2016年8月27日土曜日

4ヶ月、3週と2日 (Part 2 監督インタビューより)

ウェブサイト、The FILMMAKERに監督の当時のインタビューが載っていたので、一部を抜粋する。
http://filmmakermagazine.com/archives/issues/winter2008/4months.php#.V8FDPZiLS00

●映画製作に関して
「人は決断を下すとき、必ずしも理性的ではありません。彼らはただ、決断を下すのです。それが人生というものです。(…)これはフィクションにおいても同様です。」
People aren‘t necessarily very rational when they make decisions. They just decide. And this is how life goes. (…) This belongs to structuring, to fiction, to narration, to another kind of process. 

「映画をつくる際、私はテーマやメッセージからはスタートしません。もしそうすれば、それはただのデモンストレーションになってしまうからです。私はまず、多くの議論を惹起するような、重層的なシチュエーションを探します。」
「私にとってこの映画は責任と決断、そして成長することについての映画です。しかしこのテーマが初めからあるわけではありません」
 I try not to start with a theme or a message, because then it is just going to be a demonstration, and I think it‘s not good for the film. I try to do something else: I try to pick a relevant situation that I think will have enough layers to talk about many [issues].
For me, it speaks about responsibilities and decision-making and about growing up. But you don‘t start [with this in mind]. 


●本作について
(軍隊や警察が登場するわけでもなく、またチャウセスクについては一度も言及されていないにもかかわらず、この映画には抑圧的な空気があるとの指摘について)
「まさしくそれが共産主義政権下での最も耐え難いことでした。そしてそれを現代において表現するのがとても難しかった。そこら中に閉塞感が蔓延り、人々は幸福ではなかったのです。別に逮捕されるわけでもなく、特殊なことが起きたわけでもありませんでしたが、とても生きづらかったのです。」
This was the unbearable part of [living under Communism]. And the difficult part of making a period piece now was to render this thing that was very imprecise. It was a general pressure. People were not happy — they weren‘t arrested and nothing specifically was happening to them, but still it was very difficult.

「本作は、『会話の途中』から始まります。本作では見せていませんが、この会話がとても重要なのです。また、本作は『身振りの途中』で終わります。」
 I opened 4 Weeks in the middle of a conversation — which is essential for me, though I don‘t show it — and I stop the film in the middle of a gesture.

「正しいカメラの位置を見つけることに努めました。それは、観客が画面外でも何かが起きていることを認識しながら事態を見つめることができるようなカメラの位置です。」
The effort was to find the right position of the camera from where you could watch the situation, knowing that some part of it was going to be off-camera. We hoped to render the feeling that this is just a slice of life, that the story is much greater than what we show.

「撮影前にはホテルでのシーンをリハーサルする時間しかありませんでしたが、(それで十分でした。なぜなら)このシーンさえうまくいけば、映画は成功するとわかってしました。」
I only had time to rehearse the hotel scene before the shooting. I knew that if that scene works, the film is going to be [good].

●独裁政権崩壊後のルーマニアについて
「人々は自由をどう行使してよいかわからなかったのです。崩壊後にシステムを立て直していった時期はとても奇妙でした。これには17年間かかりました。」
People didn‘t really know how to use their freedom. It was a strange period in terms of rearranging the system of financing, passing from a state-based rule system to a new one, and this lasted 17 years. 

「2000年はルーマニアにおける産業ゼロ年です。映画は1本もつくられていませんでした。そして、少しずつつくられるようになっていったのです。」
 The year 2000 was the zero year of the industry in Romania. No film was produced. Then, little by little, this started to work a bit —




4ヶ月、3週と2日 (part 1)

監督:クリスチャン・ムンジウ

数年ぶりに見直して、圧倒的力強さに打ちのめされた。
『汚れなき祈り』は劇場で見て、2時間半にわたって全く飽きないにもかかわらず、いまいちピンと来なかったのだが、今が見直し時かもしれない。
ちなみに、新作はGraduationで、これまた傑作の予感。
https://www.youtube.com/watch?v=VimmuogOOks

さて、『4ヶ月、3週と2日』。

冒頭のシーンですでに決定的なのだが、オティリアは動き回る女性であり、対するガビツァは動かない女性である。ファーストショットで、画面の内外を出たり入ったりするオティリアとあくまで画面内で事を成すガビツァが対比されている。これは映画の本題において改めて確認される。つまり、中絶処置としてプローブを挿入されたガビツァは動かないことを命じられる。
オティリアの方は、ホテルの予約や闇医者との面会、恋人の家でのパーティへの参加など、街中を歩き回っては仕事をしていく。行動的なオティリアは自分で行動しないガビツァへのいらだちを隠さない。
このオティリアのいら立ちと、にもかかわらず助けることを全く躊躇わないこと、という情動と行動の静かな対立が、本作のもつ圧倒的な力強さの元になっている。

さて、この二人の対比は、特定の場面においては抑制される。その一つがホテルの一室で男性中絶医とオティリア、ガビツァの二人が会するシーンだ。ここでは(直前の車内のシーンが効いているのだが)あのとにかく動き回るオティリアもまた、闇医者の圧倒的威圧感の前に「動けなく」なってしまう。
二人の女性は一人の絶対的支配権を持った男性医師を前にしては、「動けない女性」として共通項で結ばれる。(二人の共通項という点でいえば、浴室に逃げ込んで水を流す、という行為もまた彼女たちを結び付けている。)

それにしてもこの闇医者の、空間を支配する力、その見せ方が凄い。パルムドールはこのシーンにこそ贈られたのではないかと思われるが、もちろん映画はこの男性医師の性的優位性による治療とハラスメントの近似性をこそ告発しているのだが、演じるヴラド・イヴァノフがまさに怪演であり、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』におけるウィリアム・ハートのように短時間で映画をわが物にしている感がある。
質問=問診により相手を執拗に追い込んでいき、触診により体を硬直させ、指示という名の命令を下し、最後は優しい言葉をかけて去っていく様は、医師という権力者を過激に表象している。この「闇医者」は全くもって「プロフェッショナル」である。そのことが恐ろしい。
そしてその権力の濫用の犠牲者としてオティリアが描かれる。






要約すると、冒頭から強調され、感情的対立の元ともなっている二人の女性の違い、行動する女性と行動しない女性の対比は、一人の男性の存在によって強制的に無効化され、その無効化という暴力が二人の女性を逆説的に、悲しいほどに結び付ける。そのような映画として見ることができるだろう。
そしてもちろん、このホテルでのシーンの直後に恋人の家でのパーティのシーンがあり、ここでもオティリアは動くことも喋ることもできず、体を硬直させることしかできない。

映画はオティリアとガビツァのシーン→オティリアのシーン→オティリアとガビツァのシーン→・・という反復的な構造をとり、その都度オティリアとガビツァの関係性の微細な変化を克明に描写していく。この曖昧な終わり方も、この二人がこのあとどういった関係性になるのか(どうなるのか?という劇的/直接的な意味ではなく、あくまでどのような関係性に至るのか)を観客に想像させるものとして機能している。







カメラワークについて。
手持ちによるパンのようなカメラワークで人物(アナマリア・マリンカ=オティリア)の歩く姿を追うが、あまり深追いせず遠景ショットに移行するものが散見される。
オティリアが恋人の家を出て、タクシーを追いかけるも行ってしまい、そのまま嘔吐してしまうシーンなどが代表的で、その最終的な構図、画面の強度が素晴らしい。
映画には様々なカメラワークがあり、にもかかわらず現代においても「正統な」カメラワークについての議論は絶えず、またこれぞ正統なカメラワークと思わずにはいられない作品も多々あるが、この映画のこのカメラの動き、リズムの心地よさ、絶妙な距離感には感動する。映像があふれる現代において、このカメラワークとの出会いは、個人的には決定的だった。

ファーストショットの、机の上に並べられた雑貨からスタートして、3段階にカメラが遠ざかっていき、空間が広がっていく仕掛けが見事だ。灰皿に置かれたタバコを手にとることで始まるカッチョ良さ。

2016年7月3日日曜日

クリーピー 偽りの隣人

監督:黒沢清

康子(竹内結子)が西野(香川照之)の家に一人で挨拶に行くシーンがある。そしてその次のシーンで高倉(名前不明:西島秀俊)が日野市事件の現場の家を訪れる。その次のシーンで高倉が帰宅すると、カメラはそのままカットを割らずに、やや乱暴なカメラワークで料理中の康子を映し出す。
この一連の流れは重要である。

改めて振り返ってみる。
まず、康子と高倉が日中それぞれ、"家"を訪れる。それぞれのシーンで、門を手前に配して彼/彼女を映したショットが提示される。
どちらのシーンでも、一度門は開けられる。
だが二人とも、その門に入っていくことはない。
ここでは二人とも、「不吉な場所に入る」という決定的な出来事を回避する。二人はまだ無事だ。
帰宅した高倉は、「持続したショット」によって、康子との絆をギリギリ保持している。

一方で、康子が失踪した犬を追いかけると公園で西野がその犬と一緒にいるというシーンがある。このシーンで、西野が「僕と旦那さん、どっちが魅力的ですか」と詰め寄るシーンがあって、ここ、持続したショットで二人が画面におさまるように撮られている。ここでまさに、高倉と康子の脆い絆を、西野が本格的に壊しにかかっているのは明らかだ。

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監督本人の発現によれば、ラストの「叫」は竹内結子のアドリブらしい。それにしてもこのラストは感動的だ。
近年の黒沢清のホラー映画というと、主人公がどこかで「幽霊」なり「異世界」に魅了されて、恐れながらもだんだん近寄ってしまう、という面白さがあった。というかそれが個人的には黒沢ホラーの最も面白い点で、逆に『リアル』では佐藤健がショッキングな光景を見るとイチイチ目を背ける、というのが何ともつまらないと感じた。
『回路』の小雪が最も象徴的だが、何とも不気味に悟ったような笑顔で幽霊に近づいていく姿、というのが黒沢ホラーにおいては観客を「置き去りにする」重要な機能を果たしていた。

本作はどうかというと、西島秀俊や東出昌大(怪演!)は、刑事の"業"によって、ついつい犯罪現場に近づいてしまう、という風に描かれている。また、竹内結子はそのお人よしの性格ゆえなのかわからぬが、知らず知らずに香川照之に近づいてしまう。
で、この近づいてしまうという過程が、これまでの黒沢ホラーに比べると、視覚的には抑えられた表現になっている。あの「思わず見入ってしまう顔」がここにはなく、あくまで内面的な変化を行動によって丹念に繊細に描いている印象がある。
それは、視覚的なインパクトや「観客を置き去りにする」という機能を果たさない一方で、ラストを極めて説得的で感動的なものにする。
つまり、「こっちの日常」から「あっちの非日常」に行ってしまうその契機が繊細に語られる分、そこから戻ってくるその「重み」がしっかりと響いてくる。
行って戻ってきた。行ってしまって、そして戻ってきた。戻ってきたからこそ、行ってしまったことの恐ろしさが衝撃的な残酷さでのしかかってくる。その残酷さに耐えきれず、竹内結子は絶叫する。素晴らしすぎる!

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ドローン撮影はとっても印象的でよかった。

手前と奥に人を配して、中央で出来事を描くという構図が多用されている。
画面の見応えが相当ある。香川照之の初登場シーンなんて、陰→日向→陰と移動して、最高にインパクトがある。









2016年4月30日土曜日

母よ、

監督:ナンニ・モレッティ

虚構と現実が対比される。
それは映画と現実の対比にとどまらず、主人公であるマルゲリータの回想や衝動的空想と現実の対比としても描かれる。

この映画において現実と対比される「虚構たち」はどういった存在として描かれているのだろうか。
たとえば映画内映画、すなわちマルゲリータが撮影している政治映画は、冒頭からスタッフの協調性に欠けており、なかなかうまく進まない。そこにジョン・タトゥーロが入ってくることで、ほとんど撮影現場は崩壊寸前に至る。
つまり虚構の制作は、全くうまくいかない。「アクション!」とともに出現する虚構は、あまりにも早く「ストップ!」してしまう。その都度、マルゲリータは現実に引き戻されてしまう。
虚構の制作が失敗するたびに、苛立たしい現実がゆっくりと彼女の心をかき乱していく。

映画内映画とは別に、彼女の妄想なのか回想なのかわからぬが、いくつかの「虚構」が挿入される。

最初のそれは極めてユニークで、ヴェンダースの映画を上映している映画館に大勢の人が列をつくって待っているというものだ。そこでは彼女に対して苦言を呈する兄が出てくるという面はあるものの、映画全体においてはかなりdreamyで美しい情景として示されているように思われる。だからこのシーンが唐突にカットされて現実場面に戻るとき、これもまた現実に引き戻された、という感覚を覚える。
だがしかし、これ以降の「空想/回想」については、かなり悲観的である。車を壁にぶつけまくるシーンや母親が病院を抜け出してしまうシーンなどがそうである。
また、母親がすでに死んでしまっているという「夢」はマルゲリータの「不安」を反映しているように思われる。記者会見で何人もの記者が同時にしゃべってくるシーンはマルゲリータの「焦燥感」を感じさせるものである。
これらの統一性のなさはそれ自体では問題ではないが、一方でそれほど映画全体を活性化させているわけではなく、やや中途半端に感じられる部分もある。


さて、マルゲリータがその都度連れ戻されてしまう現実、その苛立たしく、重苦しい現実はどのように描かれるのか。
上記の通り、「映画の撮影」がその一端を担う。
ジョン・タトゥーロが現場をひっかきまわしてしまい、現場をコントロールするはずの映画監督は、ここでは完全にコントロールを失ってしまっている。

その他のシーンでも、現実は容赦なく、唐突で無慈悲なやり方で彼女の心をかき乱す。「いつの間にか」家の中が水浸しになっていること、「いつの間にか」母親の容態が急変して気管切開されていること。。

周囲をコントロールする力を失い、なおかつ不条理の速度で進んでいく現実に追いていかれそうになり、自分自身の感情すらコントロールできなくなってしまう。
これは近年ではオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』とも通底するテーマである。『夏時間の庭』においては、死んだ母親の長男であるフレデリックが、自分の周囲のコントロールを失い、つねに後手に回ってしまう存在として描かれている。本作では当然マルゲリータがその存在を引き受けているといえよう。


現実は思ってもみないテンポと速度で、人々を追いていく。しかしながら映画自体はとてもゆっくりとした時間の中で描かれており、その緩やかさに魅了される。
ジョン・タトゥーロのオーバーアクトは、まったく嫌な感じがしない。とっても可笑しい。
素晴らしい映画。

2016年3月19日土曜日

消えた声が、その名を呼ぶ

監督:ファティ・アキン

石鹸工場にアルメニアの難民たちがかくまわれている。主人公タハール・ラヒム(素晴らしい・『ある過去の行方』でも素晴らしい演技)もその一人だ。

タハール・ラヒムとその友人が、ネット越しに見える女性が着替える様子をみて発情し、風俗店に行こうと出かける。するとその道中に、チャップリンの上映会がなされていることを知り、タハール・ラヒムは一人、上映会の方に向かう。チャップリンの映画が、あまりに自身の経験と重なり、彼は上映が終わってもしばらく座ったまま動けなくなってしまう。すると自分がかつて経営していた店の従業員が現れ、しかもその従業員によって娘が生き残ったことを知る。

このような脚本。つまり、エモーションがエモーションを導く、美しい物語の流れ。
悲しみや怒りが、声を失った男の身体によってダイレクトに画面に刻印される。
オスマン→キューバ→アメリカと進むにつれ、最初は大きなシステムのなすがままになっていたタハール・ラヒムの行動も、よりアグレッシブに、また暴力性を帯びてくる、という明確なストーリー・プランも素晴らしい。
脚本と撮影が勝利しており、役者も素晴らしい。傑作だ。

2016年3月14日月曜日

オデッセイ

監督:リドリー・スコット

クライマックスである「アイアンマン作戦」が面白いのは、あれだけやめろやめろと言われていた作戦であるにもかかわらず、ほとんどどさくさにまぎれてマット・デイモンが勝手に始めたあげく、案の定コントロールが難しくて苦戦するからだ。
ずいぶん生真面目に計画を練っていた最後の最後で、こういうお茶らけたクライマックスを用意しつつ、オレンジ色のロープを使った美しい「再会」を直後に描くことが、この映画を「映画らしく」している。

だが一方で、この映画のほとんどのシーンは、全てにおいて「首尾よく」、「要領よく」、「適切に」物事が進行していく。そのご都合主義は決して映画的なそれではない。
登場人物はみな頭が良く、コミュニケーション能力が高く、プレゼンテーション能力が高い。
要するに、グローバル・エリートだ。
宇宙力学課の物理学者が、NASAの首脳陣を前に自分の考案したアイデアを披露するシーンは、さながらTEDxのプレゼンテーションだ。
なんとさわやかで快活なこと。
申し訳ないが、私はそんなものを見に映画館に来ているわけではない。


この映画もまた、『ソーシャル・ネットワーク』であり、『ラッシュ/プライドと友情』であり、『ザ・ウォーク』である。
大量のナレーションが手際よく並べられ、タイミング良くリアクションショットが加わる。「軽快な編集」の寄せ集め。それはさながら映画全体が「プレゼンテーション」になってしまったかのようであり
(いやもちろん映画とはRe-presentationなのだからそうした要素があるのは当然としても)、もはやその高度に科学的で専門的なナレーションの内容が本当に理解できているのかどうかもわからぬまま、「細かいことは良くわかんないけど、とにかくカッコいいからオッケー!」な気分だけが生まれる。こうした映画に対して投げられる賛辞とは大体が「スピード感」だの「軽やかさ」だのといった言葉で飾られたものばかりである。濁りがなく、引っかかるものが何一つない。
あるいは、何か見ている間中、ずっと何かのCMを見せられているような気分にすらなる。

これはやっぱり問題だと思うが、どうかね?