2012年1月12日木曜日

ディベート教育とか、ロジカルシンキングとかに対する雑感(佐々木敦さんのtweetなどを参考に)

近年、誰が発端かは知らないが、猪瀬直樹副知事なんかも言っているような「日本の教育は論理的思考を重視していないので、人々が論理的に考えることができない。だからすぐ0か1かの議論に走ってしまう。これは正解が一つの問題しか今まで解いてこなかったからだ。サンデル先生の講義を見よ!あれこそ論理的思考の養成に最適じゃないか。日本でもああいう教育を取り入れるべきだ!」という言説が結構流行しているように思う。他には、それぞれ微妙に言い方は異なるが、東浩紀さん(「国語ではもっと論理的な文章を読ませろ」、「正解が一つでない問題の一節を説得的に書く練習をさせよ」)とか、田原総一郎さんとかも同じようなことを言っている。
(例えばhttp://debatekk.com/default.files/Page441.htmこういったもの)


別にこの言説自体を否定するつもりもないし、そんな事が出来るほど僕は教育について知らない。
しかし、やや疑問に思うところがいくつかあるので、以下に述べてみたい。

まず、人々が論理的思考ができないため、すぐ0か1かの議論に走ってしまう、というのは別に否定も肯定もしないが、まぁ個人的な経験でいうと確かにそうだな、くらいには思う。
しかしだからといって、それを「正解が一つの問題ばかり解いてきたからだ」と言うのは全く意味がわからない。以下に理由を述べる。

●まず、ディベートをするにしても、正解が一つでない議論をするにも、基本的には「正解がひとつのつもりで」思考するものではないだろうか。

●よって、正解が一つでない問題を考えるうえで必要な能力の大半は、正解が一つである問題を解くときに求められる能力と同じである。

●また、これは経験則だが、そもそも「正解が一つの問題」すら充分に解けない学生が多いと感じる。とすれば、正解が一つの問題が解けない学生が正解が一つでない(たくさんある)問題に熱意を持って取り組めるはずがないので、そんな教育を導入するのは無意味ではないか。

ずいぶん前に、批評家の佐々木敦氏がTwitterで、「批評には正解が無いが、批評をする時は『これが正解だ』と確信して書く」というような事を言っていた。
(正確には以下↓


だが、ここで断っておきたいのだが、かといって僕自身は、だから「批評」という行為は、恣意性と相対性と個人性を最初から織り込み済みでやるしかないものなのであって、自分もそうしている、とは必ずしも思っていないのだ。いや、結果としてはそうなるしかないのだけど、そのつもりで書いてはいない。


僕が最悪だと思うテクスト論は、結局のところ真理など何処にも存在しないのだから、自分が書いていること、主張していることも、要するに「こうも言える」というひとつでしかない。後はそれを巧妙に言えているかどうかであって、それが真理であるなどとは、こちらも思っていない、といった態度である。


僕は、ああも言えるしこうも言えるのだが、とりあえずここではこう言っておく、だがその言表の真理性をそもそも私自身が信じてはいないのだ、といった態度が大嫌いだ。たとえ読まれた時には無限の相対性と恣意性に投げ入れられるにしても、書く時には、自分にとってはこれが真理なのだと信じている。)
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要するにそういう事だ。正解が一つの問題であろうと、正解が一つでない問題であろうと(作品批評のように)、求められる能力とは、「自分が真理だと信じるだけの『正解』を論理的に導く能力」であり、そこに差異はない。


従って、僕は現在必要なのはディベート教育でも論理的な文章を扱った国語の授業などよりも、単純に現在の教科の授業の質を上げることだと思う。むしろ前者の導入によってますます後者が軽んじられるのではないかと心配する。


また、これは凄く穿った見方ではあるが、ディベート教育を導入していない日本の教育課程で、論理的思考が出来るようになった人達がこういった事を言うのはおかしいと感じる。むしろ自分たちが数学やその他の科目で享受した教育にこそ今後の教育の質向上へのヒントがあるのではないだろうか。
僕自身、高校の時行っていた予備校の数学講師に、論理的な思考の重要性を習ったと思っているので、既存の教科で充分に質向上の可能性はあるはずだし、それをせずに無いものねだりをするのは早とちりではないだろうか。


そして最後に。
佐々木氏のtweetにもある「これが真理だと信じる」態度、これは個人的にとても重要だと思う。
何かを信じてみること。誰かをいっぺん徹底的に信用してみること。というのが、非常に重要だと思うのだ。
今の段階ではその理由はまだうまく説明できない。
ただ、僕はこれまで誰かを信じてはその人の言っていることややっている事を実践し、やがてそれでは解決できない問題にぶち当たり、そしてまた新たに信じる対象を獲得し、、、という事を繰り返してきた。そうした経験は明らかに僕の糧になっている。


【追記】
どうやらディベート教育の目的は他にもあるらしく、「多様な価値観を尊重し合う」というものらしい。
それなら大いに賛成だが、かといって「正解が一つの問題ばかり解いているから多様な価値観を認められない」という
言説があるとすれば、それはちょっと怪しい気がする。