2020年3月16日月曜日

淪落の人 Still Human

監督:オリヴァー・チャン
主演:アンソニー・ウォン、サム・リー

フルーツ・チャンが製作に名を連ねているが、監督は本作が初長編監督で、脚本も担当している。その脚本がなかなか巧い。クルセル・コンサンジ演じる家政婦と、アンソニー・ウォン演じる障碍のある男の交流が基軸となるのだが、一方が他方へと何かを贈与するときに、ある種のサプライズが仕掛けられている。
アンソニー・ウォンからは、サプライズで誕生日プレゼントをあげる、さらに洗濯籠の底にカメラを忍ばせておく、そしてポートフォリオを秘密裏につくっておく。一方、クルセル・コンサンジは、アンソニー・ウォンの写真をコンテストに(内緒で)提出する、花束の注文の際に、息子に秘密のメッセージを入れておく、というように。あるいは、妹への写真のプレゼントも然り。サプライズによって、事前の行動の意味が明らかになる。
これはある意味で、お互いの「照れ屋」な性格の表象でもあるのだが、同時に映画としての構成の巧さにもつながっている。というのも例えば、アンソニー・ウォンが教える「クソありがとう」という広東語は、後からそれを教えたことが判明するようになっているし(実際に教えている部分は巧妙に省略されて、観客は何を教えているのかわからない。後からこの言葉を教えていたと知る。)、クルセル・コンサンジが授賞式に着ていくドレスのタグを切るという行為を描くことで、その前の「服の返品」の意味がわかる。

また、撮影の独創性も光る。おそらく多くが自然光のもとに撮影されたと思われるが、俯瞰、仰角、あるいは床すれすれの視点など、めいっぱいカメラの位置を動かして、あるいはカーテンやサッシなどの小道具を使って、狭い部屋の多様な表情を四季折々に見せていくことに成功している。
あるいは坂道を車いすで移動する際の団地の光景や、市場のショットも瑞々しい。

また、現実の時間に、過去や未来、あるいは仮想現実の時間を織り交ぜる手法も効いている。ベッドから転落したアンソニー・ウォンのショットから、過去の工事現場の事故現場のショットが挿入され、また、その後アパートの回廊において車いすから立ち上がるイメージ・ショットが続く。このイメージ・ショットでは、アパートから見える空を映したカメラを、回転させながらズームする面白いショットになっていて、とても良い(事故現場のショットから連続しているので、地面→空というアクロバティックな空間体験を観客に要求する)。しかもその後、カメラを(再度)手にしたクルセル・コンサンジが、アパートの下から空を撮るシーンもあり、二人の気持ちのつながりがうまいこと表現される。
また、「福」の字を逆さにして貼る、というのも、こうした空のイメージと通底するモチーフだろう。
そして、クルセル・コンサンジが誤って転倒したあとに、アンソニー・ウォンが、立ち上がって彼女を助けに行くイメージ・ショットは、持続したワンショットで表現されている。全編ワンショットなどという何のためにやってるのかわからない映画が流行する一方で、こういう、ここぞというタイミングで持続ショットが使われている映画を見ると、救われる。

アンソニー・ウォンのブロークン・イングリッシュがとにかく楽しい。
また、サム・リーが、キェシロフスキ映画のザマホフスキのような、チャーミングな雰囲気。
これは傑作。

2020年3月13日金曜日

Red

監督:三島有紀子

とにかく、セリフの稚拙さが、まったくもって救いようがない。
「こんな部屋に住んでたんだ、、こんな景色を見てたんだ、、、」というセリフ、あるいはセリフ回しをはじめ、この映画で夏帆が演じる女性は、申し訳ないが「ただのバカ」にしか見えない。これは演出の問題である。
第一、この映画で起きていることは、まったく劇的ではない。ただ人妻が浮気してるだけである。別にそれは良い。しかし、それをさも何かとんでもなく切迫した、衝撃的ななにかであるかのように見せるハッタリ演出は、完全に場違いである。
大雪のなか妻夫木と夏帆が身を寄せ合いながら歩く、その姿は、まるで戦場を逃れてきた孤児のような姿なのだが、単に飯食ってから駐車場を歩いているだけなので、滑稽なことこの上ない。
また、妻夫木が鼻血を出して倒れて定食屋の二階で休ませてもらっているところで、定食屋の女将と夏帆がタバコを吸うシーンが、本当に本当にひどい。なんと、1分ぐらい謎の沈黙が続いたあと、女将の方が「女は大変だねぇ」とつぶやき、終わる。何なのだ!!!
そもそもこの映画は、意味のない沈黙が多すぎる。大雪を背景に、男女が沈黙してれば何かが生まれる?生まれないよ。ただのバカップルだこんなものは。さすがにこんな映画が未だに作られてしまっているというのは、この国の現実として相当マズい。
端的に、何かを叙述するということが全くできていない。プレゼンも出来ないのにリプレゼント(表象)などできるわけがない。
『パラサイト』はつまらないが、叙述はちゃんとしている。この映画にはそれがない。

要するに、愛着障害を抱えた女が平凡な幸せを求めて結婚しちゃったが、やっぱり無理だった、妻夫木君と刹那的に生きるほうが良かった、と、ただそれだけの事なのだ。
それを120分間延々と、中身のない沈黙と感傷的な音楽と、AV以下のベッドシーンで埋めている。本当に犯罪的。二度と映画撮らないでほしい。




ナイブズ・アウト

監督・脚本:ライアン・ジョンソン

ダニエル・クレイグ演じる探偵が、アナ・デ・アルマス演じる看護師をガイド役に謎解きを展開するミステリー映画。
映画は、各々のキャラクターの証言を切り口に、事件があった日の出来事を回想として描いていく。同じ出来事を異なる視点で描くことで、事態の全体像を漸進的に明らかにしていく手法をとっていて、部屋の向こうから聞こえてきた会話が、別の回想ではその会話の当事者の視点で描かれる。あるいは、先に回想シーンを描いたうえで、その内容を証言者が「ごまかす」という順番もある(例えばC.プラマーに浮気のことを問い詰められた事を
、ドン・ジョンソンがごまかすといった具合)。こうした、物事の裏と表を、視点の移動による見え方のギャップによって、物語を様々な方向に複層的に展開していく、まずはその巧みな脚本を褒めるべきだろう。正直、冒頭から回想が何度も挿入されたときには、「またフラッシュバックの多用か」と辟易してしまったのだが、意外にも映画はそれによってリズムを失うことがない。これは、回想以外のシーンの演出、カット捌きが非常にエキサイティングであることによるだろう。
特に、一通りの尋問が終わったあと、部屋の外へ出ていくトニ・コレット→C.プラマーの部屋で手紙を探すドン・ジョンソン→そのジョンソンが外に投げた野球ボールを後景に、邸宅から出てくる探偵と刑事を捉えたショット→アナ・デ・アルマスが聞き耳を立ててるところにダニエル・クレイグが窓の外からヌッと現れるショットの連鎖が素晴らしい。というか、この一連のシークエンスで一気に映画が加速した印象を持った。
あるいは、邸宅周囲の風景の、70年代のイギリス映画のようなしっとりとした美しさも忘れ難い。

さて、ではこの映画は、物語の意外性、視点を変えることで真実が変わっていくことのおもしろさに尽きるかというと、それだけにとどまらない。
この映画の最大の魅力は、真実が明らかになるにつれ、アナ・デ・アルマス演じる看護師のパーソナリティがどんどん深みを増していく点だろう。
人の好さそうな、しかしちょっと内気で危うさを抱えた看護師が、様々な出来事を機転に、大胆さと狡猾さを露わにしていく。
例えば庭先の足あとをズタズタ歩いて消してしまうところ、ビデオテープのネガをこっそり回収してしまうところ、火災現場でD・クレイグに見つかり、決死のカーチェイスを展開するところ、クリス・エヴァンスにゲロをお見舞いするところ、、、と、事態の展開とともに彼女自身が覚醒していく、まさにヒッチコック的な活劇を体現していくのが素晴らしい。それでありながら、看護師としての人徳すらも巧妙に映画としてフィーチャーするのだから、まったく見事な脚本、演出と言うほかあるまい。
ラストの、コーヒーをすする姿は天晴れである。

いかがわしくも優しいダニエル・クレイグ、ジェイミー・リー・カーティスの発狂ぶり、マイケル・シャノンの悪役ぶりも素晴らしい。
「ドーナツの穴が埋まったと思ったら、それもまたドーナツ」(大意)というセリフも素晴らしい。
『女神の見えざる手』に匹敵する、文句なしの娯楽作品。