2023年9月9日土曜日

クロエ (なぜアトム・エゴヤンは過小評価されているのか)

 監督:アトム・エゴヤン

結構久しぶりに見たのだが、やっぱりアトム・エゴヤンには圧倒的な語りのセンスがある。

てっきりエゴヤンのオリジナルストーリーなのかと思っていたが、実はアンヌ・フォンテーヌの『恍惚』(原題はナタリー)のリメイクであった。

エゴヤンとフォンテーヌでは、6対2でエゴヤンの圧勝である。

群像劇ではないのだが、人物から人物へとフォーカスが移動していく手捌きは、スウィート・ヒアアフターから微塵も衰えていない。とりわけアヴァンタイトルで、クラブからアマンダ・セイフリッドが出てくるのを俯瞰で捉えると、カットバックしてそれを窓から見下ろすジュリアン・ムーアの姿を捉える。ジュリアン・ムーアは産婦人科医としてクリニックを営んでいるのだが、オーガズムに達したことがないという患者に、「オーガズムはただの筋肉の収縮よ」と教え諭す場面が冒頭にあり、これがちゃんと伏線になっている。このクリニックやムーアの家も含めて、出てくる建物が基本的にガラス張りで、見晴らしの良い/プライバシーのない空間になっている。セイフリッドの話に出てくる植物園は、そのなかでも他人からの視線から身を隠す絶好の場所なのだということがよくわかる。こうした空間造形、視線の演出を基本としつつ、さらに各所で見事なアイデアが散りばめられている。

例えばアマンダ・セイフリッド演じるクロエの造型。『恍惚』のエマニュエル・べアールは基本的にはクールで謎めいた美女なのだが、クロエの方はちょっと子供っぽさがある。自転車でズッコケてみせる場面だったり、くしゃみが止まらなくなるところ(「亜鉛を飲めば大丈夫」)など、なかなか大胆でユーモラスな味付けがされている。ちなみに自転車でズッコケるシーンは、ジュリアン・ムーアの気を引くためにやったように見えるのだが、天然なのかもしれない。このどこまでわざとなのかわからない所作が、一番ラストに効いてくる。彼女はわざと手を離したのだろうか。

また、セイフリッドの報告を聞くために、二人はさまざまなカフェで落ち合うのだが、セイフリッドがリーアム・ニーソンといよいよ一線を超えたという話をする場面で、映画では初めて雪が降る。映画の雪は、魔法であり、虚構である。(ちなみに映画のラストは春。この時間の推移の変化も見事なものだ)

上述した特筆すべきポイントは『恍惚』にはなく、これほどリメイクした意義を感じさせる映画もない。物語上も結構要所要所で違いがあって、これは好き嫌いが別れるかもしれないが、エゴヤン版はラストショットから逆算された実に巧妙な脚本だと言って良いだろう。

ということでエゴヤンの見事な傑作だと思うが、この映画もまた、まったく評価されていないのだから、世の批評家はいったい何を見ているのだろうか。本作にしろ、またカンヌでこき下ろされた(エゴヤン自身がショックを受けたという)『白い沈黙』にしても、題材がいささか俗っぽくなったということはあっても、その演出のボルテージはいささかも衰えていないと思うがどうか。

ところで、フォンテーヌの『恍惚』はいささか中途半端な作品になっていて、上述の通りエゴヤンの圧勝だと思うのだが、しかしながら微笑するファニー・アルダンの存在感、ジュディス・マグルの弾き語りなど、フランス映画特有の抗い難い魅力があるのも確かであった。。