監督:クリスティアン・ムンジウ
ファーストショットとラストショットが相似をなしている。カメラの枠に収められる人々、そしてその視界を遮る列車、あるいは泥。この「隔絶」といった感覚のショットは、三つ目の美しいショットでも見ることができる。それは遠景で美しい家々を映したカメラがそのまま180度ターンし、そのまま手持ちで動いていくと修道院が映り込む、というショットだ。
祈り、懺悔の省略。なぜ省略したのか。
画面の強度。あるのか無いのかわからない。例えば夜な夜な起きてきたアリーナと詩を読むヴォイキツァの会話をフィックスのワンショットで撮っていたりするが、私にはこのようなショットはつまらないように思える。
雪景色の審美的な美しさはあるが、多くのシーンはフィックスor手持ちの長いワンショットで描かれており、そこには「美しい構図」のようなものは見られない。
しかしだからといって、この映画の画面には力がないのか。よくわからない。
病室や救急搬送された部屋での、周辺の人物達の動きや所作が、視線を惹きつける。カリカリする女医、泣き崩れる救命士、ロウソクをともして祈る救命士、呆然とする修道女といった画面内の様々な「情報」に惹きつけられる。ひきつければいいのか。よくわからない。
ヴォイキツァとアリーナが一緒に寝るところ。んー、良いんだか悪いんだかわからない。本当にわからない。
あるいはヴォイキツァがアリーナの兄に妹の死を知らせる場面は、ロングショットだ。このロングショットには胸を打たれる。
物語が動くのが遅いが、しかし動き出した物語は面白い。アリーナといるときは敬虔深い信者に見え、逆に修道女達といるときはその目つきからして「神なんて信じてません」といった感じのヴォイキツァ。彼女の葛藤とその葛藤をよそに次々と「拷問」する修道女達のコントラストには迫力がある。しかしそれは果たして画面の迫力なのか、物語の面白さなのか。よくわからない。窓を隔ててヴォイキツァとアリーナを映せば、それで画面の迫力と言えるのか、よくわからない。
全然わからない。非常に惹きつけられたのは確かだけれど。
考えてみると、この監督の前作も、良いんだか悪いんだかわからなかった。
要するにショットの組み立て方、というのが特に関係のない映画だからだ。でもだからといって興味がないわけでもつまらないわけでもない。それがよくわからん。
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