2014年4月29日火曜日

Surface!

Surfaceでメールしながら映画見るとは何事だ!的な記事を以前書いたが、しかし僕はメールしながらyoutubeで音楽を聴くし、Twitterしながら本とか読んじゃう。だからといって、そもそも音楽と映画と本をいっしょくたに議論する必要はないと思うんだけど。
要するに、自分の感性は自分で守ろう、ということでしかない。
もちろん自分の感性という絶えず外部環境にさらされることで、避けがたく変化していくものだとは思う。でもこれまた同じで、「だからといって感性が変わること全部を肯定する」わけではないのだ。
自分がおかしいと思う変化はできるだけ変化しないようにする。それは例えば映画を見るときはメールしないとかってことだ。たとえばね。

2014年4月26日土曜日

5時から7時までのクレオ

監督:アニエス・ヴァルダ

DVDのパッケージが白黒なので、白黒映画なんだと思って再生したらいきなりカラーなのでびっくりするが、見ていると、実は最初のカード占いのテーブルの上(のカードとそれを並べる手)を映したショット群だけがカラーであり、コリーヌ・マルシャンの唐突なクローズアップが白黒で入ってくる瞬間はなかなかインパクトがある。
カード占いの示す「運命」の数々がカラーで映し出され、現実世界の人々が白黒でスケッチされる、というのは何かしらの意味がありそうなものだが、しかしそれ以上にこのパッとクローズアップとともに白黒の美しい画面が展開されることの視覚的刺激が素晴らしい。

この映画が紹介されると必ず、血液検査の結果を待つまでの二時間を斬新な心理的描写で綴る、といった言い方をされるような気がする。僕自身もそうなのかな、と思っていた。のだが、そんなことなかった。
カメラは決してコリーヌ・マルシャンを画面の中心に固定しない。むしろ積極的に彼女の周辺を切り取る。特にマルシャンが一人になるとき(カフェで中年紳士がマルシャンの使用人と話しているため一人になっているとき、帽子を夢中になって選んでいるとき、家をとびだして街を歩くとき、一緒に車に乗った友人が建物の中の様子を見に行ったために一人になるとき)に、カメラは一人になったマルシャンではなく、その周辺を映し出す。特に街中を歩く人々、たたずむ人々、あるいは大道芸人などを断片的に切り取った数々のショットは、アントニオーニを思わせ、またアントニオーニ以上に求心的な「顔」に溢れている。
もちろん、こういった描写は60年代の作家映画の「いかにもな」表現形式ではあるが、しかし今見てもとっても瑞々しい。

クレオ=コリーヌ・マルシャンが最後に出会う男。彼はアルジェリア戦争から一時帰国した兵士である。はじめおしゃべりな彼にいらだちを隠さぬクレオが、途端に打ち解け、横移動の滑らかなカメラワークのもと楽しい旅行映画のようなひと時を過ごし、バスでは唐突な沈黙を興じてみせ、最後には医師が何のタメもなく血液検査と治療の話をしてあっという間に過ぎ去っていくと、二人はしばらく歩き、見つめあう。この一連の二人の関係性の変転には、何ら「心理的な」説明は見られず、ただ時と出来事の連鎖のなかで、自然に=不自然に、二人の距離は近づいていくのだ。
何より二人が公園のベンチに腰かけたときのショットの光の感じが、最高に美しい。

ピアニストが家にやってくるシークエンスでは、途中ピアニストが譜面を投げることで、譜面が舞う。

2014年4月21日月曜日

ファザー、サン

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

父子の物語である。ソクーロフ風の。最初から父子同士が親密に肌を重ね合わせているし、父親が息子の訓練を見に来るシーンのあの”爽やかな”(爽やか過ぎて怖い!)笑顔からして、もうこれは理解不能な何かであって、しかしこれがめちゃくちゃ面白くて、あっという間に終わってしまうのだから恐れ入る。
父と子の関係性を描きつつ、物語の謎を謎のまま残すあたりとか、少し『エル・スール』なんかを思わせもするが、まぁ的外れな連想だろう(笑)

しかししかし、この映画で最も衝撃的な印象を残すのは、主人公の青年が好意を寄せる少女を演じたマリーナ・ザスーヒナだ。
彼と彼女が窓を隔てて会話をするあのシーンなど、ソクーロフにしか許されないんじゃないか、という気がする。なんだあれ(笑)ハッキリ言って、あの切り返しなら1時間以上ずっとあれでも夢中になってしまうだろう。思えばソクーロフといえば、『孤独な声』のあの男女の切り返しがこれ以上ない甘美さを画面に定着させていた。

それとあとは、窓と窓をたなぐ板の上で繰り広げられる唐突でスリリングなエピソードも素晴らしい。なんかEDM風のBGMのもと、とんでもない速度で人々が入れ替わり立ち替わり登場し、あっという間に男4人の取っ組み合いが始まるのだ。ここまで来ると、もう誰もかなわない。知らんけど。

ということで、これまたソクーロフのすごい映画。

2014年4月20日日曜日

モレク神

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

恐るべき傑作。
徹底して可笑しく、終始ニヤニヤが止まらないが(特にマルティン・ボルマンの滑稽な描かれ方!)、しかし突然やってくる緊張感と、その帰結には感動する。
夕食のシーンや司祭の陳情のシーンなどは、見る側に対して相当な集中力を要求してくる。だがそれこそが芸術だろう。びっくりした。
エヴァ・ブラウンという人物は、ソクーロフの映画によく出てくるタイプといっていいかもしれない。酔っぱらってるみたいな、多幸感を全方位に振りまいた感じの。しかしこのエヴァ・ブラウンというキャラクターが見せるさまざまな表情や動きは、相当に複雑だ。
あるいは周囲で砲弾の音が鳴り響くなか、世界から隔絶された舞台で展開されるという設定も、『痛ましき無関心』に通じるし、あるいは『エルミタージュ幻想』にしろ『牡牛座』にしろ『太陽』にしろ、ソクーロフはこうした舞台を好むようだ。
ということで僕にとってはオールタイムベストといってもいい。そんなことはどうでもいいが。

・・・・・・・・・・・以下詳細なネタばれ・・・・・・・・・・・・・・・


・オープニング

とりあえず冒頭の数ショットについて書いてみたい。
タイトル明け、(ヒトラーの愛人である)エヴァ・ブラウンが邸宅のバルコニー(?)へと通じる戸を開けると、日の出直後ぐらいの朝日の光が差し込んで、エヴァ・ブラウンの身体を照らす。彼女は裸だ。全裸だ。
バルコニーに歩を進め、外の様子をうかがってるのかよくわからないが、とにかく最初から極めて幻想的な画面が始まったな、と思わずうっとりしていると、画面外から「戦争の音」が聞こえてくる。いや実際にそうなのかは知らぬが、とにかく砲弾の音みたいのが聞こえてくる(だからすぐさま想起されるのは『痛ましき無関心』だ。)。
次にエヴァ・ブラウンはバルコニーの奥に置いてある椅子を見つけ、側転しながら椅子のほうへと走っていき、それに座る。しばらく足を動かして、クネクネしたあとに、バルコニーの段差を上がり、下を見下ろす。すると彼女の主観ショットなのかはわからぬが、ロード・オブ・ザ・リングかよ、みたいな景色がそこに広がっている。で、つま先立ちするエヴァ・ブラウンをまた同じ構図で捉える。そのショット中、エヴァは視線に気づく。すると、カットが割られ、エヴァ・ブラウンをスナイパー・ライフルから窃視するその主観ショットによってエヴァを捉える。
月並みな表現をするならば、まるでこの世のものとは思えない美しい空間において、これまた人間とは思えぬ自由で無邪気な裸体の女を描いていた映画に、突然ライフルの照準のマークが介入してくる。ドキっとする。
そのスナイパーに向けてお尻を突き出して応えるエヴァの所作。

映画全体に対する僕なりの感想と考えとは別にして、このオープニングはそれ自体として本当に途方もなく素晴らしい。こんなオープニングは見たことがない。


・映画のテーマ?ファシズム?
この映画に関しては、やはり戦争や「新しい人間像」について話す”男たち”と、それにまったく興味を示さず踊り、笑う”女たち”という対照がまずは注意を引くだろう。特にオープニングからもわかる、エヴァの自由な身体表現。
あるいは、アドルフ・ヒトラーの描写。部下の前での実に”元気な”ヒトラーと、エヴァと二人でいるときの”弱々しい”ヒトラー。その対照ぶり。そしてエヴァ・ブラウンのヒトラーへと向けられたいくつかの”苦言”に、ファシズムの分析を見出す批評もあるようだ。
(たとえば http://www7.plala.or.jp/cine_journal/review/molech.html)



僕なりに注意を引かれたいくつかの特徴について書いてみたい。


・動と、静

まずは、静と動の対比。”動”とはまさにエヴァ・ブラウンの自由奔放な身体の運動をさすが、それだけではなく、たとえばヒトラーと部下達の距離の変化などもさしている。ヒトラーがバイエルンの若者の遊び方(カニがどうのこうのという話)についてマルティン・ボルマンに語っているとき、その話に加わろうと近づく者もいれば(ヨゼフ・ゲッベルス)、そこから離れていく者もいる(マグダ・ゲッベルス)。あるいはマルティン・ボルマンの体臭が云々という抱腹絶倒の(!)序盤のエピソードにおいても、人物たちの動きが面白い。ここはほとんどコメディだ。
そしてこのダイナミックな人物たちの動きと対比をなす”静”の部分は、もちろんこれらの人物たちが、時にウソみたいに静まりかえってしまうようなシーンを指しても良いだろう。特に夕食のシーンの陰鬱な描写はちょっと言葉にできないものがある。
だがそれ以上に、これぞ”静”と呼ぶにふさわしいモチーフがある。それは肖像画であり、石像であり、制服だ。
アドルフ・ヒトラー本人の肖像画、あるいはヒトラーの母の肖像画。カメラがこれらの対象を、わざわざカットを割ってクローズアップで捉えていることに注意しなければならない。
あるいは邸宅に司祭が陳情しにやってきたシーンでは、(何の石像なのかわかんないのだけど)石像をフレームに執拗に収めているように見える。ヒトラーの部屋にかけられた制服の存在感にも目を見張る。
さて、この”静”のモチーフをもう少し延長してみると、たとえばエヴァ・ブラウンが吊り輪にぶら下がってポーズを取るショットがある。踊ったり、尻を突き出したり、側転したり、といった動的な描写を施されてきたエヴァ・ブラウンにあって、この執拗な静止性はどうか。
いや、彼女は静止しようとしているが、できていない。彼女はポーズを決めながら、プルプル震えている。当たり前だ。オリンピック選手だって、あんなポーズをプルプルせずにはとれない。彼女は静止しようとして、それに失敗している。

肖像画になろうとして、失敗している。
のだろうか。。。


・変転するヒトラーとエヴァの関係性、その帰結

ヒトラーとエヴァ・ブラウンの関係性はどのように描かれているだろうか。
①最初は部下が整列するなか、ヒトラーがエヴァの美しさを称賛してみせる。

②次に屋外において、階段の上に立つエヴァと彼女の方へと向かって階段を上ってくるヒトラーを縦構図で捉える。ヒトラーは近づいた挙句、何も言わずまた階段を降りて行ってしまう。そしてエヴァもまた彼を追うように階段を降りていく。カメラはパンして、絶景と言ってよい景色の俯瞰ショットに連なる。次のショットでは、絶壁に立ちつくすヒトラーがいる。ヒトラーはそのまま邸宅の方へと戻っていく。エヴァが彼に触れようとするが、触れることができない。ヒトラーはまるで彼女が存在しないかのごとく、遠くへ歩いていく。

まず②の一連のショットで注意を引くのは、二人の高低差だろう。最初の階段でのシーンはエヴァが上に立ち、次の丘のシーンではヒトラーが上になる。
あるいは非常にシンプルにこの一連の①と②の描写を見るならば、部下達の前であんなに大げさにエヴァを称賛してみせたヒトラーが、ここではエヴァに対して非常にそっけないように見えるだろう。二人の関係はすでに冷めきっているのだろうか、、、と思わせる。

しかし、
③ヒトラーの部屋にエヴァがやってくる。厳密にいえば彼女は(電話越しの謎のメッセージによって)ヒトラーに呼ばれて来たのだ。
そこでのヒトラーは弱々しい。「僕は病気だもん!もう死んじゃうんだもん!」みたいな感じで駄々をこねまくっている。それに対してエヴァは「あなたは聴衆がいないとただの赤ん坊ね」みたいな感じでヒトラーを侮蔑してみせる(「」内はいずれもデタラメな引用)。ここでは明らかに、エヴァの方が力関係において優位に立っている。


僕が決定的だと思ったシーンは、
④エヴァが「アウシュヴィッツ」という言葉を口にした時である。それまで見ていた映画を「駄作だ」と一蹴したヒトラーに対して、エヴァが「連中をアウシュヴィッツに送れば?」と言うと、ヒトラーは明らかにそれに腹を立てるようにして「アウシュ?ヴィッツ?なにそれおいしいの?」ととぼけてみせる。
一触即発の雰囲気を察したマルティンがヒトラーをなだめると、カメラは持続したまま画面奥のテーブルへ向かうヒトラーと画面手前で背筋をピンっと張って立ち尽くすエヴァ・ブラウン(その表情は、まるで「私はすべてお見通しよ」と言ってるかのようにも見える)を縦の構図でとらえて見せる。
この縦の構図!!!これほど緊張感のある縦の構図は久方ぶりに見た。ものすごい。
直後の夕食においても、エヴァ・ブラウンは不機嫌であり、ヒトラーの人種差別的、女性蔑視的トークを聞くと、そのまま一人夕食を後にしてしまう。

ここまで来て、見るものはヒトラーとエヴァの断絶ぶりを印象付けられるだろう。

が、その直後のシーンがもっととんでもない!これはびっくりした!
ヒトラーの大演説、二人の子供のような追いかけあい、そして愛に至る。。。
この愛に至る描写。暗闇の中椅子に腰かけたエヴァのもとへとゆっくり歩み寄るヒトラー。カメラが捉えるのは、そのたるみきった腹である。この腹が、エヴァ・ブラウンの前に「君臨」する。
エヴァ・ブラウンは、ヒトラーに、屈した。
と、いうように見えた。わからないが。この一連のシーンとその帰結の衝撃は、ちょっとすごい。












2014年4月2日水曜日

WindowsのSurfaceで映画を見ながらメールができるという。しかし、「観客」のマナーって凄く大事なんじゃないか。その3

タイトルがおかしい。おかしくないのだが、もうちょっとおかしくないと思える内容にする予定であった。補足しておくと、、、
『「観客」のマナー』という言葉は当然ながら、映画館や公民館や歌劇場における観客のマナーを意識している。つまりそこでは、ケータイしない、電話しない(=ケータイしない)、私語は慎む、べちゃくちゃ喋らない、前の席を蹴らない、前の人にくしゃみとばさない、といったルールがある。
それは普通に、ごくごく普通に考えて、他人の邪魔をしない、ということである。
だがこれは同時に、自分の鑑賞を自分でブチ壊しちゃダメだぜ、という映画館なりの、公民館なりの、歌劇場なりの、アドバイスなのである。

だって、たとえ観客が一人でも、≪上映前の注意≫は必ず流れるでしょ??(ドヤッ

というぐらいのつもりでこのタイトルにした。

んで、その2までに書いたことは、文化資本に限らないんである。
勉強だってそうだ。日本で英語勉強するより、アメリカに行っちまった方がよっぽど早く上達するのはなんでか、と言えば、要するに「英語の時空間」に身を置くからだ。はじめは聞き取った英語を日本語に直して、日本語を英語に直して答える、なんてことをしてたのが、次第に英語で聞き取って英語で返せるようになるとすれば、それは英語の時空間を手に入れたということだ。

あるいは3日間かけて生理学テキストを読破しても、1週間後には全然覚えてない、俺の三日間返せ、ということがなぜ起こるのかと言えば、それは脳科学者に聞いてくれ。
それは要するに、日常的に、「生理学的に考える」=「生理学の論理に身を置く」ことをしない限り、生理学は身に付かないからである。

愛も一緒である。知らないけど。

そういえば、なぜ最初に『汚名』の話をしたかと言うと、お前ら姑が階段降りてくる間にメールなんかしてんじゃねーぜ、と。
追記
http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/04/surface.html

WindowsのSurfaceで映画を見ながらメールができるという。しかし、「観客」のマナーって凄く大事なんじゃないか。その2

しかしだ!そうはいっても、これは他者に触れるってことなんだよ!逆にいえば、他者に触れずに生きていくことなんか、簡単なのだ!イッツ・イージー・トゥ~~~~リブアローーーン!!!なのである。そう。。。

要するにこれは、豊かかどうか、ということに過ぎない。幸福度調査とか、豊かさの指標とか、世間ではいろいろ言われてますが、映画を見るときにメールするような奴には何も言う資格がない。何も言う資格がない。何も言う資格がない。

豊かな経験とは、自分の日常的な時間や空間や論理性や合理性とは別の、異なった時間の流れに身をゆだね、異なった空間を体験し、異なった論理性につきあう、ということに違いない。それに何の価値があるのかわからない。いや、価値あるよ。多くの人がその価値を実感してここまで来てるんだよ。
あるいは少なくとも、この場所を、異なった時空間に身をゆだね、異なった論理性につきあってみる、というこの場所を、無自覚に乱す権利は無い。乱す権利はある。無自覚に乱す権利はない。じゃあ自覚ってなんだ。自分で考えろよ。

無自覚に乱す、とは、要するにどういうことかといえば、友達とメールを打ちながら見た映画について偉そうに面白いとかつまんないとか言うことである。誰もが面白いとかつまんないとか言う権利を有している。
誰もがその権利を有している。有していない人がもし発生するような状況では、おそらく僕もその権利を有していないだろう。
しかしSurfaceでメールを打ちながら見た映画について友達同士で「あれ、つまんないよ」とか言う権利はない。いや、もちろんある。そういう権利はあるよ。だから行使すりゃいいじゃんか。

考えてみてほしい。
日本人のほとんどが、メールを打ちながら映画を見る。そんなんで、豊かな文化というものが醸成されるかね。映画産業、絵画展、グローバルな歌劇団、というハコモノがあっても、実のところみんながメールしながらそれを鑑賞している。それで人気だ不人気だという話になっている。そんな文化的状況のなかで生き残る映画や絵画やオペラとは、いったいどんなものになるだろうか。
独自の時空間や論理を持っているだろうか。持ってないでしょ。そりゃあ。ねえ。

異質の時空間や論理と、限られた時間だけ向き合うこと。経験すること。それはもちろん、その間だけ、自分の時空間や論理を封印することでもある。しかしそうした経験を通して、新たな時空間や論理を獲得するのである。それが文化資本ってやつである!

「え?ぬーヴぇるばーぐ??知ってるぜ~。ゴダールでしょー、トリュフォーでしょー、シャブロルでしょー、ヴァルダでしょー、レネでしょー、俺全部見たぜ~。Surfaceでメールしながら。」とかアホヅラさげて言ってみてもそれは文化資本でもなんでもない。

文化資本というのは、一見その文字が示唆しているような固定化された知識のようなものではなく、多様な、しかしその一回一回はディープな、文化的経験を通して得られた、日常に潜む非日常に対する柔軟な「開かれ」であり、日常を非日常に変えてしまう大胆にして甘美な生活の智慧である。

その3に続く



WindowsのSurfaceで映画を見ながらメールができるという。しかし、「観客」のマナーって凄く大事なんじゃないか。その1

こんなものに今更反応してあーだこーだ言うのも、何だかシネフィルの化石みたいでアレなのだが、しかし我々はいま一度時間、空間、経験について考える必要があるのではないか。

ヒッチコックの『汚名』で一番凄いシーンは何かって、イングリッド・バーグマンの主観ショットで姑が階段を降りてくるのを捉えたフィックスショットだと思う。
『汚名』の前半を彩るのって、あわただしい人の出入りとかあわただしい会話とか、激しい感情の変転とか、流麗な動きを見せるカメラワークとかだし、それでもって登場人物のバックグラウンドもよくわからないままハナシが進行していくんだよね。
それが、バーグマンが旦那の家に入った瞬間、突然カメラがピタッと止まって(もちろんずっと動いていたわけではない)、しかもバーグマンの主観ショットで、姑がゆっくりと、しかし恐るべきスピードで(!)階段を降りてこっちにやってくる。
ヒッチコックはこのたった3秒にも満たないぐらいのフィックスショット一つで、時間とか空間とか他者とか経験といったテーマを一瞬のうちに考察してみせちゃってる。

以上をもって、『汚名』には映画の原初的経験と呼ぶべきものが刻印されている、などと言うつもりはない。映画の形、可能性、訴えかける対象、それを見て感じること、そういったものは人それぞれで良いし、多様な意見が飛び交うべき議題だ。ダイバーシティ・イズ・オッケー!である。

だがしかし、そうした多様な議論の前提として、メールをやりながら映画を見るということは、ちょっとやめてほしい。
やめてほしい、などと言ったからといって、私にあなたが映画を見ながらメールをするのをやめさせる権利はない。映画館ならまだしも、WindowsのSurfaceで、である。個人的にSurfaceで映画を見るのに、他人があーだこーだ言っても仕方がない、というのは承知である。百も承知である!

だがしかし、もう一度、映画を見るという「経験」について、映画を見る「時間」について考えてみてほしい。映画でも絵画でもオペラでもいいが、作品を鑑賞するというのは、その作品が持つ(持っているべき)独自の時間感覚、空間造形に触れるということである。ざっくり言えば、「他者に触れる」ということであるが、これまたいまさら他者論など展開してみても仕方ない。クリシェクリシェ、ごこうのすりきれ、である。

その2に続く












2014年4月1日火曜日

ハンガー

監督:スティーヴ・マックィーン

具体的にどのような行為をしてそうなったのかついに説明されない「ある自殺行為」によって、全身に潰瘍ができまくってめちゃめちゃ痛そうで、かつ全身の筋肉がドンドン落ち、死に向かっていくマイケル・ファスベンダー。最後の20分ぐらいは、ほとんどのシーンがこの衰弱していく男をほぼ台詞なしでじっくりと撮っていく。あるいはその随所に挟まれる幻覚。どうやら彼のそばに立っている少年はファスベンダーの若き頃であるらしく、ファスベンダーが神父に語っていた故郷の話に同調するように、故郷を誇る歌の合唱が鳴り響くバスに座って窓の向こうを見る少年の姿を撮ると、ついでファスベンダーが神父に語っていたように野山を走る少年の姿を映す。そしてときおりカラスの群れのダークなイメージと、何やら不穏な雰囲気を醸し出す少年の表情が映される。

例えばこの少年のランニングするシーンの撮影なんかはヨーロッパの秀逸なサスペンス映画のオープニングのような空気感を醸し出している。だから何だ、というわけではないのだが、しかしひたすら衰弱したファスベンダーを捉えるショットの連鎖の中での、このダイナミックな移動撮影は、なるほど視覚的にも刺激的であり、また現在の衰弱を強調するものでもあるかもしれない。

しかし不穏な空気感、と言えば、これは今言及した"不穏さ"とは異質な不穏さではあるが、やはりオープニングから続く、刑務官を捉えたショット群の不穏さは突出しているだろう。
『SHAME』になく、この映画にあるもの、それは主観ショットである。刑務官が玄関を出て左右を見る、その主観ショット。レンガの家が立ち並ぶ美しい住宅街を映したその主観ショット(とその律儀な積み重ね)は、昨今の映画ではなかなか見れないように思う。そういう理由もあって、この冒頭の主観ショットと適格なカメラの配置(車の下から撮る、さらに妻の主観ショットで刑務官を映す巧妙さ)には素直に感動した。
しかもこの冒頭のショット群(雪の中を動くネズミを撮ったショットまで含めて)があるからこそ、この映画には単なる「リアルな暴力描写に裏打ちされた衝撃作(笑)」以上の面白さがあるのではないかと思われる。
刑務官の負傷した手。ファスベンダーを殴る際に、ファスベンダーが身をかわしたせいで壁に思いっきり拳をぶつけてしまうショット。きわめて主観的な印象ではあるが、あのショットがこの映画では一番痛々しいぐらいだ。
あるいは刑務官の殺され方。ファスベンダーの死が20分かけてじっくりじっくりと描写されるのに対し、刑務官は一瞬のうちに殺されてしまう。

ところでファスベンダーが死ぬまでの描写には、血圧を測ったり、なんか変な器材をベッドにつけたり、軟膏を塗ったりといったものが含まれていて、やっぱり気になってしまうのが、これらのショットの必然性だろう。"じっくり描く"というのは、単に時間をかけるということではない。これらのショットに時間をかけて具体的な描写をするという以上の意味があるだろうか。つまり具体的ではあるが、しかしどの具体例でもオッケー、なのではないか、とか思ったりもする。しかしそれだけでこれらのシーンを否定できるとも思えない。よくわからない。そもそもショットの必然性なるものが映画を規定するわけがなく、だって僕らはしばしば何気ないショットに「ああ、いいねぇ」とか言ってニヤニヤするわけだから、これらの病院のシーンも一つのバリエーションを見せてもらった、というだけなのかもしれない。

それにしてもこの映画は面白い。インパクトとしては上記したオープニングからのショット群や最後の20分間が良くも悪くも強いのだが、中盤の描写は大したものだ。
例えば部屋をともにする囚人二人とファスベンダーを別々に描く構造の面白さ。同じ刑務所にいながら、"彼ら"とファスベンダーはほとんど接触することがなく、映画としてこの三人が交錯するのは、面会で各々が(股間に隠していたモノを机の下で渡したり、あるいは口の中に入れたものをディープキスで渡したり、、)ひそかに面会者とモノを交換する描写の交互のモンタージュや主観ショットである。そもそもこのシーンで初めてファスベンダーが登場するわけだが、それも一人の囚人の主観ショットで唐突に現れるだけで、彼が何者なのかはその場では明かされないのだ。
こうした面白さ、あえて言えば通俗的娯楽映画とは一線を画する(だからこちらが上ということにはならないし、そもそもそんなことはどうでもよい。)構造的面白さがある。
また台詞をなるべく排し、人物の性格描写を放棄することで、一回一回の出来事における各々のリアクションそれ自体が、新しい印象として映画の相貌を変えていく面白さがある。

『ハンガー』には、映画とはこういうものなのか、と思いたくなる部分があるのは事実だが、それとて、『アメリカン・ハッスル』のごとき映画の堕落しきった姿ではなく、こういうものでもあるかもしれない、と思わせてくれる力作だ。