2013年5月4日土曜日

ホーリー・モーターズ

監督:レオス・カラックス

リムジンに乗ったドニ・ラヴァンが次々と”アポ”に従って変装をし、街やあるいは地下駐車場などに出現しては”アクション”を演じてみせる。
一回目の老人、二回目のスタントマン、三回目のメルド、と続いて、この映画は一種の”反物語”なのだと思わされる。ストーリーではなく、行為が問題なのだと、そう高らかに宣言しているように見える。
しかし4回目の「暗殺」の顛末において、その現実と虚構の境界が見事に崩れ去るのに合わせて、リムジンに乗った男とラヴァンの会話によって、この映画の真の構造が提示される事になる。
簡単に言えば、これは映画が死んだ世界であり、「カメラはその姿を消し」、「見る者が誰もいない」中、かつての俳優達が、ただただアポに従って演じているという世界なのだという事が明かされる。それと同時に、”アポ”と”アポ”の隙間に、次第に現実が入り込んでくる。
それはエリーズという女優とのつかの間の”私語”であり、飛んできた鳩によって一瞬コントロールを失った車であり、あるいはリムジン同士の衝突とそれをきっかけとした、カイリー・ミノーグとラヴァンの”再会”である。
これらは、物語の開始を告げる、あるいは物語を予感させる、現実の相貌が変わる瞬間である。
ラヴァンが窓ガラスを開けると、縦構図でカイリー・ミノーグが奥に捉えられるワンショットが、それを告げているのだし、あるいは彼女との別れの切り返しがその終わりを告げているわけだ。

あるいはエリーズとのやり取り。「次のアポがあるんだ。」「また会いたい。」「君の名前は?」という、あのロマンスの予感。

なるほど、映画の決定的瞬間とは、首尾一貫した物語を脱臼させる瞬間であるだけでなく、物語の予感でもあるわけだ。

しかしだからこそ、この映画にはちょっと不満がある。
エリーズのクローズアップが欲しい。ドライバーと喧嘩するエディット・スコブのクローズ・アップが欲しい。あるいは娘とのやり取りはもうちょっと何とかならんのか。
そして何より、カイリー・ミノーグのミュージカルシーンの照明はさすがに暗すぎやしないか。

オープニングのあの”後頭部達”のインパクト、ラヴァンが出かけるシーンでの滑らかなトラックと屋上で戯れあう子供達の幸福な画(さらにそれと対照をなす別のビルの屋上に配置された警備員達)、あるいは駐車場での”暗殺”シーンの見事な展開、そして逆光でシルエットになったドニ・ラヴァンの肉体、あるいはイスラムのベールを思わせるエヴァ・メンデス(フランスの『ベールの政治学』という本があったね)など、忘れがたいシーン。とても素晴らしい。
しかし上記の不満もあり、あるいはラストはちょっとクドいとすら思う。
いや、めちゃめちゃ面白い映画だったけどね。
ある種のテレビ批判でもあったメルド、そして映画の終末を思わせるこのホーリー・モーターズ、カラックスにはまた映画を撮って欲しいね。


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