2013年4月30日火曜日

ファウスト

監督:アレクサンダー・ソクーロフ

 一種のロードムービーのようにして、ファウストとミュラーが街の中を移動し続けるわけだが、この映画が面白いのは、その移動の動機が実にテキトーである点だ。ファウストが行く先々に、何らかのイベントが発生しており(不良による恫喝、死体の運搬、大行列など)、それに対処したり、そこから逃げたりする過程で、いつの間にか次なる場所に来てしまう。そんなような感じで撮られている。酒場に無理やり入れられてしまうシーンなどが典型的だ。
 
 あるいは、ファウストの移動を中心に据えながらも、行く先々での描写においては、むしろ群像劇のように撮られていて、ファウストは傍観者のような立ち位置になっている。だから、例えばミュラーの店に初めてやって来たシーンでも、ファウストはあくまでその他の人物達(布団たたきをする主婦、居眠りをする馬車の御者、あるいは路上で眠っている男)などと同程度の存在感しか示さなかったりする。さらには、ファウストが誤って青年を刺してしまうシーンにしても、その扱いはまるで何事もなかったかのようだ。決して(予告編が言うように)「運命が狂った!」という感じではなく、あくまで酒場の騒音の中で起きた一事件に過ぎない。むしろその直前の、ミュラーがワインを出してみせるシーンのインパクトの方がはるかに強いだろう。
 また、なぜか必ずと言っていいほど、各場面において物陰から様子を伺っている人物が捉えられている。物語上結局絡んでは来ないのだが、それにしてもたとえばワーグナーが帰り際に扉をしめながらこちら側をジーッと睨んでいる描写など、凄いインパクトだ。

 まるでギャング映画のような罵詈雑言の嵐である。常に行く先々で人々が揉めて乱闘騒ぎになる。これはアクション映画だ。 

 画面の美しさが尋常ではない。とりわけマルガレーテが母親とともにベッドに横たわるシーンのフルショット。あるいはファウストとマルガレーテが川に落ちていく俯瞰のショット。あるいは、ファウストとミュラーが揉みくちゃになるシーンの埃の描写も面白い。
 
 やはり2012年のベストはこれで間違いない。

2013年4月21日日曜日

浜辺の女

監督:ジャン・ルノワール

 これは素晴らしい。ナン・レスリーの扱いが中途半端に過ぎたり、冒頭の悪夢がほとんど機能していなかったりと、トータルの完成度では決して最良とは言えないのかもしれないが、しかし要所要所の細やかな極めて効果的な演出に溢れている。
 とても特徴的なのが、オフの声の入れ方だ。もちろん多くの映画でオフの(画面外の)声を聞かせる演出は使われるが、この映画における、「会話に参加していない者が(画面外の)会話の内容を聞いて、事態を察する」という演出はとても素晴らしい。
 ロバート・ライアンがビルとトッド(チャールズ・ビックフォード)の間に事件があった事を察してしまうシーン、そしてジョーン・ベネットが持ち出した絵画に、ビックフォードとライアンが言及しているシーン(ちょっと説明がしづらいね。まぁ作品を見てください)でこのオフの演出が使われている。
 あるいは平手打ちの音を外で聞くという荒唐無稽な演出!

 チャールズ・ビックフォードの存在感が圧倒的である。見るという機能を失った目のギラギラとした輝き。
 最初にロバート・ライアンに出会ったシーンにおいて、ソファーに座ったまま、帰ろうとするライアンの方を振り向いたときのショットが絶品である。このアングルはとても46年の映画とは思えない。あるいは「振り向く」という動作を省略し、「すでに振り向いている」ビックフォードを映し出すことで、違和感を生じさせ、それがサスペンスになる。極めてシャブロル的である。
 
 あるいは浜辺での密会中、浜辺にビックフォードが現れるシーンの素晴らしいこと。このシーンの素晴らしさに関しては何も言う必要が無いだろう。カメラの距離、カットの割り方、音の使い方、その全てが完璧である。
 そしてビックフォードとベネットが並んで昔話に興じるシーンも見事だ。この眼差しね。凄い。
 
 オープニングから中盤にかけて、あるいは終盤にしてもそうだが、この映画ではとにかく視界が狭い。常に霧やら大雨やらが空間を覆っており、人々の視界を曇らせ、場所と場所の距離感を喪失させる(ちょっとクリシェだけれども)。その曇った視界において、多くの人々がほとんど血迷うようにして行動を起こしていく。大雨の中現れたビックフォードに対して「夕食までは無理です」と言いながら夕食をいただいてしまうライアン、突然深遠な話題をしてしまうジョーン・ベネット(ちなみに暖炉に薪をくべた直後のジョーン・ベネットのクローズアップの神々しさは凄い)、そして一度は救援の要請を退けながらも、突風で開いたドアを閉めて一呼吸置いただけで考えを変える駐在員。こうした場所性の喪失+衝動的な行動様式の映画っぷり。
 いやー、こういうのを何度も何度も見たいね。

2013年4月14日日曜日

三月のライオン

監督:矢崎仁司

 素晴らしいと思う。セリフが異常なまでに少ない一方、工事現場の音であったり、瓶の蓋が落ちる音なんかが極めて印象的。
 物語の設定からして、これはいわば「何も共有していない二人」がゼロから関係性を築いていく映画であって、当然そこには二人の身分を動機とする行為よりは、その場その場の突発的な衝動的な行為が重ねられていくだろう。であるからこそ、この映画は断片の集積としてあり、それぞれの断片には何ら関係性がない。それ自体がある意味映画的だが、118分は少し長い感じもする。

 視線ショットがとても多くて、なかでも駄菓子屋の老夫婦が髪を切ってるとこを由良宣子が見るショットが素晴らしい。それに対して序盤に趙方豪がトイレの割れた窓から外を眺めるシーンでは、彼の視線ショットは映されず、窓の外から彼を捉えたショットで処理されている。意図は不明。

 白いテーブルクロスと白いカーテン、そして白い冷蔵庫が太陽光をめいっぱい反射させた画面の美しさには思わず惚れ惚れしてしまう。特に由良宣子が趙 方豪にキスしようとしてやめて、そのまま床に寝そべるシーンの画面は素晴らしい。
 あるいは二人が衝動的に駆け寄って抱き合うシーンもいいね。

 趙 方豪が記憶を取り戻して実家(?)に戻ってきたシーンはセリフがゼロなのだが、彼がヘルメットを頭上の棚に置くだけで、「ああ、思い出したんだ」とわかる。つまり画面が雄弁である。さらにその直後では、彼が(おそらく日課だったのであろう!)コーラを飲みながら床に座って、そのまま流し台に置くという動作を、瓶なしでその動作だけして、流し台にその架空の瓶を置いた瞬間に、実際の瓶が流し台にある事に気づき、思わずそれを手にとり中身を飲む、という一連の演出は上手すぎる。

 駄菓子屋の老夫婦とのエピソードが本当に本当に素晴らしく、実際これで終わってしまってもいいぐらいだと思ってしまった。

2013年4月6日土曜日

リトルチルドレン

監督:トッド・フィールド

 結構傑作。という変なニュアンスだが、被写界深度について。被写界深度についてはもう少し勉強が必要であろうが、しかしとりあえず見た範囲で、というか人と人の奥行の距離とフォーカスの関係についてのみ書いていく。
 まず、冒頭の公園でのシーン。クローズアップを重ねつつ徐々にフルショットなどを織り交ぜるように、だんだん空間が広がっていく感覚がとても面白いのだが、ケイト・ウィンスレットが娘のおやつを忘れて娘が駄々をこねるというシーンがあって、ここのショットは被写界深度が深くとられていて、他のショットはほとんど浅い。
 二日目にパトリック・ウィルソンとケイト・ウィンスレットが出会う一連のシーンでも深度は浅い。この空間の差異、すなわち「手前」と「奥」という明確な差異が効果的に見え出すのは、パトリック・ウィルソンがケイト・ウィンスレットを他の主婦たちが見てるところでハグするというシーンで、ここでは画面手前で主役二人が向かい合い、そのかなり奥(遠く)で主婦たち三人がこちらを見ているという画面高生になっていて、当然フォーカスは手前二人に合っている。そして二人がハグする瞬間にカメラがそのまま回り込んで、反対側から二人だけを映し出すことになる。
 
 ちなみに中盤にケイト・ウィンスレットが週末にパトリック・ウィルソンの家の前に車を停めて様子を伺うシーンがあり、ここでケイト・ウィンスレットとパトリック・ウィルソンを、かなり深い被写界深度で同一の画面上に捉えたショットがある。
 
 さて、次にプールのシーンがある。一日目のプールのシーン(といってもこれは何日か通してのワンエピソードだが)は、割と奥行が強調された画面が多い。子供達二人が走っていくのを捉えたカメラが持続したまま移動してプールを映すなどの、なかなか凝った画面が続く。
 そしてその次に再びプールのシーンがあって、ここでジャッキー・アール・ヘイリーがやってくる。ここで重要なのは、画面の被写界深度が浅いということだ。ジャッキー・アール・ヘイリーが奥から手前に泳いできて、そのヘイリーにフォーカスがあてられ、奥のプールサイドのギャラリーとのフォーカスによる断絶が強調されていると言ってもいい。

 そしてこのジャッキー・アール・ヘイリーという「前科持ちの性心理障害者」をめぐるこの映画の話法に関してはさらに後述する予定だが、最も重要に思われるシーンとして、公園で彼にはち合わせたケイト・ウィンスレットが、最初は見て見ぬフリをしていたものの、彼が泣いていることに気づき、彼の方へと近づいていくシーンがある。このシーンの極めて重要なポイントとして、ケイト・ウィンスレットが歩み寄るその瞬間に、カメラが後ろに回って、手前からウィンスレットの娘、ウィンスレット、そしてジャッキー・アール・ヘイリーの三人を見事な強度でもって、深い被写界深度によって捉えてみせるワンショットだ。少し深読みしすぎかもしれないが、ここで一瞬だけひとつの包摂された空間が形成されたと考えていいだろう。深追いはしない。何よりこのワンショットの見事な強度には打ちのめされる。

 さて、この映画はいささか月並みな言い方をすれば、「差別と偏見」というテーマを持っている。極めて重要なシーンとしてプールでのシーンに戻ろう。ジャッキー・アール・ヘイリーがプールにやってきて、泳ぐところ。ここで我々に与えられている情報は、彼が児童強姦の罪で一度逮捕されているという事と、「最近自転車で近所の子供を物色しているらしい」という噂話だけである。そこでこのシーンがやってきて、しばらくセリフなしで彼がプールを潜って泳ぐ様子が映される。
 これは見事な、というかちょっと驚くくらい大胆なミスリーディングである。彼が実際に子供を物色しているのか、それとも後に彼が弁解するように涼んでいるだけなのか、この一連のシーンではわからないのだが、しかし事前の情報故に、どうしても物色しているように見えてしまうのだ。おそらく見えない人もいるだろう。それはわからない。しかしこの「前科者が物色しているように見える」という”ミス”リーディングこそがこのシーンの最大の狙いであろう。なんとも計算高いが、しかし今どきこのようなシーンを撮れるというのもまた凄いのではないか。よくわからないが。しかしこのシーンの曖昧性、多義性が面白いのは確か。
 
 「差別と偏見による壁を超える」という点に関しては上述のブランコのシーンにおいてまさに一瞬だけ実現されているわけだが、実はその前にいくつか類似したシーンがある。
 ひとつが、アメフトの試合で、パトリック・ウィルソンが敵と握手をするシーン。詳細は省くが、見ていただければわかるように、ここでは「慣習を破って握手をする」というアクションがややコミカルに描かれており、その中心にいる審判はなんと車椅子の障害者である。
 もう一つが、ジャッキー・アール・ヘイリーが母親の搬送された病院の待合室に座っているところに、外人がコーヒー(ココア?だっけ?あれ?)を渡すシーンだ。トゥモロー・ワールド同様、あるいはUnknown同様、やはり映画で本当に手を差し伸べてくれるのは、言葉の通じない外国人なのだ。
 ちょっと面白いのが、このシーンに至るまで、散々「見た目による偏見」のもたらす断絶が描かれ、語られてきた(警官の過去のエピソードはまさにそれが招いた事件だし)にも関わらず、ここでのコミュニケーションは言語ではなく、写真とコーヒー(あれ?ココア?)なのだ。
 
 全体としてはもう少し短くできるだろうし、あるいは最後の「血」が全然ダメだと思うし、ボヴァリー夫人のシーンなんて最悪だと思うのだが、しかし上述した多くの大胆な話法、終盤の唐突なアクションの連鎖など、なかなか面白いと思う。
 また、子供の扱いがとても良い。たとえば二組夫婦の夕食のシーンでは、浮気でつながる大人達のよそで無邪気にじゃれあう子供を映したかと思うと、その後のプールのシーンで子供同士が声をかけることでウィンスレットとウィルソンの間に気まずい空気が流れたり、あるいはラストにウィンスレットが子供を見失い、あわてて探すと、道端の電灯に群がるハエをじっと見つめる子供の姿がある。あるいは子供に関しては一切ナレーションが言及しない。
 このように、一見大人達の情事に巻き込まれる存在としてあるように思われる子供たちが、むしろその無垢さゆえに大人達の関係をさらにこじらせるという面白さがある。子供を感傷の道具ではなく、物語を乱す存在として描いているわけだ。