2015年5月29日金曜日

デモンシード

監督:ドナルド・キャメル

『2001年宇宙の旅』の、あの超有名にして不毛なクライマックスの映像にあからさまにインスパイアされたような映像が出てくる。
『2001年~』がきわめて精密な設計とある種の”高級感”を持ったSFであるのに対して、こちらはすごく雑(笑)。しかしこの雑さがなんとなく楽しめる。ほとんど確信犯的な語りの省略は、やりたいことだけやりましたという潔さがあるし、人工知能プロテウスが具現化した多面体の高速回転も面白い。
しかしやはり映画としての雑さは否めない。このジュリー・クリスティーはあまり良くないのではないか。
おそらくこのモチーフをより現代的に(人工知能からより生物学的、遺伝学的に)発展させたうえで、緻密な物語として完成させた映画が、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の傑作『スプライス』だろう。本作はその先駆けとして見るとなかなか味わい深い。


2015年5月24日日曜日

マイ・プライベート・アイダホ

監督:ガス・ヴァン・サント

『ドラッグストア・カウボーイ』と比べると、とっ散らかってるが、その分瑞々しい。ともに盗みを働く仲間たちの、お祭り騒ぎのような暴れ具合がとっても可笑しい。キアヌ・リーブスが酒瓶を一口グイっと飲んで、それを仲間に放り投げ、仲間がキャッチして、もう一人がくわえてるタバコを取りあげ、そのまま調子よく階段を上っていく、という一連の描写が、いかにも楽しいインディ映画だ。

それでいて、『ドラッグストア~』同様に、もの悲しく、切ない。
家族のような仲間と、その別れ。最後に車に乗せられて運ばれるという帰結も、『ドラッグストア~』と共通している。
あるいはホームビデオによるノスタルジックな過去の映像。

あるいは自然風景の描写。美しい風景であると同時に、それが主人公の心象風景として何度も反復され、サイケデリックな雰囲気すら獲得していく。
ある景色に捕らわれたようにぼーっとする描写というのも、『ドラッグストア~』や『誘う女』に出てきた。

夢の中でリバー・フェニックスがキアヌ・リーブスに告白して、抱擁を交わすシーンが、非常にシンプルでありながらもっとも感動的だと思う。うまいなーと思うのは、この夢のシーンが終わってリバー・フェニックスが目を覚ましたときに、彼自身のリアクションを撮らずに、バイクが停止しているところにパトカーがやってきて・・・という展開を速攻で持ってくることで、わかりやすい余韻(キアヌ・リーブスへの思いを隠して苦しんでいるのだ、という)をつくらずにあっけなく進んでいく点。


アメリカの田舎の風景とともに、イタリアの田園風景も出てくる。この田園風景がまた魅力的だ。

リバー・フェニックスの神経質そうな立ち振る舞いは、少しドゥニ・ラヴァンを思わせたりもするが、あれほど”即物的”でも”本能的”でもない。何とも言えぬもの悲しさがある。

それと、街並みの切り取りかたがやっぱり素晴らしい。キアヌ・リーブスとリバー・フェニックスが入り浸るカフェを外から映したショットなんか最高だ。その中で仲間たちが一方的に喋りまくるのを無造作につなげたような描写もたまらなく良い。

2015年5月22日金曜日

キングの報酬

監督:シドニー・ルメット

久々に再見。じわじわと面白くなりそうで、えっ?てぐらいあっさり終わってしまうあたり、「食い足りなさ」は残るが、この「虚をつかれた感じ」こそがリチャード・ギア演じる主人公の最終的な帰結に一致するのではないか。

選挙コンサルタントを描いた映画としては、最近では"NO"があった。冒頭では南米の総選挙を前にした候補者の"Say No!"という演説がある。

音楽に合わせてビートを刻むリチャード・ギアの姿が何度も挿入される。これが彼の集中力を高めるやり方なのだろう。”候補者を当選させる”ことだけに集中して、仕事に取り掛かる。その仕事を行う場所である彼のオフィスは、やたらと天井が低く作られている。彼の相棒的存在である分析家のアジトも非常に狭い。この映画における室内のシーンの多くが、そんな狭窄感に包まれているように思う。その狭い世界の中で、候補者を政治の世界に送り込む、つまり"POWER"を操作するのが、彼の仕事であるわけだ。
ニューメキシコ州知事候補のCM撮影を行っているシーンで、モニタールームからスタジオにゆっくりと降りてくるリチャード・ギアの姿が、その揺るぎない自信と、選挙コンサルタントと候補者の力関係を一瞬で表象してしまう。

だが映画が描くのは、とことんまでにout of controlな現実世界だ。彼の知らぬところで陰謀がうごめき(しかしその陰謀の描写のなんと味気ないことか(笑))、選挙は予想外の結果を見せる。それをテレビ中継で知った彼は、呆気にとられ、ジュリー・クリスティと見つめ合う。この最後の二人の演技が大変素晴らしく、このショットですべてを許してしまう。

シークエンスはじめのロングショットがどれも素晴らしい。空港でのジーン・ハックマンとのやり取り、ホテルのカフェでジュリー・クリスティーにあてられたキラキラとした照明の美しさ。


2015年5月6日水曜日

ブギーナイツ

監督:ポール・トーマス・アンダーソン

いわゆるPTA作品というのを、今まで全く見たことがなかった。初PTA。
精神的父親、精神的母親、マッチョイズム、性と暴力、ドラッグといった、いかにもなテーマを2時間半に詰め込んだ映画で、正直消化不良な部分が散見される。

ジュリアン・ムーアの役柄は、『ラブ・ストリームス』のジーナ・ローランズを思い出す。だらしなく、愚かなゆえに、家庭を失い、自責の念に苦しむ。彼女の居場所はポルノ業界にしかない。
というより、ここで描かれるポルノ業界は、居場所を失った人々が集まってくる場所で、要するに疑似家族だ。

前半の70年代の場面は、マーク・ウォールバーグがスターダムにのし上がるまでを一気に描きながら、ラストにウィリアム・H・メイシーの発砲と自殺を持ってくることで、不吉な予兆、あるいはこの疑似家族が抱える闇を印象づける。

予想通り80年代にはファミリーが分裂し、分裂したそれぞれの人間は、それぞれの場所でパッとしないどころか、暴力的事件に巻き込まれ、やがて元に戻ってくる。
マーク・ウォールバーグはドラッグに溺れ、道端では若い不良に絡まれ、性的恥辱を受ける。あるいは仲間の暴走によって発生した銃撃戦を何とか逃げ出す。
ドン・チードルはポルノ俳優という出自により銀行からの資金を断られ、偶然遭遇した強盗事件で生き残り、金を奪う。
バート・レイノルズとヘザー・グラハムは、ビデオの普及とともに凋落するポルノ映画界で新しい作品をつくるべく、いわゆる”素人ナンパもの”を撮影するが、暴力沙汰になってお蔵入り。
ウィリアム・H・メイシーがまき散らした血しぶきのごとく、彼らが抱える問題が一気に噴き上げる。

これらの事件の描き方は、時に足早にすぎ、雑な印象も与える。あるいはマーク・ウォールバーグが巻き込まれる事件と、バート・レイノルズとヘザー・グラハムのパートを並行モンタージュで描くというやり方にも、疑問を持つ。確かにこの手のモンタージュによる盛り上げ方、行くとこまで行っちまった感を醸成するやり方は、アメリカ映画の常套手段ではある(具体的な歴史とかはよく知らんが、まぁよくあるよね)。しかし、それにしてもこの唐突なモンタージュは雑だ。おそらくそれは、双方の、つまりウォールバーグが抱える問題と、バート・レイノルズが抱える問題をあまり良く描けていないため、のっぴきならぬ感情の爆発としての暴力がここにはないからだ。

一方で、アルフレッド・モリーナの邸宅での銃撃シーンに至るまでの演出は非常に優れている。
同居する中国人が鳴らし続ける爆竹の音、用心棒の黒人が銃を持っていることを示すショット、そしてウォールバーグら3人の何を考えてるかわからぬ雰囲気が、暴力的帰結までの時間をじわじわと演出する。

ラストのシークエンスショットが素晴らしい。
バート・レイノルズが自分の邸宅を歩き回る。そこにはドン・チードルら、従来の仲間がいるものの、同じシークエンスショットで撮られた70年代のあの乱痴気騒ぎはもはや影を潜め、プールサイドの風景も、静かでもの悲しい。
レイノルズが最後に訪れる部屋では、ジュリアン・ムーアがメイクをしている。レイノルズは静かにジュリアン・ムーアの顔に手をやり、言葉をかける。喪失感を抱えたファミリー達の再スタートが、優しい筆致で描かれる。

ラストショットは鏡の前で再スタートを切るマーク・ウォールバーグだ。スコセッシ『アビエイター』のラストに似ている。





2015年5月4日月曜日

フィラデルフィア

監督:ジョナサン・デミ

実に迫力のある映画だ。
トム・ハンクスの私生活はほとんど描かれない。仮装パーティと、法廷での回想シーンぐらいなものだ。アントニオ・バンデラスとトム・ハンクスは一度もキスをしてないのではないか。
徹底して私生活を描かず、見る者の想像力にゆだねている。
二人が尋問のリハーサルをするシーンで、トム・ハンクスの顔に当てられた赤みがかった光線が美しい。
冒頭のバンデラスとインターンの医師との対立が面白い。

カメラ目線を多用している。人物はよくカメラの方を見ている。これはいくつかの意図、効果を感じさせる。デンゼル・ワシントンのオフィスにトム・ハンクスがやってきて、「エイズだ」と告げると、ワシントンは動揺し、視線が泳ぐ。そうした視線の泳ぎがワシントンのPOVとしても、あるいはトム・ハンクスのPOVとしても提示される。真正面にカメラを据えることで、視線の揺らぎが強調される。

デンゼル・ワシントンに法学生が絡んでくるシーンがある。そこで法学生がゲイをネタにするのに対して、デンゼル・ワシントンが怒りを露わにする。「こういう奴がいるから・・・」とも言う。当然のようにこれは自分にも向けられている。自分もまた妻とゲイをネタにした会話を楽しんでいたりするからだ。デンゼル・ワシントンは、だから、この映画を通して、過去の自分と向き合わなくてはいけない役柄だ。そのモチーフとして”鏡”の存在があると言ったら、深読みが過ぎるかもしれないが。

差別や偏見をテーマにした映画において、偏見や差別意識を抱えた人間が主役に配され、徐々にその偏見を克服していくようなストーリーは、いくつかあると思うが、あまり思い浮かばない。
『クラッシュ』(ポール・ハギス)とかは、ちょっとまた毛色が違う気もするが。

ある女の存在証明

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

難解きわまりない。深遠であるとか、抽象的であるというのではなく、ただひたすら、混乱をきたしたフィルムだ。それが面白い。異様に惹きつけられる。
この映画を一回見ただけで筋が追えてしまう人は、よほどの情報処理能力か集中力を持ってるに違いない。僕は2回見て、ようやく時系列がなんとなくわかったが、しかしそれでも解せぬシーンはたくさんあった。しかしそんなことがどうでも良いと思えるほど、映像の説得力がある。
特に、あの窓を介した、見つめ合い、別れ。階段の造形。霧。ヴェネチア。
ひょっとするとアントニオーニで一番好きな映画かもしれない。

アントニオーニのインタビュー本で、この映画についても語られている。(その名も、『アントニオーニ 存在の証明』だ。(フィルムアート社))
そこで彼が言うには、この映画の人物たちは、これまでの作品の人物のように実存の危機には陥っていない。むしろ葛藤に苦しんでいる、と述べている。で、その証拠に(?)、今回は人物と背景の強い絆を弱くした、事実を捉え、人物の心理に重きを置いた、というようなことを言っている。
なるほど、60年代のアントニオーニにおいては、確かに人物は行動よりも背景との関係によって描かれていたと言っていいだろう。無機質で広大なコンクリートの、<過剰な稀薄さ>が、人物の存在的危機をまるごと表象していたのかもしれない。
そういった視点で見ると、確かにこの映画では、背景はあくまで人物の周囲で起きる出来事を捉えたものであり、その意味では物語に奉仕する画面である(しかしあまりの情報量と<不親切さ>ゆえに物語が錯綜しまくっている)。
また、女性たちは、モニカ・ヴィッティ的無表情さを持たず、確かに何かに苦しんでいるように見える。マーヴィであればそれは、上流階級という出自、あるいはその象徴である父の手から逃れることかもしれない。イーダの葛藤とは何なのか。あまりにも物事を受け入れすぎてしまう自分との格闘だろうか。なかなか難しい。
だがそれでも、名高い霧のシーンは、60~70年代のアントニオーニを彷彿とさせる。

「科学」というモチーフが多少関連しているように思える。
主人公のニッコロが、婦人科医である姉のオフィスでマーヴィと電話するとき、「映画監督は何でも視覚化したがる」と言う。そのときニッコロが見ているのは、骨盤部のX線写真である。
あるいはラストシーンでは、ニッコロのナレーションで、人間がいつか太陽の内部の組成を研究して云々、というセリフが出てくる。
対象の内部を探ろうとすることが、本作のテーマの一つになっている。それは心理を探ろうとすることかもしれないし、自分の中にあるインスピレーションを明確化しようとすることかもしれない(ニッコロは常に女性の顔を探している)。



2015年5月1日金曜日

誘う女

監督:ガス・ヴァン・サント

最近で言うと、『ゴーンガール』に似通っている映画。メディアにおける虚構のイメージによって自分の思うままにことを運ぶ女をニコール・キッドマンが演じている。『ゴーンガール』は途中で見るのやめちゃったんでアレなのだが、あちらが自分のつくられたイメージにうんざりするのに対して、こちらはとにかくそのイメージを利用しまくる。その犠牲になるのが、ウブな高校生たちで、彼らはイメージ通りのニコール・キッドマンを崇拝し、あろうことか「清純」であると思い込む。車のヘッドライトに照らされながら踊るニコールキッドマンを捉えたショットが反復されるあたりにそのことがよく表れているだろう。

少し単調で、跳ねていかない。メディアのイメージと自分の頭の中のイメージとが交錯しながら飛躍していくような、アトム・エゴヤンのような面白さに欠ける。
それでもニコール・キッドマンはきわめて魅力的だし、印象的なシーンもある。船上のマット・ディロンに手をふるキッドマンの後ろ姿など。