2015年2月27日金曜日

ヴェールの政治学 その2

 第三章は、「世俗主義」と銘打ってあり、フランスでは「ライシテ」と呼ばれている。
 
 


 世俗主義の一般的な受け止められ方は「近代」と結びついている。すなわち、


 世俗主義は近代―民主主義への扉であり、理性と科学による迷信、感情、絶対的な信念への勝利―のしるしとして受け取られている。この観点からすれば、国家の近代化とは宗教を抑制するか私的なものにすることである。(p.109)


 
さて、この章ではまず、「ライシテ」の歴史的起源とその変遷を追いかけつつ、アメリカの「世俗主義」との違いを明瞭に記述している。
要点をまとめれば、
フランスでは宗教と結びついた権力を打破した歴史を持つのに対し、アメリカはヨーロッパの支配者たちによる迫害から逃れた宗教的なマイノリティの場(p.105)であるため、


フランスでは宗教から個人を守るのだが、アメリカでは宗教は国家から守られ、国家は宗教から守られるのである。(p.106)


この本は一貫して、ヴェール禁止派の視野狭窄、態度の硬直化を批判しているので、「なるほど、アメリカのように宗教に寛容になるべきだなぁ(アホヅラ)」となってしまいそうになるのだが、そうではない。続けて著者は、アメリカでキリスト教原理主義が政治に介入している事例に言及している。


今や宗教集団のメンバーが、しばしば民主主義の名のもとに、固有の信念と利害を認めるように要求しはじめ、世俗主義を市民としての権利を十全に享受するための障害だと見なすようになった。(p.106)


フランスの側からすれば、合衆国でキリスト教福音派の政治勢力が増大していることは、強力な世俗国家が緊要であるという正反対の証になる。(p.107)


硬直化した世俗主義=ライシテの強要は、ともするとイスラーム圏の人々に対する差別やアイデンティティの剥奪(第4章で詳述されている)につながってしまう。しかしだからといって、世俗主義の完全な放棄は、宗教的圧政の原因にもなりかねない。そうしたジレンマを著者は語っている。


ではどう考えればいいか。まずは、近代↔伝統、世俗主義↔宗教、という二項対立を解体することから始める。というのも、宗教は決して絶対的で硬直化した非民主的で非近代的なものと言うべきではないからだ。


宗教はその宗教を特徴づけてきた「伝統」に反する独自の合理性や論理を持つだけでなく、時間をかけて発展も遂げてきた。神学者や宗教法学者は、社会、経済、政治状況との関連で、拠り所となるテクストを再解釈してきた。(p.110)


あるいは、世俗主義は宗教を抑制することではない。近代とは宗教をなくすことでも宗教と対立することでもないからだ。


多くの国家が国民の宗教的信念を承認し、折り合いをつける方法を見出すことで世俗化してきた。(中略)世俗国家によるこうした宗教の扱いは、(中略)世俗主義の原則を解釈したり、再解釈したりしてきたことの結果であったのである。(p.110)


著者が強調するのは、フランスの近代化とは(その他の多くの世俗国家と同様に)、宗教を締め出した歴史ではなく、宗教と折り合いをつけてきた歴史なのだということで、前者に固執することがスカーフ禁止法への執着につながっているし、イスラム差別の道具にもなっている、ということである。
その「折り合いの歴史」についてはぜひ本書を読んでほしい。






以上のことから、本章で著者は、
 
 
 


 ある種のスカーフ禁止法の提案者たちが主張するように、彼女ら/彼らが承認する型の世俗主義のみが実現可能なものだと結論づけるのは誤りだろう。スカーフ禁止法の提案者たちは、格好の反証となる歴史があるにもかかわらず、1789年に遡り、国内の学校で主教を断固として拒否したことで共和国は統一されたと主張した。これはライシテの「共和国モデル」という異名を持つものだ。(p136)


と、画一的なライシテの解釈に疑問を呈し、かつて教育連盟(教育に関する有志連合)が提示したライシテの概念をそこに対置する。


教育連盟は、方針を記した起草文書の改定第一版で、ライシテとは「民主主義の良心」であり、「科学的思考が化石化して教条化するのを防ぎ」、「その計り知れない文化的重要性を否定することなく、宗教を適度に抑え込むため」の努力であると主張している。(p.137)


考えてみれば、宗教的アイデンティティを持つ子供を学校から追い出せば、その子供が別の考え、世俗的価値観に触れる機会も奪ってしまうことになる。
しかし、


学校とは実際に民主主義のゆりかごであり、その民主主義において差異は仲介され、調停され、慣行は批判的に再検討されて改定され、不朽の真実を教条的に主張することのんあい状況で、盛んな討論が可能となる。その意味では、学校は市民権のための、異種性から成る統一体として概念化された国民の仕事に参加するための準備を行う場所である。そうした国民においては、有権者の差異は資源として理解されるのであって、欠陥として理解されることはないのである。(p.138)




以上が第3章のおおざっぱな要約になる。
第4章の個人主義では、「その1」で触れたように、スカーフを着用する主体にとってのスカーフが持つ意味が、通時的にも共時的にも多様であり、その意味ではまさしく個人主義の観点から、(両親に反対されているにもかかわらず)ヴェールを着用する少女がいるということなどを指摘している。
第5章ではフェミニズムを扱っている。多くのフェミニストがイスラムのヴェールを女性の抑圧と考えている点、そしてこうした面でだけスカーフを考えることは、ある種のイスラームがそうであるように女性を客体化する家父長的帰結を生んでしまう、ということを指摘している。


というような感じであり、これはとっても面白い本なのでぜひ読んでください。

2015年2月19日木曜日

冬の光

監督:イングマール・ベルイマン

マックス・フォン・シドーが自殺した現場に牧師がやってくるシーン。
牧師が現場に車で来て、警察官と軽いやり取りをし、遺体まで歩いていき、それを何か袋のようなもので覆い隠すのを手伝い、それから遺体を警察車両に運び、そうしてまた自分の車に帰っていく様子をすべて数カットのロングショットで捉えている。

このマックス・フォン・シドーは映画冒頭で牧師のところに妻に連れられ、そのあともう一度牧師と話し説得されたのちに自殺を遂げているので、牧師としては自分の説得(実はそれはほとんど自身の信仰の弱さを告白したものなのだが)が何の効果も持たず、あっけなく死んでしまった、という存在であって、だから通常であれば、ここには遺体と牧師をそれぞれ切り替えしでつなぐクローズアップのようなものがあると予期されるのだが、ここではそうした一切の寄りのショットが排除されている。これをどう捉えるか。

マックス・フォン・シドーが牧師のところを訪れるのは、上記したように2回ある。
そのいずれもが、牧師が眠り込んでいたところで、いつの間にか来ている、というような扱いをされていて、この牧師が眠り込んでしまっている時間の描き方がとってもうまい。

撮影も素晴らしい。The モノクロ映画といった感じの雪の描写。光と影の作り方。窓の外の景色。河。

ヴェールの政治学(みすず書房) その1

(著)ジョーン・W・スコット (訳)李孝徳

めずらしく本のレビュー。

フランスでは2004年に公立学校で、イスラームのスカーフを主とする宗教を誇示するものの着用を禁止する法案が可決された。
本書はこのいわゆる「スカーフ論争」を、まず第一章でその歴史的経緯に触れ、これまで3回スカーフ論争がヒートアップしたということ、そしてそれは国民戦線などの極右政党が勢力を強めるたびにそれに妥協する形で槍玉にあげられてきたという点を挙げたうえで、続く第2章から順番に、「人種主義」、「世俗主義(ライシテ)」、「個人主義」、「セクシャリティ」といった観点(もちろんそれぞれがそれぞれと複雑に結びついている)からアプローチをすることによって、西洋文明 VS イスラーム という単純な二元論を批判しつつ、論争全体を考察している。

ちなみに「ヴェール」というのは、主に法案賛成派がこのスカーフを指すときの呼称として使われる、ということらしい。この「わざわざ『ヴェール』と呼ぶこと」もまた、本書では分析されている。



まず「人種主義」との関連で見たとき、これはフランスのアルジェリアを主とする植民地支配、そしてアルジェリアの独立、ならびに北アフリカからの移民の流入といった歴史的経緯があり、そのなかで植民地とその現地住民、移民とその文化圏に対する、フランス人による差別が続いていると本書は指摘している。

北アフリカからの移民、あるいはイスラーム教徒に対しては、「野蛮」、「未開」といったイメージがつきまとった。
そして、アラブ/ムスリムの劣等生を表象するために、時代ごとにさまざまな特徴が選び出されてきた。宗教的実践や農作業、思い込みでしかない性癖、家族構成、男性のトルコ帽や女性のヴェールなどのような着衣などである。・・・フランス人のまなざしにおいては、ヴェールは、ながらく共役不可能な差異とイスラームの同化不可能性の象徴であってきたのである。

重要なのは、フランスの植民地政策以来続く「啓蒙的なレトリック」と、人種主義的な「客体化(同化は不可能)」の間にある矛盾(=文明化の使命のパラドックス)であるという。
すなわち、包摂するという約束が、フランス人になることを選んだ者に履行される一方で、「文明化」が必要だとしてこれらの人々を有標化するまさにその特徴は、彼女ら/彼らが約束を現実化できないようにするものなのである。(p.102)

要するに、「野蛮」であるがゆえに啓蒙が必要なのだが(抑圧されているがゆえに解放が必要なのだが)、「野蛮」であるがゆえに啓蒙されない(抑圧されているがゆえに解放されない)ということではないか。


植民地時代においては、現地住民のフランス人による描写が主にそのイメージを形成しており、特にセクシャリティの面においてその「客体化」が露骨であり、その中心的表象装置として「ヴェール」が扱われていたという。

アラブ人男性は犯罪性と性を結び付けて描かれたものの、アラブ人女性は、アルジェリアとフランス双方で、フランス植民地主義者の想像を駆り立てた。早いうちから、(富と探検が誘引だった)征服に伴う空想は性的な征服の体裁をとることになった。

この時代から〔19世紀中頃〕、漫画ではこうしたテーマ―勝利したフランス兵が「戦利品」として原住民女性を奪い去る―が描かれている。

ヴェールは挑発にして性の否定であり、セックスアピールでありながら性を拒否するものでもあった。ハーレムは、監獄にして娼館であり、束縛にして自由奔放の場所であったのである。


「人種主義」の章では、アルジェリア戦争におけるヴェールの意味づけの変遷が、表象文化論的に分析されていて興味深い。
この頃には、植民地支配を継続すべきという声と、フランス人とムスリムは融和不可能だから独立させてよろしい、という声で二分されていたらしい。アルジェリア人の側は独立に向かって前進していたわけだが、そうした独立勢力にとってのヴェールが持つ意味はきわめて複雑で、ややもすると矛盾したものですらあったという。

なるほどヴェールは、フランスによるアルジェリア占有の拒否であり、アルジェリア人にとって自立したアイデンティティを主張する方法であった。しかし、民族主義的・社会主義的革命の指導者たちの多くは、自分たちを近代化主義者だと考えていたから、彼らにとってもヴェールは最終的には克服されなければならない後進性のしるしであった。(p.73)

加えてヴェールはフランスに対する戦争において有用な道具になった。男であれ女であれ、戦闘員は武器や爆弾を秘密裡に運ぶことができたからである。(p.74)

後述するように、学校でのスカーフ着用においても、法案の反対派のなかには、近代化すればヴェールはいらなくなる、つまりヴェールを着用しなくなることが学校教育のゴールであると考え、その入り口を閉ざしてはいけない、という論理もあるのだという。

フランツ・ファノンの説明では、革命家にとってのヴェールの位置づけは難問であったことがわかる。ファノン自身は、将来的には男女間の不平等の伝統的な象徴はなくなるだろうと想像していたものの、ヴェールが植民地支配に抵抗するあり方だとも理解していた。「黒人を創りだすのは白人男である。しかし黒人性を創りだすのは黒人である。ヴェールに対する植民者の攻撃に、被植民者はヴェールの礼賛を対置する」

もともと宗教的な帰属であったものが、差別の対象となり、それゆえにそれが被差別者のアイデンティティになり、さらには(武器を秘密裡に運ぶのに使われたという意味では)転覆の道具、闘争の手段(ということは、解放の象徴)となっていったわけである。

以上が第2章「人種主義」の大まかな要約であるが、その他の章と共通するのは、そこには「ムスリム」あるいは「移民」に対する画一的なバイアスとそれに依拠した西洋vsイスラームという二項対立の強化があるということであり、この章では特にその「人種主義的なバイアス」が「セクシャリティ」などと結びつき強化され、「ヴェール」がその象徴となっていったということが詳述されていることになる。











2015年2月12日木曜日

デビルズ・ノット

監督:アトム・エゴヤン

最近やたらと評価の低いアトム・エゴヤンだが、『クロエ』のユーモラスなサスペンスぶり、『秘密のかけら』の充実ぶりは素晴らしい。『アララトの聖母』の有無を言わさぬ迫力も忘れ難い。

さて本作。子供が友達と出かけたまま失踪し、やがて死体で発見される、という筋書きは、『ミスティック・リバー』や『チェンジリング』、最近で言えば傑作『プリズナーズ』を思い起こさせる。
とりわけ子供(くそ可愛い)が友達と遊びに、自転車に乗って家を出ていき、干してある洗濯物で姿が見えなくなる場面を、リース・ウィザースプーンの主観ショットで映し出す演出は、『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリーと息子の最後のシーンのように、「これが二人の最後です」と雄弁に語っている。

しかしこの映画はその悲劇性をひとまず保留し、自転車を走らせる子供たちのショットを撮り、さらに森の中へと入っていくショットに子供のナレーションをかぶせる。そして後になってわかるように、このナレーションは全くの「でたらめ」であるのだから、何と戦略的で知的な演出だろう。

さて、映画は子供たちの遺体が発見されるまでを、ものすごいスピードで描いていく。その語りの速度はちょっと異様なほど速いのだが、極めて的確なカメラポジションと繊細なアクターズ・ディレクションによって単なるダイジェストになることを賢明に避け、そこに映画的時間を定着させている。

例えばウィザースプーンの夫が夜になってウィザースプーンを迎えに来たシーンでの、車内の夫と店の前のウィザースプーンの縦の構図の強度。
あるいは別の失踪した子供の両親が、警官の聞き取りに応じている間に、その警官に不審人物の情報が入る。そして発見されたレストランに行くとその不審者はもうそこにはおらず、どこかへ消えてしまったことがわかり、警官はそのまま車を走らせる。しかしその不審者の血痕が壁にべったりとついており、それを捉えたショットが一気に映画の緊張感を高める。
その緊張感の高まりと呼応するように、親たちは警官に対して怒りの叫び声をあげる。
警察署で怒鳴るウィザースプーンの演技は圧巻だ。

さらにそこにコリン・ファースの存在が入ってくる。
カフェのテレビでウィザースプーンのインタビュー映像を見る。そして遺体が発見された現場で、泣き崩れるウィザースプーンを見る。これら主観ショットが挿入されるタイミングの完璧さ。

コリン・ファースは一貫して「見る人間」として描かれる。最初のオークションのシーンでも、最終的にコリン・ファースが落札するのだが、最初は様子をじっくりと観察している。
あるいはテレビを見る、写真を見る、非公開となった審理の様子を窓越しに見る。弁護士ではなくそれに協力する調査員であるために、彼はひたすら「傍観者」の位置にいるわけだが、このキャラクター造型の狙いは非常にわかりやすい。
要するに、「ちゃんと見ましょう」ということだ。
様々な偏見や誤解を捨て、じっくり見ましょう。こうした知的マッチョな位置づけ、作品における優等生としてこのコリン・ファースがいる。しかしそれが決して説教臭くならず、程よいヒロイックさとコリン・ファースによる抑制の効いた演技が素晴らしい。
あとコリン・ファースは声が良い。

圧巻は弁護士2人とコリン・ファースが法廷の玄関口で言い合う場面だろう。
「お前ら取り調べの映像ちゃんと見たのかよ!」と吠えるコリン・ファースに対し、「うるせぇな、そんな時間ないんだよ!てめぇがロースクール行けよ!」と返す弁護士。それを階段の上から目撃してしまうウィザースプーン。
こんな生真面目なやり取りがこんなに盛り上がってしまうものかという、『プロミスト・ランド』的感動を覚える。

リース・ウィザースプーンに戻ろう。
この映画におけるリース・ウィザースプーンのキャラクター造型は、実に面白い。
例えば『チェンジリング』におけるアンジェリーナ・ジョリーと比較すると、同じ子供を失った母親にもかかわらず、そのたどる道は全く異なる。
『チャンジリング』においてアンジェリーナ・ジョリーは、批判の標的とされ、攻撃され、そこに手を差し伸べる人間が現れ、闘う。
一方、本作のウィザースプーンは、被害者でありながら、一貫して傍観者であり、裁判の様子をただ見ているに過ぎない。そして裁判を見ているうちに、それに疑問を抱くようになり不信感を募らせることになる。

この流れで最も重要なシーンが、知的障害を抱えた被告人の、取り調べ時の証言が、法廷で流されるシーンだろう。
「子供をなにで縛ったか?」という質問に対し、「ロープ」と答えると、ロープで縛られた子供の足を大写しにしたショットが挿入される。
ここで法廷に戻り、すぐさま「実際には靴ひもだった」と証人が答えると、今度は靴ひもで縛られた子供の足を大写しにしたショットが挿入されるのだ。
一見するとスベりまくっているこの演出は、一体何か。

実はこの瞬間が、ウィザースプーンの”疑念”の始まりなのである。
この子供の足のショットの直後に、ウィザースプーンは隣の夫に「どうして犯人がそんなこと間違えるの?」と聞くと、夫は「些細な間違いじゃないか」と諌める。
つまりこのロープと靴ひもで縛られた足のショットは、「これが些細な違いでしょうか?」と、「わざわざ」示されているのではないだろうか。だからこそここまで大げさに、この二つのショットが挿入されているのではないか。

そしてこの”疑念”を抱いたウィザースプーンを、カメラは横から捉える。この視点は映画において初めてとられたポジションであり、突如として示されるウィザースプーンの横顔に思わずドキッとするのだが、今度はウィザースプーンがカメラの方に目をやる。するとその先にはコリン・ファースが座っている。視線に気づいたコリン・ファースが、ウィザースプーンの方を見る。
ラストシーンを除いて、この二人はほとんど言葉を交わすことがないのだが、しかしこの、二人の視線が交錯した瞬間は、物語上極めて重要である。
なぜならここで初めてウィザースプーンは、自分が信じ込んでいる”真相”に疑問を持つからだ。疑問を持ち、宙づり状態となったウィザースプーンを、まさにその心的変化に呼応するように、横から彼女を切り取る。
あまりにも優れた演出だ!

二人が初めて言葉を交わすのは、ラストになってからだ。
そこでウィザースプーンが、「決して私たちを忘れないでほしい」と言うと、コリン・ファースは「忘れられない。あなたがテレビに出ていた映像、あなたの子供の写真、決して忘れられない」と告げる。
これが素晴らしい。
ここに至るまで、映画はことごとく「イメージの信用おけなさ」を語っている。テレビの映像、服装で人を判断したり、過去の映像の”邪悪さ”を安直に事件に結びつけたりと、とにかくイメージの曖昧さを物語ってきた。
しかし最後になって、コリン・ファースは「イメージの忘れ難さ」を口にするのだ。
イメージはしばしば、人の目を曇らせ、真実を遠ざける。
しかし一方で、イメージは人と人とを結びつけるのだ。それは中盤でコリン・ファースが見る悪夢のように、Traumaticな作用を及ぼすこともあれば、正義を実践する道を開くこともある。そのようなイメージの可能性を、アトム・エゴヤンは最後に雄弁と語る。
そして子供たちが橋を渡っていくショットで幕を閉じる。

この映画は、『チャイルド・コール』とともに見られるべき映画である。

追記:ちなみにウィザースプーンは何度も泣くのだが、決して涙を流さない。何度も比較して申し訳ないが、『チェンジリング』でアンジェリーナ・ジョリーが何度も大粒の涙を流すことは極めて対照的である。