2020年1月27日月曜日

リチャード・ジュエル

監督:クリント・イーストウッド
出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、ニナ・アリアンダ

制服の映画である。
冒頭から警備員の服装に身を包んだジュエルの姿が描写され、彼の私服姿は出てこない。
映画の中心となる中央公園での仕事では、背中に「SECURITY」と書かれた白ポロシャツを着ている。これは彼にとっては不本意な仕事なのだが、それでも彼は嬉しそうにこの制服を着て、たくましく仕事をしている。妊婦に水を上げるサービス精神を見せつつ、少しでも怪しい人間を見たら妥協せず追いかける。
彼が制服を脱ぐのは、FBIに訓練用ビデオという嘘の理由で同行させられてからである。逆にそれまでは、家の中でもずっと「SECURITY」のポロシャツを着ているのだ。そしてFBIでの一件があって、サム・ロックウェル演じる弁護士ワトソンが家にやってきてからは、それまでと打って変わって、彼はずっと私服である。

権威を疑い始めること、権威から敵視されること。それが、制服を脱いで私服になるということだ。反骨精神の塊のようなサム・ロックウェルが、いつもカジュアルな恰好をしているというのも、明確なコントラストとして表現されるだろう(ついでに言えば、アトランタ・ジャーナルの記者もまた、冒頭でもっと胸元が開いた服を着ようかしら、などと言っている。このあたりは後述。)。

映画のクライマックスは、キャシー・ベイツの涙の会見のあと、ジュエルとワトソンでFBIのオフィスに行って尋問を受けるシーンである。このシーンの直前に映画は、ジュエルとワトソンが各々の場所で、ネクタイを締める様子を「わざわざ」描く点に注目されたい。

ジュエルは鏡の前に立ってネクタイを締め、ワトソンは秘書のナディア(ニナ・アリアンダ)にネクタイを締めてもらう。ジュエルのそれは、鏡が重要なモチーフとなっている(制服にアイデンティティを求める自分自身の姿を見て何を思うだろうか)であろうし、ワトソンのそれは、ナディアとの親密な様子が観客に味わい深い印象を残すだろう。
こうして初めてスーツに身をつつんだ二人が対峙するのは、これまたスーツに身を包んだFBI捜査官である。
彼らが全員同じ格好で対峙するのは、このシーンだけである。
あえて物語的な意味を見出すのであれば、ここで初めて、全員が対等な関係として対峙するのである。
これは、権威を内面化してしまった素朴な市民が、権威を疑いはじめる映画だ。それが服装の変化によって語られているのである。見事な「フィクション」である。
映画は、エピローグとして、警官の服装に身を包んだジュエルの姿を最後に見せる。
サム・ロックウェルの最後のセリフは、"Look at you"だ!


☆セクシズム批判について
さて、本作は、アトランタ・ジャーナルの女性記者の描写をめぐって、批判されている(それでもアメリカにおいては、近年のイーストウッド作品の中ではおおむね好評な部類に入るから、ポリコレ一辺倒という逆バリはあたらない)。
このモデルとなった女性記者は、実際にはセックスでネタを取るという行為はしていないにもかかわらず、映画ではそのように描かれているし、また(上述したように)胸元を強調する服装にしようかしら、というセリフや、豊胸しようかしら、というセリフが出てくるが、実際の彼女自身は腰痛に苦しんでおり、むしろ乳房を軽くする手術を受けていたとのことで、こうした「脚色」が、セクシズムであるとして批判されている。

ところで、女性がお色気作戦で任務を遂行していく映画は、歴史的にも多い。パッと思いつくものだと、M:I:IV ゴーストプロトコルで、ポーラ・パットン演じるエージェントが、アラブの富豪(だったか?)をお色気作戦で罠にはめて任務を遂行するシーンがある。
こうした描写についてのフェミニズム的な分析にはあまり明るくないのだが、こうした「ハニートラップ」は、ある種の「被抑圧者による抑圧者への反撃」とも解釈できる。
たとえばアルジェリア戦争において、ムスリムがヴェールを、武器を調達する道具や顔を隠す道具として使用したように、抑圧の原因(セクシャリティ)を武器として転用することで、抑圧者に反撃をくらわすという面がある。川島雄三の『しとやかな獣』がまさにそういう映画である。
なので、田舎の女性記者が、FBIという権力にセクシャリティを使って取り入り、ネタを掴んだ、という描写は、必ずしも何の前置きもなくセクシズムだ、とはならない(ただし、『バイバイ ヴァンプ』とかいうクソは、問答無用の差別)。
結局のところ、「あらすじ」や「題材」にかかわらず、映画全体として演出がどうか、という点が最も大事なのではないだろうか。
「事実と違う脚色をすることで、実際の人間を貶める権利がフィクションにあるか」という話もあるし(オリヴィエ・アサイヤス『冬時間のパリ』でそうしたテーマが語られている)、実際、アトランタ・ジャーナル側の訴訟理由もそこなのだが、映画という一つのフィクションについて真剣に考える際には、この『リチャード・ジュエル』という作品が全くのフィクションであった場合にも、議論に耐えうるような論点を提示することが、映画の未来にとっては大事なのではないか。

そのように考えた場合、「セックスでネタを取る」というステレオタイプな描写を取り上げるだけでは不十分だと思う。それ以降の描写についても考えないといけない。

映画は中盤、ジュエルと母のやり取りが口喧嘩に発展し、沈鬱な雰囲気になってしまったところで、弁護士ワトソンが、「反撃の準備はできてるか」と口火を切ることで、重大な転換を迎える。
このシーンの直後、ジュエルと弁護士ワトソンがアトランタ・ジャーナルのオフィスに乗り込み、ワトソンがかなり辛らつに女性記者を罵る。これはこれでずいぶん一方的な描写なのだが、その後映画は、女性記者が事件の現場から電話ボックスまでの距離がかなりある事に気づき、以前FBI捜査官を誘惑したバーでそのことを問い詰めるものの軽くあしらわれてしまい(「お前なんか相手にしていない」といったセリフがある)、場面変わって、キャシー・ベイツの感動的な記者会見においては、その光景を見ながら、懺悔の涙を流すという展開を、やや性急に物語る。
このとき、映画において、この女性記者が背負わされているものはなにか。

ひとつは「世間」である。
上記したように、「反撃の準備はできてるか」の一声でジュエルとワトソンは形勢逆転に打って出る。脚本として、これほど鮮やかな転換はない。この形勢逆転は、要するに「世間の反応」を180度ひっくり返すというものだ。この「世間」の代表をさせられているのが、この女性記者だ。彼女が現場から電話ボックスまでの道を歩いて真実に気づくシーンの妙な性急さ、あるいは記者会見で「一人だけ」涙を流すというわざとらしい演出も、「世間」の表象を背負わされたものだと考えると、合点がいかないこともない。
そしてそれと対照的に、あくまでジュエル犯人説を貫こうとするFBI捜査官の頑固さもここで際立ってくる。ある意味では、一緒になってジュエルを陥れた二人が、この反転を契機に袂を分かつ、というこの展開が、そのまま世間と権力の関係性として表象されていると解釈することができる。

しかし一方で、「女性だけが懺悔させられる」、「FBI(男性)はお咎めなし」という展開そのものに、セクシズムの匂いを嗅ぎとることもできるだろう。それは、ヒッチコックにおいて常に女性が制裁を受ける立場にあるという指摘に典型的な視点である。
正直、私自身はこの映画を見たときに、その印象を強く持った。そして上記の女性記者だけ一人涙を流すという描写にも鼻白んだ。

どちらの解釈もあり得ると個人的には思うし、よくよく精査すればどちらの解釈も素人の思い付きに過ぎない見当違いのシロモノかもしれない。

いずれにしろ、本作を、「現実と異なる脚色をしたこと」、「セックスでネタを取るキャリアウーマンを描いたこと」によってのみ批判するのは、それ自体は(社会的に)正当なことであっても、映画についての議論としてはやや不十分だと感じる(むろん、映画は映画内部でのみ論じられねばならないという古びたお題目を唱えるつもりはない。映画と現実という二元論を乗り越えることが、ここで企図していることだ)。

特に本作は、上述したように、物語の起承転結を、「制服/私服」というメタファーによって描いている点や、(リアルサウンドの映画評で荻野洋一氏が指摘しているように)「みぞおちを抑える」という言葉無き仕草によって、主人公のおかれた状況を言葉以上に雄弁に物語る演出からわかるように、視覚的なモチーフやメタファーを巧みに使った非常に高度な「フィクション」である(当然だが、ここで「フィクション」は「現実」の対義語ではない。人間は「フィクション-内-存在」である。)。
そうであるからには、そのフィクションの構造や趣向を見定めたうえで、さらに現代社会という時代背景を十分視野に入れて議論を重ねていくことが、大事なのではないだろうか。



※ ちなみに女性記者が電話ボックスと現場の間を歩いてみる、という描写は確かにやや性急なのだが、しかし最近のイーストウッドにおける「電話」のモチーフを考慮すると、妙に印象的なシーンであることも否定はできない。

※ 荻野洋一氏の指摘では、みぞおちを抑える仕草を典型的な心臓疾患の症状としているのだが、逆流性食道炎による胸焼けの可能性も否定はできない。どっちでもよい。ここではおかれた状況を病気というメタファーで描きなおしているという点が重要である。


※ ちなみに、映画『フォード VS フェラーリ』について、アメリカの批評家であるリチャード・ブロディが批判している。
ブロディは、マット・デイモン演じるシェルビーが、実際には私生活で7回にわたって結婚しており、その過程で不倫関係もあったといった事実を、映画がすべて捨象している点を指摘し、「シェルビーの私生活の描写の省略は、何よりも人生の複雑さをあいまいにする巧みなごまかしであり、本作には感情の枠組みに容易に当てはまらない複数の事実を取り上げる意図が皆無であることを示唆している。」と切り捨てている。
これは決して、「事実と異なって」映画が単純であることを批判しているのではないということは、このあとの段落で、ハワード・ホークスの作品をあげて、レーサーの私生活も含めた複雑な描写を称賛し、『フォード vs フェラーリ』がそのレベルに達していないという指摘をしているからもわかる。つまり、映画それ自体の議論として、脚本の弱みを指摘しているのである。
とはいえ、このブロディによる批評は、C・ベイル演じるレーサーの妻が、ベイルにレースをあきらめるよう説得したと解釈するなど、物語の端的な読み間違いが散見される点は指摘しておく。
https://wired.jp/2020/01/19/the-airbrushed-racing-history-of-ford-v-ferrari/