2014年10月10日金曜日

チャイルド・コール

監督:ポール・シュレットアウネ


(ネタバレ注意)
まず、素晴らしい色使いについて。
ノオミ・ラパスの青、そして電気屋の店員のオレンジのユニフォームを基調としながら、それらの色の散りばめ方が極めてハイセンスだ。喫茶店、学校の会議室などの空間の取り方も絶妙といえる。
こうした視覚的な心地よさの一方で、ジャンプカットの多用、あるいは男女の話のぎこちなさによって、居心地の悪さもまたこの映画では同居している。

そんな中際立つのが、カメラのパンの使い方である。冒頭の、タクシーを降りたノオミ・ラパスを捉えたカメラがパンすると、息子アンデシュがそこにいる。
母親から息子への流れるようなパンが、この映画の主題とリンクしながら何度も使用される。

どういうことか。

映画が最後に明らかにするのは、息子アンデシュが母親の幻であったことだ。息子とは虚構の存在である。
逆にカメラのパンとは、持続した時間の中で対象Aから対象Bへと視点を変えることで、そこに「本当らしさ」を定着させようとする演出だと言える。
この映画の作り手が、虚構と現実の狭間で揺れるストーリーを撮るにあたって、このパンを意図的に採用したのは間違いないだろう。

その証拠に、この映画でもっとも重要な湖のシーンでも同様の撮り方がなされている。
森を抜けて、ノオミ・ラパスがこちら側に歩いてくるのをフォローしながら、そのまま180度カメラがパンして、その先にある湖を映し出す。
これは実は駐車場だった、というのも含めて本作で合計3回出てくるシーンであって、まさにこの映画の中核となるショットである。

現実から虚構へと流れる持続ショット。
それはある意味で「意外な結末に向けて張り巡らされた様々な複線」のひとつとして、あくまで戦略的に採用された演出なのかもしれない。しかしだからといって、この「本当らしさ」が、観客を「騙す」ためのものであると断定してはいけない。
結末を完全に予想できなくとも、上記の、「湖だと思っていた場所が駐車場であった」という衝撃的なエピソードが中盤にあることもあって、観るものは次第にこの映画のいくつかのシーンや存在は、虚構であろう、と予測できるようになっている。つまり、この映画における持続ショットは、「騙す」
ことを意図しているというよりは、現実と虚構の境界に注意を促し、さらに言えば虚構を虚構と認めたうえで、なお何事かを描こうという態度の表れでもあるだろう。


そうした目で見たとき、とりわけその虚構性を体現するのが、森だ。

ノオミ・ラパスが森へと向かうのは、全部で3回だが、このうち一回は息子アンデシュと、ほかの二回は一人でである。そしてこの二回の、ノオミ・ラパスが一人で森へと向かうシーンは、どちらもそのきっかけとして、別の住人が森へと向かっていくのをノオミ・ラパスが目撃することで始まる。

この、住人が森へと向かっていくのを後ろから捉えたノオミ・ラパスの主観ショットの、なんとも言えぬファンタジックな印象はどうだろう。
美しいピアノの旋律をバックに、緩やかな時間の流れが取り戻され、そうしたノオミ・ラパスは湖へと誘(いざな)われる。
誰とも知らぬ人に、引き付けられるようにして、森へと向かっていく、というのは、まさしくファンタジー映画の定番である。

虚構と現実の境目が曖昧なサスペンス映画でありながら、このシーンはその虚構の虚構性を豊かに描写してみせる。
それは、「虚構=嘘=騙されてはいけない」という現実からの上から目線とは程遠い、「虚構=映画=おとぎ話」という戯れに、寄り添いながら豊かに演出するつくり手の姿勢の表れである。

だからこそ逆説的に、この虚構が、虚構であることの悲劇性が、強調されるのである。

あらかじめ引き裂かれることを運命付けられた美しい画が、ストーリーの進行とともに、予想通りに残酷に引き裂かれながら(ノオミ・ラパスが飛び降りるその瞬間もまた、持続したパンで撮られていることに注意されたい!)、悲劇のラストを迎える。しかし美しい画は、美しいイメージは、残る。

映画が単なるストーリーテリングではないのは、この一点においてだ。
イメージは残る。
ラストに示される湖は、一体誰の、いつの記憶なのだろうか。そしてあれは現実なのか、それとも虚構なのか。こうしたことがはっきりとは示されないまま、その美しい湖のイメージが、ストップモーションによって残される。
ストップ・モーションは「反運動」であると同時に、「反物語」なのだ。それはまさに、映画がストーリーを語ることで置き忘れていったイメージを、ストーリーの横に、あるいはストーリーの残余に、甦らせようとする、悲劇的な試みなのだ。

一方で、クライマックスにおける二つの悲劇。一つはノオミ・ラパスによる管理人の殺害、そしてノオミ・ラパスの飛び降り。
この二つのシーンはどちらも持続ショットによって描かれている。前者は部屋から玄関へと包丁を持って行くノオミ・ラパスをフォローし、後者は部屋に乗り込んだ男からパンして、丁度飛び降りた彼女の背中を捉える。ここはまさに、現実→現実へと視点が送られる、「本当」のシーンなのである。

この同じ技法の使い分け。これはまさに一種の戦略であるが、しかし上記のラストシーンなども含め、決して虚構が虚構であることによっていささかもその力を落とさないところに、この映画の凄さがあるのだろう。


前作『隣人 ネクストドア』も、非常に緊張感のある傑作スリラーである。
そしてこの二作品の、非常にわかりやすいで共通項が、「傷、汚れ」のモチーフである。
『ネクストドア』における血痕、そして『チャイルドコール』におけるびしょびしょに濡れた服とその汚れ。これらは、現実と虚構の視覚的な架け橋として非常にうまく使われている。
次の作品が楽しみの人。