2012年5月9日水曜日

『ノスフェラトゥ』レビュー


監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
 
これはものすごい傑作。
ムルナウによるサイレント版のリメイクであるが、このカラー映画として生まれ変わった世にも恐ろしい吸血鬼映画によって、このノスフェラトゥなる物語が内包する優れた構造がムルナウ版ともども見事に浮き彫りになったといえよう。それは、必ず「すでに」異変が起こって「しまって」いる、という現在完了形の物語構造である。
ルーシーはオープニングから「すでに」悪夢にうなされているのであり、ノスフェラトゥは気付くと「すでに」ベッドサイドにいるのであり、ネズミの群れは「すでに」街を占拠しており、街の人々もまた「すでに」気がおかしくなっているのである。我々はその都度、光景によって、「起きてしまった」異変に気付かされる。
つまり、光景が物語のすじに先行している。

「すでに異変が起きてしまっており、その帰結を光景として見せる」という、この現在完了形の暴力は、黒沢清のホラー映画にも見受けられる(黒沢映画では常に、人々は気付くと「すでに」気が触れている!)。現在完了形の暴力によって、見る者は「遅れていた」ことに気付かされる。気付いた時には、世界は変わってしまっているのであり、その事に遅れて気付くとは何と残酷な事だろうか!

 
現在完了形の暴力によって、いつしか秩序が乱され、世界はそのコントロールを失う(失ってしまったことを知らされる)。さらにこの映画がすごいのは、その世界の転倒が、我々の世界をもかく乱してくることだ。それは例えば以下のシーンによってだ。
ペストが蔓延した(とされる)街の広場で、人々がダンスや食事をしている。ルーシーは人々の気が変になったと思い、逃げるように歩いていくが、食事をする人々がルーシーを引きとめ、「最後の晩餐だ」と告げる。
ここで我々は、ある種の薄気味悪さを覚えながら、これが「最後の晩餐」なのだと知り、人々の気がふれてしまったわけではないと安堵する。しかし次の瞬間、突然画面がジャンプカットされ、そこにいたはずの人々が消え去り、「最後の晩餐」を大量のネズミが食べている光景が出現する。
まるで説明のつかないこの一連のシークエンスは、我々自身の世界をもかく乱してくる恐ろしいシーンだ。
 
さて、それにしてもこの映画は歪なテンポ、テンションで進んでいく。サイレント版以上に慌ただしく物語は進行し、人物描写もほとんどない。しかし、たとえばノスフェラトゥがジョナサンの指を吸い、さらに彼に迫ってくるシーンや、ノスフェラトゥがベッドサイドにやってくるシーン、あるいはジョナサンがノスフェラトゥの屋敷を詮索するシーンなど、今度は過剰な持続=長回しで演出される。要らないシーンは徹底的に省き、クライマックスはこれでもかというくらい見せる、というような極めて潔い演出であろう。