2022年12月29日木曜日

シャンドライの恋

 監督:ベルナルド・ベルトルッチ

主演:タンディ・ニュートン

冒頭はアフリカでの悲劇の描写。特段の台詞はなく、独裁者のものと思しきポスターを貼る作業、怒りを込めた歌、学校での突然の出来事。タンディ・ニュートンが空を見上げるアクションからローマへと場面転換。そこからは基本的にはデイヴィッド・シューリスとの密室的関係が綴られる。シューリスの一方的で独りよがりな求愛は成就しないが、その後はなぜか関係が改善していく。そこに、刑務所に収監されているというニュートンの夫の話が絡んでくる。

正直言って、大変偽善的なお話だと思うし、ニュートンの役柄もいささか無邪気すぎやしないか、という気もする。

とはいえ、美しいショットの構成、ディープ・フォーカスによって描かれる二人の関係性の変化など、画面の見どころは枚挙に暇がない。

ピンクの花びらが戸棚に置かれているのを見つけたニュートンは、それをコップに入れて寝る。アントニオーニ『赤い砂漠』のごとく、画面手前に花びらをなめ、眠るニュートンを切り取る。次のショットで、ピンクの傘をさす男性のショットが続く。
同じように、ニュートンがバーそそぐビールの泡が、そのまま床掃除の洗剤へとつながる。

あるいは、シューリスが開くコンサートのシーンも素晴らしい。子供たちが退屈そうに聞いている光景が少し笑えるのだが、その後はニュートンが郵便を取りに行き、彼女の不在に気付いたシューリスの視線をくみとったニュートンの友人が、急いでニュートンを探しに行く。一方部屋では子供たちが庭のサッカーボールを探しに行き、、というふうにみんなバラバラに行動を開始してしまう。それらが特定の帰結をもたらすわけではない、というのが良いじゃないか。どこか馬鹿馬鹿しくも、ローマの街の片隅の緩やかな時間の流れを感じさせるのだ。

ラストの突き放し方にも少し驚く。


2022年12月23日金曜日

パリ、13区

監督:ジャック・オディアール

脚本:セリーヌ・シアマ、レア・ミシウス、ジャック・オディアール
主演:ルーシー・チャン

主要登場人物のキャラクターが映画の最後までよくわからない。次の行動に全く予測がつかない。これが映画。これが映画の脚本。
マジで素晴らしい。フランス映画は黄金期にあるのではないか。

2022年12月19日月曜日

ファイブ・デビルズ

 監督:レア・ミシウス

主演:アデル・エグザルコプロス

匂いに敏感な少女が、特定の匂いをきっかけにタイムリープし、徐々に過去が明らかになるという構成がそこまで魅力的とは思えないのだが、画面で起きている出来事は抜群に面白くまったく弛緩することなく見ることができた。

構成の適否は置くとしても、匂いに敏感である少女の描写はこちらの好奇心をくすぐるし、母親であるアデル・エグザルコプロスがその才能に対して感激するどころか不安になるというところが面白い。前半はこの母親の神経質で内向的な感じと、娘の好奇心の赴くままに動き回る様子の対比がとても巧く描かれている。

後半になると、『隣の女』よろしく、あるいは『昼下がりの情事』よろしく、かつての恋人の帰還とそれによる秩序の混乱が描かれるのだが、たとえば凡庸な作家であれば住民が冷たい目で見てくるような描写をついつい入れたくなるところを、そうした直接的な描写を省き、周囲の人々の関係性の変化を描いていくところが素晴らしい。また、ジュリアの描写も抑制が効いていて、酒を探し回る描写などからはアルコール依存症を思わせもするが、それをやたら掘り下げることはない。群像劇ではないが、特定のわかりやすい設定に物語を収斂させない多元的なナラティヴになっているのだ。

断片的に良いシーンがたくさんあるが、「愛のかげり」の歌唱シーンが絶品だ。

ヴィッキーはタイムリープするたびに、路上で「目覚める」という運動を反復することになるが、最終的に湖で救出されたジュリアもまた、救急車内で「目覚め」、視界にかつての恋人の姿を認めることになるだろう。


2022年12月6日火曜日

さすらいの二人

 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

アントニオーニらしい、縦構図の多用、粉塵や煙によるアクセントが横溢していながら、ヴェンダースの『まわり道』を思わせるような、アンニュイでどこか「素敵な」ロードムービーに仕上がっている。いや、アントニオーニがこんなに「面白く」「切なく」ていいのか?と思いながら見ていた笑

スペインやドイツなどを舞台とする豪華な設定であるが、とりわけ街路樹の美しさに目を奪われる。ニコルソンが「後ろを向いてごらん」と言って、マリア・シュナイダーが後ろを振り向くところのショットは唯一無二だろう。

終盤に『情事』を彷彿とさせるクレーンショットからの意表をついた長回しがあって、まったく見事なのだが、しかしこういうところが、アントニオーニらしいようでちょっと面白くしすぎじゃないか、という気がする。ハネケっぽいというか。


2022年11月27日日曜日

ある男

 監督:石川慶

東北大学卒業後にポーランドで映画を学んだという、尊敬するしかない大先輩石川慶監督の最新作。

正直言って、前々作と前作にはさっぱり乗れなかったのだが、本作は、荻野洋一氏が「ネガティビティの専制」と評し、日本映画の伝統の系譜に位置付けてみせた『愚行録』ばりの並々ならぬボルテージを持った素晴らしい作品に仕上がっており、安心、そして驚愕した。

本作品も、戸籍の交換という『悪い奴ほどよく眠る』を彷彿とさせる題材であり、過去の惨劇の描写は今村の『うなぎ』さえも思わせる(意地の悪い役で柄本明が出ている!)。  

まずもって、冒頭の演出の連鎖には驚愕した。安藤サクラが文房具店のレジに立っていて、これを表情が見えない後ろからの俯瞰ショットで撮り、カットが切られ正面にカメラが据えられると、安藤の頬に涙が見える。さて、このあと窪田正孝が入ってくると、しばらくして停電が発生する。一緒に店裏のブレーカーをつけると、電気がつき、窪田の頬の傷がばっちり映るのだ。あえて解釈をすれば、触れられたくない過去=闇に光が当たる、それを見てしまうことの緊張。映画全編にわたって走るこの戦慄を、冒頭のこの流れるような演出が象徴しているのだ。妻夫木が登場する飛行機のシーンでも、太陽の光が顔に直に当たると、すぐさま妻夫木がカーテンを降ろすのだ。これまではポーランドのピョートル・ニェミスキが撮影を担当していたが、本作は近藤龍人が担当したようだ。被写界深度の浅いショットが多く、そこは好みではないものの、ライティングとの関係が非常にうまくいっており、極めて心地よいショットの連鎖であった。

『愚行録』で臼田あさ美の怪演を引き出した石川監督だが、今回は清野菜々が良い役柄である。観客としては妻夫木との関係に、もう少しあれこれあっても良いと思ったが、最終的には物語的な機能が優先されており、そこが少し残念(安藤、真木、清野がいずれも魅力的ながら、ちょっとバランスを意識しすぎたか、飛び抜けて際立つ女性キャラクターがいない。また、清野、仲野の帰結はおさまりが良すぎると思った。とはいえ、話が転調するたびに主役級の俳優が次々出てくる構成は単純に楽しい)。

単なる雰囲気ではなく、撮影の選択、ロケーション、俳優の芝居によって生み出された緊張感が全編続くなか、例えば窪田正孝の一周忌に現れた兄を名乗る男と安藤の、「大佑じゃないです」「いや大佑さんです」の応酬には思わず笑ってしまった。

それと、これはセクシャリティをめぐる映画でもある。窪田が鏡に映った自分の姿に怯えて、行為が中断してしまうシーンがわざわざ2回も描かれるが、彼と安藤の間には娘が生まれているのだ。この経緯を省略するのも良い。

フラッシュバックによる苦しみや、柄本のケレン味ある悪役像は、日本映画がやりたがる事だが、たいていやり過ぎて散々な出来になる。石川監督はこうした描写を八分目ぐらいでさっと切れる聡明さをもっているので、映画のバランスが崩れず、最後までテンションが持続するのだ。


2022年11月25日金曜日

備忘録

「 ヨーロッパ映画」というものがあるとすれば、我々の知らないコードで人々が行動する映画、と言いたい。アメリカ映画では、「理不尽な」出来事によって人々が苦しむことはあっても、その苦しみは理解可能だし、その理不尽さに立ち向かうことで「あり得ない」奇跡を起こすことが感動を呼ぶのだ。

だが、ロメールやゴダールやファスビンダーを見るとき、我々が目にする人物たちは、まったく我々の知らないコードで動いているようにみえる。コード・アンノウンというやつである。

もしも人間が、現在とはまったく違うコードに従って生きたら?それは革命だ。

だから、ゴダールやソクーロフやベルトルッチにワクワクするのだろう。


2022年11月4日金曜日

パラレル・マザーズ

 監督:ペドロ・アルモドバル


ペネロペ・クルスとミレナ・スメットの二人のシングルマザーの、子供の取り違えをめぐる物語が主軸でありながら、アルモドバルらしく、いくつかの(あるいは無数の)サイド・エピソードによって多層化されている。今回はそこに、スペイン内戦の犠牲者の物語が絡む点が、過去作品とは一見異なる印象を与える(ボルベールでは夫の遺体を埋めたペネロペ・クルスが、家族を掘り起こそうとする物語だ)。実際、掘り起こされた人骨をカメラが捉えたのち、あっさりと暗転するエンディングには、例えばワイダの『カティンの森』のエンディングのような、「明かされた歴史の前では余計な言葉は一切いらない」とでも言うような潔ささえ感じられる。また、こうした題材ゆえの選択なのだろうか、アルモドバルの映画では見たことがないほどに深い被写界深度が設定されており、人物のクローズアップは後ろの背景がばっちりと映っていてかなり奇異な印象をもたらす。DNA検査の結果に動揺し、ベッドの上で電話をかけるペネロペ・クルスを画面奥に捉えたパンフォーカスでは、彼女の身体に夕日があたっているのだが、絞ったレンズでこのようなコントラストを出す技術には感銘を受けた。

一方で、物語の展開のさせ方は、アルモドバルの過去作品と似通っている。都市の自立した女性が、ついつい母性本能を刺激されて、気弱な若い女性の世話をする展開。あるいは、恋人が去ってしまった悲しみを抱えたまま田舎へ帰る展開。特に、真相を告げられたミレナ・スメットが、ほとんど躊躇なく子供を連れて行ってしまう場面の厳しい演出が素晴らしい。ミレナ・スメットはペネロペ・クルスのメイドとして働いているわけだが、この場面ではミレナ・スメットがベビー・キャリアをつけるのをペネロペ・クルスが手伝わされ、挙句、荷物も持ってエレベータのスイッチも押させられるという、一時的な主従関係の逆転が描かれているのも興味深い。いつもなら、去っていく人間の姿を捉えた視線ショットを挟むのがアルモドバル流のメロドラマだが、去っていくミレナ・スメットと我が子を見送ることしかできないペネロペ・クルスの姿を固定した視点からじっと凝視するように撮るのだ。

視覚的なモチーフにも事欠かない。例えば電話番号を紙にメモする所作の反復、綿棒で粘膜をこする動作の反復、ざるでジャガイモをゆすぐ動作と土砂をゆすって選り分ける作業の確信犯的シンクロ、あるいは頭蓋骨。

「PC内に偶然脚本を見つけた男が、それを舞台にしたところ、その舞台を目にした古い恋人が脚本を書いた男のもとを訪ねてくる」ような(ペイン・アンド・グローリー)、あるいは「夫に去られた女がカフェで流れる歌謡曲に耐えられず外に出ると、医学生のデモに巻き込まれて、そこに友人がかけつけて抱擁を交わし、空には紙吹雪が舞い、、、」(私の秘密の花)というようなヒトとモノの映画的連鎖反応が、本作ではあまり見られない。その意味では、アルモドバルの最良の映画ではないだろう。しかし、誰に見守られることもなく「突然死」してしまった子供の物語を通して、忘却に抗い、自国の歴史を語ろうとする意志の前では、そんな些細なことはどうでもよい。



2022年9月21日水曜日

ペイド・バック

 監督:ジョン・マッデン

ジェシカ・チャスティン、サム・ワーシントン、トム・ウィルキンソン

この映画が圧倒的に勝利している理由は、ベルリンのパートでのサム・ワーシントンとジェシカ・チャスティン、マートン・ツォカスの三角関係を甘ったらしくせずに、視線と手の演出によってシャープに描いているからである。
診療所の前でのみ夫婦を装い手をつなぐ二人。距離が離れるとすぐに手を離すが、2回目の診療でチャスティンが動揺しているのを察すると、二人はもう一度手をつなぐ。
寡黙なワーシントンと、意外と気弱なチャスティンの関係のサスペンスは、任務後に開かれるパーティでも再現されるだろう。一緒にイスラエルを出ようと懇願し、ワーシントンが握ったチャスティンの手は、残念ながらすぐに離されてしまう。そこで彼は彼女と一緒になれぬことを悟り、孤独に生きていくことになる。このような手の演出は、もちろんスパイ映画としての情報の交換も含めて横溢しているが、ある程度はマシュー・ヴォーンの脚本が貢献しているのだろうと想像するが、そもそものネタが面白すぎるという感じもある。
イェスパー・クリステンセン演じるナチス党員の悪役ぶりも見事であった。




2022年9月17日土曜日

NOPE ノープ

 監督:ジョーダン・ピール

冗談ピール、と言いたくなる冗談みたいな映画。
もちろん、人種的マイノリティが「目を合わせない」ことを生存戦略とする現実の反映はあるにせよ、前2作ほどそのテーマ性は強くなく、それを飛び越えてホラ話に大振りしているのが新鮮であった。シャマラン、あるいはデ・パルマ的な、映画モチーフの氾濫も目を引く。
「目を合わせない」ルールだが、終盤で兄娘がそれぞれ目を伏せながら、お互いの行く末を見守る、という感じが、妙な味わいで印象的だった。家の上で人々の悲鳴だけが聞こえる、というのはなかなかショッキングな演出。ということで、見どころは多い。

しかし、サウンドによる演出の主張が強すぎるのはいささか気になる。簡単に言えば、「ここはこう見てくださいね」という演出が随所にあるのだ。例えば遊園地の経営者のカウボーイが、過去を語ってフラッシュバックするシーンは、過去を語っている場面から仰々しいサウンドが流れる(フラッシュバックのショットになって初めてその”意味”がわかるようになっている)。あるいは、電気屋の店員の背後から同僚がやってくるシーンでもホラーサウンドが加えられている。ほかにも、それ自体では特に何も起きていないシーンにサウンドエフェクトをかけて煽ってくる演出が多く、一個一個はそれほど気にならないが、振り返ってみると無駄が多い。
しかし撮影は堂々たるムードで、砂煙の演出とか、どこまで実写でどれぐらいCG使ってるのか気になった。
父親が馬から転落して、彼のテンガロンハットがころころ転がるのが良い。これもワンショットで撮ってるが、撮るの難しいのでは?笑


2022年9月15日木曜日

My Best Films in 2010s

1.  Death in Sarajevo (Danis Tanovic)

2.  Transit (Christian Petzoldt)

3.  The Personal Shopper (Olivier Assayas)

4.  Miss Sloane (John Madden)

5.  Nightingale (Jennifer Kent)

6.  Sully (Clint Eastwood)

7.  Madre (Rodrigo Sorogoyen)

8.  Julieta (Pedro Almodovar)

9.  The Past (Ashgar Farhadi)

10. Little Joe (Jessica Hausner)

2022年9月14日水曜日

隣の女

 監督:フランソワ・トリュフォー

ジェラール・ドパルデュー、ファニー・アルダン

安定と平穏に満たされた結婚生活を送っていたドパルデューの元に、過去の女が現れる。その過去の女とは、「一緒にいたら破滅するが、一緒でなければ生きられない」という運命の女であり、(おそらくはそれなりに苦労して手に入れたであろう)「幸福」というベールを剝ぎ取ってしまう、真実の女である。彼女と再会してしまったら最後、元には戻れない。

かつてヌーヴェルバーグを牽引した監督達は、7-80年代の成熟期において、ブルジョワ一家の一件「平穏」で「幸福」な生活が、身体の奥底に隠していたはずの激しい情愛によって崩壊する/しそうになる過程を描いている(分野を超えた普遍的なモチーフでもあるだろうが)。シャブロルは一貫してそうだし、ロメールは『昼下がりの情事』を撮っている。『昼下がりの情事』と同様、本作もまた、妻はブロンドのショートカットで、ファムファタルは黒髪ロングである。

この映画を見たのは約10年ぶりで、10年前も破格の傑作であると思ったが、再見してもその確信は揺らぐことがなかった。
ルプシャンスキーの撮影には寸分の隙もない。ドパルデューの情欲が頂点に達して半ば心神喪失したかのようにファニー・アルダンに手をあげてしまう、名高いシーンがあるが、そこに至る直前、ドレスが破れて部屋に着替えに行くアルダンを追いかけるように、ドパルデューが家の中に入ってくる。このときの室内照明が凄い。

それにしてもドパルデューのキレ芸というか、ヤケクソ感丸出しの暴走演技は、『ソフィーマルソーの刑事物語』なんかでもやっているように、この人にしか出来ないものだろう。

2022年8月30日火曜日

魂のまなざし

 監督:アンティ・ヨッキネン

もう10年近く前になるが、特にその名を知らぬまま、暇つぶしに美術館へ行ったとき、ちょうどヘレン・シャルフベック展が開催されていた。絵画は大して知らないし、勉強したこともないのだが、彼女の初期の作品群の、きわめて深遠で寒々とした美しさに魅了されたのをよく覚えている。また、有名な「恢復」という病み上がりの子供の姿を描いた作品も、一目見ただけで大好きになったし、繊細さと影のある雰囲気にアントニオーニやベルイマンといった作家たちを想起したのも覚えている。展示では晩年の作品群が後半に続き、そこでは自画像が大半を占めていた。しかもそれが後に行けば行くほど、どんどん輪郭の曖昧になっていき、闇が深くなっていったのに、大変な衝撃を受け、いったいこの愛すべき画家に何が起きたのだろう、と素朴にも思いながら、美術館を後にしたであった。

本作は、シャルフベックを扱った初の伝記映画であるが、彼女の華々しい初期の成功ではなく、まさに上記の暗い自画像の時代-田舎で貧しい生活を送りながら、いささか神経症的な振る舞いで自画像を描き続けていた時期-を取り上げているのが面白い。
ここで繰り広げられるドラマは、足が悪く、慎ましい生活を送りながらも、気高い雰囲気をたたえた中年女性の、孤独と、そのなかにある美しい友情と、恋愛とその破綻による苦しみの物語である。どことなくヴァージニア・ウルフの小説のような、物悲しさと気高さが同居したドラマと言って良いかもしれない。

全体として美しいショットは多いが、それらがイメージの連鎖として昇華していかないため、作品としてはそれほどのレベルには達していない。
シャルフベックがエルナンの頬を叩くシーンや、終盤の、エルナンの婚約者が下手くそなバイオリンを披露するなか、見つめ合う二人の視線ショットなどが美しい時間として定着しているが、その他のシーンはやや焦点を見失ったような描写が多い。

しかしながら、シャルフベックを演じたラウラ・ビルンの存在感、眼差しの迫力は素晴らしい。一見単調な演出であっても、彼女の顔、眼差しには、画面を弛緩させないだけの強さがあった。


2022年7月31日日曜日

不安は魂を食い尽くす

 監督:ライナー・ウェルナー・ファスビンダー


これは凄い。呆気にとられながら見た。
ミュンヘンの街の風景を捉えたカメラワークは、最良のヴェンダースに匹敵するし、物語の恐ろしいまでの厳しい突き放し方はほかに類を見ないほどに鋭い。

前半は、初老の未亡人エミと、モロッコ人労働者アリの純粋な愛と、二人に向けられる世間、家族の偏見に満ちた視線の相剋が描かれる。サークの『天が許し給うすべて』と非常に似たあらすじだが、人種的偏見を正面から描く点で異なる。また、エミも決して裕福ではない(が、服のデザインなどに、かつては裕福だったことが垣間見られる)。
アパートメントの住人、勤務先の掃除婦などの露悪的な偏見と、それに毅然と抵抗するエミのドラマとして、実にオーソドックスな作りとも言えるが、窓を介した構図の作り方などに圧倒的作家性が宿ってもいる。
しかし真に驚かされるのは、後半の展開だ。
エミとアリが、(オープンテラスでの二人の対面の感動的なシーンのあと)偏見に満ちた世間から逃げ出すように旅に出て、そこから帰ってくる。帰ってくると、人々は以前よりも明らかに寛容な態度で接するようになっている。しかし一体何があったのかは、全く説明されない。ただ突然にして、世界が変わってしまう。このガラッと世界が変わる感覚は、『あやつり糸の世界』にも通じるものかもしれない。

さて、世界が寛容になったとき、エミとアリのかたい絆は、むしろ綻びを見せ始める。これは皮肉だ。そして更に、あれほど世間の偏見や差別に心を痛めていたエミが、例えば新しく職場にやってきたヘルツェコヴィナ人に対しては差別的な態度をとり、また同僚を家に呼んだ際には、アリの筋肉を見せびらかすという、ステレオタイピングを無自覚に行ってしまう。この皮肉な展開はどうか。エミは決してヒロインではないのだ。なぜなら彼女は戦時中は(みなと同じように)ナチスに入党しており、その事を平然と言ってしまう人間なのだ。映画は彼女を断罪するわけではない。むしろ、たとえプラトニックな愛を経験し、差別を目の当たりにしたとしても、そうそう人は変わらないのだ、という諦念すら漂う。なんと厳しい映画だろうか。

2022年7月25日月曜日

恋の秋

 監督:エリック・ロメール

日本に住んでいると、哲学好きで女にだらしない男というのは、ロメールの映画でしか出会えない(笑)
さて、この映画ではとんでもなく美しいショットが一つある。ベアトリス・ロマンと女子大生のロジーヌが、家の裏庭で横並びに座って話している。しばらくして、ロジーヌの方が去っていくのだが、それまで二人を正面から撮っていたカメラが、彼女たちの背後からロング気味に仰角ショットで去っていくロジーヌをパンで捉えるのだが、この意表をつく視点の変化と夕暮れの優しい光が息をのむほど美しいのだ。もうこのショットが見れただけで大満足というものだ。

しかし『美しき結婚』であーだこーだ御託を並べていたベアトリス・ロマンが、20年後にまた色々御託を並べて、恋に奥手になっているのが可笑しい。

マリー・リヴェールが、嘘をついて結婚広告で男を探して、ベアトリス・ロマンにそれとなく紹介する(しかも娘の結婚式で!)という小悪魔なフィクサーを演じていて、本当に小悪魔的な魅力があって、これは恐い(笑) 最後に男がやってきて、ベアトリス・ロマンと結ばれそうな予感を残して終わるわけだが、いやぁ、男は結局どっちに惚れてるのかわからないな!

2022年7月21日木曜日

トップ・ガン マーヴェリック

 一作目の記憶はほぼないが、トム・クルーズ × トニー・スコットなら『デイズ・オブ・サンダー』の方がずっといいだろうと思っているので、あまり思い入れのない状態で見た。
全くおもしろくなかった。
この映画、シナリオとビジュアルしかない。演出がない。
伝えるべき物語はおよそ単純明快なそれである。命令に従わないトム・クルーズに、上官が怒り、部下はついていけず、かつての恋人は再び燃え上がり、トム・クルーズが凄すぎて部下が一致団結し、よくある葛藤をよくある展開で乗り越え、大団円。
それ自体は許容されるべきご都合主義的な物語の展開に沿って、何となくカッコいい、あるいはバブリーな映像を配置して良しとしてしまう。細かい仕草や視線、モノに対する演出はほぼないと言って良い。ただボールを投げてるマッチョな男を逆光で撮り続けるだけのアメフトのシーンには怒りを覚えたし、ラストのクルージングに行ってしまったジェニファー・コネリー母娘の突然の帰還も、要はあの絵が欲しいだけだ。
こういうのを悪い意味でアニメ的と言うのだと思うが、今時のアニメはもっと繊細なのかしら。
捧げられたトニー・スコットが天国で泣いてるぞ。

ちなみにクライマックスとなるミッションの場面はさすがに盛り上がるものの、『ハドソン川の奇跡』の方が断然ハラハラするというのはどういうわけか。

『リチャード・ジュエル』で頭でっかちで無能なFBI捜査官を演じたジョン・ハムが、今回も頭でっかちなヘタレ役を悠然と演じているのが良かった。

2022年6月27日月曜日

叫びとささやき

 監督:イングマール・ベルイマン

3回目の鑑賞だが、劇場で見るのは初めてだった。大スクリーンで見ると、クローズアップが強烈な印象を持つことが実感された。
例えばエルランド・ヨセフソン演じる医師が、リヴ・ウルマンを鏡の前に立たせ、口元が欲求不満、鼻筋がどうこう、顎のラインが云々とこき下ろす場面では、リヴ・ウルマンの、その罵倒されている顔が大写しになるし、ハリエット・アンデルセンの様々な苦悶の表情も大写しにされる。過去のエピソードが語られるときに、そのエピソードの主人公となる女性の顔半分が光で照らされたクローズアップが挿入されるという構成上の技法も、やはり大スクリーンではインパクトが凄い。

ハリエット・アンデルセンの容態が悪化したときに、みんなでランプを片手に家の通路を行ったり来たりする名高いシーンも、やはりスクリーンで見ると、その夢幻的な映像世界をより良く体感できる。

ハリエット・アンデルセンが亡霊となって語り掛ける一連のシーンは、画面から徹底してアンデルセンの顔を排除する厳しい演出だが、彼女が抱擁を求める手を払いのけてしまうリヴ・ウルマンの弱さが際立つ。何回見てもこのシーンは本当に息が詰まりそうになる。

「手で触れること」が本作の重大なテーマとなっているのは明らかだ。
医師が診察する手を掴み、自分の胸元に置こうとするアンデルセン。
医師とウルマンの密会のシーンでは、沈黙のなか、医師がウルマンの顔をいやらしい手つきで触りまくる。
一方でイングリッド・チューリンは触れられることを拒絶する。

チューリンとウルマンが和解したかと思いきや、結局反目し合う関係に戻ってしまっているというのを、きわめてあっさりした手つきで描くあたりに、ベルイマンのシニカルさが絶頂を迎えている。
愛に焦がれながら、愛を拒んでしまうという不幸な女達は、ベルイマン自身の片割れか。

2022年5月29日日曜日

リューベン・オストルンド礼賛

2作品連続のパルムドールという結果はさすがにびっくりしたが、何を隠そう、 自分はオストルンド監督のファンである。あの軽妙さ、そして軽薄さ、あるいは胡散臭さがたまらない。

彼はyoutubeで映画のネタを探していることを公言しており、『フレンチ・アルプスで起きたこと』のエピローグは、こちらの学生の動画をそのまんまパクっている。


https://www.youtube.com/watch?v=y-nkUnAcZtA


また、これは映画には使っていないと思うが、彼が「不安から喜びへの感情の動きを追体験できる美しい動画」として紹介していた動画がこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=ebtGRvP3ILg



改めてみたら思わず泣きそうになってしまったが、このような人間性への共感が、オストルンド監督にはあるし、このスキージャンプに成功して「しゃーー!!」とはしゃぐ少女は、そのままパルムドール受賞で大はしゃぎするオストルンド自身のようでもあって、つまるところは彼の魅力というのは、あえて芸術家然とせず、「賞が欲しい」、「賞を取ったら嬉しい」という軽薄さを隠すことなく、等身大で映画を生きている、その姿である。それは、映画史を彩る巨匠たちを振り返れば、何ともはしたない身振りかもしれないが、しかし映画が革命を起こすと信じたり、大文字のシネマを希求するような時代ではなくなった今、「ベルイマン派ではない」と公言するオストルンドの、その率直で無邪気な(反ベルイマン的?)身振りが、かえって魅力的に映るのだ。要するにいい奴なのである。


実際、彼の映画について考えているとき、あたかもオストルンド自身が出演していたかのような錯覚をしてしまうことがあるのだが、それも彼の等身大性、軽薄さを隠さない素直さが作品にも現れているからではないだろうか。彼は彼のまま、彼自身も含めて、彼が生きる世界を批判的に描いている。だから彼の映画は面白いし、いつまでも記憶に残る。

『フレンチアルプス~』がアカデミー賞にノミネートされず落ち込む動画

https://www.youtube.com/watch?v=hYTWqLmnjt0



『ザ・スクエア』がノミネートされて大騒ぎする製作陣(『スクエア』の役者達が、『スクエア』のキャラクター達のように大はしゃぎしているという二重性が良い)

https://www.youtube.com/watch?v=fxzajfURC_E


とはいえもちろん、風刺的作品が、いちいち映画祭で「受賞」してしまうという事については、充分注意が必要であろう。そして、かつて『クラッシュ』で退場者を続出させたクローネンバーグが、今回無冠、という事態の方が、映画的には重要な可能性が大いにあるという点も付言しておきたい。
あと、クリスチャン・ムンジウが無冠ってどういうことやねん。いい加減にせい。
(公開が危うい。)




2022年5月22日日曜日

アンラッキーセックス あるいはイカれたポルノ 監督自己検閲版

 監督:ラドゥ・ジューデ

セックスの映像に"censorship = money"と書かれたコミカルな検閲の表示が被さるので、てっきり反スペクタクル志向なのかと思ったが、ベルリンでは検閲なしのセックス映像が流れたらしい、と知ってちょっとガッカリ。というのも、冒頭のほぼ完全に検閲されたセックス映像のあと、ドキュメンタリー調の良くも悪くもダラダラとした映像が続くので、現代のスペクタクル批判として、なかなか巧妙な構成じゃないかと思ったのだ(もちろん、検閲がなくても、映像レベルでの対比の効果を狙ったものには違いない)。まぁとはいえ、作家の意図が何であれ、この「自己検閲版」がそのような映画として「作用」しているのは確かなので、それをそのまま評価したい。実際、第一部の「何も起こらない」映像の数々にはある種の清々しさがあり、同時にこの、あらゆる情報や出来事が、画面に現れては消えていくフラットな背景として社会を覆っている感覚には、現代的な虚無主義の匂いがあり、オストルンドの作品などとも通底するものがあると思う(制止する通行人を轢いてしまう車、舗道に車を止めている男、スーパーの着ぐるみ、家庭での介護、ゲームセンター、看板、カメラに向かって「アソコを舐めて」と言ってくる老婆、、、)。クスっとさせられるものの、それで終わり、という「意味の乏しい」断片性。
ということで、最初からバチバチの雰囲気を漂わせるクリスチャン・ムンジウなんかとはかなり違う作りではあるが、一方で、室内からバルコニーを捉えたショットなどには、ルーマニア・ニューウェーブ的な才気を感じもする。

どのパートも、それだけだったらつまらない、というのをうまいこと三部作としてまとめて、かなりの満足感を得られるつくりになっている。
第三部は純粋な会話劇なのだが、個々人のマスクとかがいちいち気になるなど、視覚的にも飽きないつくりになっている。あと校長が全然味方してくれない感じとか、イライラさせてくれる(笑)
それと、これも自己検閲版ならではだと思うのだが、タブレットの映像に見入るオヤジのショットがあって、タブレットの映像とオヤジの横顔が並列に映っていて、その中間に当の学校教師が苦々しい表情で座っているのだが、検閲版なのでタブレットの映像はでっかくマスキングされている(ちょうどスクリーンの右三分の一がマスキングされている)。
そうすると、当事者からの視線すら意に介さず、映像に見入っているオヤジの下品さが一層際立つというショットになっている。繰り返すが、ベルリンではこれはマスクされていないわけだが、おそらく監督もこの検閲版を作りながら、思わぬ効果を実感したのではないか。

ルーマニア映画を見るたびに、日本の社会状況にとっても似ているんじゃないかと思わずにはいられない。おそらくインフラや行政システムは(蓄積がある分)日本の方がマシなのだろうが、ルーマニア映画がもたらす閉塞感には、他人事とは思えない感覚がある。
(おそらくは加害と被害の多義的な歴史が、全き被害者意識と英雄言説で覆われてしまった言説空間があるのだろう)


2022年5月12日木曜日

ふたつの部屋、ふたりの暮らし(嫌な邦題。『デューDEUX』じゃダメなのか!)

 監督:フィリポ・メネゲッティ

化け物級の長編デビュー作である。ぶったまげた。
法や規範を超えるレズビアンの愛を、まるでミシェル・フランコのような「家族乗っ取り」サスペンスにしてしまう脚本と手腕。
そして豊饒なるイメージの連鎖も素晴らしい。
映画とは、その空間、その時間、そしてそこにある感情を、豊かなイメージと音でもって重層的に画面に定着させていく芸術であるが、この作品はそれを見事に示している。
例えば、、、
・アヴァンタイトルの隠れんぼにおける、あの恐怖感。フランスらしい、プラタナスの美しくも怪しいフォルムを見事に生かした画面造型だ。

・子供が川にボールを落として、それを拾おうとすると、過去のトラウマ的な映像がオーバーラップする。その不吉な予感は洗濯機が回る映像へと転移し、やがて二人の不和へ。

・フライパンが焦げるイメージの多用。悲劇、事件、焦燥。

中盤に物語の主人公が一方から他方へと移る脚本も見事だが、監督は『ナチュラル・ウーマン』を見たのかもしれない。
愛する人の部屋に「潜り込む」ことの「スリル」と「悲哀」は『ナチュラル・ウーマン』と共通している。
バルバラ・スコヴァ演じるニナが、『ELLE』のイザベル・ユペールばりの逸脱行為をする展開も凄いが、その一つ一つが、やはり「隠れて愛し合う」ことの悲哀なのだ。とはいえ、あの窓ガラスへの投石には驚いた。ここまでやるか!素晴らしい!

※ (以下ネタバレあり)
ただし、終盤の帰結には疑問が残る。というのは、最終的にニナの部屋に空き巣が入るのは、これは介護士の母と息子の仕業であることが想像される。この展開は、おそらく最終的にニナがマドレーヌをイタリアに連れていくのを諦めざるを得ない、という帰結にしたかったからだろう。しかし観客としては、このままイタリアに行けるとは到底思えないことから、別にわざわざそんな展開を入れなくても良かったように思う。
介護士のおばさんもだいぶいい顔をしており、この役柄をこういう使い方するのはちょっともったいない気がした。

あるいは、全体として、映画の見事さとは別に、この二人の愛のかたちの激しさ、プラトニックな感じ自体がどうなのかという論点はありそうではある。


2022年5月9日月曜日

ハンド・オブ・ゴッド The Hand of God

 監督:パオロ・ソレンティーノ

ソレンティーノは『Youth/グランド・フィナーレ』しか見ていないのだが、同じような感想を持った。つまり、すごく良い映画な気もするし、なんか騙されてるような気もするし、という感じである。
断片的な面白さによって駆動されているものの、その「面白さ」が割と一発芸的というか、ハッタリ的面白さに頼り過ぎなんじゃないかと。本作でいえば巨漢のカップルだとか、口の悪い婦人だとか、恒例のナイスバディな女性だとか、見るものを捉えはするが、どこか白々しい。
自伝的な映画ということで、アルモドバルの『ペイン・アンド・グローリー』にも通じるところがある。しかし『ペイン・アンド・グローリー』ほどのイメージな豊穣さがあるかというと、これは好みの問題でもあろうが、上記の感想になってしまう。

とはいえ、力のある映画だ。一発芸的と書いたが、その一発芸が大いに笑える。主人公の母親が「やたらイタズラ好きである」という、身もふたもない性格設定がまず面白い。アパートの住人に映画プロデューサーの広報に成りすましてイタズラ電話をするのだが、一切のフォローもなく、「そういう人」として処理されている。
彼女が夫の不倫が続いていることを知って大声で絶叫する場面が、ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』を想起させる「母の号泣」であるが、少しやり過ぎではないか。

おそらくドローンを多用していると思うのだが、ほとんどのシーンで必要性を感じなかったのが辛い。特にオープニングのナポリを一望してみせるショットも、これ見よがしで鼻白むし、兄弟達が病院まで車で急行する場面も、俯瞰の横移動というドローンならではの撮影をしているが、効果には疑問を感じる。タイトルはマラドーナの伝説のゴールだが、映画監督、そして運命といった意味合いも込められているのだろう。しかしこうしたこれ見よがしなドローン撮影は、ずいぶん慎ましさを欠いた「神」ではないか。

ナイスバディな女性として、序盤からかなり目立った活躍をみせるパトリツィア(ルイザ・ラニエリ)であるが、終盤は精神病棟に収監され、悲しみが際立つ。
主人公と彼女が病室で対話する場面では、入り口付近に座る少年と窓際に座る彼女との、美しい切り返しで見せたあと、彼女が少年の隣に来て、横並びに座って語り合う。彼女が静かに涙を流すショットが素晴らしい。また、その後、再び会いに来たシーンでは、電池をベランダから投げて、そのまま姿を消してしまう。

タバコの密輸をやってる男との交流も、短いながら面白く印象的だが、個人的には映画監督との5分ぐらいのシークエンスが良かった。夜明け前の薄暗い光のなか、「思ってることを言ってみろ!」と映画監督が叫ぶ、その光景が端的に美しい。




2022年5月3日火曜日

アナザー・ラウンド

 監督:トマス・ヴィンターベア


 男性教師4人が、お酒の力を借りて、停滞した人生をもう一度輝かせようと試みる映画。
「もう一度あの輝きを」という男性映画はそう珍しくないが、「お酒の力で」というのは珍しいかもしれない。もちろん現実に、ちょっと酒を飲んだからって、いきなり面白い講義ができるほどハッスルできるとは思わないが、しかしフィクションとして、酒の力を借りた彼らが展開する講義はちょっと面白い。マッツ・ミケルセンが語るリーダーの資質の話(酒もたばこもやらない健康な人間が、実はヒトラーだった。「現実は思い通りに行かない」)、音楽教師は部屋を暗くして手をつながせて合唱させることで、一体感を生むことに成功する(デンマークの賛歌を唄わせるのは皮肉だろうか)。こうした講義の内容も含めて、彼らが渇望している、失われたイメージを形作っていく。
 後半はかなり厳しい展開だ。4人のうち1人が、悲劇の運命をたどる。酒によって人生が狂ったのではなく、むしろ酒が、人生の耐えられぬ空虚を曝け出してしまったとも言うような感じであるが、その描写は美しくもそっけない。このあたりの、哀しみや苦しみを描き過ぎないセンスというのが良いと思う。
また、マッツ・ミケルセンの方は、酒のせいで家庭を壊してしまう。しかしこれもまた、酒によって分断が明らかになってしまったと言って良いだろう。酒は、束の間、分断を埋める(キャンプでの涙のセックス)のだが、その効果は持続しないわけだ。
と、厳しい展開を置いたうえで、なぜか最後は華麗なダンスをシャープなカッティング・イン・アクションで決めてしまう。色々意見はあろうが、映画とはこうあるべきなのかもしれない。観客を信じればこその帰結なのかもしれない。

序盤の、ソフトフォーカスの手持ちカメラで、人物の配置を動かしていく演出は、さすがドグマ系というべきもので、2022年になると、ただ普通に巧い。
ライティングは全体的にローキーだが、キャンプでの光は綺麗だ。レストランで、妻が立ち去ってしまったあとのミケルセンの横顔の逆光なんかは、どうにも品のないショットでうんざりするが、これは佳作でしょう。

2022年4月28日木曜日

アネット

 監督:レオス・カラックス

 カラックスは『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』、『ホーリー・モーターズ』を見ただけというレベルの観客なので、あまり大それたことは言えないのだが、『汚れた血』でドゥニ・ラヴァンが疾走する有名なシーンなど、ヴィジュアルインパクトの大きいアイデアを、絵具をキャンバスにぶちまけるように炸裂させて、ハマればとことん良いけど、ハマんないと退屈、というイメージがある。特にポンヌフの恋人が気に入っている(濱口竜介が選んだ3作品を上映するというせんだいメディアテークの企画で見た)。

で、この『アネット』。2回、思わず涙してしまった。1回目は初っ端。レコーディングと見せかけて、歌いながら歩きだし、キャストが集合して、さぁ行くぜ!という感じで路上に出ていくというワクワクするオープニング。フィクションとは、パフォーマンスとは、そしてパフォーマーとは、なんてカッコいい人達なんだと、いきなり感極まってしまった。ズルいと言えばズルい。そしてラストのアダム・ドライバーと子供の対面での歌唱シーンも、それまで「マリオネット」として表象されていた子供がついに内に秘めた憎悪をぶちまける、その残酷なまでの対決に感動せずにはいられない。

しかし全体として、もっと真面目にミュージカルをやっても良いのではないか。高まりそうなところでフッと終わってしまって、もどかしいシーンが多かった(特に法廷)。
また、海のシーンもちょっとローキーすぎるのではないか。スクリーン・プロセスのやたら高い波に比して、あまり躍動感がなかった印象である。

あるいは、装置と演者の関係が、スタティックな次元にとどまっている。
小道具や装置が、画面を活気づける場面が少なく、人間の動きと歌唱だけが前面化している。たとえばアダム・ドライバーとサイモン・ヘルバーグが対決する場面では、ヘルバーグが座ろうとした椅子をドライバーが取り去って、ヘルバーグがズッコケるのだが、こういう演出がもっとあってしかるべきだろう。

題材と、「パフォーマーのパフォーマーぶり」を中心に持ってくる指向性を含めて、『ドライブ・マイ・カー』の重力圏にいると思うが(「妻を殺した」と独白するドライバーの圧巻のパフォーマンス!)、そういう意味でどちらも上記のごとく、モノとヒトの動的な関係への無関心ぶりが気になって仕方がない。





2022年4月27日水曜日

チタン TITANE

 監督:ジュリア・ドゥクルノー

市橋容疑者みたいな話である。
主役の女がなぜ人を殺しまくるのかが最後まで不明である、という点が良い。その意味で、『プロミシング・ヤングウーマン』の対極を行く映画といっても良い。「理由のある暴力」に溢れた現代映画界では、ことさら新鮮な印象をもたらす。

自身のチタンプレートが埋め込まれているのと同じ部位に、針を突き刺すという「所業」が、それなりにスペクタキュラーで、冒頭からグイっと引き込まれる。鏡を取り入れた構図も良い。
前半は「何をしでかすかわからない」という興味をかき立てながら、上記のような巧妙な絵作りでテンションを持続させることに成功している。
逆に、後半になってヴァンサン・ランドンが率いる消防隊に入ってからの展開はつまらない。”ダンス”がひとつのキーとなっていて、全部で3回、ダンスシーンが出てくる(ヴァンサン・ランドンとのダンス、消防隊員が酒を飲みながら踊るシーン(スローモーション多用)、そして、車庫でのEDM⇒ストリップ風のダンス)。
最近の映画祭受けの良いヨーロッパ映画には、かなりの確率でダンスシーンが出てくる。それぞれにその「意味」するところには微妙な違いがあると思われるが、例えば本作の場合は、ダンス・ナンバーが、それに合わせて踊る人間達の「縄張り」の暗喩になっているのかもしれない。したがって、両性具有的な生を生きる主人公は、そこに居心地の悪さを感じる。
だが、映画全体として、これほどダンスシーンが入るのは、最近では『BPM』ぐらいで、ちょっとバランスが悪すぎるように思うし、それぞれのシーンが大したインパクトを残さず終わってしまうのも残念だ(その意味で、ものの数秒でインパクトを残してしまうリューベン・オストルンドのスマートさを思う)。

このように、「ノリの良い」「理由なき殺人」が影を潜め、ただ居心地の悪さを強めていくのみの後半は明らかに失速しており、それゆえ禍々しく演出されたラストも肩透かし感が強い。というか、これならヴィンチェンゾ・ナタリの『スプライス』の方がよほど「過激」だろう。

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と、つまらないラストシーンをわざわざ「解釈」するのもあまり気が進まないのだが、ラストにはどのような意味があるだろう。
彼女が赤子をついに出産する直前、「父」であるヴァンサン・ランドンは自身の腹部に酒をたらし、そこにライターで火をつける。火は彼の腹部を焼くが、途中で耐えかねて(?)毛布で火を消す。かくして、彼の「お腹」には火傷ができる。
そしてそのまま寝室へ行くと、まさにこれから産まんとする"息子"の姿が。”息子”と信じていた人間が実は"妊婦"であることを知って、反射的に激怒する父であったが、思い直したように、彼女をベッドに寝かせ、分娩を手伝い、やっとの思いで彼女の膣から赤子を引き出す。人間と車の合体産物(ポスト・ヒューマン?)である赤子を産み落とした彼女の腹は引きちぎれ、また彼女はそのまま死んでしまう(ように見える)。
"父"はその赤子を腕に抱え、絶命した母の横で自身も横たわる。
このお産という「腹の焼けるような」経験の直前に、放心したような表情で自身の腹を焼く意味はなんだろうか。
彼は、どこかで彼(女)が、"息子"ではないと薄々感づいているが、心の空虚さを埋め合わせるために嘘をあえて信じているように見える。この父は、現代人の「末路」なのかもしれない。真実から目を背ける迷える現代人が、(腹を焼くことで)産みの苦しみを疑似体験し、男女二元論を超えた、ポストヒューマンの誕生に、手を貸したのだろうか。


2022年4月21日木曜日

第一容疑者 EP9 The Final Act

 監督:フィリップ・マーティン

 2006年の本作をもって、完結。終わり方の潔さに、このシリーズのスピリットが端的に現れているように思う。
 またペドフィリアかよ、という感じがしなくもないし、他のエピソードに比べて脇役の刑事にあまり焦点が当たらないのが残念だし、ヘレン・ミレンの妹(とその娘)の扱いが超ご都合主義だとか、色々問題はあるが、それでも上々の仕上がりではないだろうか。
 
 冒頭から、手持ちのカメラに素早いカッティング、手前に障害物を置いて歪な空間を作っていくスタイルが、2006年、如何にもボーン・スプレマシー以後、という感じがする(知らんけど)が、 しかし特に後半においてはかなりカメラの動きも抑制されているし、時々見られるガラスに街並みが反射したショット、病室の壁紙と日差し、そしてトム・ベルのカムバックとその痛切なまでの姿(この作品が放映される前に病死したというのだから、いっそう身につまされる)。

 トム・ベル、被害者の父、ヘレン・ミレンが、人間としての不完全さを受け止めていく姿が、本筋の展開と共鳴しながら、かなり優しい眼差しの作品として終結しているのではないだろうか。
 各エピソードのスタイルに、それぞれの時代のスピリットがよく反映されたシリーズなので、またじっくり見返すのも楽しみだ。素晴らしかった、ありがとう。

(テレビシリーズというのは、なぜか最後に、ありがとう、と言いたくなる)

2022年4月19日火曜日

オペレーション・ミンスミート

監督:ジョン・マッデン

  ミンスミート作戦を企てたチームが、それほど広くもない暗い地下室で、祈るように電報を待つ。遅い、失敗か、と思っていたそのとき、電報が来て、見事に連合軍がシチリア島を奪還したことが知らされる。作戦室は拍手に包まれ、リーダーのコリン・ファースは大成功ゆえに呆然とその拍手を見つめる。あの戦争の様々な作戦室でみられたであろう風景であり、映画でもよくあるシーンだが、やはり何度見ても涙が出る。鳥肌が立つ。その後、二人の(無名の)男が、早朝の階段で語り合い、飲みに行こうといって、街中に消えていく。それをロングショットで撮る。良い終わり方。この手の密謀映画の常套ではあるが、満足感がある。
 でもそれだけである。
 この作戦自体は面白いのだが、しかしお話としては全く面白くない。死体を海に捨てただけである。おそらく製作者達もそれをわかっており、ケリー・マクドナルドとコリン・ファースの渋いロマンスを一生懸命演出する。でも、そんなものを見に来たのではない。。
 もっと群像劇的にすべきでないだろうか。例えば死体役に選ばれた路上生活者の生前は、回想で適当に処理されているに過ぎないが、むしろ彼が死んでいくまでを冒頭で描けば、それが対ナチス戦争勝利につながる作戦につながっていく「巡り合わせ」が演出できたはずだ。あるいはケリー・マクドナルドの恋人にしても、彼女との出会いをこそ描くべきではないのだろうか。そういうピースがつながっていき、国家規模の作戦になっていくのが、醍醐味なのではないのか。何だか最初っからすげぇ偉そうなコリン・ファースが、ひたすらすげぇ偉そうに作戦を進めていくだけでは、映画にならんだろう。
 ジョン・マッデンでもこれは無理。次行ってみよう。