2012年2月18日土曜日

『メランコリア』レビュー

監督:ラース・フォン・トリアー
 
もの凄い映画。実はトリアーの映画は初見なので、他の作品とは比べられないのだが、画面が物語を先導していくという得難い体験に思わず酔いしれる。
どういう事か。
例えば結婚式の途中でキルスティン・ダンスト演じる(噂にたがわぬ名演!)ジャスティンがいなくなってしまう。そして、画面は脱ぎ捨てられたドレスを映しだし、次に風呂に浸かるジャスティンの姿を映し出す。それまで観客が把握していた、想像していた「ジャスティン像」の半歩先を行くジャスティンの姿がそこにある。
 
あるいは第2部において、シャルロット・ゲンズブール演じるクレアが二階の窓から外を見降ろすシーンがあるが、ここでカメラはクレアの視線として、息子を引き連れメランコリアを見物する無邪気な夫の姿と、その遠く先で立ち尽くすジャスティンの姿を映し出す。それまで提示されなかった形式で持って、人物達を描きだし、さらにそれらを上から見つめるクレアの視線を意識させること。ここでも物語が画面によって生成しているのがわかる。
 
このように、常に常に、我々の想像の半歩先のイメージを映し出す神業によって、一見全く支離滅裂にすら思える「あらすじ」が、異常なまでにエキサイティングなサスペンス(!)として我々の心を掴んで離さない。
 
と、こんなことを書くのもばかばかしいくらい、ラストには衝撃を受けました。多分、ラストシーンはシャルロット・ゲンズブールよりも過呼吸に陥ってたと思う(笑)本当に、これほど鳥肌が立ったのは初めて。素晴らしい!ありがとう、トリアー!

2012年2月11日土曜日

これからの医療と科学と社会と

(1)問題提起
原発事故により放射性物質が福島を中心に降り、またネット上に放射能の健康被害などについて
質・量ともに様々な情報が流れ、多くの人々、特に福島近郊に住む母親達の間で、混乱と不安の波が広がった。
 
今回は放射能への不安であったが、今後も社会が何らかの「未知のリスク」に直面する可能性は大いにあり、科学者や医師の担うべき役割は大きい。
そこで一人の医学生として、今回の「放射能不安」を分析し、科学者や医師がどのようにアプローチしていけばよいのかを考える。


(2)リサーチ
①低線量被曝による健康被害
このリサーチはあくまで、放射能への不安に対する医師・科学者の役割について考えるものであるため、放射線の健康被害について長々と書くことはしないが、事故から現在に至る、福島を中心として計測されてきた放射線量について、科学的に言えることを手短に書いておきたい。これまでの科学的・疫学的データからいって、放射線による健康への影響が出るのは、100mSvからである。しかしだからといって、低線量被曝(100mSv以下)による健康への影響が全くないとは、現在の科学では断定できない。*1
というのも、放射線による健康リスクを検出するためには、膨大な疫学調査を行わなければならないからであり、その困難性をICRPも表明している。*2
そして原発事故以降、今回の事故で放出された放射性物質による健康被害に関しては、科学者の間でも意見が割れている。東京大学の中川恵一氏や、オクスフォード大学のWade Allison氏は、全く影響がないと主張する一方、東京大学の児玉龍彦氏は自身の著書などで、内部被ばくによる健康被害に警報をならしている。*3

以上を要約すれば、現在の科学的・疫学的データからいって、福島原発事故による健康への影響に関して断定できる事は少なく、科学者の間でもその影響に関する評価で差があるという事である。この事を前提として、以下に論を進めていきたい。

②緩慢なパニック
言うまでもなく、原発事故以降、多くの人々、とりわけ事故があった原発付近に暮らす母親などは非常に大きな不安を抱き、その不安は今も解消されていない。
ジャーナリストの上杉隆氏は、未だに継続する大きな不安を、「緩慢なパニック」と表現している。これは、通常言うところの「パニック」のように、暴動がおこったりしているわけではないが、しかし実に長期間にわたって不安が継続している状態を指摘したものだと考えられる。
この「緩慢なパニック」の原因について考えてみたい。

●政府への不信
今回の原発事故以降、日本政府は情報公開の在り方について非常に多くの批判を受けてきた。今さら言うまでも無く、原発事故直後の日本政府の透明性には問題があったと言えるし、また様々なジャーナリストや評論家などが、東電・保安院・経産省との癒着を指摘し、その信憑性に疑問を呈したことも、「政府は情報を隠しているのではないか」という不信感を助長した。慶應大学医学部の八代嘉美准教授が指摘するように、いくら政府が「この線量では心配ない」などの公式見解を出したところで、その政府自体が信用を失っていれば、その主体が設定した基準値などについて疑問の声があがるのも、当然と言えるかもしれない。*4


●大量の情報 過剰な相対化
政府が信用できない、となれば、人々はもはや絶対的に信頼できる基準を持たず、生身のまま科学に立ち向かわなければならない。つまり、現在の線量データを検索し、その線量による健康への影響を、科学的データに基づいて判断しなければならない。
それを実行するために例えばインターネットで検索をしたとしよう。そこには様々な言説
が飛び交っている。危険であると言う科学者もいれば、安全であると言う科学者もいる。


あるいは「日本政府は福島県民を避難させるべき」という海外メディアの警報を紹介するジャーナリストもいる。一般人がこれらの情報の中から、正しい情報を取捨選択する事が出来るとはとてもえない。
実際、テレビなどで福島の住民達が「どの情報が正しいのかわからない」と訴える光景をしばしば目にする。


一般的に、情報リテラシーとの関連で、「一つのイシューに関して、複数の情報を相対化して、比較 検討する事が望ましい」と言われている。こうした姿勢によって「行きすぎた相対化」に陥り、大きな 不安を持った人は多いのでは無いかと思う。そしてこの「行きすぎた相対化」は、情報化した現代 社会ならではの問題であり、ここに注目する事で、危機における医師や科学者の役割を考えてい きたい。


③医師や科学者の役割
危機の際の医師や科学者の役割は、人々に安全か危険かを教えることではなく、人々が安全か危険かを判断する材料を提供することにある。というのも、そもそも「安全」とか「危険」という概念はきわめて主観的なものであり、科学の領域ではないからである。
つまり、安全か危険かを判断するのはあくまで一人ひとりの当事者であり、科学者や医師はその
断材料をできるだけ中立的に提供するべきである。そして提供にとどまらず、例えばインターネット上にあがっている大量の情報の緩衝剤も、今の時代には期待される。だがそれだけでいいのだろうか。客観的なデータを整理して提供る事だけが、彼らの役割なのだろうか。
そうではないという事をいうために、イギリスの哲学者デヴィッド・ヒュームの言葉を借りたい。
「理性は感情の奴隷であり、そうあるべきである」
これは、理性は感情に支配されており、行為の動機や理由は理性ではなく感情に求められるべきであるという事である。
この事を今回の事例にあてはめて考えてみたい。


②で述べたように、一般的には複数の情報にあたり、比較検討することで合理的な判断をしていく事が望ましいとされているが、非常に大きな不安にかられた状態で、そのような合理的な選択と判断が期待できるだろうか。
非常に激しい不安と混乱に支配された理性によって複数の(多くの人にとっては)馴染みのない情報を理解する事は、非常に困難であろう。
つまり、ここからは科学者の中でも特に医師の役割になってくると思われるが、医師は人々が理性を働かせられるような環境をつくっていく努力をしていくべきなのである。
やや抽象的な表現かもしれない。だが私は、「具体的にこうすべき」といった言葉は持ち合わせていない。というのも、それらは一つひとつの個別のやり取りを通して形成されていくものだからである。私が言いたいのは、そうしたコミュニケーションが目がけるべきもの、その先に実現されるべきものが何かという事であり、それこそが上記したような、当事者が各々の理性を働かせて、自由意志に基づいて判断を下し、行動をする事であり、そしてその選択を医師・科学者が適切にサポートしながら、最大限尊重することなのである。


(3)結論
以上が、私の考える、危機の際の、リスク・コミュニケ―ターとしての医師や科学者の役割である。結論だけをとれば、非常にありきたりなものではあるが、しかしその背景にある情報化した現代社会ならではの問題点を踏まえることで、より喫緊の課題として受け止められるのではないだろうか。
さて、これらをふまえた上で、これからの科学と社会の関係性についても述べていきたい。


①新しい科学コミュニケーション
今回のような危機以外においても、「日本人はリスクへの意識が低く、ゼロリスク幻想を抱いている」、とはよく言われる事であるが、それは一般人の意識が低いというだけでなく、企業や行政、専門家達もまた、一般人に科学の限界やそのリスクを普及していく事にあまり熱心でなかったために、アメリカ、イギリスで行われているような対話型のリスク・コミュニケーションが行われてこなかったという経緯がある。
日本でもこれまでのいささか啓蒙的な一方向の科学コミュニケーションから、社会と専門家のインタラクティヴなコミュニケーションへの転換が必要であろう。
そのような動きは科学界で広がりを見せているものの、私が所属する医学部の教育においては、社会とのコミュニケーションへのアプローチに乏しい印象を受ける。

また(これは非常に主観的な事だが)そもそも医学教育が全体として、社会的な視野で医師の役割を意識させるような内容に乏しいという実感がある。もちろん、実際に臨床の現場に立てば嫌でもそうしたものを意識する事になるのではあろうが、しかしながらそうしたものは、学生のうちから思索を深めお互いに議論を醸成していくものであるべきであり、その意味で、今後の医学教育はより社会医学への重点を置くべきであるように思う。

さらに、医療の未来を考えてみると、今後は遺伝子治療、脳科学、医療ロボットなどの発達が期待されるが、それは同時にそれだけ人々が未知のリスクと隣り合わせになっていく事を意味する。そしてそのような社会においては、常に専門家と人々がコミュニケーションを重ね、信頼関係を築かなければならない。そうした将来について、医学生に限らず多くの理系学生が思索を深め、議論し合う機会が必要であると感じる。
 
一方で、例えばTwitterにおいては一般人と専門家の対話がすでに実現しており、今回の震災時においても、何人かの科学者が精力的にTwitter内での情報提供や対話を行った事は、多くの人々にとって有効なものであった。このようなSNS上でのやり取りに新しいコミュニケーションへのヒントが隠されているのではないだろうか。


②家庭医の普及
それに加えて、私は家庭医の普及が重要だと考える。
①の最後でTwitterでのリスク・コミュニケーションを肯定的に述べたが、一方でTwitterには様々な情報が錯綜しており、またあくまで文字だけのやり取りであるから、フェイスtoフェイスでのやり取りに比べれば当然そのコミュニケーションの質、信頼関係の醸成のしやすさは劣るのではないかと考えられる。(2)でも指摘したように、Twitterへの過度の依存がかえって混乱を招くと言う事も大いに考えられる。
したがって、新たなリスク・コミュニケーションをTwitterにだけ依存するのは間違いである。そこで私は、家庭医という存在に注目したい。

家庭医とは、地域医療において、患者の年齢や性別、疾患を問わずに診療できる訪問診療の担い手であり、他の医師以上に患者、そして患者の家族と密接な関係の中で診療をする存在である。平時から非常に密なコミュニケーションをとる事で、人々のリスクへの意識の上昇が期待できるし、また信頼関係を築いておくことで、危機の際にも効果的なリスク・コミュニケーションが期待できる。日本ではほとんど馴染みのない存在ではあるが、欧米諸国ではプライマリ・ケアの担い手として極めて一般的な存在であり、日本においても欧米諸国並みの家庭医の普及が望まれる。
 

【注釈】
*1・・・内閣官房 低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ報告書参照
*2・・・International Commission on Radiological Protection, “Low-dose Extrapolation of Radiation-related Cancer Risk. ICRP Publication99” Ann.ICRP vol.35,2005,pp.25-37.参照
*3・・・児玉龍彦 『内部被曝の真実』(幻冬舎新書2011)参照
*4・・・八代嘉美 「私たちはどのような未来を選ぶのか」 (『思想地図β2』合同会社コンテクチュアズ2011年収録)参照
*5・・・平川秀幸 「311以降の科学コミュニケーションの課題」(『もうダマされないための「科学」講義』光文社新書2011収録)参照

【その他参考文献】
・山口浩 「ゼロリスク幻想」とソーシャルリスクコミュニケーションの可能性
・非特定営利団体HSEリスク・シーキューブHP