2015年9月12日土曜日

レッズ

監督:ウォーレン・ビーティ

素晴らしい。歴史的事象についてその起承転結を決して親切には提示してくれないので、ともするとセリフや場面に置いてかれそうになる部分もあるが、映画にとってそんなことはほとんどどうでも良い。

このダイアン・キートンとウォーレン・ビーティの関係性。このような史実を描いた映画で、これほど充実した男女の描写は稀ではないか。それは常に、各場面において、二人の距離や視線を繊細に演出しているからに他ならない。

・口論の末に立ち去ろうとするも、結局扉の前で立ちつくしてしまう二人を描いたショットは何とも愛らしい。
・一方でキートンも立ち去るときには立ち去るサバサバぶりで、このメリハリのあるキャラクタリゼーションが効いている。
・党内が分裂し、ビーティが扇動者となって党員を地下に集めるシーンでの、キートンに向けられた俯瞰ショットが素晴らしい。
・あるいは、はるばるフィンランドまで行った挙句にビーティに出会うことができなかったキートンを捉えたシンプルで美しい描写。

扉の効果的な使用は最後まで続く。終盤、プラットフォームでキートンがビーティを待つが、ついに列車からビーティが現れずに扉が閉められてしまう瞬間の絶望的な印象があるからこそ、その直後の再会にストレートに心を打たれるだろう。
ビーティの書いた詩の内容を最後まで見せないことも、抒情に流れない重要なポイントだと思う。

ジャック・ニコルソンの役どころが大変素晴らしい。ビーティとキートンの関係性も素晴らしいが、ここにニコルソンが入ってくることで、お互いがお互いを批評しあうより緊張感のある関係性が生まれている。
ビーティは、歴史が動こうとしているときに前衛的な個展の批評に励んでいるキートンを批判し、キートンは、作家としての立場を維持せず活動にのめりこむビーティを非難し、そんなキートンをニコルソンが男と革命の話に興じながら寝たいだけだろうと痛烈に皮肉ってみせる。
それにしても、このジャック・ニコルソンの役柄は面白い。実在の人物だからこそ、という点もあるだろうが、僕はすっかり、ビーティが帰ってきた夜にニコルソンは自殺するものだとばかり思っていた!

2015年9月8日火曜日

クラッシュ(1996)

監督:デヴィッド・クローネンバーグ

「交通事故は破壊的というよりは生産的出来事だ。性的エネルギーの解放だ」←最高に痺れるセリフだ。
高層ビルからハイウェイを見下ろした俯瞰ショット、夜のネオンとカメラのなまめかしい動き、女優達の無表情と恍惚の瞬間の連続性。
心理ではなく、「セックス」や「車の疾走」といった出来事によってつながれた因果が、我々を常日頃から慣れ親しんでいる通常のドラマ構造から”解放”し、極めて不安定でどこへ行くとも知れぬ不気味な語りの流れへと誘惑する。

ジェームズ・スペイダーとホリー・ハンターの出会いの何とエロティックでスリリングなことだろう。
廃車を並べた駐車場での二人の視線の交錯。この時点ではまだ、両者には”ノーマルな”道徳がまとわりついており、スペイダーの表情は事故の加害者としての自責の念を感じさせるものである。しかしホリー・ハンターは初めて両者が病院で出会ったときのようには気が立っておらず、スペイダーとの何気ない会話に興じてくる。
それからスペイダーが彼女を送っていくといって、二人のドライブが始まるわけだが、ここでの、両者の肩のあたりをクローズアップで撮った妄執的と言ってよいショットが何度もインサートされ、徐々に映画が、静かにその旋律を変える。
すると突然車が割り込んできた拍子に、スペイダーがコントロールを失い、危うく再び事故を起こしそうになる。するとホリー・ハンターがスペイダーの手に自身の手を重ね、ハンドルを操作し、安全な場所へと停車させる。何とエロティックな展開。そしてこの「再び事故を起こしそうになった」という「物語上の大事件」を前にして、まるで感情的動揺を見せぬ両者は、やがて車の中で口づけを交わし、体を重ねるだろう。
そのあまりに”不自然な”展開を、我々は何の違和感もなく受け入れてしまう。完ぺきな演出だ!

肌の傷や車体の傷への執着は不気味でじっとりしていながら、映画全体は観念的ではなくむしろ身体的で、不思議な軽やかさすら感じさせる。
キューブリックの遺作が"Fuck"というセリフで終わる2年前に、Fuckで終わる映画が創られている。
事故現場をして「芸術的作品だ」というセリフがあるが、この映画こそまさに芸術だ。