2012年12月31日月曜日

ローラ

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

うーん、これはあまり面白くない。いや十分面白いのだが、画面の強度において『マルタ』には遠く及ばない、と思う。
ただし、売春宿での会話から一気にローラの歌唱に切り替わるカット割りなど、なかなかスピーディに見せてくれるし、あるいはローラとフォン・ボームの教会での輪唱場面なんてとっても愛らしいシーンだ。

フォン・ボームの潔癖さと野心が挫折する瞬間としてローラのステージ姿を目撃する瞬間と、ローラを売春するシーンの二つが描かれるわけだが、前者のインパクトに対し、後者の描写はいたって平凡なそれだ。

2012年12月30日日曜日

マルタ

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

ファスビンダー初見なのだが、これは素晴らしかった。
メインのストーリーはヘルムートとの結婚生活で、これが始まるのは映画が始まって1時間くらいしてようやくなのだが、しかしこの最初の1時間の何と素晴らしいことか!

冒頭の、マルタが宿泊しているホテルの踊り場を仰角で捉えたフルショットが非常に美しい。
あるいはマルタの後をついて歩くリビア人(結局ストーリーに全く絡まずに終わる!)を、カメラがぐるっと回ってガラス越しに捉える意味不明なショットのインパクト(笑)

このカメラの円運動は、マルタとヘルムートが最初にすれ違う瞬間に受け継がれ、もうこのシーンは思わず大笑いしてしまったのだが、それにしてもこの前半1時間はあらゆるショットがバシバシ決まるのだが、決まるたびにそれが笑いへと転化されるという稀有な映画だと思う。
例えば図書館の館長とマルタの同僚が婚約し、そのことを同僚がマルタに伝え、そこで二人が抱き合い、画面奥から館長が出てくるというこの縦の構図なんて、いや本当に、今まで見た映画で最もまるで不必要な縦の構図だ(笑)しかしそれが「無駄」ではなく「過剰」として画面に定着する凄さがある。
物語上のつながりから要請されるショットを撮るのではなく、物語上特に必要のない、しかし美しく、あるいは過剰で、驚きに満ちたショットを撮ることによって、物語以上に視覚的イメージを残すこと。その魅力を、この映画は教えてくれる。
例えばマルタの母親が、マルタに向かって「あなたの言いなりにはならないわ!」と叫ぶシーンを見てみよう。ここで母親は、叫ぶとともに一歩前に踏み込む。そして一歩前に踏み込むことによって、丁度廊下の照明がバチっと彼女の顔に当たるのだ。
つまり物語(母親が叫ぶこと)には直接必要ではない過剰な美しさ(廊下の照明がバッチリ顔に当たること)がここにはあるわけだ。
マルタが新居に入ったときにゆっくりと窓の方に顔を向けるクローズアップにおいても、ドンピシャの照明が堪能できよう。

あるいはマリアンヌとマルタが会うオープンテラスの色彩も凄い。周りにあるバラを始めとして、パラソル、椅子、そしてストローまでもが真っ赤である。このカラー映画ならではのインパクトは、久々に味わった。

その他数え切れないほどある印象的なショットは、どれも物語の必要性を超えて画面そのものが主張しているショットばかりだ(例えばヘルムートのプロポーズの直後にカメラがクレーンで上昇して遊園地の全景を捉えるショット)が、物語の決定的な瞬間を決定的に撮ってみせる手腕も見事なもので、マルタの母親が倒れる瞬間のフルショットへのカットの切り替わりにはハッとさせられる。


さて、前半の1時間をやけに褒めちぎったのは、いざヘルムートとマルタの結婚生活が始まると、どうも退屈になってしまうからだ。
それはヘルムートの頑固さ、強烈な束縛キャラの表出という物語を画面がなぞっているだけのように思えるからだ。物語が中断され、ショットそのものが浮き上がる瞬間に欠ける。
しかしそれでも見事なのは、例えば何度も繰り返される玄関越しにヘルムートを捉えたショットのインパクトと、それが逆にマルタが家に帰ってきたときのショットで擬似的に反復される巧妙さがあるからだ。
そしてこのマルタが帰宅して家にいるヘルムートを見て、思わず絶叫するシーンから、映画が息を吹き返す。マルタが逃げ出し、遠くへと逃げていくロングショットの緑色のインパクトは、まるでソクーロフだ。
そして横転した車を捉えたショットの素晴らしさ。ああ、これでめでたくこの映画が、有無を言わさぬ傑作として終わりを迎えることができる、という安堵をついてるうちに、もう思わずニヤニヤせずにはいられない強烈なショットとともに、映画は締めくくられる。今年見た映画でもベスト級の一本であった。

2012年12月27日木曜日

スイート・スイート・ビレッジ

監督:イジー・メンツェル

ファーストショットがとにかく素晴らしい。
霧が巻いている夜明けの村、その霧の向こうからパヴェクが歩いてきて、指笛を鳴らすとカメラがパンして、オチクが出てくる。カメラが二人を捉えたままパンすると、撒かれた水が朝日を反射している実に美しい道路が二人の行く手に映り込む。
冒頭から様々な人々が登場し、そのたびに小事件を起こすわけで、その小ネタっぷりがとても面白く、またそれを捉える滑らかなカメラワークも見事だ。
庭にベッドを運ぶ別荘族を映したあと、トラックを誘導するオチクを映し出したり、あるいは少年が思いを寄せる学校の教師に軽くあしらわれた後、洗濯物を干すヤナと挨拶をしたりと、人物と人物がカメラによって関係づけられる様子というのは、見ているだけで気持ちがいいものだ。

上記した洗濯物を干すヤナと少年のやりとりの直後、ヤナが夫の湖でのシーンなんかとっても可笑しい。夫が潜っている間に不倫相手とキスをするという発想がまず楽しく、またものの10秒ぐらいしか潜っていないのに「42秒!」と言って、それで場がおさまるという映画的テキトーさが可笑しい。

ついでに、ヤナが最初に自転車で映画館に向かうショットはハッとする美しさだ。

あるいはバーでのパーティも、やはり映画というのはパーティを描けばそれだけ面白くなるという感じで、確かにこのへんもう少し盛り上げてくれても良いような気がしたが、やはり楽しい。
(盛り上げてほしい、というのは、どうもこのパーティシーンが言語的というか、視覚的見せ場に欠けるという意味。ヤナとカシュパルの密会にしても、あれでいいのか。)

2012年12月25日火曜日

2012年見た映画を振り返る PARTⅡ

 さて、じゃあ印象的に描くってのは、鮮烈に描くってのは、一体どういうことなんだという。
例えば『風にそよぐ草』で、映画館から出てきた男を女が見つけて、それから二人で喫茶店に入っていくとこ。『厳重に監視された列車』の、有名なキスシーン。『孤独な声』の、思わず息を飲むであろうオーバーラップでつながれた二人の男女。『つぐない』の湖畔でのキーラ・ナイトレイのダイブ。『ある秘密』の、結婚式パーティでのリュディヴィーヌ・サニエとセシル・ドゥ・フランスとパトリック・ブリュエルの視線の交錯、すれ違いを過剰なまでに観客に意識させる演出。『デーモンラヴァー』の冒頭の空港での物凄い緊張感。
 これらを総括する言葉なんてあるわけもなく、あってはいけないとすら思うのだけど、ただ共通するのは、「全然リアルじゃない」ってことだ。
 というのも、『風にそよぐ草』のように男と女が出会うわけがないのだし、『孤独な声』ほど長い長い間を置いて会話を交わす人間などこの世にはいないのだし(たぶんw)、『厳重に監視された列車』のように横たわった女の顔にピタっと灯りがあたるわけがないのだし(いややってみたいけどww)、『フランティック』のように丁度自由の女神のミニチュアだけ屋根から落ちずにいるなんて有り得ないのだし、人は『夜行列車』の主人公達ほど見ず知らずの相手に感情をぶつけはしない。
 それなのにこれらの映画がなんでこんなに美しく、豊かで、素晴らしいのかといえば、それはむしろ「それゆえに」素晴らしいのだと言えるかもしれない。つまり、リアルじゃない、なんか過剰である、ご都合主義的である、という事が、そのシーンを際立たせ、忘れられないものにする。
 僕たちが日常で感じている「リアルな」時間感覚、「リアルな」景色とは別の、全然違う、ゆったりとした、なめらかな、濃密な時間感覚、空間、光の明暗を感じ取ること。それが映画の喜びではなかろうか。
 つまり、映画とは、リアリズムとは反対の方向から立ち現れ、僕たちの「リアル」を脅かし、僕たちはその過剰で甘美な時間の流れに、ただただ身を任せる。それが映画体験であり、あるいは映画館体験じゃないかと思う。

 自動車や通行人の喧騒のなか街の通りを黙々と歩いて行き、チケットを買い、受付のお姉さんと軽く話し、コーヒーをロビーですすり、そうして真っ暗闇の中で一つの大きなスクリーンに繰り広げられる「異世界」をそこに居合わせた見ず知らずの人々と一緒に堪能し、再びリアルの世界へと戻っていく。



 てことで、今年の新作のベスト(一部仙台で初公開)

 ある秘密 (仏 クロード・ミレール)
 ファウスト (露 アレクサンドロ・ソクーロフ)
 ドラゴンタトゥーの女 (米 デヴィッド・フィンチャー)
 J・エドガー (米 クリント・イーストウッド)
 灼熱の肌 (仏 フィリップ・ガレル)
 アウトレイジ・ビヨンド (日 北野武)
 風にそよぐ草 (仏 アラン・レネ)
 刑事ベラミー (仏 クロード・シャブロル)
 SHAME (米 スティーヴ・マックィーン)
 メランコリア (デンマーク ラース・フォン・トリアー)

次点:おとなのけんか、人生の特等席など

番外編として、『合衆国最後の日』!!!!!!

 あと、2000年代の旧作でもかなり素晴らしい映画をいくつか見たので、レコメンドしておきたい。
 『ストロベリー・ショートケイクス』は東京を舞台にした女4人の群像劇で、我ながらレビューを良くかけたので一緒に見て欲しい。
 『ジャケット』は本当に地味なんだけど、かなり優れた映画。そうそう、こうやって映画って撮るんだよねー、と。とっても良い。
 
該当する映画のレビューはこちらで⇒ http://gattacaviatoryasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post_2172.html




2012年見た映画を振り返る PARTⅠ

 さて、今年も終わりが近づいてきたので、2012年公開された映画についてダラダラダラダラと書いてみよう。
 僕も一応、「つぎ、何見ようかな、、(ソワソワ)」、「ヤバい、最近映画見てない(ムズムズ)」みたいな生活を送っているので、例えば映画ってのはどこをどう見りゃいいのか、とか、良い映画ってのはどういう映画の事を言うのか、とか、まぁいろいろ考えるわけで、しかしそれは、例えば『國民の創世』とか『吸血鬼ノスフェラトゥ』といった古典映画を見るとき、『ウィークエンド』や『欲望』といったラディカルな、映画文法の再考を迫るような作品群を見たとき、あるいは『ファウスト』や『LOFT』のような作家性の強い作品を見るとき、あるいは『人生の特等席』、『幸せへのキセキ』、『ヤング≠アダルト』といった新作アメリカ映画を見るときで、もうまるで違う考えとして頭の中をかすめてくるのだけれど、それでもそれなりに「あーやっぱりこういうことなんじゃないか」と確信めいたものもわずかに出てくる。

 例えば今年最も素晴らしかった一本として『ドラゴンタトゥーの女』があるのだが、じゃあ何がそんなに素晴らしかったのか、と言うと、うーん、ちょっと言葉にしづらい。というか、「いや、全ショット、全カメラワーク、全カット割りが決まってたじゃん!」としか言い様がない。
んじゃ、映画ってのは画がキマってればいいのか。うーん、半分イェスだし、半分ノーだ。
でも例えば今年公開された『ジェーン・エア』なんてのは、僕は全然楽しめなかったのだけど、それでも撮影はとても美しかったと思う。それでも面白くない。一つには、その撮影の美しさが予定調和的なそれだからじゃないかと思う。僕らが、私たちが「美しい景色」という言葉で連想する光景、深い緑の木々、山、夕陽、海、そういった光景が、僕らが知ってるような撮り方でしか撮られない不満。でも例えばキューブリックの『バリー・リンドン』が見せる木々、山、夕陽、川の景色は、僕らが知らないぐらい、嘘みたいに美しく切り取られるわけだ。もちろんそんなのは個人の経験によるのかもしれないけど。
 
 それじゃあ映画は、僕たちが知らないぐらい美しいショットを見せてくれりゃいいのか。うーん、これもまた半分イェスだし、半分ノーだよねぇ。
 
 とはいえこの半分のイェスはかなり強いうなずきである。いや、ぶっちゃけると撮影がめっちゃくちゃ美しければ、90分や120分くらい、いくらでも見続ける事はできる。例えばゴダールのいくつかの作品、とりわけ『ゴダールの決別』なんかは、僕はそれが一体何の物語なのか全くわからなかったにもかかわらず、そのあまりにも美しい撮影の数々に心を奪われてしまったからだ。
 あるいは『秋津温泉』なんて優柔不断な男と女が恋愛してるだけだ。でもその撮影のあまりの美しさには確かに心を動かされるわけだ。
 
 さて、ノーの部分。つまり、やっぱ映画は物語が、ストーリーがあってこそじゃないか!みたいな話だ。確かにそんな感じもする。
 話が面白ければ、まぁ満足、みたいな部分はやっぱりあるわな。
 と言うと、必ずこういう意見が出てくるだろう。
 「物語を楽しみたいなら小説でいいだろ!映画には画面と音があるんだよ!」
 これはこういう事を言いたいわけだ。
 「男が殺されました→刑事が事件を捜査しました→犯人がつかまりました→犯人には暗い過去がありました」といったあらすじなんて、どうでもいいじゃないか!そもそもお前ら、犯人は誰だったとか、最後はどうなるの?とか、そんな事にしか興味ないのかよ!みたいな。
 
 ふむ、これも納得が行く。それは僕の日々の、誤字脱字だらけで目も当てられない映画レビューを読んでくだされば、僕自身もそれに近い考えであることがわかっていただけると思う。
 『人生の特等席』のストーリーなんて、『幸せへのキセキ』のストーリーなんて、全っ然面白くもなんともない。でもこの二つの映画はとても面白い。なぜか。
 ここで強調しておきたいのは、これらの映画が面白いのは、「ストーリーがどうでもいいから」ではないということだ。
 むしろこうだ。
 『人生の特等席』の、あのコテコテのベタベタな恋愛、あれが何でこんなに感動するかと言えば、それはバーでのダンスの楽しさとか、ケータイ電話の着信音の挟み方とか、あるいは湖の撮影の美しさだとか、あるいはエイミー・アダムスがむちゃくちゃ可愛いといった、まぁそういう細部(と言うにはあまりにもデカい要素の数々)によって、このコテコテでベタベタな恋愛が、何かとっても愛おしくて、僕たちが忘れていた恋愛の喜び、人と人が触れ合う素晴らしさを思い出させてくれるからなのではないか。ストーリーとは一見関係のない細部や仕掛けが、ストーリー自体を豊かにしてしまうこと。
 それはたとえば『J・エドガー』なんかにも言えるのではないか。
 終盤、心身ともに弱ってきたエドガーがナオミ・ワッツ扮する秘書のガンディに「私が死んでも秘密文書は絶対に漏らすな・・・」と頼む。するとナオミ・ワッツがサッと振り向いて、「はい、絶対に漏らしません」と、キッパリとストレートな眼差しで宣言してみせる。それをカメラは真正面で、強烈なインパクトでもって捉えてみせる。
 『J・エドガー』を僕は3回見たのだが、3回ともここで泣いてしまった。それはこのシーンそれ自体の鮮烈な印象もさることながら、それまで確かにエドガーと、ガンディ秘書やトールソン(だっけ?)との関係を描きつつも、やはりアメリカの重要な歴史の流れの中でエドガーが何をしてきたかを描いてきたこの「社会派映画」が、突如として、つまりこのガンディ秘書の振り向きによって、全く別の表情を見せてくれたからだ。
 このガンディ秘書の「振り向き」は、この映画のパンフレットにもHPのストーリー紹介にも当然載っていない。つまり物語の大枠から逸脱した次元で、映画が豊かさを獲得すること。J・エドガーの業績を淡々と描くだけであれば、伝記小説を読めば、あるいは詳しめの歴史参考書を読めば事足りてしまう。そうではなくて、そういった大枠のあらすじではなくて、それとは別の次元で、つまり細部において豊かさを獲得すること。そしてその豊かさゆえに、「アメリカの歴史におけるJ・エドガーの業績を描くストーリー」という大枠そのものが壊れ、その瓦礫の中から、エドガーを支え続けたガンディ秘書の強烈な存在感が、新たな大枠としてムクムクと立ち現れること。つまり細部が細部として素晴らしいという事にとどまらず、細部そのものの素晴らしさゆえに、映画全体の表情が当初の予想とは全く異なったものになること。そこに驚嘆すること。うん、なんかこんな感じじゃないかな。
 
 そしてそれは脚本をただ脚本通りに映像化しても生まれないものだろう。知らんけど。でもきっとそうだ。ガンディ秘書の振り向きがあれほど強烈に撮られる事がなければ、あのシーンは単に「エドガーさんは秘密文書を守るよう頼みました」というあらすじの説明でしかなくなってしまっただろう。

 まぁとはいえ、そんなイチイチぶっ壊すなら、そもそも大枠なんていらねーじゃねーか、とか言われそうだ。あるいは、そもそも『マンディンゴ』のような映画は、白人の黒人差別という大枠が最後まで確固として存在する。『マンディンゴ』の素晴らしさが何かと言えば、もうそれは一つ一つのショットの迫力としか言い様がないわけだ。『バリー・リンドン』にしてもそうだ。とにかく一つ一つのショットが、人物の運動が、美しく、カッチョよく、瑞々しいわけだ。
 これらの映画は、別にこんな言い方しなくてもいいわけだが、それでも先ほどのテーゼに合わせて言うと、細部の豊かさがストーリー、つまり大枠を強化する、とでも言おうか。それはどういうことかと言えば、脚本の時点で誰が読んでも明らかな物語の決定的瞬間を、映像と音によって「決定的に」描くこと。例えば『マンディンゴ』であれば逃げた黒人が森を疾走しつつもとうとう捕まってしまうシーンを、不気味なルックスの撮影と長回し、そして微妙に鳴り響くサウンドトラックでもって、印象的に描くことだ。あるいは『バリー・リンドン』であれば、バリーがとうとうぶち切れて息子を殴りまくるシーンを、それまでカメラを固定した叙情的なロングショットとズームで見せていたのを、手持ちカメラで対象に近づき、即物的に切り取ってみせることだ。
 あるいは『アウトレイジ・ビヨンド』の北野武が三浦友和に復讐を果たすあの重要なシーンを、スローモーションでたっぷりと見せてくれることだ。
 以前見た映画を思い出すときに、その話の流れだけでなく、あるシーンのこの描写が強烈に頭に残ってるっていうのがあると良いと思うのだけど、それってこういう演出によるんじゃないか。
 『吸血鬼ノスフェラトゥ』の、ノスフェラトゥがベッドに近づいてくるあのシーンのあの強烈なインパクトとか、まぁそういうことだわな。
 あるいは、そうした大枠を見事に強化してみせる、つまり物語において重要なシーンを鮮烈に描いてみせる演出によって、映画は映画として、つまり物語を伝える一つのメディアとして生きるわけだ。そしてその大枠とは関係のないところで、細部が細部として充実してると、なお良いわけだ。

 じゃあその大枠を強化するってのは、つまりあるシーンを鮮烈に描くっていうのは、いったいどういうことなんだろう、というのは次で、、、(続く)

http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/12/2012part.html



2012年12月24日月曜日

秋津温泉

監督:吉田喜重

男と女がどうという事でもない会話をしたり、見つめ合ったり、逃げたり、捕まえたり、抱き合ったり、口づけあったり、、、という要するに「映画的な」シーンだけで構成されており、あらすじとしてはほとんど無内容と言っても過言ではないというのは、その是非はともかくとしてたまげてしまった(笑)だって、ずっとそんな感じで、「あ、また岡田茉莉子が逃げた!長門が追った!」みたいなw

しかしもちろん、重要なのは逃げること(だけ)ではなく「逃げ方」であり、その「撮り方」なわけで、横移動や、時に円状の動きを見せるカメラワークは流麗そのもの。
あるいは岡田茉莉子が振り向いたり、起き上がったりする瞬間のカッティング・イン・アクションもハっとさせられる。
それと、岡田茉莉子は何十回と衝動的にその場から走ってどっかに行くわけだが、その時に、まぁたいていは長門裕二とか旅館の女とかと一緒にいて、何かの拍子に衝動的に駆け出すというパターンが多くて、そうするとカメラはまず二人をバストショットなりフルショットで捉えて、そこから岡田茉莉子が画面の外へと駆け出す。で、驚いたもう片方が岡田茉莉子の方を見ると、その視線ショットでカメラもまた岡田茉莉子を捉える(文字で書くと長いが、まぁあまりにも当たり前のショット構成である)。で、時々この視線ショットで捉えられる岡田茉莉子が、明らかに「遠い」のである。つまり、「そんな速くねーだろ!w」というレベルの距離をいつの間にか走っている。
特に長門裕二が帰ってきたと聞かされて、険しい上り坂を駆けていく岡田茉莉子は、明らかに速い。
つまりリアルな時間を微妙に歪めて演出している。それが気持ちがはやる岡田茉莉子の心象を反映しているかどうかは置いておくとして、ここでは明らかに「リアル」以上にあっという間の時間の流れがある。
しかしそうかと思うと、上記したいくつかの流麗なカメラワークで捉えられる人々の運動は、ずいぶんとゆっくりしている。それは運動そのものがゆっくりとしているのではなく、その運動を捉えたショットが過剰に持続しているため、そのような印象を与えるのだ。
物語を説明するのに必要なショットの持続時間以上に持続させることで、このような印象が生まれているわけだ。

2012年12月20日木曜日

秋日和

監督:小津安二郎

さて、そろそろ小津を見てみようと思って一本目に選んでみたのがこれ。
凄いね、ほとんどの会話が内側からの切り返しで。
岡田茉莉子の奔放な魅力、彼女と司葉子の屋上の会話の素晴らしさ。屋上から線路を捉えたロングショットの、赤い消防車群のインパクト。
あるいは寿司屋でのこれ以上なく適当な会話。
司葉子と原節子が住むアパート、佐田啓二と司葉子が初めて会うシーンの廊下でのやり取り。
原節子と岡田茉莉子の会話なんて大笑いしてしまった。

しかし冒頭の複雑なカット割り、全景のインパクト、凄い。

それと、最初に男三人で飲んでるシーンの直前に挟まれる廊下のショットとか、あるいは中村伸郎が風呂に入るのに脱いで放った白シャツのあの感じだとか、細部の充実感も凄い。

2012年12月18日火曜日

夜行列車

監督:イエジー・カヴァレロヴィッチ

天才的!
この周到なカメラワークと素晴らしくご都合主義な展開、そして人々が見せる運動の過剰さ。まさに夢のような映画だ!

冒頭の駅を行き交う人々を捉えた俯瞰ショットは、どれくらい「演出」されているのだろうか。例えば僕は偶然にも階段でぶつかって会釈する二人の通行人を見つけたが。

最初、男と女が部屋をめぐって喧嘩するシーンで、男が車掌を呼んで部屋に戻ってくると、カメラは女が窓の外を見つめる後ろ姿(セクシーなローネックだ)を捉え、情緒的なテーマソングがかかる。
物語上は男と女が部屋をめぐってもめているのに、「窓の外を見つめる女の後ろ姿のショット」が来るわけがない!
来るわけがないのだが、それを持ってきちゃうことで、起こるはずのない恋愛が起こるわけだ。
このショット、ドアが開くことで通路の光が彼女の後頭部にあたる。そして彼女が振り向くと、目のあたりに光があたって、その目は潤んでいる。

あるいは男と女の過剰なまでの行動。布が足にかかっているのを見て取り乱す男、気が動転して男を何回もビンタする女!この過剰さが映画だ。
あるいは、過剰さが衝突してこそ、恋愛だ。

男が女にキスをしようと身をかがめた瞬間、列車が急停車し、見事なカット割りとともに警察が列車にやってきて、そうして二人の恋愛は中断される。

そっからしばらくして、犯人を乗客達が追いかけていくシーンへと至るわけだが、これはもういずれこの犯人が捕まる事など誰にだってわかるわけで、ではなぜこの一連のシーンがこれほどまでに素晴らしいのかといえば、犯人が列車の最後部まで来てしまった時のカメラのパンの鮮烈な印象であったりとか、あるいは道中の真っ只中で停車した列車の外観の不穏な空気だとか、あるいは走りながら石を投げ合う可笑しさであったりとか、とうとう捕まる瞬間の冷え冷えとした緊張感ゆえだろう。
あるいは列車内を捜索するシーンで各部屋を覗いてみるたびに、ギターを弾いて騒いでいたり、巡礼中の尼さん達がいたりという楽しさのゆえでもある!


一件落着してしばらくすると、映画は朝を迎える。この朝の幸福感!
部屋を一つ一つ回って乗客を起こす車掌、通路でうたた寝していた乗客、あるいは窓から見える海!
「海岸まで行くの?」といった会話で何度も列車の目的地が海岸であることを知らされているため、とうとう窓から海が見えてくる瞬間は「あぁ、海だ」と思わずため息をつかずにはいられないだろう。

そしてほとんどの乗客が降りてしまった後、車掌が見回りをする列車内の静寂。あれほど人でごったがえしていた列車におとずれた、美しい美しい静寂とともに、映画はゆっくりと終わっていく。

まさに至福の100分。