2014年12月21日日曜日

なみのおと なみのこえ新地町

せんだいメディアテークで、「フィクションの境目」と題した映画上映会に昨日・今日と行ってきた。
溝口健二とレオス・カラックスの超傑作映画が見れたのも良かったけれども、何より濱口竜介の震災後のドキュメンタリー”東北三部作”のうち二作品を見れたのが何よりの収穫だった。


リンク先の、両監督のディレクターズ・ノートが何より素晴らしい
http://silentvoice.jp/naminooto/
http://silentvoice.jp/naminokoe/



以下は『なみのおと』、『なみのこえ 新地町』を見ての感想。


『なみのおと』は震災から半年、『なみのこえ』は震災から一年後に撮られた作品。
「被災地のドキュメンタリー」と聞くと、やはり直感的に震災後の人々の生活や街の風景を映した作品かな、と思うけれども、この作品はそうではなく、何組かの現地の人たちが室内で互いに向かい合わせになって、当時のことを振り返ったり、あるいは監督と1対1で対話したり、という会話の集積で成り立っている。だから彼ら/彼女らの”日常生活”は全く出てこないし、震災後の街の風景も各パートのつなぎとしてわずかに出てくるにとどまる。

ここでは映像によって被災地を映すのではなく、会話によって語らせる、というアプローチがとられる。その新鮮さ。

作中の監督のナレーションで、「あまりに被害が大きすぎると、何もかもがなくなってしまい、かえってその被害の程度がわかりづらくなる」というものがあり、そもそも外部の人間が、被災した地域の光景を見ても、そこで何が失われたのかを知ることはできない、ということに気付かされる。現場の光景以上に何事かを語るもの、それは現地の人々の声に他ならない。

なるほど、現地の人々の声は、確かに現場の光景より雄弁で、多くのことを教えてくれる。その街の何が好きで、どういう生活をしていて、何が失われたのかを実際に教えてくれるのは、そこに住んでいた人たちの声だ。

しかし、だからといって、これらの声は、「真実を明かすこと」だけに奉仕するわけではない。

人によっては、当時の出来事を詳細に生々しく回想することもあるが、やや曖昧な語りに終始する場合もあるし、あるいは向かい合っているがゆえに、率直な感情や思いを言い辛そうな夫婦や親子もいる。

当然である。
人は他人にいちいち本音をぶつけたりしない。自分の感情と相手の感情とその場の空気のそれぞれに配慮しながら、言葉を慎重に選ぶのが人間ってものである。それは”被災者”であろうと誰であろうと変わらない。

だからこの映画は、「被災による喪失感」だとか、「日常生活における絆」といった、「被災地の真実」を語る映画ではない。

むしろ、こうした語り(合い)が示すのは、「喪失感」とか「日常のありがたみ」といった我々がついつい先んじて(勝手に)イメージしてしまう言葉や概念(もちろんこうした事を語る人々も出てくる)からはこぼれ落ちてしまうような、我々人間の普遍的な”営み”である。

そしてその営みは、びっくりするほど多様で、時にはまどろっこしく、時には物悲しく、時には見てるこちらが腹を抱えて笑ってしまうほどに可笑しい。

震災という特別な経験をした人たちのごくごく当たり前の、当たり前のように個性的な営みに、目を向け、耳を傾けること。それがこの映画が試みていることだと思われた。



2014年12月5日金曜日

ナイト・スリーパー ダム爆破計画

監督:ケイリー・ライヒャルト

ミークス・カットオフがいまだに輸入されないライヒャルト監督の新作(DVDスルー)。一回しか見てないので、備忘録的に。

ネタバレしかしてない。

まずもって、かなり巧妙なつくりである。
ダム爆破に至るプロセスでの多くの伏線、すなわち、防犯カメラの前で帽子を外してしまうダコタ・ファニング、ボートを運ぶ道中での多くの観光客、計画を練っているところに現れる通行人、爆破十数分前に現れる車(これを捉えるコーエン兄弟的ロングショットが素晴らしい)、ことを終えた帰りの検問、などなど、いずれも後々に主人公達が追いつめられることになりそうなキーショットが何度も出てくる。
しかし、実際には彼らはこれらの「ヘマ」に足元を掬われるわけではなく(つまり伏線は回収されることなく)、計画を実行したときには気付きもしなかった存在によって、心理的動揺をきたし、自滅していくわけだ。

だがこの映画の魅力はこうした計算された構成だけでは語りきれないだろう。
ボートがゆっくりとダムに接近していく様を捉えたショットの純粋な視覚的面白さ、あるいは冒頭と後半に出てくる農作業を捉えたショット群、自転車に乗ったダコタ・ファニングを捉えた移動ショット,
図書館のコンピューターでニュースを知ったアイゼンバーグを捉えたカメラがゆっくりと俯瞰へと移動していく素晴らしい演出。
こうしたいくつかの優れて映画的なショットは、しかし決して、作品の印象を決定づけるようなインパクトのあるショットとは言い難く、きわめて抑制的に、小出しにされる。この抑制的なリズムが、むしろ終盤の転調と帰結をより効果的なものにしているだろう。

ことほど左様に、終盤のサウナにおける、ダコタ・ファニングののけ反りこそが、この映画のクライマックスとなっている。



ジェシー・アイゼンバーグの主観ショットがやたらと出てくる。数えきれないがおそらく20ほどある。
一方で、その他ピーター・サースガードやダコタ・ファニングの主観ショットは全く出てこない。一か所、これはサースガードの主観ショットかな、と思うところが、ボートで湖に出て、枯れた木々に目をやるシーンだ。だがここでも、最後までそれらの木々に目をやっているのは、ジェシー・アイゼンバーグだけである。
アイゼンバーグはここでは徹底的に「見る人」としてキャラクタりぜーションされている(ラストショットも彼の主観ショットだ)。
その意図は不明確である。効果を発揮している、のかもよくわからない。

それと、三人の関係性とその動きを繊細に描写していく手腕は見事なものだと思うが(それぞれの人間に対するカメラの距離、あるいはオフで入ってくる声、などなど)、もう少し大胆に描いてほしいとも思う。








2014年10月10日金曜日

チャイルド・コール

監督:ポール・シュレットアウネ


(ネタバレ注意)
まず、素晴らしい色使いについて。
ノオミ・ラパスの青、そして電気屋の店員のオレンジのユニフォームを基調としながら、それらの色の散りばめ方が極めてハイセンスだ。喫茶店、学校の会議室などの空間の取り方も絶妙といえる。
こうした視覚的な心地よさの一方で、ジャンプカットの多用、あるいは男女の話のぎこちなさによって、居心地の悪さもまたこの映画では同居している。

そんな中際立つのが、カメラのパンの使い方である。冒頭の、タクシーを降りたノオミ・ラパスを捉えたカメラがパンすると、息子アンデシュがそこにいる。
母親から息子への流れるようなパンが、この映画の主題とリンクしながら何度も使用される。

どういうことか。

映画が最後に明らかにするのは、息子アンデシュが母親の幻であったことだ。息子とは虚構の存在である。
逆にカメラのパンとは、持続した時間の中で対象Aから対象Bへと視点を変えることで、そこに「本当らしさ」を定着させようとする演出だと言える。
この映画の作り手が、虚構と現実の狭間で揺れるストーリーを撮るにあたって、このパンを意図的に採用したのは間違いないだろう。

その証拠に、この映画でもっとも重要な湖のシーンでも同様の撮り方がなされている。
森を抜けて、ノオミ・ラパスがこちら側に歩いてくるのをフォローしながら、そのまま180度カメラがパンして、その先にある湖を映し出す。
これは実は駐車場だった、というのも含めて本作で合計3回出てくるシーンであって、まさにこの映画の中核となるショットである。

現実から虚構へと流れる持続ショット。
それはある意味で「意外な結末に向けて張り巡らされた様々な複線」のひとつとして、あくまで戦略的に採用された演出なのかもしれない。しかしだからといって、この「本当らしさ」が、観客を「騙す」ためのものであると断定してはいけない。
結末を完全に予想できなくとも、上記の、「湖だと思っていた場所が駐車場であった」という衝撃的なエピソードが中盤にあることもあって、観るものは次第にこの映画のいくつかのシーンや存在は、虚構であろう、と予測できるようになっている。つまり、この映画における持続ショットは、「騙す」
ことを意図しているというよりは、現実と虚構の境界に注意を促し、さらに言えば虚構を虚構と認めたうえで、なお何事かを描こうという態度の表れでもあるだろう。


そうした目で見たとき、とりわけその虚構性を体現するのが、森だ。

ノオミ・ラパスが森へと向かうのは、全部で3回だが、このうち一回は息子アンデシュと、ほかの二回は一人でである。そしてこの二回の、ノオミ・ラパスが一人で森へと向かうシーンは、どちらもそのきっかけとして、別の住人が森へと向かっていくのをノオミ・ラパスが目撃することで始まる。

この、住人が森へと向かっていくのを後ろから捉えたノオミ・ラパスの主観ショットの、なんとも言えぬファンタジックな印象はどうだろう。
美しいピアノの旋律をバックに、緩やかな時間の流れが取り戻され、そうしたノオミ・ラパスは湖へと誘(いざな)われる。
誰とも知らぬ人に、引き付けられるようにして、森へと向かっていく、というのは、まさしくファンタジー映画の定番である。

虚構と現実の境目が曖昧なサスペンス映画でありながら、このシーンはその虚構の虚構性を豊かに描写してみせる。
それは、「虚構=嘘=騙されてはいけない」という現実からの上から目線とは程遠い、「虚構=映画=おとぎ話」という戯れに、寄り添いながら豊かに演出するつくり手の姿勢の表れである。

だからこそ逆説的に、この虚構が、虚構であることの悲劇性が、強調されるのである。

あらかじめ引き裂かれることを運命付けられた美しい画が、ストーリーの進行とともに、予想通りに残酷に引き裂かれながら(ノオミ・ラパスが飛び降りるその瞬間もまた、持続したパンで撮られていることに注意されたい!)、悲劇のラストを迎える。しかし美しい画は、美しいイメージは、残る。

映画が単なるストーリーテリングではないのは、この一点においてだ。
イメージは残る。
ラストに示される湖は、一体誰の、いつの記憶なのだろうか。そしてあれは現実なのか、それとも虚構なのか。こうしたことがはっきりとは示されないまま、その美しい湖のイメージが、ストップモーションによって残される。
ストップ・モーションは「反運動」であると同時に、「反物語」なのだ。それはまさに、映画がストーリーを語ることで置き忘れていったイメージを、ストーリーの横に、あるいはストーリーの残余に、甦らせようとする、悲劇的な試みなのだ。

一方で、クライマックスにおける二つの悲劇。一つはノオミ・ラパスによる管理人の殺害、そしてノオミ・ラパスの飛び降り。
この二つのシーンはどちらも持続ショットによって描かれている。前者は部屋から玄関へと包丁を持って行くノオミ・ラパスをフォローし、後者は部屋に乗り込んだ男からパンして、丁度飛び降りた彼女の背中を捉える。ここはまさに、現実→現実へと視点が送られる、「本当」のシーンなのである。

この同じ技法の使い分け。これはまさに一種の戦略であるが、しかし上記のラストシーンなども含め、決して虚構が虚構であることによっていささかもその力を落とさないところに、この映画の凄さがあるのだろう。


前作『隣人 ネクストドア』も、非常に緊張感のある傑作スリラーである。
そしてこの二作品の、非常にわかりやすいで共通項が、「傷、汚れ」のモチーフである。
『ネクストドア』における血痕、そして『チャイルドコール』におけるびしょびしょに濡れた服とその汚れ。これらは、現実と虚構の視覚的な架け橋として非常にうまく使われている。
次の作品が楽しみの人。


2014年9月23日火曜日

プロミスト・ランド

監督:ガス・ヴァン・サント

アヴァンタイトル。レストランの洗面所での洗顔シーンから続いて、マット・デイモンをフォローしたカメラは天井に向けてティルトアップして、カットを割ってマット・デイモンがぐるっと一周回って席に着くまでを、横移動で捉える。この時、食事をして談笑する客、あるいは息の合ったコンビネーションでテーブルクロスをさっと敷くウェイターが手前に捉えられているのが素晴らしい。続く夜のハイウェイの俯瞰ショットが幻想的で美しい。かと思えば、舞台となる町の、ハル・ホルブルックの納屋の内側から外を捉えたタイトルショットも素晴らしい。
こうやって始まる映画。こんな素晴らしい始まり方をする映画なのだ、これは。


町長とマット・デイモンがカフェで落ち合うシーン。
ここでは、最初に町長が乗り気な風を見せているが、ウェイトレスがコーヒーを持ってきたのをきっかけとして、マット・デイモンに対する不信感をあらわにする。この転換の前後に、二人を横から撮ったショットがインサートされるが、最初は窓ガラス側から二人を撮っていて、今度は逆側から、つまり逆光で二人を撮っている。二人の会話が、まさに陽から陰(逆光)へと転換する。という演出だろうか、これは。
こんな小手先のテク。いや、これが良いのだ。

上記したシーンでは、ウェイトレスが注文を取りに、コーヒーを運びに、そして伝票を渡しに、二人の席にやってくるわけだが、本作では基本的に、誰かが話してると、誰かがやってきて、物語が動く、ということを割と徹底していて、小気味が良い。
冒頭のマット・デイモンと上司の会話中に遅れてやってくるお偉方、体育館の集会終わりに入ってくるバスケチーム、マクドーマンドの歌唱後にいきなり舞台に上がるジョン・クラジンスキー、マット・デイモンとクラジンスキーの会話中に店に入ってくるローズマリー・デウィット、、、別に物語が動いてるわけではないか。でも、一個一個のシーンが中心化されないというか、そういう面白さがある。


マット・デイモンとローズマリー・デウィットの関係性はとっても素晴らしい。それは画面が素晴らしいのだ。
まず、二人が初めてバーで出会うシーンで、気軽に話し始める二人を、最初カメラは「ほぼ内側」(というのも、マット・デイモンの頬はちょっとだけ映ってる)から捉えているのだが、ローズマリー・デウィット(いい名前だ)が一歩マット・デイモンに近寄る瞬間にさっと引いてフルショットで捉えると、それ以降の切り替えしは二人を同一画面で撮っている。文字通り二人の距離グッと近づいた、という。
それと、誰もが賞賛するであろう、デウィットの家の、玄関まで続くあの傾斜。そしてその傾斜をマット・デイモンが歩いていくのをまったく同じ移動ショットで反復する演出の素晴らしさ。
この、歩く、とか、走る、とかが、反復される映画に弱いのだけど。たとえばロッセリーニの『不安』だとか、『夜よ、こんにちは』であるとか、『エレニの帰郷』(は、同構図ではないが、むしろ180℃反対のショットでイレーヌ・ジャコブの歓喜の走りを反復している)であるとか。ああ、このショットに、この動作に、このカメラワークに、何かが託されている、という感覚。はっきり言えばもうこのショットだけで、大満足と言ってよい。
地味な題材でありながら数えきれない細部が映画を盛り立てる。しかし何よりマット・デイモンとマクドーマンドの掛け合いが素晴らしい。

ジョン・クラジンスキーがハル・ホルブルックに”証拠写真”を提示するショットの古典的な感覚が面白い。
それと、ラスト近くで、マット・デイモンが少女の売るレモネードを買うシーンでは、マット・デイモンが渡すお札、そして少女が返すお釣りがそれぞれ「クシャクシャ」、「チャリンチャリン」という印象的な音を立てている。

2014年9月18日木曜日

孤独な場所で

監督:ニコラス・レイ

オープニングはハンフリー・ボガートの車が走っているところから始まるが、このシーン以来しばらくの間、人物の場所から場所への移動は省略される。最もわかりやすいところでいえば、殺されることになる女性の「帰り道」は大胆にも省略され、我々がその女性が殺されたことを知るのは、警察署でのボガートの事情聴取においてである。
しかし、中盤にさしかかったところで、再び「移動」が描かれる。それは海辺での夕食の際に憤慨したハンフリー・ボガートがそのまま車を走らせ、慌ててグロリア・グレアムがそこに乗り、そのまま車を走らせるシーンだ。そして右折しようとしたところで直進してきた車両と接触、相手の運転手が怒ってボガートの方に来て怒鳴りつけると、そこでボガートのスイッチが入り、あやうく殺しそうになってしまう。
思えばオープニングはボガートのスイッチが入りかけたところで信号が青になって相手の車が走り去ってしまったことで、何事もなく終わり、印象としては「喧嘩っ早いおっさん」程度のものでしかなかったのだが、同じようなシチュエーションが反復され、しかも二回目はエスカレートしてボガートの「本当の姿」が露わになる、という実に巧妙な構成をとっている。全くもって素晴らしい演出。

場所から場所への移動。事件はその間に起こるのだ。

それと。
この映画は、いわゆる夫(や恋人)が実は異常者だった、あるいは異常者なのではないか、という映画で、同じような系統の作品としては、ヒッチコックの『断崖』、ファスビンダーの『マルタ』、シャブロルの『愛の地獄』などがあげられるだろう。それとショーン・ペンの『プレッジ』などもその帰結が印象的だ。
『愛の地獄』や『プレッジ』は、作者の視点が異常者側にあるため、どちらかといえばその妄執ぶりに観客は付き合うことになる。
一方で、『断崖』や『マルタ』などは、女の側から見た男の異常さが強調されるため、観客はその「恐怖」や「不安」に同化するよう意図されている、と言えるかもしれない。

『孤独な場所で』はその中間といった感じで、確かに周りから見たボガートの異常さを強調する演出がとられている(上記のシーンや、あるいは警部とその妻との初めての夕食など)が、一方でこの映画にはアート・スミス演じる長年のマネージャーがいる。
レストランでの騒動で、ボガートがアート・スミスの目を傷つけてしまい、その後トイレで苦い和解をするシーンがある。
このときのアート・スミスが「他に仕事もないし・・・」と言いながら握手を求める所作の面白さ。この二人の関係が、この映画を単なるスリラーでもなく、単なる妄執映画でもなく、重厚な人間ドラマにしていると言って良いだろう。
これは傑作。





2014年9月12日金曜日

フライトゲーム

監督:ジャウマ・コレット・セラ

『アンノウン』は超面白かった。あまり覚えてないが、成りすましの人と大学で対面して同じセリフをまくし立てるとこの振り切れ感とか、あるいは美術館での熟成した演出の手際だとか、ダイアン・クルーガーとか、そもそも『フランティック』じゃないかこれは!という感じが。ついでに言えば車の逆走なんかも笑わせてもらった。
(『アンノウン』はとにかく笑えるアクションなのだ。)

で、『フライト・ゲーム』なのだが、まず冒頭いきなりリーアム・ニーソンがウイスキーを飲んでるのをスローモーションで映してる。
「え、トニスコ?」とびっくりしてると、急にフルショットで引いて、離陸する飛行機をバックにした見事な構図でリーアム・ニーソンがおさまる。良いオープニングだ。
で、そのあとの空港のシーンでは、やたら被写界深度の浅い画面が続く。ニーソンが注意を送る人物にだけフォーカスのあたったよく分かんない画面が続くのだが、これもトニスコなのだろうか?よくわからない。

が、全編見た上で言うなら、この空港のシーンは結局何がしたいのかわからん。
空港ってさ、高い天井に、ランダムに行き交う多国籍の人々がいて、バリバリ仕事できるスッチーがいて、長い動く歩道があるわけじゃん。そういう空間的条件ガン無視で、これかよ。。。
『アンノウン』はホテルや大学の空間造形が冴えてませんでしたっけと。

(このあたりでもうバレバレなのだが、僕はコレット・セラは『アンノウン』しか見てません。すみません。)

さて、まぁ機内でのサスペンスに関して書いてると終わらないので、要所だけ。
まず、乗客がまるで面白くない。ウェス・クレイヴンの『パニック・フライト』のような魅力的な乗客がいない。リーアム・ニーソンの隣に坐るのは、おいおいジュリアン・ムーアかよ。まるで盛り上がらない。あの医者にしても、何もしてないじゃないか!(当たり前だ、分子神経科学者だもの。)

メールのやりとりがひどい。まるで緊張感がない。
「こっちには理由があるぞ」→「どんな理由だ」→「十分な理由だ」
はぁ?みたいな。
あと、TSA本部とのやりとりも全然緊張感がなくて、「うわぁ、これじゃリーアム・ニーソンがテロリストにされちゃうぞ~!」っていうサスペンスがなくて、気づいたら「お前がテロリストだべ?」みたいな。いやぁ。
でもこれも予算不足で本部の撮影ができなかったんだろう。知らないが。


あと、確かに極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクション、みたいな構図があって、これは脚本の大きな旨味だと思うのだが、これもあまり盛り上がらない。
まずモブ=乗客へのディレクションが中途半端である。誤報ニュースを見ても、あまり騒がない。「不自然」とかいうわけではなく、これでは盛り上がらないだろう。
しかし予算の問題もあるだろうし、乗客があんまり騒ぐと収集つかなくて本当に何もできなくなりそうだし、まぁ良い。
ジュリアン・ムーアは悠長に酒を飲んでるし、そもそもお前みたいなババァが非常事態でも自由気ままでいる女とか演じても少しも魅力的じゃないことに気付け。出演を断れ。
あと、極限状況での疑心暗鬼とそれを打開するアクションとか説得って、さんざん色々やられてきて、それこそ"I believe you."なんてセリフは、本当にアメリカ映画の最大の武器、って感じがするけども、でももっと良い"I believe you."があったのではないか。

で、あと、このシーン、この瞬間、この顔を撮るんだ!っていう意気込みを全く感じないんだよね。
I believe you.にしても、うーんこのクローズアップでいいの?みたいな。

犯人の動機はちょっとなめすぎだと思うし(でもこれは色んな意見がありそう)。

飛行機内のアクション映画ってあまり見たことがないので、ちょっと色々見たい。『フライト・ゲーム』を見ると、なんかやりにくそうだな、という印象があるが。

なんだろうな、もう全体としてはぁ?って感じで、乗客全員死んでいいと思っちまったよ。





2014年8月14日木曜日

サンライズ

監督:F・W・ムルナウ

今更何を言うことがあるのか、という映画だが、要点は、1)展開的にも撮影の観点からも、この映画はまさに"巻き込まれ型"の活劇であること。2)手のアップがあっても良いんじゃないの?ということ。

とりわけ涙なくして見れぬ前半30~40分ぐらいの撮影のスタイル。空間を大きく取り、主要人物を画面手前に配し、奥や背景を強調するそれは、夫とその浮気相手が都会の暮らしを夢想するシーン、路面バスの中の撮影、そして路面バスを降りた直後の撮影で見られる。

路面バスにおいて、特にジャネット・ゲイナーは夫に殺されかけたショックでうまく動けない。路面バスでもじっとうつむいて固まっている。夫の方もどうしていいかわからず、立ちすくむばかりだ。一方で路面バスは快調な速度で街へ向かい、カメラはバスの窓から見える街の景色(が高速で過ぎていく様)を捉える。手前でじっと立ちすくむ二人と、奥の景色の対比がここでは行われている。(照明の当たり方なども影響して)ここではどちらかといえば奥の高速で移動する景色が画面の主役になっている。

路面バスが停車すると、ジャネット・ゲイナーが降りていく。彼女は夫から逃げるのだが、街は車の往来が激しく、うまく道路を渡れない。このときゲイナーは固まっているというよりは、ふらふらしている。ふらー、ふらー、といった感じで、それをカメラがまた滑らかな移動撮影で捉えるのだが、ここでもやはりジャネット・ゲイナー以上に、激しい車の往来が画面の主役となっている。

要するに、この二人は都会の街並みに"巻き込まれ"ているのである。夫と妻の心理ドラマであったはずの映画は、いつしか都会の街の激しさに圧倒され、ただただ"リアクション"することしかできない二人を描くようになる。
そしてこの手前に夫婦、奥に街の光景、という画面構図は二人が入った喫茶店、そして教会のシーンでも踏襲されることになる。
教会の構図。結婚式の模様が左奥で演じられ、右手前に夫婦二人がやってくる。この構図は本当に感動的だ。まるでメアリー・ピックフォードが『雀』の中で見る天使の幻覚のようだ。

そして前半のクライマックスは道路の真ん中で二人が口づけを交わすシーンだろう。
このシーンが感動的なのは、二人がついに画面の主役になるからだ。
街の車の往来にふらふらと"リアクション"するしかなかった二人が、道路(そして画面)の真ん中で口づけを交わし、街を一瞬"掌握"し、街の人々を"リアクション"側に回す。もっと言えば、街を"見て"はおろおろするしかなかった二人が、初めて"見られる"存在となる。その瞬間をこんな風に捉えて見せること。大傑作たるゆえんはここだろう。
その後も農民のダンスによって再び二人は画面の主役になるだろう。


さて、最後に手のアップショットについて書こう。これは主に最初の夫が妻を殺そうとするシーンで、どうせなら夫の手のアップを撮ったらどうか、と思った次第。フリッツ・ラングみたいに。フリッツ・ラングの映画では、よく手のアップがある。『ビッグヒート』の最初のショットとか、『飾窓の女』の殺害シーンとか。この手のアップというのは、どこか運動を心理から解放せしめる効果があるように思えて気に入っている。手自体の"意志"というか。
一応『サンライズ』でも、藁を用意する夫の手のアップがある。

ま、どうでもいい。とにかくこれはやっぱり当たり前のようにめちゃくちゃ傑作。
ジャネット・ゲイナーが見つからなくても泣けないが、見つかると泣ける。つまりゲイナーの姿、笑顔、存在そのものがこの映画では神秘的なまでに泣けてしまう。


2014年6月11日水曜日

『チェンジリング』と『プリズナーズ』

『プリズナーズ』は『チェンジリング』をいやでも想起させる。
わが子の失踪、親と警官の対立、真相の内容。
そう思って、『チェンジリング』を劇場公開以来見た。こんなに胸が痛む映画だったか、、、、いや、確かに非常にキツい、心が壊れそうになる映画であったという記憶はあった。しかしここまで来る映画だったか。。。見終わってしばらく、言葉が出ない、という感じ。
権力システムに呑みこまれながらも必死に戦う女性、という意味では『ブラックブック』のようでもある。
『ブラックブック』のヒロインは、確かにそのアグレッシブさにおいてひたすら待ち続けるアンジェリーナ・ジョリーとは対照的だが、しかし彼女もまた権力システムの犠牲者であり、「悲しみに終わりはないの!?」と泣き叫ぶ姿は、本作で何度も涙を流すアンジェリーナ・ジョリーと相通ずるものがある。

さて、『プリズナーズ』と『チェンジリング』であるが、まず子供の失踪の描き方について。
『チェンジリング』の「失踪の予感」は、以下のように描かれる。
まずアンジーが外出する。それを見送る息子とアンジーのカットバック。そしてそのままアンジーの視線ショット、ではないショットにおいて、しかしアンジーの位置から捉えられる息子のショット。その姿が、手前の柱によって隠れてしまうまで切り取られる。ここですでに「これが最後の二人の視線の交錯なのだ・・・」という予感がする。まったく周到な演出。
あるいはその後、アンジーが乗り遅れてしまう路面電車。これは急いで帰ろうとするアンジーを出世の話を持ちかける上司が映画的に”妨害”することで生じるイベントであるが、この路面電車に乗り遅れる、というささいな出来事が、見事に決定的な出来事として描かれている。
それは要するに、上司が出世話を持ち掛けて妨害する、という「バカバカしい」説話的ご都合主義が、逆にこの出来事を異化せしめている、ということでもある。もちろんアンジーが路面電車を乗り過ごすその描写自体もまったく見事なカット捌きであるが。

以上のように、『チェンジリング』において息子の失踪は、息子が「いなくなってしまう」、あるいは母親と息子が「はなればなれになってしまう」ものとして予感される。
一方で、『プリズナーズ』における失踪の予感は、「誘拐の予感」である。なぜなら『プリズナーズ』の冒頭で強調されるのは、父と息子の関係ではなく、謎のRV車からの子供たちを捉えた視線ショットや、家の玄関を捉えた不吉なショットだからである。ここに『チェンジリング』的などうしようもなく運命的な悲劇の予感はなく、ひたすらサスペンススリラーとしてのそれが描かれていると言ってよい。

ショットの比較としては、これぐらいしか思いつかなかった・・・すまん。。。
ところで、映画研究塾の『チェンジリング』評を見てみると、
http://movie.geocities.jp/dwgw1915/newpage155.html
ここでは物語がねつ造され、閉じられてしまうことに対して、それでも直視し、掘り起こすことがこの映画の主題である、といったことが書かれている。
つまり権力によって、勝手に物語=事件が、閉じられて=解決されてしまうことに抵抗して、真実を見ようと、掘り起こすこと。

この観点から見るなら、『プリズナーズ』における真実の提示は、いささか『チェンジリング』に比べて劣ると言える、かもしれない。
いや別に劣ってない。のだが、『チェンジリング』に合わせて『プリズナーズ』を作り替えるなら、メリッサ・レオの科白によって真相を提示するのは、ちょっと弱い、と言えなくもない。言わないんだけど。
それに、『プリズナーズ』のレビューでも書いたように、この映画における「それでも見る」という主題は『チェンジリング』と同じくらい映画的に心をうつものである。

しかし『チェンジリング』の、あのラスト。。。ちょっとヤバい。。。。こんなヤバかったっけ。。。アンジーは何度も涙を流すけれども、あのラストの涙の流れ方、頬の伝い方、、、カメラのあの、ひたすら固定されたポジションからアンジーを捉えるその厳格さ、過酷さ、、、決して真正面から捉えない。それはあの涙を捉えるためなのだとしても、このまったく動こうとしないカメラはいったい・・・

少年が、「もういい」と警官に止められても、まるで何かに取りつかれたかのように土を掘り続ける、というのも、もう何と言っていいのか・・・


2014年6月6日金曜日

プリズナーズ

監督:ドニ・ヴィルヌーヴ

(ややネタバレ)
ヒュー・ジャックマンとテレンス・ハワードの、それぞれの娘が姿を消す。雨の中を探し回ってきたらしいジャックマンの息子が家に入ってきて、「雨だし、たぶん外にはいないだろう」と告げると、まだ単なるイタズラだと思っているハワードが、「帰ったらお仕置きしないとな」と笑う。カメラはそのままカットを割らずに、リビングに向かう息子をフォローしながらパンすると、ちょうどヒュー・ジャックマンが戻ってきて、「家にいなかった」と告げる。この一言で緊張感が走り、二つの家族が一か所に集まってくる。するとジャックマンの息子が「さっき怪しいRV車がいた」と打ち明け、それだ!という感じで男たちが家を飛び出す。
上記の展開が、ノーカットで撮られる楽しさ。ここの撮影楽しかっただろうなー、というのとは別に、物語が動き出す重要な場面で、このように監督が「ワンショットで撮る」という一工夫を入れてくれている、といううれしさが大きい。だからこそ、物語が走ると同時に、映画も走る。

映画は知的障害の容疑者を拘束して拷問するヒュー・ジャックマンと、捜査を続けるジェイク・ギレンホールを描き分け、時に二人は対峙するわけだが、とりわけジェイク・ギレンホールのパートが素晴らしい。ギレンホールの佇まい、異様なマッチョぶり、オールバックの髪が崩れたときの妙なクールさ、あるいは激高したときの迫力ぶり。ジャックマンのパートが拷問の是非をめぐるめんどくさい道徳バナシに陥りそうになるなか(あまり陥っていないのが素晴らしい。よく耐えてるというか。上から目線だが笑)、ギレンホールの周辺では次々とご都合主義的にイベントが発生し、それに見事な迫力と俊敏さでギレンホールが対処する、その連続であって、つまり痛快アクション映画なのだ。
撮影もそれを見事にサポートする。特にとっさの判断で模倣犯を捕まえる一瞬のアクションとカットさばきが素晴らしい。
「あ、久しぶりにこういう刑事モノ見たな!」という気分にさせてくれる。

あるいは車のフロントドアを突き破る木の枝、壁につきささったハンマーの存在感。

映画の主題は、「耳をすませば」である。冒頭、子供たちがRV車に誰かが乗っていることを察知するのは車内から音楽が聞こえてくるからだ。閉じ込められたものの叫び、そしてラスト。
こうした目に見えない領域からのかすかな音に耳をすませる、というテーマ性が、この物語上のミステリーの核心部分と共鳴しているあたりに、作家としての野心を感じるが、しかしこの映画は「耳をすませる」以上に「目をこらす」映画だ。僕はラストのギレンホールの車の疾走のことを言っているのだが、ここでは直前の銃撃戦で頭部を負傷したために視界がかすんでしまったギレンホールが、それでも子供を救うために、懸命に目をこらして運転をするという感動的な描写がなされている。彼が寸でのところで発見する”Emergency”の文字の輝きは一体なんだ!

目をこらして、懸命に前を見つめること。

僕は今まで、「見ること」なんて言われても胡散臭い映画史的教義としか思っていなかった。”見ること”というコトバに反応してるだけじゃないか、と。
しかし違った。
見る姿、見ようとする姿、そこには純粋なエモーションがあった。ジェイク・ギレンホールがそれを教えてくれた。ありがとう、ギレンホール。

それとその直前の、ギレンホールが子供を抱え上げて倉庫から連れ出すショットがむちゃくちゃ良い。
この映画、本当に良いよ。保証するわ。



※時々監督はロジャー・ディーキンスなのではないか、というショットが随所にある。たとえば最初にジェイク・ギレンホールがRV車を発見する場面の光の感じだとか、あるいは子供たちの無事を祈って町の人々が蝋燭を持って集まってくる場面の光の配置だとか、あるいはモーターボートからのクソ無意味な撮影。

2014年6月4日水曜日

不安

監督:ロベルト・ロッセリーニ

なんとなく敬遠してたロッセリーニ。かなり前に『無防備都市』や『ドイツ零年』を見て、いや見ると同時にネオレアリズモなるものの「お勉強」をして、「凝視すること」とか調子に乗って舞い上がってたのが懐かしい。今思えば、あのとき僕はあの映画群を見ていなかったに違いない。もう一度見直さなくては、と思う。
それぐらいにこの『不安』は素晴らしい。無駄なカットが一つもないにも関わらず、そこには物語の枠に収まらぬ余剰があふれている。すげー。

ショット数は全部で150~160ぐらいなんじゃないかと思うが(75分だから、2ショット/分)、どうしてこんなにも少ないかといえば、二人の人物が室内や屋外で話すシーンがほとんどワンショットで撮られているからだ。
終盤のレストランでの大胆なクローズアップの応酬をのぞけば、切り返しはほとんどなく、カメラは動き回る人物たちを見事にフレームに収める。その配置、照明の設計。月の光に美しく照らされたイングリッド・バーグマンは即座に落ち着かないそぶりで歩き、やがて逆光のシルエットが浮かび上がる。

あるいは車や人物の往来をとらえたショット。バーグマンが家から会社に向けて車を走らせる。その走り出した車をとらえたフィックスショットは、明らかに過剰に持続する。物語のつなぎとして要請されただけに過ぎない車を走らせるショットなのに、車がスーッと向こうの方に消えていくまで、カットが割られない。「ああ、なんか車が走るのっていいね。このまま撮ってたいね。」と言っているようだ。知らんけど。しかしこちらとしても、「このまま見てたいっす」である。

理屈はわかんけれども、対象を撮る、それを見る、という喜びが、この映画には満ちている。満ちていない映画と満ちている映画の違いなどまったくわからないけれども。

ところで音楽会のシーンは素晴らしい。脅迫する女が音楽会にやってきて、夫のいない間にバーグマンのところにやってきて指輪を取っていってしまう、というまぁそれほど大した場面ではないのだが、この場面で時折インサートされる音楽会のピアニストの姿や観客の拍手する様子をとらえたショットがことごとく効果的なのだ。というか、こんな地味なシーンにもかかわらず、これぞ映画だ!と思わずにはいられないシーンである、これは。知らんけど。

というのも、このインサートされるショット群はすべてロングショットというか、単に遠景から「様子を捉えた」ショットである。ピアニストの顔はまったくわからない。ただ人が舞台で、演奏して、演奏を終えて、あいさつして、というプロセスを撮っているに過ぎない。ピアニストと観客は、単なる背景、装置であるわけだ。
しかしこの装置、プロセスをとらえたショットが、バーグマンと恐喝女のやり取りに「重ね合わされる」。すると途端にこのピアニストと観客達の一連のインサートショットは、バーグマンを取り残してどんどん進行しまう時間と空間を表象し始めるのだ。ヒッチコック的な手触りだとも言えるが、このように「主人公が世界(ここでは音楽会)から無視されること、置いてかれること、主人公の心理や主人公が紡ぐ物語とは別の力学で、世界が勝手に動いてしまうこと」、これだ。『三つ数えろ』、『コンテイジョン』、『眠れる美女』などなど。たわごとか。


さて、僕が最も感動したのは、子供たちの家をバーグマン夫婦が訪れるシーンだ。
ベンツのボンネットに据えられた固定カメラが、車が走る道筋をとらえていると、その先に家があって、子供たちがいて、というこの幸福なワンショット。そしてその後のバーグマンと娘を手前に、夫と息子を奥に配置した縦の構図。この縦の構図に至るまでの人物の流れるような動き。なんという手さばきだろう。
さらにラストでは、上記した固定カメラがとらえる幸福なワンショットが反復される。素晴らしい。
車がたどる道筋をとらえること。これがこの映画の、幸せの形式なのだ。身近な幸せに戻ること。


2014年4月29日火曜日

Surface!

Surfaceでメールしながら映画見るとは何事だ!的な記事を以前書いたが、しかし僕はメールしながらyoutubeで音楽を聴くし、Twitterしながら本とか読んじゃう。だからといって、そもそも音楽と映画と本をいっしょくたに議論する必要はないと思うんだけど。
要するに、自分の感性は自分で守ろう、ということでしかない。
もちろん自分の感性という絶えず外部環境にさらされることで、避けがたく変化していくものだとは思う。でもこれまた同じで、「だからといって感性が変わること全部を肯定する」わけではないのだ。
自分がおかしいと思う変化はできるだけ変化しないようにする。それは例えば映画を見るときはメールしないとかってことだ。たとえばね。

2014年4月26日土曜日

5時から7時までのクレオ

監督:アニエス・ヴァルダ

DVDのパッケージが白黒なので、白黒映画なんだと思って再生したらいきなりカラーなのでびっくりするが、見ていると、実は最初のカード占いのテーブルの上(のカードとそれを並べる手)を映したショット群だけがカラーであり、コリーヌ・マルシャンの唐突なクローズアップが白黒で入ってくる瞬間はなかなかインパクトがある。
カード占いの示す「運命」の数々がカラーで映し出され、現実世界の人々が白黒でスケッチされる、というのは何かしらの意味がありそうなものだが、しかしそれ以上にこのパッとクローズアップとともに白黒の美しい画面が展開されることの視覚的刺激が素晴らしい。

この映画が紹介されると必ず、血液検査の結果を待つまでの二時間を斬新な心理的描写で綴る、といった言い方をされるような気がする。僕自身もそうなのかな、と思っていた。のだが、そんなことなかった。
カメラは決してコリーヌ・マルシャンを画面の中心に固定しない。むしろ積極的に彼女の周辺を切り取る。特にマルシャンが一人になるとき(カフェで中年紳士がマルシャンの使用人と話しているため一人になっているとき、帽子を夢中になって選んでいるとき、家をとびだして街を歩くとき、一緒に車に乗った友人が建物の中の様子を見に行ったために一人になるとき)に、カメラは一人になったマルシャンではなく、その周辺を映し出す。特に街中を歩く人々、たたずむ人々、あるいは大道芸人などを断片的に切り取った数々のショットは、アントニオーニを思わせ、またアントニオーニ以上に求心的な「顔」に溢れている。
もちろん、こういった描写は60年代の作家映画の「いかにもな」表現形式ではあるが、しかし今見てもとっても瑞々しい。

クレオ=コリーヌ・マルシャンが最後に出会う男。彼はアルジェリア戦争から一時帰国した兵士である。はじめおしゃべりな彼にいらだちを隠さぬクレオが、途端に打ち解け、横移動の滑らかなカメラワークのもと楽しい旅行映画のようなひと時を過ごし、バスでは唐突な沈黙を興じてみせ、最後には医師が何のタメもなく血液検査と治療の話をしてあっという間に過ぎ去っていくと、二人はしばらく歩き、見つめあう。この一連の二人の関係性の変転には、何ら「心理的な」説明は見られず、ただ時と出来事の連鎖のなかで、自然に=不自然に、二人の距離は近づいていくのだ。
何より二人が公園のベンチに腰かけたときのショットの光の感じが、最高に美しい。

ピアニストが家にやってくるシークエンスでは、途中ピアニストが譜面を投げることで、譜面が舞う。

2014年4月21日月曜日

ファザー、サン

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

父子の物語である。ソクーロフ風の。最初から父子同士が親密に肌を重ね合わせているし、父親が息子の訓練を見に来るシーンのあの”爽やかな”(爽やか過ぎて怖い!)笑顔からして、もうこれは理解不能な何かであって、しかしこれがめちゃくちゃ面白くて、あっという間に終わってしまうのだから恐れ入る。
父と子の関係性を描きつつ、物語の謎を謎のまま残すあたりとか、少し『エル・スール』なんかを思わせもするが、まぁ的外れな連想だろう(笑)

しかししかし、この映画で最も衝撃的な印象を残すのは、主人公の青年が好意を寄せる少女を演じたマリーナ・ザスーヒナだ。
彼と彼女が窓を隔てて会話をするあのシーンなど、ソクーロフにしか許されないんじゃないか、という気がする。なんだあれ(笑)ハッキリ言って、あの切り返しなら1時間以上ずっとあれでも夢中になってしまうだろう。思えばソクーロフといえば、『孤独な声』のあの男女の切り返しがこれ以上ない甘美さを画面に定着させていた。

それとあとは、窓と窓をたなぐ板の上で繰り広げられる唐突でスリリングなエピソードも素晴らしい。なんかEDM風のBGMのもと、とんでもない速度で人々が入れ替わり立ち替わり登場し、あっという間に男4人の取っ組み合いが始まるのだ。ここまで来ると、もう誰もかなわない。知らんけど。

ということで、これまたソクーロフのすごい映画。

2014年4月20日日曜日

モレク神

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

恐るべき傑作。
徹底して可笑しく、終始ニヤニヤが止まらないが(特にマルティン・ボルマンの滑稽な描かれ方!)、しかし突然やってくる緊張感と、その帰結には感動する。
夕食のシーンや司祭の陳情のシーンなどは、見る側に対して相当な集中力を要求してくる。だがそれこそが芸術だろう。びっくりした。
エヴァ・ブラウンという人物は、ソクーロフの映画によく出てくるタイプといっていいかもしれない。酔っぱらってるみたいな、多幸感を全方位に振りまいた感じの。しかしこのエヴァ・ブラウンというキャラクターが見せるさまざまな表情や動きは、相当に複雑だ。
あるいは周囲で砲弾の音が鳴り響くなか、世界から隔絶された舞台で展開されるという設定も、『痛ましき無関心』に通じるし、あるいは『エルミタージュ幻想』にしろ『牡牛座』にしろ『太陽』にしろ、ソクーロフはこうした舞台を好むようだ。
ということで僕にとってはオールタイムベストといってもいい。そんなことはどうでもいいが。

・・・・・・・・・・・以下詳細なネタばれ・・・・・・・・・・・・・・・


・オープニング

とりあえず冒頭の数ショットについて書いてみたい。
タイトル明け、(ヒトラーの愛人である)エヴァ・ブラウンが邸宅のバルコニー(?)へと通じる戸を開けると、日の出直後ぐらいの朝日の光が差し込んで、エヴァ・ブラウンの身体を照らす。彼女は裸だ。全裸だ。
バルコニーに歩を進め、外の様子をうかがってるのかよくわからないが、とにかく最初から極めて幻想的な画面が始まったな、と思わずうっとりしていると、画面外から「戦争の音」が聞こえてくる。いや実際にそうなのかは知らぬが、とにかく砲弾の音みたいのが聞こえてくる(だからすぐさま想起されるのは『痛ましき無関心』だ。)。
次にエヴァ・ブラウンはバルコニーの奥に置いてある椅子を見つけ、側転しながら椅子のほうへと走っていき、それに座る。しばらく足を動かして、クネクネしたあとに、バルコニーの段差を上がり、下を見下ろす。すると彼女の主観ショットなのかはわからぬが、ロード・オブ・ザ・リングかよ、みたいな景色がそこに広がっている。で、つま先立ちするエヴァ・ブラウンをまた同じ構図で捉える。そのショット中、エヴァは視線に気づく。すると、カットが割られ、エヴァ・ブラウンをスナイパー・ライフルから窃視するその主観ショットによってエヴァを捉える。
月並みな表現をするならば、まるでこの世のものとは思えない美しい空間において、これまた人間とは思えぬ自由で無邪気な裸体の女を描いていた映画に、突然ライフルの照準のマークが介入してくる。ドキっとする。
そのスナイパーに向けてお尻を突き出して応えるエヴァの所作。

映画全体に対する僕なりの感想と考えとは別にして、このオープニングはそれ自体として本当に途方もなく素晴らしい。こんなオープニングは見たことがない。


・映画のテーマ?ファシズム?
この映画に関しては、やはり戦争や「新しい人間像」について話す”男たち”と、それにまったく興味を示さず踊り、笑う”女たち”という対照がまずは注意を引くだろう。特にオープニングからもわかる、エヴァの自由な身体表現。
あるいは、アドルフ・ヒトラーの描写。部下の前での実に”元気な”ヒトラーと、エヴァと二人でいるときの”弱々しい”ヒトラー。その対照ぶり。そしてエヴァ・ブラウンのヒトラーへと向けられたいくつかの”苦言”に、ファシズムの分析を見出す批評もあるようだ。
(たとえば http://www7.plala.or.jp/cine_journal/review/molech.html)



僕なりに注意を引かれたいくつかの特徴について書いてみたい。


・動と、静

まずは、静と動の対比。”動”とはまさにエヴァ・ブラウンの自由奔放な身体の運動をさすが、それだけではなく、たとえばヒトラーと部下達の距離の変化などもさしている。ヒトラーがバイエルンの若者の遊び方(カニがどうのこうのという話)についてマルティン・ボルマンに語っているとき、その話に加わろうと近づく者もいれば(ヨゼフ・ゲッベルス)、そこから離れていく者もいる(マグダ・ゲッベルス)。あるいはマルティン・ボルマンの体臭が云々という抱腹絶倒の(!)序盤のエピソードにおいても、人物たちの動きが面白い。ここはほとんどコメディだ。
そしてこのダイナミックな人物たちの動きと対比をなす”静”の部分は、もちろんこれらの人物たちが、時にウソみたいに静まりかえってしまうようなシーンを指しても良いだろう。特に夕食のシーンの陰鬱な描写はちょっと言葉にできないものがある。
だがそれ以上に、これぞ”静”と呼ぶにふさわしいモチーフがある。それは肖像画であり、石像であり、制服だ。
アドルフ・ヒトラー本人の肖像画、あるいはヒトラーの母の肖像画。カメラがこれらの対象を、わざわざカットを割ってクローズアップで捉えていることに注意しなければならない。
あるいは邸宅に司祭が陳情しにやってきたシーンでは、(何の石像なのかわかんないのだけど)石像をフレームに執拗に収めているように見える。ヒトラーの部屋にかけられた制服の存在感にも目を見張る。
さて、この”静”のモチーフをもう少し延長してみると、たとえばエヴァ・ブラウンが吊り輪にぶら下がってポーズを取るショットがある。踊ったり、尻を突き出したり、側転したり、といった動的な描写を施されてきたエヴァ・ブラウンにあって、この執拗な静止性はどうか。
いや、彼女は静止しようとしているが、できていない。彼女はポーズを決めながら、プルプル震えている。当たり前だ。オリンピック選手だって、あんなポーズをプルプルせずにはとれない。彼女は静止しようとして、それに失敗している。

肖像画になろうとして、失敗している。
のだろうか。。。


・変転するヒトラーとエヴァの関係性、その帰結

ヒトラーとエヴァ・ブラウンの関係性はどのように描かれているだろうか。
①最初は部下が整列するなか、ヒトラーがエヴァの美しさを称賛してみせる。

②次に屋外において、階段の上に立つエヴァと彼女の方へと向かって階段を上ってくるヒトラーを縦構図で捉える。ヒトラーは近づいた挙句、何も言わずまた階段を降りて行ってしまう。そしてエヴァもまた彼を追うように階段を降りていく。カメラはパンして、絶景と言ってよい景色の俯瞰ショットに連なる。次のショットでは、絶壁に立ちつくすヒトラーがいる。ヒトラーはそのまま邸宅の方へと戻っていく。エヴァが彼に触れようとするが、触れることができない。ヒトラーはまるで彼女が存在しないかのごとく、遠くへ歩いていく。

まず②の一連のショットで注意を引くのは、二人の高低差だろう。最初の階段でのシーンはエヴァが上に立ち、次の丘のシーンではヒトラーが上になる。
あるいは非常にシンプルにこの一連の①と②の描写を見るならば、部下達の前であんなに大げさにエヴァを称賛してみせたヒトラーが、ここではエヴァに対して非常にそっけないように見えるだろう。二人の関係はすでに冷めきっているのだろうか、、、と思わせる。

しかし、
③ヒトラーの部屋にエヴァがやってくる。厳密にいえば彼女は(電話越しの謎のメッセージによって)ヒトラーに呼ばれて来たのだ。
そこでのヒトラーは弱々しい。「僕は病気だもん!もう死んじゃうんだもん!」みたいな感じで駄々をこねまくっている。それに対してエヴァは「あなたは聴衆がいないとただの赤ん坊ね」みたいな感じでヒトラーを侮蔑してみせる(「」内はいずれもデタラメな引用)。ここでは明らかに、エヴァの方が力関係において優位に立っている。


僕が決定的だと思ったシーンは、
④エヴァが「アウシュヴィッツ」という言葉を口にした時である。それまで見ていた映画を「駄作だ」と一蹴したヒトラーに対して、エヴァが「連中をアウシュヴィッツに送れば?」と言うと、ヒトラーは明らかにそれに腹を立てるようにして「アウシュ?ヴィッツ?なにそれおいしいの?」ととぼけてみせる。
一触即発の雰囲気を察したマルティンがヒトラーをなだめると、カメラは持続したまま画面奥のテーブルへ向かうヒトラーと画面手前で背筋をピンっと張って立ち尽くすエヴァ・ブラウン(その表情は、まるで「私はすべてお見通しよ」と言ってるかのようにも見える)を縦の構図でとらえて見せる。
この縦の構図!!!これほど緊張感のある縦の構図は久方ぶりに見た。ものすごい。
直後の夕食においても、エヴァ・ブラウンは不機嫌であり、ヒトラーの人種差別的、女性蔑視的トークを聞くと、そのまま一人夕食を後にしてしまう。

ここまで来て、見るものはヒトラーとエヴァの断絶ぶりを印象付けられるだろう。

が、その直後のシーンがもっととんでもない!これはびっくりした!
ヒトラーの大演説、二人の子供のような追いかけあい、そして愛に至る。。。
この愛に至る描写。暗闇の中椅子に腰かけたエヴァのもとへとゆっくり歩み寄るヒトラー。カメラが捉えるのは、そのたるみきった腹である。この腹が、エヴァ・ブラウンの前に「君臨」する。
エヴァ・ブラウンは、ヒトラーに、屈した。
と、いうように見えた。わからないが。この一連のシーンとその帰結の衝撃は、ちょっとすごい。












2014年4月2日水曜日

WindowsのSurfaceで映画を見ながらメールができるという。しかし、「観客」のマナーって凄く大事なんじゃないか。その3

タイトルがおかしい。おかしくないのだが、もうちょっとおかしくないと思える内容にする予定であった。補足しておくと、、、
『「観客」のマナー』という言葉は当然ながら、映画館や公民館や歌劇場における観客のマナーを意識している。つまりそこでは、ケータイしない、電話しない(=ケータイしない)、私語は慎む、べちゃくちゃ喋らない、前の席を蹴らない、前の人にくしゃみとばさない、といったルールがある。
それは普通に、ごくごく普通に考えて、他人の邪魔をしない、ということである。
だがこれは同時に、自分の鑑賞を自分でブチ壊しちゃダメだぜ、という映画館なりの、公民館なりの、歌劇場なりの、アドバイスなのである。

だって、たとえ観客が一人でも、≪上映前の注意≫は必ず流れるでしょ??(ドヤッ

というぐらいのつもりでこのタイトルにした。

んで、その2までに書いたことは、文化資本に限らないんである。
勉強だってそうだ。日本で英語勉強するより、アメリカに行っちまった方がよっぽど早く上達するのはなんでか、と言えば、要するに「英語の時空間」に身を置くからだ。はじめは聞き取った英語を日本語に直して、日本語を英語に直して答える、なんてことをしてたのが、次第に英語で聞き取って英語で返せるようになるとすれば、それは英語の時空間を手に入れたということだ。

あるいは3日間かけて生理学テキストを読破しても、1週間後には全然覚えてない、俺の三日間返せ、ということがなぜ起こるのかと言えば、それは脳科学者に聞いてくれ。
それは要するに、日常的に、「生理学的に考える」=「生理学の論理に身を置く」ことをしない限り、生理学は身に付かないからである。

愛も一緒である。知らないけど。

そういえば、なぜ最初に『汚名』の話をしたかと言うと、お前ら姑が階段降りてくる間にメールなんかしてんじゃねーぜ、と。
追記
http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/04/surface.html

WindowsのSurfaceで映画を見ながらメールができるという。しかし、「観客」のマナーって凄く大事なんじゃないか。その2

しかしだ!そうはいっても、これは他者に触れるってことなんだよ!逆にいえば、他者に触れずに生きていくことなんか、簡単なのだ!イッツ・イージー・トゥ~~~~リブアローーーン!!!なのである。そう。。。

要するにこれは、豊かかどうか、ということに過ぎない。幸福度調査とか、豊かさの指標とか、世間ではいろいろ言われてますが、映画を見るときにメールするような奴には何も言う資格がない。何も言う資格がない。何も言う資格がない。

豊かな経験とは、自分の日常的な時間や空間や論理性や合理性とは別の、異なった時間の流れに身をゆだね、異なった空間を体験し、異なった論理性につきあう、ということに違いない。それに何の価値があるのかわからない。いや、価値あるよ。多くの人がその価値を実感してここまで来てるんだよ。
あるいは少なくとも、この場所を、異なった時空間に身をゆだね、異なった論理性につきあってみる、というこの場所を、無自覚に乱す権利は無い。乱す権利はある。無自覚に乱す権利はない。じゃあ自覚ってなんだ。自分で考えろよ。

無自覚に乱す、とは、要するにどういうことかといえば、友達とメールを打ちながら見た映画について偉そうに面白いとかつまんないとか言うことである。誰もが面白いとかつまんないとか言う権利を有している。
誰もがその権利を有している。有していない人がもし発生するような状況では、おそらく僕もその権利を有していないだろう。
しかしSurfaceでメールを打ちながら見た映画について友達同士で「あれ、つまんないよ」とか言う権利はない。いや、もちろんある。そういう権利はあるよ。だから行使すりゃいいじゃんか。

考えてみてほしい。
日本人のほとんどが、メールを打ちながら映画を見る。そんなんで、豊かな文化というものが醸成されるかね。映画産業、絵画展、グローバルな歌劇団、というハコモノがあっても、実のところみんながメールしながらそれを鑑賞している。それで人気だ不人気だという話になっている。そんな文化的状況のなかで生き残る映画や絵画やオペラとは、いったいどんなものになるだろうか。
独自の時空間や論理を持っているだろうか。持ってないでしょ。そりゃあ。ねえ。

異質の時空間や論理と、限られた時間だけ向き合うこと。経験すること。それはもちろん、その間だけ、自分の時空間や論理を封印することでもある。しかしそうした経験を通して、新たな時空間や論理を獲得するのである。それが文化資本ってやつである!

「え?ぬーヴぇるばーぐ??知ってるぜ~。ゴダールでしょー、トリュフォーでしょー、シャブロルでしょー、ヴァルダでしょー、レネでしょー、俺全部見たぜ~。Surfaceでメールしながら。」とかアホヅラさげて言ってみてもそれは文化資本でもなんでもない。

文化資本というのは、一見その文字が示唆しているような固定化された知識のようなものではなく、多様な、しかしその一回一回はディープな、文化的経験を通して得られた、日常に潜む非日常に対する柔軟な「開かれ」であり、日常を非日常に変えてしまう大胆にして甘美な生活の智慧である。

その3に続く



WindowsのSurfaceで映画を見ながらメールができるという。しかし、「観客」のマナーって凄く大事なんじゃないか。その1

こんなものに今更反応してあーだこーだ言うのも、何だかシネフィルの化石みたいでアレなのだが、しかし我々はいま一度時間、空間、経験について考える必要があるのではないか。

ヒッチコックの『汚名』で一番凄いシーンは何かって、イングリッド・バーグマンの主観ショットで姑が階段を降りてくるのを捉えたフィックスショットだと思う。
『汚名』の前半を彩るのって、あわただしい人の出入りとかあわただしい会話とか、激しい感情の変転とか、流麗な動きを見せるカメラワークとかだし、それでもって登場人物のバックグラウンドもよくわからないままハナシが進行していくんだよね。
それが、バーグマンが旦那の家に入った瞬間、突然カメラがピタッと止まって(もちろんずっと動いていたわけではない)、しかもバーグマンの主観ショットで、姑がゆっくりと、しかし恐るべきスピードで(!)階段を降りてこっちにやってくる。
ヒッチコックはこのたった3秒にも満たないぐらいのフィックスショット一つで、時間とか空間とか他者とか経験といったテーマを一瞬のうちに考察してみせちゃってる。

以上をもって、『汚名』には映画の原初的経験と呼ぶべきものが刻印されている、などと言うつもりはない。映画の形、可能性、訴えかける対象、それを見て感じること、そういったものは人それぞれで良いし、多様な意見が飛び交うべき議題だ。ダイバーシティ・イズ・オッケー!である。

だがしかし、そうした多様な議論の前提として、メールをやりながら映画を見るということは、ちょっとやめてほしい。
やめてほしい、などと言ったからといって、私にあなたが映画を見ながらメールをするのをやめさせる権利はない。映画館ならまだしも、WindowsのSurfaceで、である。個人的にSurfaceで映画を見るのに、他人があーだこーだ言っても仕方がない、というのは承知である。百も承知である!

だがしかし、もう一度、映画を見るという「経験」について、映画を見る「時間」について考えてみてほしい。映画でも絵画でもオペラでもいいが、作品を鑑賞するというのは、その作品が持つ(持っているべき)独自の時間感覚、空間造形に触れるということである。ざっくり言えば、「他者に触れる」ということであるが、これまたいまさら他者論など展開してみても仕方ない。クリシェクリシェ、ごこうのすりきれ、である。

その2に続く












2014年4月1日火曜日

ハンガー

監督:スティーヴ・マックィーン

具体的にどのような行為をしてそうなったのかついに説明されない「ある自殺行為」によって、全身に潰瘍ができまくってめちゃめちゃ痛そうで、かつ全身の筋肉がドンドン落ち、死に向かっていくマイケル・ファスベンダー。最後の20分ぐらいは、ほとんどのシーンがこの衰弱していく男をほぼ台詞なしでじっくりと撮っていく。あるいはその随所に挟まれる幻覚。どうやら彼のそばに立っている少年はファスベンダーの若き頃であるらしく、ファスベンダーが神父に語っていた故郷の話に同調するように、故郷を誇る歌の合唱が鳴り響くバスに座って窓の向こうを見る少年の姿を撮ると、ついでファスベンダーが神父に語っていたように野山を走る少年の姿を映す。そしてときおりカラスの群れのダークなイメージと、何やら不穏な雰囲気を醸し出す少年の表情が映される。

例えばこの少年のランニングするシーンの撮影なんかはヨーロッパの秀逸なサスペンス映画のオープニングのような空気感を醸し出している。だから何だ、というわけではないのだが、しかしひたすら衰弱したファスベンダーを捉えるショットの連鎖の中での、このダイナミックな移動撮影は、なるほど視覚的にも刺激的であり、また現在の衰弱を強調するものでもあるかもしれない。

しかし不穏な空気感、と言えば、これは今言及した"不穏さ"とは異質な不穏さではあるが、やはりオープニングから続く、刑務官を捉えたショット群の不穏さは突出しているだろう。
『SHAME』になく、この映画にあるもの、それは主観ショットである。刑務官が玄関を出て左右を見る、その主観ショット。レンガの家が立ち並ぶ美しい住宅街を映したその主観ショット(とその律儀な積み重ね)は、昨今の映画ではなかなか見れないように思う。そういう理由もあって、この冒頭の主観ショットと適格なカメラの配置(車の下から撮る、さらに妻の主観ショットで刑務官を映す巧妙さ)には素直に感動した。
しかもこの冒頭のショット群(雪の中を動くネズミを撮ったショットまで含めて)があるからこそ、この映画には単なる「リアルな暴力描写に裏打ちされた衝撃作(笑)」以上の面白さがあるのではないかと思われる。
刑務官の負傷した手。ファスベンダーを殴る際に、ファスベンダーが身をかわしたせいで壁に思いっきり拳をぶつけてしまうショット。きわめて主観的な印象ではあるが、あのショットがこの映画では一番痛々しいぐらいだ。
あるいは刑務官の殺され方。ファスベンダーの死が20分かけてじっくりじっくりと描写されるのに対し、刑務官は一瞬のうちに殺されてしまう。

ところでファスベンダーが死ぬまでの描写には、血圧を測ったり、なんか変な器材をベッドにつけたり、軟膏を塗ったりといったものが含まれていて、やっぱり気になってしまうのが、これらのショットの必然性だろう。"じっくり描く"というのは、単に時間をかけるということではない。これらのショットに時間をかけて具体的な描写をするという以上の意味があるだろうか。つまり具体的ではあるが、しかしどの具体例でもオッケー、なのではないか、とか思ったりもする。しかしそれだけでこれらのシーンを否定できるとも思えない。よくわからない。そもそもショットの必然性なるものが映画を規定するわけがなく、だって僕らはしばしば何気ないショットに「ああ、いいねぇ」とか言ってニヤニヤするわけだから、これらの病院のシーンも一つのバリエーションを見せてもらった、というだけなのかもしれない。

それにしてもこの映画は面白い。インパクトとしては上記したオープニングからのショット群や最後の20分間が良くも悪くも強いのだが、中盤の描写は大したものだ。
例えば部屋をともにする囚人二人とファスベンダーを別々に描く構造の面白さ。同じ刑務所にいながら、"彼ら"とファスベンダーはほとんど接触することがなく、映画としてこの三人が交錯するのは、面会で各々が(股間に隠していたモノを机の下で渡したり、あるいは口の中に入れたものをディープキスで渡したり、、)ひそかに面会者とモノを交換する描写の交互のモンタージュや主観ショットである。そもそもこのシーンで初めてファスベンダーが登場するわけだが、それも一人の囚人の主観ショットで唐突に現れるだけで、彼が何者なのかはその場では明かされないのだ。
こうした面白さ、あえて言えば通俗的娯楽映画とは一線を画する(だからこちらが上ということにはならないし、そもそもそんなことはどうでもよい。)構造的面白さがある。
また台詞をなるべく排し、人物の性格描写を放棄することで、一回一回の出来事における各々のリアクションそれ自体が、新しい印象として映画の相貌を変えていく面白さがある。

『ハンガー』には、映画とはこういうものなのか、と思いたくなる部分があるのは事実だが、それとて、『アメリカン・ハッスル』のごとき映画の堕落しきった姿ではなく、こういうものでもあるかもしれない、と思わせてくれる力作だ。



2014年3月29日土曜日

ワイルド・アパッチ

監督:ロバート・オルドリッチ

二人の異人種が対峙するシチュエーション。これをいかにつくるか。
例えばブルース・デイヴィソンが巾着で歯を磨く光景をカ・ニ・テイ(谷啓じゃない)が不思議そうに見つめるショット。あるいは母親を殺された少年とウルザナの視線の交錯。その直前に母親の指輪を潔く渡す少年を見つめるウルザナの手下たち。息子のラッパを見て、座り込み、歌うウルザナを少しの間じっと見つめるカ・ニ・テイ。極め付けはラストのカ・ニ・テイの謎の仕草だろう。バート・ランカスターの右手を持ち上げ、おろす。ランカスターはこの行為の意味がわかってるのかわかってないのかよくわからないが。

夜のキャンプの美しい光。前半の砦におけるブルース・デイヴィソンにあてられた素晴らしい光。

ランカスターがアパッチ二人を後ろから追いかけるシークエンスが面白い。
ここではランカスターとアパッチの距離がどの程度なのかを示すショット、つまり縦の構図がなかなか出てこない。お互いの馬の疾走を並列して撮っていく。そして最後にランカスターが逃げていくアパッチに照準を合わせるところでようやく縦の構図が挿入される。
確かに「ふつう」だったら、縦の構図や俯瞰の挿入によってお互いの距離を見せる「べき」なのかもしれないが、むしろここでは追われるアパッチの慌てぶりと、しかし思うように馬が疾走せず鞭をたたきまくるランカスターの焦りだけを通して、この追走劇を描いているのだ。これは面白い。また一つ勉強になった。

上記のシーンのあとにランカスターの元へと隊列がやってくるロングショットが圧巻。

ブルース・デイヴィソンの空回りした正義感を描きつつも、それとは全然違うレベルで着々と出来事が動いていく恐さ。息のつけなさ。
それにしても、おっさんが一人小屋に立てこもって勇敢に戦うも、あえなく惨敗を喫するあのシーンのなんと冷酷な演出。
何より、犬の扱いが全くもって見事だ。三本の矢が刺さった犬の死体、それを見て覚悟を決める男。ここは『駅馬車』以来の強力な演出だろう。

2014年3月27日木曜日

追跡

監督:ラオール・ウォルシュ

起源が明かされることで映画が終わる。というのはまぁいいとして。
何よりも、物語の多くが語られるキャラム一家の家周囲の照明がとても素晴らしい。『荒野の決闘』と双璧。特に徴兵をめぐるドラマ(割れたガラス窓とミッチャムの縦構図でのフレームに続いて、テレサ・ライトが家から出てくる)、あるいはジェブとアダムの殴り合いのシーンでの繊細の光の扱い。詩情、というよりはよりむしろ、メランコリックでヤバいオーラが出まくっている。

ジュディス・アンダーソンが片腕の男に話をつけて帰ってきて、幼いジェブを部屋に呼ぶシーンが全くもって泣ける。馬車が画面手前に来て、そこから降りたアンダーソンが、そのまま奥に向かって歩いていき、ジェブを呼びつけ、一緒に家に入る、というワンショット。ここにはあらゆるファミリー映画のイメージが凝集しているんじゃないかと思う。親が子供とマジで話すとき、映画が大事にすべきは、話す内容ではない、むしろそこに至る過程だ。これを例えば、「ジェブ、話があるから来なさい」→「はい」と、順番にクローズアップのカットバックで撮ったら台無しだ。そうではなく、馬車で颯爽と家に帰ってきたそのリズムでもって、そのまま母親が子供を呼び寄せること、それをワンショットで撮ること。これだ。

しかし何より感動的なのは、戦争からミッチャムが帰ってきて、その夜にオルゴールに合わせて兄弟が歌うシーンだろう。その直後のシーンで対立が鮮明になるにもかかわらず、このシーンだけは嘘みたいに心が通じ合ってるという感じで歌っている。歌い終わると犬が夜鳴きして笑わせる、というのも愛らしく、それゆえに一家の運命が悲しい。

逆に言えば、このオルゴールの再現が、ずいぶん微妙な扱いで終盤に出てくるのがちょっと不満だ。というのも、要するに話の流れとして、テレサ・ライトが憎しみを胸にミッチャムと結婚して、撃とうとするがやっぱり愛おしくて仕方ない!というエピソードであるがゆえに、あるいはミッチャムがアンダーソンに銃を渡し→テレサ・ライトが発砲して外して→ミッチャムが寄って→抱擁!というこのシーンを撮りたいがための、このお話の迂回なんだとは思うが、しかし個人的には、オルゴール鳴らして→抱擁!!で良いじゃん、と。

ミッチャムの顔つきが、いかにも賭博場の従業員って感じだ(笑)

兄弟喧嘩で取っ組み合ってるところに、水をかける、というのをワンショットで。これは老人同志の喧嘩に水をかける『拳銃王』を思い出させる(笑)水をかける。いいね。これまた、やっぱり仰々しくカメラが寄らない方がいいんだよね、たぶん。遠景で、水バサー!ってのがいいんだ。





2014年3月26日水曜日

An Unseen Enemy

グリフィスノートその3


















今回はAn Unseen Enemy(1912)ということで、これはかなり話法としての完成に達している優れたサスペンス。特に銃口が隙間から出てくるショットには感嘆する。
まず仲間がいて、そのうちの一人が外出して、残された者が事件に巻き込まれる。そして電話によって男が事件を知り、急いで戻ってくる。という物語構造。
あるいは、悪役が本当に悪い。これは演出の力と言っていいかもしれないが、とにかく悪役が恐い。またしても犯罪自体は未遂に終わるにもかかわらず、なぜこれほどまでに爪痕を残すのか。。

リリアン・ギッシュが異変に気付くショット、これ何だろう。このショットだけ異様な雰囲気を持ってる気がするのだけど。これ、すごい。とにかく凄い。
ちなみに物音(今回は犯人のおばさんの声)でドアの向こうの異変に気付くというのが、コメディではルビッチなんかでよく見られると思うけど、今回はとくに音による演出(サイレントなのに(笑))が良い。銃声によって自体を把握する男。

部屋があまり散らからない。金庫は爆破するのだけど。
一方で、冒頭の風に揺れて本のページがめくれるところが素晴らしいね。ああいうのが良い。
今回は特に風が印象的なんだ。あのトウモロコシ畑の風とか。

2014年3月24日月曜日

コズモポリス=拳銃王?

ヘンリー・キングの『拳銃王』は、拳銃王グレゴリー・ペックが長いことはなればなれになっていた妻に会いに街にやってきたことで、拳銃王に対する街の多様なリアクションを生み、それが物語を転がしていく西部劇であった。

一方『コズモポリス』は、億万長者が髪を切るために街に出てきて、それに対して、彼を知る人々がリムジンの中に来ては去っていく映画である。ちなみにサラ・ガドンはロバート・パティンソン演じる億万長者の妻であり、パティンソンは何度かサラ・ガドンに近づくが、最終的には振られてしまう。

この孤高の男とその妻の図式もそうだが、何より孤高の主人公を狙う男の存在が両作品に共通しているのが面白い。どちらの男も主人公に対して恨みを持っており復讐を果たそうとする。しかも面白いことに、両作品ともに復讐は失敗し、あろうことか主人公と狙撃手が対面するという展開まで同じである。これはまことに面白いのではないか。

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』もまた、ある種の西部劇的物語を現代風にアレンジした趣きがあったが、『コズモポリス』にもまた、西部劇的な物語を読み取ることができるだろう。
もちろん周知のように、『コズモポリス』はドン・デリーロの小説が原作であり、ほとんど脚色をほどこしていないということだから、これはどちらかというと文学的主題なのかもしれないが。

荒野の決闘

監督:ジョン・フォード

この撮影はすごい。全編見事なコントラスト。
あるいは縦の構図の冴え。バーで初めてヘンリー・フォンダとヴィクター・マチュアが会いまみえる場面では、まずカウンター前に立ったマチュアと手前でポーカーに興じる男たち(including ヘンリー・フォンダ)の縦の構図を作り出し、さらにフォンダ以外の人々が立ち去った後にフォンダが腰を上げてマチュアの方に歩み寄っていくシーンで再び同構図の撮影が来ることで、(人々が立ち去ったことによって)その空間が二人のためにより際立ち、デスティニー感が高まる。

フォンダはクレメンタインの前で、一度だけ帽子をとるが、意外にも帽子を取らないことが多い。しかし帽子をとるシーンの方が印象的である。例えば教会でのダンスシーン。彼はいささか恥ずかしそうにダンスを申し込むと、帽子を投げ捨て、それにクレメンタインが上着を脱ぐことで応える。
(帽子をとるとらない、というのはどうやらそれほど単純ではないようである。)

ラストの決闘であったり、あるいは中盤の馬の追走劇であったり、フォードはBGM抜きでアクションを「描きつくす」。そしてこれに身を興じるのは、見る者にとっても相当ハードな体験だし、今回はそれに見合った集中力を維持できなかったので、ここまで。

しかしクレメンタインは、またしても男に去られてしまうのか。

ヴィクター・マチュアの咳。これが最後の決闘でもあだとなってしまうわけだが、それ以上に彼が咳をするたびに口にやる白いハンカチ。これはクレメンタインと屋外で口論になるシーンでも、夜の黒と見事なコントラストを演じていたし、ラストでも当然、彼の遺体以上にハンカチが存在を誇示する。

または病人という設定。もちろんマチュアも病人だが、フォード的病人としては、チワワがふさわしい。倒れた者が担架で運ばれるイメージ。それは『駅馬車』の妊婦や『リオグランデ』のジョン・ウェインに通じるところがある。それにしても彼女はあっけなく死んでしまう。


Lonely VIlla

グリフィスノートその2。
今回はLonely Villa

またもや部屋が散らかる。今回は強盗を食い止めるべく椅子や金庫でドアをふさぐという筋立てによって、部屋が散らかることになる。
あるいは、家族が二手(外出した父と残された家族)に分かれることで、並行モンタージュを可能とすること。あるいはサスペンスを醸成すること。そしてそれに応えるような馬車の疾走ぶり。

同じ構図で捉えられた階段を、ある者が降り、次に別の者が上がること。端的なイメージとして、これは面白いのだ。これは説明のしようがない。とにもかくにも、同じ構図で捉えられた階段をある者が降りてある者が上がる、というイメージの連鎖には、どことない面白さがある。

ちなみに最後は強盗がようやく扉を開けて抵抗する家族たちに暴行を加え始めた瞬間に馬車が到着してあえなく捕まってしまうという展開で終わるが、この家族たち(全員女性)に対するこの一瞬の暴行はすさまじく暴力的である。フィックスショットで捉えられているからなのか、それとも扉を開けさせまいという努力が単純な力の差によって無力に終わったという展開のためなのか、加害者側が3人もいるという数的暴力性ゆえなのか。
それにしても、この一瞬の暴力性。未遂にして遂行済みの(!)暴力の効果、これはその直後の父親たちによる反撃のカタルシスを増強している。息を飲むか飲まないか、というぐらいの合間で助けが来るという。未遂でもなく遂行でもない一瞬の暴力。いや、何度同じことを書いているのだ。

2014年3月22日土曜日

眠れる美女

監督:マルコ・ベロッキオ

中盤の会話中心の”重厚な”展開をどう見るか、ということはひとまず置いておいて。

まず何よりもこの映画は窓の映画だ。
序盤の忘れがたいシークエンス。主役の一人である上院議員が、深い霧の中自転車が画面右奥からやってきて画面左の家の門へと入っていき、霧の中へと消えていくアホみたいに美しいワンショット。さらにその直後に、娘が出かける準備をしているのに気付き、父娘が真正面で向き合うシーン。問題の投票の話題になると、娘が一歩踏み出して、「どちらに投票するの?」とややけんか腰に尋ねる。一歩踏み出すことで、それまでシャドウになっていてよく見えなかった娘の顔が、ドンピシャでグレイスフルに照らされる。このクラシカルでありかつ、映画のクイントエッセンスといえる光の扱いのすぐあとには、今度は娘が玄関を出て車で迎えに来た友人たちと落ち合う様子を、玄関の窓越しに父の主観ショットで捉える。このいささか強引な、絶対にこの光景を切り取らねばならない、とでも言わんばかりのカメラワークはどうだ。さらに次のショットでは、その車のヘッドライトが、窓越しに父の顔をミステリアスに映し出す。
ここでは、窓を隔てた娘と父の対立が、ファインな光の扱いによって際立っている。このシーンの窓はきわめてメランコリックである。

さらに忘れがたいシーン。上記した上院議員の娘マリアが、ロベルトと出会う場面。ロベルトの弟が突然マリアに水をかけるサプライズショットにも面喰うが、それに対してロベルトがハンカチでマリアの顔を拭き、そのまま弟を外へ連れ出し説教する。その様子が、店の窓越しに、マリアの主観ショットで捉えられる。この兄弟の緊張関係が、結局はマリアとロベルトの恋の成就を阻むという展開を、後から考えればインプライしていたのかもしれないが、とにかくここでも窓はメランコリックな光景を媒介している。

あるいは液晶。ケータイの画面。それらは基本的にはメランコリックで面倒くさく、できれば考えたくないような光景を映し出している。

ところが終盤、もうほとんど映画が終わろうかというあたり、上院議員が乗った列車の窓は美しい日差しを車内に送り込む。2月9日朝、というサブタイトルが表れ、思わずモーニング・グローリー!と叫びそうになる。嘘である。
あるいはマリアが一人寝ているホテルの窓。ロベルトがいたときは雨が降っていて、窓からの景色はほとんど映り込んでいなかったのだが、ここではバッチリと夜明けのブルーテイストなビューティフルモーニングの光景が映り込んでいる。
そしてラスト、薬物依存者の女(マヤ・サンサ!)が寝ている医師の目を盗んで飛び降り自殺をしようとする。彼女が観音開きのガラス窓を開けると、屋外の騒音(車や通行人の音)が聞こえてくる。なぜか自殺をとりやめた彼女、メタ的に解釈すれば、彼女は自殺するためではなく、窓を開けるために窓を開けたのだ。ラストショットの窓は、躊躇なく”希望の窓”と呼んでも、怒られないのではないか。


この映画を見ていて、なぜかヒッチコックを想起させられた。おそらくそれは、マリアが水をかけられる一連の騒動が、マリア達3人が思わず笑い出してしめくくられるからだろう。このなんだかよくわからないけど、というかわからんなくて、わけわからなすぎて、笑うしかない、というこの状況で素直にケタケタと笑って見せたこの三人が、『北北西に進路をとれ』において、エレベーターの乗客が爆笑し始めるあの神技の演出を思い出させたからかもしれない。あるいは、ロベルトとマリアが警察署を出るとき、先に出たロベルトの弟と家族が行ったのを確認して出る、という軽いシチュエーション・スリラーの趣きが、『三十九夜』を思い出させたからかもしれない。
現代の複雑な関係性のなかに、大胆にも単純な二項対立をつくってしまうこと。それによって、昔懐かしの古典的スリラー空間を作り出してしまうこと。ロベルト、マリア、ロベルトの弟の三人の緊張関係には、そういう面白さがある。

病院でのエピソードはどれも素晴らしい。あのデモ隊(?)が乗り込んできて患者の布団や衣類を次々引っぺがしていくところ。『夜よ、こんにちは』ではローマ教皇が机の上の書類を次々と床に捨てていくことで、白い紙が舞うという印象的なショットがあったが、ここでもベロッキオは引っぺがされたシーツや衣類を画面上に捉えることを忘れない。

イザベル・ユペールや上院議員を中心とするドラマ。これらは上記したファンタスティックで躍動的なシーンに比べると、会話中心であり、躍動性にかける。あるいはマリアの父への”告白”は、本当に必要なのか。面倒くさい演説の反復。ベロッキオもまた、Say! What you wanna say, and let the words fall out. Honestly, I wanna see you be brave!から自由ではない。のだろうか。わからない。

三つの独立したエピソードが、演説やすんでのところでの救出(人工呼吸器、飛び降り自殺)などによってつながること、その構造的”巧さ”が、時にボーリングに感じるのも本音だ。

しかし、これは本当にエキサイティングで、クールビューティな傑作だと言うのには、何のヘジテイションもいらない。


2014年3月19日水曜日

A Corner in wheat と The Sealed Room

やっぱり今まで見たものも含めて、グリフィスを見なきゃな、ということで、短編2本をyoutubeから。






Corner in wheatは、小麦をめぐる複数の空間と人々を描いている。なぜこうも大ざっぱかというと、話がいまいちわからないからなのだが、しかしここには映像としていくつかの対立がある。
田舎と街、現場と上層部、映像を見ればこれらの対立軸がすんなりと見えるだろう。田舎は静止的で、街は騒がしい。大勢の人々が争っている。アントニオーニ『太陽はひとりぼっち』を想起させる。
パン屋でパンを買えない母親。貧しいシングルマザーというのは、たぶんグリフィスで多くみられる。
クライマックスは、おっさんが小麦工場で転倒して、上から小麦が降ってきて埋もれてしまうというシーンだろう。これをおが屑でやったのがドライヤーの『吸血鬼』だった。
あとこの映画で目に付くのは、会社員(?)達がああだこうだと言い合ってるシーンで、彼らはみいな紙とペンを持ってるのだけど、紙がどんどん落ちる。最後の方は床じゅう紙だらけである。



The Sealed Roomは、とっても面白い。ああ、娯楽作品とは、こういうもんだ、というお手本のような映画で、ストーリーは見れば誰もがわかる。映像がそのままストーリーになっていると言ってよい。
王様と姫と家来達、っていうこのヒエラルキーの中でネズミ的存在としての演奏家が配置されている。で、当然この時代だから、全部フィックスで撮ってあるわけで
、そうするとこの演奏家にクローズアップするようなことは一切ない。ただ状況を映していて、人々がああだこうだして動いて、やがて姫と演奏家が二人だけになる、という具合で、ドラマ性が排除されている。あるいは純粋に映像的空間的にドラマが設計されている。
さて、この映画でも、物がよく落ちる。
まず演奏家と姫が最初に二人きりになるシーンで、演奏家が楽器を落とす。心奪われて持ってるものを落とす。
で、もう一つ、部屋で姫と演奏家がいちゃついているのを目撃した王様が、ショックで剣を落としてしまう。
それと部屋を煉瓦で埋められてしまって窒息しかけている二人。姫があがくようにカーテンを引きちぎってしまう。
で、この部屋もまたcorner in wheatのように、散らかって終わる。グリフィスは部屋を散らかすのだろうか。






2014年3月2日日曜日

人のセックスを笑うな

これもどうもなー。90分でやめたのでそこまで。
とても良いシーンはすこぶる良いのだが、ダメなシーンはとことんダメ、という映画であって、別にそんな映画は無数にあるわけだが、しかしダメなシーンだらけでも全体的に許してしまう、あるいはそれらも含めてもはや素晴らしいような映画と、ダメなシーンのダメさゆえに全体的に許せないという映画があるような気がするが、これは見る側の気分の問題だろうか。よくわからない。

オープニングの永作博美と松山ケンイチの出会い方。ヒッチハイクをしている永作が、通り過ぎたトラックを追いかける。まずはじめに『ニシノユキヒコ』の坂にも似ている、傾斜の急な坂で、永作が靴を蹴飛ばしたりして通り過ぎる車を止めようとしているのをロングショットで見せる。画面を猫が通り過ぎ、一台のトラックがやってくると、カメラは永作がトラックを視線で追いかける表情をバストショットでとらえる。そこでカットが割られ、今度はカメラが永作の背後に回る。トラックとその先にあるトンネルが、永作との美しい縦の構図で捉えられ、そのままトラックはトンネルの中へと消えていく。何やら、黒沢映画にも似たただならぬ予感がする絶妙なショットである。この女はいったい何をしているのか、ここまで何の説明もないままである。

さらにカットして、今度はトンネルを抜けたトラックを映し、背後から永作が猛ダッシュでやってくる。道の構造上、トンネルを抜けてから、トラックのところに来るまで永作の走る姿が見えないのだが、その時間が思いのほか長い。ずいぶん長距離を走らせるものである。当然永作はぜえぜえと息を荒げ、そこでようやく彼女が終電を逃して帰りあぐねていることを告白する。トラックに乗った三人は快く永作をトラックの積荷台に乗るように言うと、永作は猛ダッシュの疲れのせいで(それが真実かはわからぬが!)頭から突っ込んでしまう。それを見た助手席の松山があわてて積荷に乗る。
なんと周到な演出、手続きの踏み方だろうか。トンネルの手前の妙な緊張感(当然この映画がホラーでもサスペンスでもないことぐらいは知っているわけだが)と、トンネルの向こうでのバカバカしい顛末。
さらにその次のショットでやや俯瞰気味に積荷に並んで座る二人を捉えたショットでトラックが走りだす様をきわめて幸福に描いている。
永作が頭から積荷に突っ込むという笑いと、しかしそれがあるからこそ松山がごくごく自然に永作と同席する。この映画が永作と松山のラブストーリーであることを知っているからこそ、この周到かつ呆気ない、あるいはこの呆気なさこそが周到さの証だ、と言わんばかりのこの展開に思わず「やられた!」と思わずにはいられないだろう。

あるいは永作が松山に服を脱ぐように要求するシーンの、あの永作の赤いセーターはどうだ。それまでごくごく穏やかな赤としておさまっていたセーターが、突然ヴィヴィッドな赤として画面上でスパークし始める。

あるいは松山が永作を強引に教室に引きずり込むシーン。廊下を歩く永作が突然引きずり込まれるのをロングショットでとらえたカメラは、当然教室の中に入って二人の”ローリング抱擁”を横移動でシャープに捉えてみせるわけだが、ここが素晴らしいのはロングショットを引きずりこまれた後の一瞬だけ持続させることで、永作の持っていた書類がグレイスフルに落下する様を捉えているからだ。

こうして多くのシーンが小道具と照明とカッティングによってきわめて印象深く、映画的にスパーク!している。

ああ、しかしなんと凡庸なショットの数々。フィックスショットがあまりにも長い。それらは人物たちの「リアル」で、「自然」で、「くすぐったくなるような」、要するに「ニシノユキヒコ的な」やり取りを捉えるわけだが、いや、いいよそういうの。間の抜けたフィックスショットとはこれだ。
一瞬の持続が笑いや余韻としてスパークすることはいくらでもある。それは例えば『ストロベリーショートケイクス』の多くの持続であるし、『いとおしき隣人』のほとんどのフィックスショットだ。

家に招き入れてくれたのが永作の夫であったことを知るシーン。ここでは詳細は省くが、永作が遅れて画面に登場し、次に夫がいったん席を外し、そこで初めて真相が判明し、その真相に松山が驚いて固まっているところに夫が帰ってきて、何食わぬ顔で新聞を読み始める。この持続は面白い。笑える。クレイジーでユーモラスだ。


この映画で悪いのはアオイユウである。
温水洋一の講義中に松山が忍足修吾に永作との関係を耳打ちして、忍足が思わず「え!」と叫んでしまい、教室中の生徒が後ろを振り返るという定番といえば定番だが、その画面のダイナミックなユーモアゆえにとても面白いシーンがあるが、―温水洋一をアップで使って笑いを撮ろうとする映画は嫌い。画面の奥で存在感なくしゃべっている(それゆえに存在感が増す)ぐらいがちょうどいい。これは井口監督の冴えたバランス感覚と言うべき― ほかの生徒が前を向き直したあと、その中でアオイユウが一人松山の方を見つめ続けているのが捉えられ、わざわざカメラは彼女に寄りさえするわけだが、その寄りのショットも素晴らしい。(ついでに言えばそのあと玄関口を永作が通りかかり、温水が実は同級生なんだとか言ってるのをよそに松山がスーッと画面左側へと歩いていくショットも、鏡に反射した木々のインプレッシブな存在感が心地よく、とても良い。)

しかしそうまでして丁重に演出されているアオイユウの役柄はいったい何なのだ。松山のことが好きなのはわかった。松山を見つめること。見つめるという映画ならではのセンチメンタルでどこかしらストイックな愛情表現。
あるいは永作と松山が二人で歩いているのを階段から見てしまうショット。「そうかアオイユウとは、ひたすら見る人なのか、、、」と、何だか偉そうな映画批評家にでもなったような気分にさせてくれる、、、と思ったら、どうもそうではないらしい。

映画は明らかに彼女を物語の中に絡めようとしている。そのエビデンスとして(?)、「わたし学校やめる」とかいうウジウジトークを二回も展開する。あるいは松山と観覧車に乗る。乗ってなんか会話している。永作とお茶をする。お茶してなんかしゃべっている。それらすべてのトークがアホみたいにつまらない。こういう会話劇を展開するなら、それ相応のキャラクタりゼーションが要求されるべきだろう。しかし映画が描くアオイユウはひたすら「ふっつー」の、よく言えばリアルな、悪く言えばどーでもいい人物だ。そんなやつが「学校やめる~」とかぼやいたところで、So what?である。
んなもん見るために映画見とらんわ、と言いたくなるが言わない。しかしこれはつまらない。
というかクリティカルにつまらない。そしてそこがこの映画の許しがたい、というか見るに堪えない最大の理由だ。アオイユウが出てくるたびに、ああ、映画が失速した、これじゃ牛歩だ。バカモノ、、、とため息が出てくる。




2014年2月22日土曜日

ニシノユキヒコの恋と冒険

監督:井口奈己

井口監督の作品は初見。

冒頭近くの、ニシノユキヒコが交通事故に遭うシーンの演出がまったくもって素晴らしい。
赤と黄の美しい花を手前に配した構図で竹ノ内豊をカメラがとらえると、松葉杖で歩く女性が彼を呼び止める。すると彼女はバランスを崩して、それを介抱しようと駆け寄ったところで、トラックが突っ込んでくる。というところで、ここでは松葉杖、彼女が落としたリンゴが転がっていく様が、そしてトラックが、さらに言えば事故の瞬間をとても深刻に受け止めているとは思えないバカバカしくも可笑しい表情リアクションが、快活な形で連鎖している。おお、これぞ映画だ、となるが、その後このような映画的なシーンに立ち会うことはできなかった。
ところでこのシーンでは竹ノ内豊のシャツの色が違った気がする。

庭の風だとか、別にすごくもなんともないわけで。

『愛おしき隣人』の方が百倍面白い。

2014年2月4日火曜日

アメリカの新作3本

ロン・ハワードの『ラッシュ』、スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、デヴィッド・O・ラッセルの『アメリカン・ハッスル』

まず3本ともに共通するのが、大量のモノローグ(しかも複数のキャラクターによる)だろう。映画の序盤において、彼らは全員自らの生い立ちを語り始める。スコセッシの場合は、もちろんこれまでの彼の作品の多くにおいてそういうスタイルをとってきたし、今回は金融社会版『グッドフェローズ』、または『カジノ』といった趣だから、まぁそれほど驚くことではないかもしれない。
だがいずれにしろ、ずいぶんとモノローグが多く、またセリフも多い。だからダメとは言わないが、ではこのモノローグがどれほど機能していると言えるのか。あまりしていない。
というかそもそもモノローグが機能するとは一体どういうことなのか。それは生い立ちなりあるいはトリックや作戦などについてモノローグによって大ざっぱに全体を語りつつ、その具体的な細部や見せ場を画面が補うことで、その道程が生き生きと視覚として刻まれるときに、機能したと言えるのではないか。そう考えるなら、モノローグだけを切り取って考える必要はない。

例えば『ウォールストリート』においてラりっていたディカプリオの昨夜の言動を妻や警官が話し、それが回想として画面によって提示される場合も同じだ。あるいは『アメリカン・ハッスル』でブラッドリー・クーパーが「首を絞められた!」と話し、その首を絞められたシーンが回想として提示される場合もそうだ。
これは何なのだ。これの何が面白いのだ。画面はひたすら一歩前に話された言語的事実をなぞって見せるだけだ。そこに視覚のレベルでの驚きはない。

別に何てことのない映画だが『裏切りのサーカス』の序盤に、「ブタペストに汽車で行ってだれだれに会ってこい」という指令とともに、そのブタペストに男が降り立ち歩く姿が捉えられるシーンは極めてサスペンスフルだった。そこではブタペストで要人に会うという筋(ここにサスペンスはない)にこの画面(サスペンスフル)が合わさることで、ブタペストの要人に会うヤバいミッションであることが理解されるわけだ。これがモノローグが機能した瞬間だろう。
あるいは『つぐない』の洪水のシーンでも良い。詳述しないが、あそこには画面によって抒情が生まれているではないか。
だがこれに関して私は十分に考えたことがない。モノローグ/ナレーションについては、やっぱり今後も映画で多用されるだろうから、それについては考えざるを得ないだろう。キューブリックとか?あるいはゴダールとか?知らんけど。

だが例えば、『リトルチルドレン』という傑作がある。この映画には、それこそ『バリー・リンドン』みたいなナレーションが入る。しかし、この映画の見どころの一つと言ってよいジャッキー・アール・ヘイリーがプールに入るや否や人々が逃げていくシーン。ここでは一切ナレーションがない。ここでナレーションが入る危険は十分にある。例えば「彼は決して児童の水着を見に来たわけではなかった。彼はただ水泳をしにきたのだ」とか。しかしこんなナレーションが入ったらこの映画は台無しである。説明しないこと、それは他者の他者性を守ることだ。不気味な他者を不気味なまま捉えることだ。
今回の三本の映画には、言ってしまえばそうした「存在のサスペンス」がまるでない。日本の識者からの反響が続々なのもうなずける(とか言ってはいけない)。
『ラッシュ』と世界仰天ニュースの違いを指摘せよ。


しかし,『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の終盤の夫婦喧嘩のシーンは全くもって素晴らしい。
ディカプリオ邸のキッチンと部屋の位置関係が良いため,縦構図が決まっている。
あるいはステディカメラ(?)での長回しも充分な迫力である。そして車庫でのマーゴット・ロビーの一撃。これがガラスを割るだけでなく,時間差でディカプリオの血が垂れるという出来事の伏線になっているのが素晴らしいのだ。あるいはディカプリオの視線ショットで捉えた車外の光景はこの映画一番の力のあるショットだ。
まさに、驚くべきショットが決して予定調和的でない仕方で重ねられていく映画の醍醐味がこのシーンにはある。夫婦喧嘩をすることが重要ではない。夫婦喧嘩をするにあたって,人々がどういう動きをして,何を壊し,どこでそれが終われば,良いショットの連鎖を重ねることができるか。これである。なぜディカプリオの車はバックで車庫を出るか。出なければならないか。それはその後にディカプリオの視線ショットを持ってくるためである。

『ラッシュ』においても、ニキ・ラウダが嫁さんと初めて出会うシーンはそれなりに面白い。イタリアンスタイルと言ってポーズを決めるしぐさが良い。あるいはあくまで絵を決め過ぎないラフな縦構図での二人の出会い方にも好感が持てる。

追記:『ラッシュ』を再見したが50分で退席。レース後のパーティでの二人の会話の照明はあまりにもまずい。また、ジェームズ・ハントと妻の喧嘩にしても、もっと工夫すべきだ。この直前の、ヘスケスが破産したことを告げるシーンにしても、あまりにも説明的。別に説明的であってもいいが、それを無意味なカット割りでごまかそうとしてる感じがあまりにしょーもない。それと俯瞰のロングショットがいちいち決まってない。特にクラッシュした車を捉えたショットだとか、結婚式のショットだとか。「ま、とりあえずここらで俯瞰ショット挟みますかー」みたいなノリにしか見えない。知らないが。撮影はドグマ95の人だけど。

2014年1月30日木曜日

パッション

監督:ジャン=リュック・ゴダール

ゴダールらしい原色の赤、青の衣類と対照的なクリーム色のセーターとマフラーをしたイザベル・湯ペールとは結局のところ何だったのか。彼女は車を追いかけながら歩き、ハーモニカを吹き、工場の中で逃げ回った。うむ。
それにしてもこのゴダールは素晴らしい。ハッとするようなクローズアップ、いつもながら素晴らしいロングショット、逆光の扱い(部屋の中のランプシェード)。
あるいは、身体の柔らかい女が身体をくねらせてメモを取るシーンがあるが、ここで入るカッティング・イン・アクションほどバカバカしいカッティング・イン・アクションは見たことがない!
スタジオ内のワンショットで、最後に照明が落ちて画面奥の光だけが見えるあのシークエンスには震えるほかない。「まずは見てから」

2014年1月9日木曜日

限りなき追跡

監督:ラオール・ウォルシュ

中盤でロバータ・ヘインズがフィル・ケイリーに捨てられるシーンがあるが、ここで黄色い美しい服を着たかつての女が残酷な男に捨てられたその後ろ姿を、後から来た3人の主観ショットによって捉えることで、この映画に見事な抒情が生まれている。スレイトンによって捨てられたり、恋人を奪われた者達が、偶然に出会いながらその都度仲間として報復へと向かっていくという物語構造を、見事に画面によって象徴的に描き出している。

あるいはその直前のロバータ・ヘインズがドナ・リードと取っ組み合うシーンはまた見事にヒッチコック的というか。窓からの主観ショットによって誤解が生まれ、ロバータ・ヘインズがドナ・リードにつかみかかる。ドナ・リードは何のことかわからない。
この二人は最終的に和解することなく終わるわけだが、しかしヘインズが倒れたところにドナ・リードが駆け寄るショットが一つだけ、これまた見事にリズミカルなカッティングで挿入される。

終盤の取引のシーンはそのままトニー・スコット『マイ・ボディガード』に連なっていく。

またラスト数分はほとんどセリフゼロである。

2014年1月5日日曜日

2013年の公開映画を振り返る

映画とは結局のところどう扱うべきなのだろうか。あなたに映画を愛しているとは言わせないと言われたところで、どうすると愛していて、どうすると愛していないことになるのか。全てのショットを、細部を完璧に記憶できれば、それが愛なのか。そうではあるまい。
いや、別に「愛」という言葉にこだわる必要はないのだが。
しかし愛でも「語る」でもいいのだが、やはり映画は単に「そのもの」として記憶される以上の事を必要としているように思われる。つまり分節される必要がある。

さて、2013年に公開された映画の中でとりわけお気に入りのものは、
『最終目的地』(ジェームズ・アイヴォリー)、『エンド・オブ・ザ・ワールド』(ローリーン・スカファリア)、『世界にひとつのプレブック』(デヴィッド・O・ラッセル)
『最終目的地』については、全編とても素晴らしかったと思うが、やっぱり何よりもラストが素晴らしい。オマー・メトワリーとシャルロット・ゲンズブールが、最終的にどうやってくっつけばいいのか。つまり二人の「最終目的地」をいかに演出するか、というところでジェームズ・アイヴォリーは見事な聡明さを見せてくれる。大雨の中、ダッシュするメトワリーのもとへ赤い傘を持って駆け寄るゲンズブール。このショットが最終目的地だ。もうこれだけでいい。そしてそこに至る直前の出来事、つまりメトワリーが荷物を持ってやってきて、ゲンズブールが圧倒的ツンデレぶりを発揮して追い返し、アンソニー・ホプキンスが「もう一回行けよ」とだけ言って、メトワリーがダッシュで出ていく一連のシークエンスは、この最終目的地のためだけにあると言っても過言ではない。
そしてここには、はたしてゲンズブールがメトワリーを受け入れてくれるのかとか、メトワリーがどうやって彼女に思いを伝えるのか、といった野暮ったい心配は不要である。誰もがこの二人の最終目的地を確信しているのだから。ただ赤い傘を持って駆け寄るだけでいいのだ。
これほどまでに映画とはこれだ!と思わせてくれた映画は今年見れなかったので、これが文句なしのベストです。

しかし、ただ分節する事が必要、と言うだけでは意味がない。良い分節と悪い分節を区別しなければならない。(分節を分節せねばならない、などと馬鹿なことは言うまい!)
だがそれは僕にはできない。それを区別するには膨大な「映画史」と文献を踏まえなければならないからだ。僕の尊敬する映画研究塾(実のところ何をもって尊敬すると言え、何をもって裏切ると言えるのかわからないが)は分節=複雑性の縮減を批判するけれども、しかしこれから研究塾が出そうとしている論文はヒッチコック=ホークス”主義”についてであるはずだから、それは何らかの分節を伴っているだろう。
分節の仕方と同等に重要なのは、分節をするための素材だ。何をもってその映画を分節するのか。それはショットである。だから目に焼き付けたショットが多ければ多いほど、分節の可能性も広がるかもしれない。知らないけど。
とにもかくにも、まずは目に焼き付けることなのである。

『エンド・オブ・ザ・ワールド』で最も素晴らしいシーンは、スティーヴ・カレルとキーラ・ナイトレイが海岸でキスを交わすシーンだ。ここに至る直前の展開をみると、まずスティーヴ・カレルが元カノの家に立ち寄ったものの、なぜかドアをノックすることなく車に戻って発車していしまう。で、キーラ・ナイトレイが「は?なんで?」と問いただしてるうちに、あやうく衝突しかけて急停車。その衝突しかけた相手というのが、よくわからん巡礼者達。いやただの旅行者達なのかもしれないが、二人はその旅行者達の列と彼らが向かう先にある海とカモメを見て、ニッコリほほ笑んで、キスをするわけだ。
理由とかどうでもいいや、キスしちゃおうぜ、というわけだ。ああ、なんて素敵なシーンでしょう。
ローリーン・スカファリアはこれが初監督作ということで、処女作にしてはちょっと保守的?な気はするが、これはとっても良かった。

と、カッコよく言ってみたところで、これはこれで大変だ。一年前に見た映画について一体どれほどのことを覚えているのか。ゴダールがヒッチコックの映画について、ストーリーは何も覚えていないがワインセラーおイメージは覚えてると言ったところで、本当にその記憶したイメージは正しいのかなんてわからない。僕なんか「見事なロングショットだ!」と思っていたショットが実はバストショットでした、なんてことすらある。
(記憶の中の)映画のイメージは、映画そのものではない。それは一秒後から、もう乖離している。
映画を見ることと、映画を記憶することは全く異なることなのかもしれない。

『世界にひとつのプレイブック』は、今思えば、いや見たときも感じたが、ジェニファー・ローレンスとブラッドリー・クーパーがくっつくまでに至るプロセスが、上二作に比べて野暮ったい。最後はマジ告白だし、手紙をめぐる真相を「説明」するような告白もちょっとどうかと思う。
しかし、それでもこの映画には大いに感動させられた。デヴィッド・ラッセルは、画面の力を知っている。知っているのに説明していしまう変な人だ。(とはいえ彼の作品はあまり見たことがないので、あまり変なことは言えない)
主役二人が前後に並んでジョギングするショットや、二人が横に並んで踊りだすショットは今年見た映画で最も幸福なショットだった。

つまるところ、なぜ僕たちは映画を見るのか。
生理学の教科書を読むのは、生理学の知識や理論を覚えるためだ。だから生理学の教科書で学んだ知識は、やっぱり記憶しておかないといけない。そうしないとテストに合格できないし、実際に患者を見ても病態を把握できない。生理学の教科書を享受する、とはそういうことだ。
とすれば、映画もまたそうなのか。やっぱり映画を享受するとは、映画の全ショットを記憶に焼き付けることなのか。いや、無理だ。そしてそうではないと思う。なぜなら今でも僕は映画のショットを碌に記憶できないが、にもかかわらず明日は何を見ようか、明後日は何を見ようか、とそんなことばかりを考え、そして映画館へと通じる厳しい冬の道を孤独に歩いた末に暗闇の中で傑作と出会うたびに歓喜しているからだ。そしてその数時間後にはおそらく半分以上のショットを忘れているのだ。

その他良かった映画としては、『コズモポリス』(クローネンバーグ)、『ビザンチウム』(ニール・ジョーダン)、『ファインド・アウト』(エイトール・ダリア)、『マーサ、あるいはマーシーメイ』(ショーン・ダーキン)、『愛さえあれば』(スザンネ・ビア)、『そして父になる』(是枝裕和)といったところでしょうか。
『愛さえあれば』は、『最終目的地』にとても良く似た映画で、それゆえにラストの二人のくっつき方にもうちょっと工夫がほしいと思うが、ピアース・ブロスナンがトリーネ・ディアホルムにジャケットを着せてやる一連のシーンなんて素晴らしかった。
クローネンバーグは、キネカ大森で見た『ザ・ブルード』『スキャナーズ』が別格だった。

映画の素晴らしさを、それを享受する喜びを、他人に説明するときに挙げる、僕の記憶の中の映画のイメージは、実際のイメージとは異なっているかもしれない。だから僕の説明は間違っているかもしれない。でも僕は知っている。映画を見る喜びを知っている。見るたびにそれは確認される。
見た後にはもう語れない。
映画は語るために見られるのではない。見るために見られるのだ。これは究極の反機能主義だ。
映画は何の使い物にならない。映画は映画の素晴らしさを語る道具にすらならない(なぜならその道具=イメージはすでに実際のイメージと乖離しているから)。

2014年1月1日水曜日

パンドラ

監督:アルバート・リュイン

主観ショット18、ドアの開閉15ぐらい
この監督は、この映画が監督としては2本目で、その前にはサイレント時代から製作や脚本を担っていたという。
そのためだろうか、中盤のクライマックスである、闘牛場でのシーンは、「いるはずのない人間を見てしまう」ことで闘牛士が混乱する、という嬉しくなるような映画的顛末である。
そもそもこの闘牛士は一体何のために出てきたのか。エヴァ・ガードナーの元彼として突如現れ、
なぜか本番前に闘牛をしてみせるもののなんか滑ったみたいな空気になるぐらいだ。
しかしこの闘牛場でのシーンのためには、彼はガードナーの嫉妬深い元彼であり、またガードナーとジェームズ・メイスンの情事を目撃しなければならないわけだ。

黄色の使い方がとても良い。ガードナーのドレスやメイスンの宿の部屋のソファーなど。
あるいはラストの”The End”の文字の背景も黄色いカーテンであることからも、黄色の配置がこの映画において重要であることは間違いない。

それとこの映画の主観ショットはほとんどが、メイスンが見つめる雲やら帆やら海やら操縦舵であって、ヒッチコックの映画のようにその光景自体が何らかの疑念や誤解を生じさせたりするわけでもなく、ただ無意味な光景として提示されている。一方で冒頭の遺体の発見やバルコニーからの望遠鏡の光景にしても、それらは決してショットとして提示されない事からも、単になんとなく主観ショットを配置しているわけではなさそうである。

シネマヴェーラでの上映で見た。今の私は一回の観賞で映画の細部を有意味に語って見せるだけの能力はないので、いささか中途半端な言及にならざるを得ないが、しかしこの映画は傑作であると思う。それは一見すると下手な演出(メイスンの回想シーン(というかそもそも三重の回想構成にすること自体))や序盤の露出アンダー気味の照明が映画を弛緩させているように見えながら、しかし上記の闘牛場での見事な展開とカットの連鎖、あるいは美しい美術、ラストの鏡の扱いなどがけた外れの魅力を持っている。