸焼けの可能性も否定はできない。どっちでもよい。ここではおかれた状況を病気というメタファーで描きなおしているという点が重要である。


※ ちなみに、映画『フォード VS フェラーリ』について、アメリカの批評家であるリチャード・ブロディが批判している。
ブロディは、マット・デイモン演じるシェルビーが、実際には私生活で7回にわたって結婚しており、その過程で不倫関係もあったといった事実を、映画がすべて捨象している点を指摘し、「シェルビーの私生活の描写の省略は、何よりも人生の複雑さをあいまいにする巧みなごまかしであり、本作には感情の枠組みに容易に当てはまらない複数の事実を取り上げる意図が皆無であることを示唆している。」と切り捨てている。
これは決して、「事実と異なって」映画が単純であることを批判しているのではないということは、このあとの段落で、ハワード・ホークスの作品をあげて、レーサーの私生活も含めた複雑な描写を称賛し、『フォード vs フェラーリ』がそのレベルに達していないという指摘をしているからもわかる。つまり、映画それ自体の議論として、脚本の弱みを指摘しているのである。
とはいえ、このブロディによる批評は、C・ベイル演じるレーサーの妻が、ベイルにレースをあきらめるよう説得したと解釈するなど、物語の端的な読み間違いが散見される点は指摘しておく。
https://wired.jp/2020/01/19/the-airbrushed-racing-history-of-ford-v-ferrari/