2012年11月27日火曜日

ストロベリーショートケイクス

監督:矢崎仁司

 幾度となくその大きな図体を、何の恥じらいもなく画面の中央でさらしてみせる東京タワーや、あるいは幾度となく女性たちの背後を、まるで彼女たちの運命を、時には嘲笑い、時には見守るように通っていくJR線の存在が、この4人の女性を主人公にした群像劇が、東京を舞台としていることをはっきりと宣言してはいるものの、しかしながらこの映画で驚くのは、東京特有の「人口密度」や「喧噪」が不在であることだ。
 中村優子と安藤正信が訪れる居酒屋にしても、池脇千鶴が働くことになるラーメン屋にしても、そこには人気がほとんど感じられない(逆に池脇千鶴がデリヘル嬢を連れてラーメン屋にやってくるシーンの充実感の新鮮さ)。
 それは彼女たちの場所から場所への移動のほとんどが省略されているからというのもあるかもしれないが、一方で彼女たち自身が人との接触を避けているからでもあるだろう。
 中越典子はオフィスではほとんど誰とも接しないのだし、あるいは岩瀬塔子は体調不良で倒れようと、そこに駆けつけて救助しようとする人々の手を払いのけようとする。
 気恥ずかしいぐらいに強調される東京のシンボルが、逆説的に彼女たちの「疎外」を印象づける。

 池脇千鶴が、消灯した東京タワーに向かって「おやすみぃ」と無邪気さとアンニュイさが混ざったような可愛い声でつぶやいたり、あるいは中村優子が去っていく安藤正信を見送りながら、「またねっ」と呟くシーンは、彼女たちの「他者との接触」への飢えを物語っているといえるだろう。これらのシーンはワンショットの持続の中で実に実に印象的なイメージとして見る者の記憶に焼きつくことだろう。

 そしてこの映画は、物語とイメージの力でもって、彼女たちを見事に「接触」させてしまう。
 中村優子が、安藤正信が恋人と月を眺めている光景を目撃したショックで捨てたトマトが、岩瀬塔子によって拾われ、そのトマトが岩瀬塔子にインスピレーションを与え、岩瀬は絵を完成させる(この絵を完成させる一連の俯瞰のシーンも非常に良い)。そしてその絵が実は業者の依頼ミスであることが発覚して、岩瀬はこの絵を破棄する。そしてその絵が池脇千鶴によって拾われ、それがやがて岩瀬塔子のもとへと渡る。

 あるいは、物理的な手の接触もまた、この映画では実に印象的だ。
 池脇千鶴の母親の恋人が、中村優子の手を握る(ロングショットに引くことで、このシーンは実に見事に喜劇として回収されている)、あるいは中村優子の手に触れてくれない安藤正信。
 あるいは、終盤の新幹線でのシーン。
 中越典子と岩瀬塔子が入口で向かい合っていると、そこに「赤の他人」が乗ってきて、中越典子に接触する。この映画でこれほど明確に主人公と「赤の他人」(それは東京と言っていいかもしれない)が物理的に接触するシーンはないだろう。
 そしてその接触の結果、中越典子はバランスを崩して倒れそうになり、岩瀬塔子がそれを支える。正確には手を握る。
 そうして握られた二人の手は、決して離れることはないだろう。これほど感動的な「手を握る」という運動は見たことがない(「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフも泣ける)。

 あるいは逆に、この幾度となく登場する東京タワーについて考えてみよう。
 かつて黒沢清は、東京を舞台にする映画でも、東京タワーのようなわかりやすい表象は撮らないようにしていると述べていた。北野武もまた、東京タワーのようなわかりやすいものを撮る監督はダメだ、と言っている。
 この映画はどうかというと、アホみたいにタワーが出てくる。そして池脇千鶴を夕食に誘った店長は、その東京タワーを見て「綺麗だね」と、話のネタにしようとする。
 あるいは満月。映画の多くの人物が、「恋人と満月を見たい」という願望におかされている。
 つまりこの映画の多くの人物達が、実にわかりやすい表象(タワー、満月、占い)にとらわれているのだ。
 そうやって目の前のわかりやすい大きな物語に飛びついてきた中越典子が、偶然岩瀬塔子の嘔吐を目撃してしまうとき、中越典子は、如何に自分が何も見えていなかったかに気づかされる。
 だからこそ、上記の「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフには泣かされる。
 これはそういう映画だ。


 光の繊細な感覚、フィックスショットの絶妙な持続のさせ方、そしてあの屋上の美しい美しい撮影など、ほとんど信じがたいレベルの邦画だと思う。ゼロ年代の、これはベストだね。

2012年11月24日土曜日

合衆国最後の日

監督:ロバート・アルドリッチ

素晴らしいね。震えた。
最初から二個目の、カーテン越しにヒゲを剃る大統領を捉えたショットがまずもって素晴らしいのだが、カーテン越しに大統領を捉えたショットが中盤に再び出てくる。それは問題の文書を読んで立ち尽くしている大統領の姿だ。そしてこの素晴らしいショットから始まる、超ストレートな政治的議論の物凄い迫力。ホワイトハウスで一番左派っぽいザックと大統領を捉えたショットの強度、そしてここぞというときに繰り出される俯瞰ショット。
あるいはその直後の大統領と副官のやり取りの面白さ。それは部屋のフルショットの妙な緊張感に裏打ちされていると言えるだろう。

あるいは、ゴールド作戦とその顛末の描き方。画面4分割の状態で、各現場が大混乱する様を同時に描いちゃうっていう大胆さ。この作戦の終盤の音のカオスっぷりは凄い。とにかくみんな怒鳴り散らしてるのだが、全く何を言ってるのかわからない。しかしそうするうちにミサイルはどんどん地上へとせり出していく。この緊迫感の醸成。
サイロ3に通じるトンネルのショットはどれもかっこいい。

ゴールド作戦の大混乱と対照的に、クライマックスは実に静的な、硬直しきった緊張感だ。
大統領とランカスターがついに対峙するシーンの、あの縦の構図。
あるいはその直前の、監視カメラ越しに見つめ合う両者。
ランカスターと大統領は、どちらも世界の秩序を動かす巨大なシステムに抗おうとする二人だ。映画はその全く立場の異なる両者が対峙する瞬間を、これ以上ない強度で演出してみせる。
超スーパー大傑作!

人生の特等席

監督:ロバート・ローレンス

イーストウッドは朝目覚めるなり一人で愚痴ばかり言っている。あるいは亡き妻の墓石に語りかける。
ジャスティン・ティンバーレイクは、少年野球を見ながら自分の録音機に向かって実況中継をし始める。

このように、この映画の主人公たちは冒頭からして、ひたすら一方通行の発話をしている。

この二人の人物とエイミーアダムスを主軸に映画は進む。
エイミー・アダムスは何度もイーストウッドと対話しようとするが、イーストウッドはそれを真面目には受け止めず、全て受け流そうとする。そんなイーストウッドに腹を立てるエイミー・アダムスは、この映画で幾度となくイーストウッドに背を向けることになるだろう。イーストウッドもまた、その後ろ姿を茫然と見つめることしかできない。

エイミーアダムスをナンパした男を追い払った後のシーンでは、エイミー・アダムスとイーストウッドが言い争い、アダムスは部屋へ歩き、イーストウッドはその逆方向へと歩く。つまり二人はお互いに背中を向ける。その二人の背中を茫然とティンバーレイクが見つめる。

ティンバーレイクとアダムスが三塁側のスペースで野球を見るシーンでは、小気味良いやり取りのあと去ろうとするアダムスに、ティンバーレイクが「弁護士にしては知りすぎだ」と言うと、アダムスがティンバーレイクの方を振り返って「理由があるのよ」と誤魔化し、素敵な笑顔を見せる。

背中を向け合っていた人物たちが、徐々に心を開き、振り返り、そして向かい合う。

しかし人と人が向き合えばたちまち問題が発生する。それは彼ら、彼女らが今まで心に閉まっていた本音をついにぶつけあうからだ。
喫茶店でのイーストウッドとアダムスの言い合い、あるいはティンバーレイクの車の前に立ちはだかるエイミー・アダムス。

ああ、そして、お互いの本音をぶつけあった二人は、終盤のとってつけたような大味な展開を、ほとんど言葉もなく見つめ合い、頬笑み合いながら見届けることになるだろう。(そして観客もまた、そのイメージとともに、このベッタベタな展開を最高の気分で喜んで見届けることになるだろう)


イーストウッド、アダムス、ティンバーレイクの、「背中を見せる」、「振り返る」、そして「向かい合う」という運動をしっかりと捉えること。
車の窓越しにこちらを見つめるエイミー・アダムスの顔を、振り向きざまに最高の笑顔を見せるアダムスの姿を、子供のようにグラウンドを走るアダムスを見つめるイーストウッドの顔を、しっかりと捉えること。
物語がもつ重要な契機を、運動を、その豊かなイメージとともにしっかりと強調すること。


だからラストは当然、エイミー・アダムスの背中を見つめ、静かに去っていくイーストウッドの背中を捉える俯瞰になるわけだ。それは、それまでのディスコミュニケーション的性格の冷たい背中ではなく、信頼とか愛情とか照れとか、そういうのが詰まった暖かい背中だ。
まさにアメリカ映画の真髄。
超傑作。


2012年11月23日金曜日

その男、凶暴につき

監督:北野武

どっからどう切り取っても傑作であって、もうイチイチ書く事すら躊躇してしまう程だが、しかし決定的なのはやはり更衣室のシーンだろう。
それまで映画は、武の過剰な暴力を見せつつも、それらは例えば新米の菊池の存在や、あるいはスローモーションなどによって「笑い」へと回収されていた。
だが更衣室のシーンではどうだろう。
まず更衣室の外に立っている菊池の姿をカメラは捉える。そして中からドン!という音が何度も聞こえてくる。しばらくすると、菊池の姿と更衣室の中で白竜が殴られているショットが交互にモンタージュされる。それまで映画を(そしてこのシーンでもまた)「笑い」へと誘っていた菊池と、白竜の殴られるショットのモンタージュ。
そしてシーンはいよいよ更衣室の中へとフォーカスされる。そして決定的なショットが、壁にもたれて座り込んだ白竜とそれを見下ろす武の切り返しショットだ。ここでは、それぞれの「キチガイ」が、交互に真正面からカメラで捉えられる。そしてこのショットを最後に、映画から「笑い」が排除される。

クライマックスの演出の強度は圧倒的だ。武が登場するタイミング、そして扉を開けると光が差込み、白竜と武が縦の構図で捉えられる。こんなことを処女作でやってしまうというのはちょっと信じがたい。

川上麻衣子と武が帰り道に通る河川敷の俯瞰ショットの嘘みたいな叙情性。

黒の試走車

監督:増村保造

なんと渋い傑作。派手さは皆無だが、すべてのシーンが素晴らしい強度を持っている。

会議室の映画だと言えるだろう。ある者とある者が議論をし、そこに別のものが口を挟む、という一連のやりとりを、カメラがそのたびに視点を変え、構図⇒逆構図の切り返しを積み重ねながら、随所に仰角のフルで引き締める。冒頭の会議で高松英朗が最後に立ち上がる瞬間、カッティング・イン・アクションで仰角に引く間合いが完璧。

2012年11月22日木曜日

ふがいない僕は空を見た

監督:タナダユキ

永山絢斗が丸めて捨てた紙くずを捉えたタイトル・ショットがとてもいい。

画面の外から聞こえてくる声や音。
永山絢斗を引きとめようとする田端智子の叫び声、家に帰った田端智子の耳に聞こえる盗撮動画の音、窪田正孝のノックに対して居留守を使う母親が立ててしまった物音、電話越しに聞こえる田端智子の姑の嫌み。田端智子が合わせて歌うアニメソングとそれにかぶさる裁縫マシーンのガタガタという音。
とりわけ印象的なのが、窪田正孝とバイトの同僚の女がビラを撒いてはしゃいだシーンの直後にどっかの民家から聞こえる悲鳴。

多くの画面外の音が、画面内の人物に対して「重たい現実」としてのしかかってくる。田端智子と永山絢斗が私服で交わるシーンの嘘みたいな透明感や永山絢斗と同級生の女生徒とのキスシーンと対比されるようにして。

前半はこんな感じで快調に進んでいくのだが、後半はその現実がひたすら「リアルな現実」として、世の中の縮図として綺麗におさまり、そのリアルには確かに心を打たれるが、しかしそれ以上いかない。映画がリアルを越えようとせず、言語的になってしまう。

あるいは前半の、極めて断片的な描写、前後の流れを無視し、それだけで成り立たせんというばかりの「運動性」に対し、後半はその前半の断片性を「論理的に」説明していくものでしかない。
田端智子のキャラクターの形容しがたい浮遊感は、「不妊とそれによる家族からの圧力に悩む主婦」というステレオタイプなそれに回収されるのだし、窪田正孝もまた現実の若者の不幸をなぞっているに過ぎない。
現実の不幸をなぞっているというのは、別に私が同じような境遇の若者を知っているとかそういう事ではなく、「団地住まいです。婆ちゃんが認知症です。両親がどうしようもないです。コンビニでバイトしています。金がないです」という説明的な描写によって誰もが了承できるレベルであるという事だ。繰り返すが、別にそれでもいい。もっと悲惨なものを描けとかそういう事でもない。現実の不幸を身にまとうことがダメとは言わないが、しかし映画とはそうした「説明可能な現実」とは別の何かが、あるいは我々が現実において見逃している「細部」が、ふとした瞬間に「非リアル」として、つまり「緩やかな時間」として立ち現れるのを捉えるものではなかったか。
おそらく、腹を空かせた窪田正孝が原田美枝子のつくった弁当を見つけ、それをたまらず頬張るという描写にこそ、その瞬間は訪れるべきだったかもしれないが、監督はそれに自覚的なのかどうかわからないが、とにかくこのシーンを全力で演出しなかった点に、この映画がいかに言語的であるかが表れている。

遠くから自転車がやってくるショットやあるいは自転車と並行しての撮影など、なかなか気に入るショットがあったので、タナダユキはオリジナル脚本で撮ってはどうか。


2012年11月20日火曜日

水の中の八月

監督:石井聡亙

『水の中の八月』というタイトルがすでに泣ける。

飛び込みの撮り方、飛び込み台を中心に仰角の横移動で見せるのは凄いカッコいいんだけど、何回やってんの!とか、途中の飛び込みをMTVみたいに細かく見せるの鬱陶しいとか、中盤の山登りとかもうどうでもええわ!とか、まぁいろいろ文句はつけたいのだが、しかしこれが決定的に泣ける。例えば終盤、葉月泉が川で振り向いて真魚にテレパシーを送るとこ、あれ、テレパシーの内容をオフで流すわけで、んなことやったらアカンやろ、って感じなのだけど、なぜかそのテレパシーが泣けちゃう。あるいは、この振り向いたときの葉月泉が、この映画の中でダントツに可愛い。

決定的に泣けてしまうのは、ふとした瞬間の美しい光景の強度ゆえだろう。
特に好きなのが博多祭りのシーンで、真魚が「この匂い、水が蒸発する匂い、、、」とつぶやくと、画面手前にいる泉が、目を閉じてスーっと息を吸い込むショット。素晴らしい。

あるいは何度か出てくるバイクのシーン。最初は肩に手をおいていただけの泉が、中盤では抱きついて居眠りをしている。でもことさらに勿体つけて見せないんだね。あるいはそこから急速に二人の愛が深まるわけでもなくて、本当に何ともなしに、泉が真魚に背中に寄りかかってるショットを、ほんのちょっとだけ見せるっていう、この慎ましさが良い。

真魚がプールに飛び込んで泉を救出するショットも、まぁこの題材なら当然あるわけだが、でもこの映画はちょっと異質な感覚を帯びてるよね。というのも、その直前、つまり泉が飛び込むシーンで、変な合成映像みたいのブッ込んでくるから、「うお、何この実験映画ライクな演出ww」となって、ちょっと虚を突かれた直後に、この美しいショットが出てくるもんだから、余計に感動しちゃうんだ。

ラストもいいね。最後をこういう風に終わらせるなんて思ってもいなかった。
泉がつけてた日記も、なんか泣ける。
そして幻想の中で泉が老いた真魚を抱きしめるショットが凄く良い。
映画としてはほんのラスト数分のうちに、半ば強引に時間を早送りさせてるのに、このショットただ一つだけで、真魚が生きた年月を感じさせてくれるのだ。そしてその、何と悲しく、儚い人生だろうか。
何かこう、すべてを許してしまいたくなる映画だ。

細部に注目しよう。あるいは、作者の意図やモチーフとは?

 映画でも小説でも何でもいいのですが、作者の伝えたいことを考えるという鑑賞の仕方と、そういった作者の意図を無視して鑑賞するというのは、まぁ映画の世界でもしばしば対立することだと思います。後者というのは、いわゆる表層=見たもの聞いたものだけを素材としてその作品を評価するという認識をしています。で、この記事ではこの一般的な考え方をちょっとだけ乗り越えてみようと思います。

 こんなシチュエーションを考えてみてください。
 AくんとBくんが、ある作品のテーマを巡って意見が対立しているとします。で、拉致があかないので、ネットでその作品の監督のインタビューを検索してみたところ、見つかりました。そして、その監督がその作品のテーマに言及していました。それはAくんの考えと同じでした。Aくんは意気揚々となって、Bくんをdisりました。
さて、このとき、Bくんは「間違っていた」のでしょうか。

 これは要するに、作者の意図やモチーフというのが、その作品をめぐる言説環境において、いかほどの「権威」を持つか、という話になると考えます。
 
 ここで権威主義の話をします。
 権威主義というのは、しばしば権威を振りかざして上から目線でバカにしてくる、というようなイメージで考えられることがあると思います。「お前はカントも読んでないのか」、「あのね、君の大学なんか僕の大学に比べればクソだよ」とか、こんな言説に代表させることができるでしょうか。
 
 ただ、僕は権威主義は「上から目線」ではないと思っています。むしろまったく逆ではないかと。
 というのも、「お前はカントも読んでないのか」という発言は、disる対象に対しては確かに上から目線なのだけれども、実は暗黙の前提として、「カント」に上目遣いをしているわけです。カントという権威のご機嫌をうかがいつつ、自分より下の人間を見つけると、カントを「利用する」という態度こそが権威主義だと思っています。
 つまり他人は貶めつつ、自分は権威の下に守られようとするような、歪んだ自己愛が根底にあるのではないかと。

 さて、ではここで話を戻しますが、作者の意図は権威なのかそうでないのか。実をいうと、僕はここは重要ではないと思います。というか、作者の意図というのがまったく無視できるとは思えないので、ある程度の権威ではあるでしょう。程度の問題です。
 つまり、先ほどのエピソードで本当に重要なのは、作者の意図が自分と同じであったと知ったAくんが、意気揚々とBくんをdisるという行為の評価です。
 僕はAくんの振る舞いこそが権威主義だと思うわけです。作者の意図が権威であるかどうか、が重要なのではなく、それが権威と見なしたうえで、それに依拠して他者をdisるのかどうかこそが重要だということです。disるとは言わないまでも、Bくんより自分が正しかったとほくそ笑むことの評価です。

 誤解してほしくないのは、作者の意図やテーマを考えるという事はまったくもって非難されることではないという事です。問題なのは作者の意図やテーマを「当てっこ」してしまうという事です。

 ではなぜ僕がそこに慎重であるべきかを説明します。
 まず、作品、ここでは映画の話にしましょう、には、当然作者=監督、脚本家などの意図やモチーフが反映されているでしょう。しかし一方で、映画には作者の意図しないものまでも映っているかもしれません。あるいは同じものを映しても、作者と観客では見え方が異なる場合もあるでしょう。
 そうしたときに、たとえば観客が監督のインタビューを読むとします。そして監督の意図やモチーフを知ります。したがって、当然観客はその作品の中に作者の意図やモチーフを反映したもの、反映していないものの両方の要素を見出します。そしてその観客が作者の意図やモチーフを(いわば権威として)絶対視しすぎてしまうと、後者、つまり自分が見たけれど、実際には作者の意図やモチーフとは関係のないもの、を意識外に捨ててしまう、という事になってしまいます。私はここに危惧しているわけです。

 映画にかかわらず、世の中には様々な人の様々な思惑があふれかえり、それらは具象化し、情報としてインターネットやテレビ画面などを通じて我々の前に伝えられます。
 私たちはそれを、その伝達者の意図やモチーフにしたがって、情報を分けるのでしょうか。そして意図やモチーフと関係しないものは、関係ないとして隅に追いやってしまうのでしょうか。
 それは、何か、大切なもの、誰の思惑からも独立して、偶然にも私たちの前に現れた細部の煌めきを、逃し続けることにはならないでしょうか。

 誤解しないでいただきたいのは、私は作者の意図やモチーフを無視せよ、と言っているのではないのです。そういった行為は「権威だから」無視する、という意味で権威主義と同族にあると思います。
 そうではなく、作者の意図やモチーフの存在を認めたうえで、作品、ひいては情報と向き合い、そこに豊かな細部を発見すること、そうした行いを通じて、その作品や情報をめぐる言説空間に新しい解釈、新しい価値体系を生成させ、社会を変容させていくこと、、、ちょっと気合いが入りすぎですね(笑)、少し控えめに言うならば、そのように自分の解釈を投入することで、言説空間が変わりうることを自覚していくこと。つまり、当事者としてその作品と向き合うこと、これが重要ではないかと思っています。
 
 映画を中心として話しましたが、様々なものに対して、このような姿勢を持ちたいと思っています。


カリフォルニア・ドールズ

監督:ロバート・アルドリッチ

冒頭、試合後にピーター・フォーク演じるハリーとドールズの二人が言い合いになり、ドールズの二人が機嫌を損ねる。そのままハリーは車を走らせるわけだが、ここでハリーが「本物は~(すまん、忘れたw)」という格言を言うと、それを二人が復唱する。で、このやり取りは車が走り出すのを全景で捉えたショットにオフの声として入ってくるわけで、このようにしてこの三人のチームの雰囲気が大体伝わってきて、「ああ、いいなぁ」、と。ついでにこの車のマフラーが壊れてて、煙がもくもくと出てくるのが良いよね。

ピーター・フォークが川で石投げてるショットとかすごいよね。

黒人チームと楽屋で喧嘩になるシーンとか、興行師を誘惑して帰ってきたアイリスと言い合いになるシーンのカット処理とか、地味ながらすっごい良い仕事してる。

ただ、全体のカット構成とか、音の作りかたにややノレなかった。
会話において、Aがしゃべるショット=Aのセリフ→Bがしゃべるショット=Bのセリフというカット処理がベースになってるので、ちとテンポが必要以上に遅い気がする。クライマックスのバトルでもリングアナウンサーのしゃべるショットがいちいち挿入されるのが、ちょっとノレなかったかな。

それでも随所に良いシーンがいっぱいあるし、これはもう一度見るとまた味わいが深まるのかな、と思った。

2012年11月15日木曜日

覚え書き

考えるとは、一般化できないものや理論化できないものの存在を確かめること。「それ」が実在するものであれ、空気であれ、観念であれ、それに直に触れること。
でもそのためには、一般化する方法、理論を学ぶ必要がある。どこまでが一般化できるのか、どこまでが理論から説明できるのか、それを知ったうえで、そこからこぼれ落ちる部分をすくい取ること。
こぼれ落ちるものは、こぼれ落ちる事を知られるだけでは、触れられたことにならない。こぼれ落ちるものがあると知っていながら、無視するのは怠慢だ。
こぼれ落ちるものを、実際に掬い取らない限り、それらは存在することを押しつぶされた痕跡にしかならない。

2012年11月14日水曜日

フランティック

監督:ロマン・ポランスキー

突然失踪した妻を探す物語でありながら、ことさらにサスペンスを盛り立てることなく、あくまで地味に、所々で細部を丁寧に描くあたりに好感が持てる。決して心拍数は上がらないのだけど、いつまでも飽きない。
ホテルに到着したハリソン・フォードと妻の可笑しいやりとりから、フォードがシャワーを浴びるワンショット内でたちまちに不吉な予感を起こさせる見事な手腕。デデという男の死体現場の猫の扱いや、ハリソン・フォードが屋根の上を歩くシーンの処理もいい(アタッシュケースが開いて中のものが全部出てしまうとこ、あるいはハリソン・フォードの靴がスーっと滑っていくショットね)。
妻が失踪した直後の、大使館で行列に並ばされたり、警察で全然まともに取り合ってもらえなかったり、フランス語がわかんなかったりという、フォードの徒労感の描写がとっても上手い。
あるいはエマニュエル・セニエ演じるミシェルのパンクなキャラクタりゼーションも楽しい。
喫茶店のスプレー噴射、クラブでの妖艶な踊り、少しずついろんな表情を全編を通して魅せてくれる。
傑作でしょう。

2012年11月13日火曜日

リリィ

監督:クロード・ミレール

この全くもって形容し難い、しかし完璧に見る者を熱狂させる、底抜けの、ミステリアスで挑発的な魅力はいったい何なのだ。
湖、渡り鳥、風、森、これらの自然を、決して審美的ではなく、シャープに、スクリーンに突きつけるように切り取ったオープニングのイメージ、そこから続く唐突なリュディヴィーヌ・サニエの裸体の描写には、そう、極上のサスペンスの香りがぷんぷんと漂う。

ミレールの2000年代以降の作品は、あの最強の傑作『ある秘密』しか見ていないが、しかしこの冒頭の切れ味鋭いイメージの数々、そして前半から中盤にかけて繰り広げられる怒涛の不信と情事の物語には、天才クロード・ミレールの、あの鮮烈さが、はっきりと刻印されている。

現代の映画らしく、怒涛のスピードで次々に生起しては消滅していってしまうイメージの数々。人々がふっと作業を止めて宙を見つめるいくつかのショット、ジュリアンが母親の部屋にやってきた時のフルショット、海辺でリリィが木の影に隠れるようにして去っていくショットのなんと忘れがたい美しさ、危うさ!

この映画全体が、クロード・ミレールの確信犯的な挑発だと思う。アントニオーニの『欲望』のように、形式と内容が一体化している(アントニオーニが『欲望』についてそう言ってたよん)。

何も解決されぬまま放り出された前半部、そして唐突に時間がジャンプして始まり、それぞれの人生を再開させた人々が、再び出会い、しかしお互いがいったい何を考えているのか全くわからず、ひたすらそのミステリアスな視線、表情、そして映画のフォルムがサスペンスを醸成し、いったいどこに向かっているのかわからないというような印象を持たせる後半部、そしてラスト。

この万華鏡のような、スキャンダラスなラストシークエンスを見るにあたって、私たちは「前半はいったい何だったのか」と思わずにはいられない。何だったのか、正確に言えば、「あれは現実だったのか」、いやもっと言おう、「現実とは何なのか」、そう思わずにはいられない。
リュディヴィーヌ・サニエがセットの上を歩く姿に、CGのイメージ映像がかぶさるとき、その快い不安は頂点に達することだろう。
映画は何かを仄めかし、そして何も解決しないまま、終わる。たぶん、この人物達もまた、何も解決することを求めぬまま、何も無かったかのように別れていくのではないか。
だが決して何も無かったなどとは言わせぬ。彼らは崖の上で、あと一歩で落ちるところまで来ていた。結果として彼らは落ちなかっただけだが、しかし彼らは間違いなく崖の上にいた。あと一歩ですべてが壊れそうなところにいた。それを事件と言わずして何と言おうか!
だからこのラストは、ハッピーな表情をした究極のビターエンドだ。


(追記)
この映画全体の構造をわかったうえで再見してみると、意外な事に後半部が平板に見えてしまう。
というより、良いカットと悪いカットが混在していて、そういう意味では冷静に自分の中でこの作品を位置づけることができたかもしれない。だが例えばこの映画をスクリーンで見たら、おそらくまた違った印象にもなるだろう。
後半部の演出の意図はとても難しいが、シモン(ジャンピエール・マリー)が別荘のセットで、トイレに行くシーンが秀逸だな、と。
「セットも本物と同じとこにトイレがあるのか?」と聞いてそこに行ってみると、スタッフ同士が情事に及んでいるというシニカルなエピソード(まさに愛憎入り混じる屋敷だ(笑))、そしてその後セットの外のトイレに行くシモンを後ろから逆光で捉えたショットがとても良い。
セットでの撮影シーンは全体的に照明が平板であるだけに(しかしこれも前半部とのコントラストを強調しているのかもしれない)、この逆光のショットはとても印象に残る。

あるいは、前半部はカッティング・イン・アクション、あるいは人が通りすぎる瞬間にカットを割って寄る、といった技巧的な編集に加え、カメラワークは極めてなめらかな曲線を描いているのに対し、後半部の印象はまるで異なる。というのも、後半部は車に乗って電話をしているリュディヴィーヌ・サニエのシーンから始まり、これがフィックスのジャンプカットが多用された非常にザクザクとしたイメージであり、続いてサニエが、ブリスとマドの二人に偶然遭遇するシーンはワンショットの直線的なカメラワークで、丁度縦に歩くサニエと、横に歩く二人(ブリス、マド)が直角に交わる様が描かれる。さらに続いて、サニエが二人と別れてからおもむろに電話をかけるシーンも直線的な長回しで撮られている。









2012年11月11日日曜日

「卑しい動機」と価値の再発見

 しばらく前にTwitter内で、カンボジアの支援をする(いわゆる)意識の高い学生を揶揄するツイートが見られ、それが(いわゆる)アルファ・ツイッタラーの間で盛り上がるというケースがありましたね。
 これらの言説の内容を私なりに要約すると、「彼らは、日本にも貧困はあるのに、カンボジアの支援を優先させる。それは、彼らが貧困に同情してるんじゃなくて、『海外支援してる僕たち』に酔っているからだ。マジ気に食わん」という事になるかと思います。
 
 なるほど、そのような心性はあるのかもしれません。かく言う私も、国境なき医師団で働いてみたい、とか、国連で働いてみたい、などしばしば思うのですが、要するに海外を股にかけて仕事する自分の姿を描いて酔っているという解釈も可能でしょう。

 つまり、その動機が「卑しい」という事が、しばしば揶揄/非難の的になるわけです。

 同じような事例はいくらでもあると思います。
 例えば「人と違うことをする」、「人があまりやっていない事をする」ことによって目立とうとすること。みんながAをやっているからBをやる、というのは、実はBそのものに価値を見出しているとは言えないわけですね。つまりもしみんながBをやっていたら、その人はAを選ぶことになるからです。
 それ自体に、普遍的な価値を見出すことなく、行動や立ち位置を選択するという意味において、その選択の動機は「卑しい」と呼ぶことができるかと思います。

 私が言いたいのは、それでいいじゃないか、という事と、しかしその次の段階こそが重要なのではないか、という事です。
 
 過剰な自己承認欲求が暴走して、確固たる核を持たない状態で行動や身振りを選択してしまうということはいくらでもあります。
 そしてそうした「自己承認欲求」が露骨であるとき、人はそれに辟易し、揶揄/非難をするのでしょう。
 私はそのこと=卑しい動機によって行動を選択すること自体にはさほど問題があるとは思いません。
 私が問題だと思うのは、承認欲求に溺れてしまうことです。つまり、承認欲求を満たそうとして選択した行動から、結果として承認欲求以外のものを得ずに終わってしまうことです。
 もちろん、日常のささいな行為はしばしば、ただひたすら承認されるために行われ、承認され次第恍惚とともに終わるわけで、それをいちいち問題にしようとは思いません。
 
 しかし、「カンボジアの支援」レベルの話になってくると、重要な問題だと思います。
 
 動機が卑しかろうが問題ではないわけです。重要なのはその先ですね。
 実際の経験を通して、その行動や身振りに内在する普遍的な価値をいかに発見することができるか、あるいは自らの卑しい動機によって始めた行動の中に、「卑しい動機を満たす道具」とは別の意味を見出し、再解釈すること、これがとても大事なことだと思います。
 なぜならそのような再解釈、価値の再発見を通じて、もしかしたら「カンボジアの支援」以上に価値のあることが発見されるかもしれないわけです。そしてそうして発見されたものは、もしかしたら自己承認を全く満たさないものかもしれない。でもそれが成長ということなのかもしれないですね。

 もちろん「カンボジアの支援」のようなものにとどまらず、例えば趣味・文化の世界でも言えることだと思います。
 「趣味って人と違うからやって承認欲求満たすためにやるんだろ?」というニヒルな言説はよく見られますが、おそらく導入としてはそんなものかもしれません。
 しかし、そうした「卑しい動機」によって始めた趣味・文化活動を通じて、その趣味・文化活動に内在する普遍的な価値というものを発見することができれば、そのような動機の「卑しさ」など、さして問題ではないでしょう。

 あるいは学生として一番身近な例として、試験勉強があると思います。
 試験に落ちたくないから勉強する、しかし結果的にその科目の面白さを発見する、というプロセスは、、、まぁ最近あんまり無いですね・・・orz
 
 
 私は上記したような、(様々な動機から)行動をする→その行動そのものを再解釈し、本質を発見する→次の段階に進む、というプロセス、そしてそうしたプロセスを経験できるような社会的な仕掛けが重要だと思っています。それはTwitterのような言説空間のレベルでも言えると思います。
 「結局自己承認欲求満たしたいだけ」というような揶揄・非難は、上記したような本当に重要なプロセスの経験を阻害してしまうことになると思います。
 であれば、「承認欲求丸出し」の行動に対し、それを一応肯定しつつ、しかしその先にあるプロセスに気づかせてあげる/促してあげるというような態度が重要で、そうした態度/空気を通じて社会の多様性や(文化的思想的)豊かさは生まれるのではないかと考えています。 



2012年11月9日金曜日

孤独な声

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

ソクーロフの処女長編。ソクーロフという人は本当にとんでもない天才だな、とつくづく思う。
映画において、男と女を描く、しかも濃密に。これはあらゆる映画にとって大切なことだ。あるいは映画を見る喜びのほとんどはここに集約されると言っても過言ではない。いや過言だけど。

木々の隙間からのぞく太陽の光線を捉えたショットに続いて、カメラは唐突に靴を履いた足をとらえる。それが誰の足なのかわからない。それから今度はカメラが引くと、ニキータ(男)の目の前に一人の女性が立っているのがわかる。なるほど、この女性の足だったのだ。そしてこの、なんとも形容のし難い、不思議な魅力を持った顔立ちの女性が、「こんにちは、私のこと覚えている?」と尋ねると、今度は反対側から捉えた、つまり女性の方向からニキータを捉えたショットに、オーバーラップで切り替わり、ここでもかなりの間を置いて「覚えています」とニキータがつぶやく。
この時間の流れ。
考えてみれば、ものすごい不自然なやりとりだ。まるでスローモーションの世界のように、二人はゆっくりと間をとって、お互いにぼそっとだけ声を発する。この時間の「過剰な緩やかさ」をオーバーラップの切り返しがさらに助長する。このあまりに不自然きわまりない、常識はずれの時間の流れが、しかしそれが一体どうして―いや、むしろこれこそが映画が持つ恐ろしいまでの力だが、この時間の流れが愛おしくて仕方がない!

我々の日常とは全く異次元の存在と時間が、突然立ち現れること。

あるいは、本作において、上記のシーンと同じくらい好きなシーンを上げるならば、リューバ(女)が寝ているところに、リューバの友人がやってくるとこだろう。
カメラは窓際にセットされ、部屋の奥でリューバが眠っている。で、そのそばでニキータがアルバムを眺めているのだけど、友人が画面の外からリューバを呼びかけると、リューバが起き上がって、窓までやってくる。だから当然、この持続したフィックスショットは、リューバのクローズアップに移行するわけだ。このクローズアップが本当に素晴らしい。リューバの幸福そうな表情に、優しく日光があたっている。素晴らしい。
そしてそこから一気にカメラが部屋の奥の暖炉の前に移り、手前に暖炉に薪をくべるニキータ、奥に友人と楽しそうに会話するリューバの姿が捉えられる。この光のコントラストの素晴らしさ!
もう本当に天才としか言い様がない。

2012年11月7日水曜日

ジャケット

監督:ジョン・メイブリー

予算の制約が(多分)ある中で、しかもタイム・スリップものでありながら、とにかく地味に、しかしかなり丁寧に演出してある。

あるいはタイムスリップものでありながら、タイムスリップ先の舞台が田舎町であり、しかもせっかくタイムスリップというアクロバットな移動を果たしてみせるエイドリアン・ブロディは、まるでただの放浪者のように、なんともなしに現れ、そして突然何の痕跡もなく消える。この地味さが、映画全体を引き締めているといってもいいかもしれない。


考えてみればこれはクリスマスを舞台にした映画なのだ。しかしどちらの年のクリスマスも、方や1992年は精神病院が舞台だし、2007年は喫茶店がポツンとあるような辺鄙な田舎町に、出てくるのはクリスマス嫌いの独り身のやつれた女だ。重ねてこの地味さを賞賛したい(笑)
ブロディが二回目にタイムスリップしたときに、キーラ・ナイトレイと再会するシーンの、なんて普通なこと(笑)
決して凡庸なのではなく、正しく「普通」である。
ああ、またこの二人が出会った、というごくごくありふれた喜び。



オーソドックスな画面構成でありながら、照明はしっかりしているし、あるいはキーラ・ナイトレイとエイドリアン・ブロディの距離の縮まり方、そして離れ方も素晴らしい。キッチンで酒を注ぐキーラ・ナイトレイがブロディの方を横目で見ながら首を傾ける仕草が、やたらミステリアスで、この時彼女がいったい何を考えているのか全然わからないのだが、それゆえに良いシーンだ。
あるいはキーラ・ナイトレイはタバコが良く似合う。



終盤の実家に行くシーンが少し感傷的と言えば感傷的だが、しかしジーンがドア越しに言葉もなくブロディを見送るショットなんて素晴らしいじゃないか。

ラストはトニー・スコット『デジャヴ』を思わせるラストだけど、もちろん『デジャヴ』のようなあんなエモーションは無いんだけど(※)、バックの夕陽がだんだん画面全体に広がっていく演出は、この映画にしては派手で、そしてその「慎ましい派手さ」ゆえに非常に良いラストになってる。


※それはおそらく、同じタイムスリップものである『デジャヴ』が同時に「人と人が出会うこと」それ自体をテーマにしていたからだろう。『デジャヴ』の有名なスクリーン越しの切り返しのような派手な演出に対し、この映画はそんな事しない。なぜならこの映画における出会いは徹底的に「普通」だからだ。
3回目に二人が出会うシーンのカメラワークなんて素晴らしい。

2012年11月3日土曜日

召使

監督:ジョセフ・ロージー

なんちゅー怪作(笑)

オープニング、枯れ木が冬の香りをしたためる美しい通りを映したカメラは、緩やかに反転して、こちらに歩いてくるダーク・ボガードを捉え、そのまま彼を追う。ああ、極めてシンプルでありながら、まさに「映画の時間」がここに定着している。このままこの世界にどっぷりと浸かりたい。
ダーク・ボガードが家に入っていく一連のシークエンスの何と無駄なカメラワーク(笑)しかしイチイチがカッコいい。美しい、流麗なカメラワークだ。

流麗なカメラワークは、ジェームズ・フォックスがバーでウェンディ・クレイグを口説くシーンでも発揮される事だろう。そうしてあまりにも「当然のように」ウェンディ・クレイグを口説き落としたジェームズ・フォックスが、そのウェンディと一夜を共にするシーンは、まず外側から邸宅を捉え、ゆっくり下降する美しい雪景色を挟んで、全く同じように下降するカメラワークでもって、床に寝そべる二人を捉える。ああ、何て素晴らしい呼吸、リズム。

ダーク・ボガード、ジェームズ・フォックス、ウェンディ・クレイグが邸宅で一同に会するあたりから、映画のリズムが変わる。それは鏡を介して三人を捉えた歪みまくったショットで予感されるだろう。
そして考えてみれば、我々はこのダーク・ボガード演じる召使いの素性をまるで知らない事に気づく。待て、考えてみればそもそもこのDVDはサスペンス・コーナーに置いてあったのではなかったか。という事は、このダーク・ボガードは何かを企んでいるのだろうか。。。

あるいは、公衆電話でのダーク・ボガードは、まるで召使いとは思えぬツワモノの風情だ。
公衆電話を待つ女たちに「ビッチ!」とまで吐き捨てる。


関係ないが、ジェームズ・フォックスとウェンディ・クレイグが、富豪の老夫婦の家で会話をするシーン。「ポンチョって?」、「南米のカウボーイだけど?」、「え、ポンチョって上につけるやつじゃなくて?」、「は?何の?」、「だからカウボーイの」、「それはマントでしょ」、「ああそうなの」、、、、何だこの会話は(笑)
だがこのわっけのわからない会話も、最初に4人を捉えたフルショット、次いでお互いの夫婦を捉えたローアングルのショットが交互が続くあたりで、見事に引き込まれてしまう。



さて、サラ・マイルズが新たにやってくるシーンでは、ジェームズ・フォックスとウェンディ・クレイグのレストランでの食事とその周辺の客達の様子を映したショットと、ダーク・ボガードがサラ・マイルズを迎えてタクシーに乗るショットが平行モンタージュで映されるわけだが、もうこれも何で平行モンタージュなのかまるでわからぬ。
しかしレストランでの演出の素晴らしさには舌を巻く。フォックス=クレイグの会話を中心としながらも(この会話も意味不明に深刻(笑))、彼らを奥で捉えながら周辺の客の会話も見せてくれる。別にストーリー上は何の意味もないこれらの人々であるが、いやいや、こういうのを見せてくれるのが良質な映画というものだ。隣り合って座るオッサンとアイリッシュのコンビなんて最高じゃないか。


さてさて、サラ・マイルズとジェームズ・フォックスが恋に落ちるシーンの何たる悪ふざけっぷり!ポタポタたれる水道水の音が部屋に響き渡り、仮にもメイドであるマイルズが、「暑いわ~」とか言いながら机の上に座ってセクシーポーズを取るんだから、もう何でもアリっすね!

この後のシーンで、ダーク・ボガードが酒を買いにいってる間にフォックスとマイルズが行為に及ぶシーンがあるが、ここのシーン、廊下で抱き合う二人の姿が、画面奥の廊下の鏡に映り込み、手前には二人の重なり合った手が壁際からはみ出て見える。このショットが絶品。この映画で一番好きなショットだ。

そろそろ書くのも面倒になってきた。なぜって、これはもう見てもらうしかないからだ。最後の方はどこまで本気なんだかわからないのだが、しかしハチャメチャに面白い。
個性豊かな俳優、美しい照明、なめらかなカメラワーク、そしてムーディなジャズがあれば、何をしても映画になるのだ、という高らかな宣言。いや、素晴らしい。






2012年11月2日金曜日

なまいきシャルロット

監督:クロード・ミレール

13歳を迎え、大人の世界にあこがれるシャルロット。
映画はシャルロットの前に現れる「大人の世界」を丁寧に描いて見せる。
更衣室にやってくる全裸の女のエロティックさ、あるいは初めてクララのステージ映像を目撃するシャルロットの描写の小気味良さ。ホールから聞こえてくるクラシック音楽につられて、そしてその曲に調子を合わせて歩くシャルロット(これが終盤のコンサートのシーンと同期してるんだね)、そしてテレビ画面越しに目が合うクララとシャルロット。

そしてシャルロットは、それらの世界と接触しては期待に胸を膨らませ、日常から脱出したいと強く願う。
しかしそれは、しょせんは思春期の、つかの間の「非日常感」に過ぎず、決して非日常そのものは彼女の前にはやってこない。
結局シャルロットとジャンはセックスをしないのだし、あるいはシャルロットがランプで殴ったジャンは死ぬわけでもなく、けろっとして電車に乗って去っていくのだし、またルルも鼻血を出して倒れたところで別に死ぬわけでもない。そして当然、シャルロットがクララの付き人になるわけでもない。

あらゆる「非日常の予感」は、「思春期」という特権的な時間の中で生起しては何事もなかったかのように消滅する。
うむ、しょせんは人生の通過点だ。

しかしそれでもこの映画は、そうした「事件の予感」を、そしてその予感に立ち会った一人の少女の無垢な感情を、しっかりと鮮やかに切り取ってみせる。
13歳になり、日常に嫌気がさし、大人の世界、ゴージャスな世界にあこがれを抱き始めて生き急ぐ少女の物語でありながら、その語りのスピードは驚くほどゆっくりで、そこにある緩やかな時間の流れをしっかりと捉えてみせるわけだ。

いさかいの後、レオ―ヌ、シャルロット、ルルが一緒になって木の下で昼寝をする様を映したショットの何たる優しさ。
あるいはシャルロットの父親とレオーヌの関係の描写も、二人が挨拶したり、手を振り合うだけで、こんなにも快い気分になってしまうのだから、つくづく映画とは不思議なものだ。
初めてシャルロットがクララと出会ったときに、ここしかないというタイミングでかかるテーマソングの素晴らしさ。

「しょせんは人生の通過点に過ぎぬ」と成熟ぶってメタに立ち回るのではなく、そうした通過点にすぎない「どうでもいい」時間の一瞬一瞬を、映画として鮮やかに、美しく切り取ってみせること。メタに立ち回るのではなく、熱狂すること。
これだ。映画とは思春期だ。