2012年12月31日月曜日

ローラ

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

うーん、これはあまり面白くない。いや十分面白いのだが、画面の強度において『マルタ』には遠く及ばない、と思う。
ただし、売春宿での会話から一気にローラの歌唱に切り替わるカット割りなど、なかなかスピーディに見せてくれるし、あるいはローラとフォン・ボームの教会での輪唱場面なんてとっても愛らしいシーンだ。

フォン・ボームの潔癖さと野心が挫折する瞬間としてローラのステージ姿を目撃する瞬間と、ローラを売春するシーンの二つが描かれるわけだが、前者のインパクトに対し、後者の描写はいたって平凡なそれだ。

2012年12月30日日曜日

マルタ

監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー

ファスビンダー初見なのだが、これは素晴らしかった。
メインのストーリーはヘルムートとの結婚生活で、これが始まるのは映画が始まって1時間くらいしてようやくなのだが、しかしこの最初の1時間の何と素晴らしいことか!

冒頭の、マルタが宿泊しているホテルの踊り場を仰角で捉えたフルショットが非常に美しい。
あるいはマルタの後をついて歩くリビア人(結局ストーリーに全く絡まずに終わる!)を、カメラがぐるっと回ってガラス越しに捉える意味不明なショットのインパクト(笑)

このカメラの円運動は、マルタとヘルムートが最初にすれ違う瞬間に受け継がれ、もうこのシーンは思わず大笑いしてしまったのだが、それにしてもこの前半1時間はあらゆるショットがバシバシ決まるのだが、決まるたびにそれが笑いへと転化されるという稀有な映画だと思う。
例えば図書館の館長とマルタの同僚が婚約し、そのことを同僚がマルタに伝え、そこで二人が抱き合い、画面奥から館長が出てくるというこの縦の構図なんて、いや本当に、今まで見た映画で最もまるで不必要な縦の構図だ(笑)しかしそれが「無駄」ではなく「過剰」として画面に定着する凄さがある。
物語上のつながりから要請されるショットを撮るのではなく、物語上特に必要のない、しかし美しく、あるいは過剰で、驚きに満ちたショットを撮ることによって、物語以上に視覚的イメージを残すこと。その魅力を、この映画は教えてくれる。
例えばマルタの母親が、マルタに向かって「あなたの言いなりにはならないわ!」と叫ぶシーンを見てみよう。ここで母親は、叫ぶとともに一歩前に踏み込む。そして一歩前に踏み込むことによって、丁度廊下の照明がバチっと彼女の顔に当たるのだ。
つまり物語(母親が叫ぶこと)には直接必要ではない過剰な美しさ(廊下の照明がバッチリ顔に当たること)がここにはあるわけだ。
マルタが新居に入ったときにゆっくりと窓の方に顔を向けるクローズアップにおいても、ドンピシャの照明が堪能できよう。

あるいはマリアンヌとマルタが会うオープンテラスの色彩も凄い。周りにあるバラを始めとして、パラソル、椅子、そしてストローまでもが真っ赤である。このカラー映画ならではのインパクトは、久々に味わった。

その他数え切れないほどある印象的なショットは、どれも物語の必要性を超えて画面そのものが主張しているショットばかりだ(例えばヘルムートのプロポーズの直後にカメラがクレーンで上昇して遊園地の全景を捉えるショット)が、物語の決定的な瞬間を決定的に撮ってみせる手腕も見事なもので、マルタの母親が倒れる瞬間のフルショットへのカットの切り替わりにはハッとさせられる。


さて、前半の1時間をやけに褒めちぎったのは、いざヘルムートとマルタの結婚生活が始まると、どうも退屈になってしまうからだ。
それはヘルムートの頑固さ、強烈な束縛キャラの表出という物語を画面がなぞっているだけのように思えるからだ。物語が中断され、ショットそのものが浮き上がる瞬間に欠ける。
しかしそれでも見事なのは、例えば何度も繰り返される玄関越しにヘルムートを捉えたショットのインパクトと、それが逆にマルタが家に帰ってきたときのショットで擬似的に反復される巧妙さがあるからだ。
そしてこのマルタが帰宅して家にいるヘルムートを見て、思わず絶叫するシーンから、映画が息を吹き返す。マルタが逃げ出し、遠くへと逃げていくロングショットの緑色のインパクトは、まるでソクーロフだ。
そして横転した車を捉えたショットの素晴らしさ。ああ、これでめでたくこの映画が、有無を言わさぬ傑作として終わりを迎えることができる、という安堵をついてるうちに、もう思わずニヤニヤせずにはいられない強烈なショットとともに、映画は締めくくられる。今年見た映画でもベスト級の一本であった。

2012年12月27日木曜日

スイート・スイート・ビレッジ

監督:イジー・メンツェル

ファーストショットがとにかく素晴らしい。
霧が巻いている夜明けの村、その霧の向こうからパヴェクが歩いてきて、指笛を鳴らすとカメラがパンして、オチクが出てくる。カメラが二人を捉えたままパンすると、撒かれた水が朝日を反射している実に美しい道路が二人の行く手に映り込む。
冒頭から様々な人々が登場し、そのたびに小事件を起こすわけで、その小ネタっぷりがとても面白く、またそれを捉える滑らかなカメラワークも見事だ。
庭にベッドを運ぶ別荘族を映したあと、トラックを誘導するオチクを映し出したり、あるいは少年が思いを寄せる学校の教師に軽くあしらわれた後、洗濯物を干すヤナと挨拶をしたりと、人物と人物がカメラによって関係づけられる様子というのは、見ているだけで気持ちがいいものだ。

上記した洗濯物を干すヤナと少年のやりとりの直後、ヤナが夫の湖でのシーンなんかとっても可笑しい。夫が潜っている間に不倫相手とキスをするという発想がまず楽しく、またものの10秒ぐらいしか潜っていないのに「42秒!」と言って、それで場がおさまるという映画的テキトーさが可笑しい。

ついでに、ヤナが最初に自転車で映画館に向かうショットはハッとする美しさだ。

あるいはバーでのパーティも、やはり映画というのはパーティを描けばそれだけ面白くなるという感じで、確かにこのへんもう少し盛り上げてくれても良いような気がしたが、やはり楽しい。
(盛り上げてほしい、というのは、どうもこのパーティシーンが言語的というか、視覚的見せ場に欠けるという意味。ヤナとカシュパルの密会にしても、あれでいいのか。)

2012年12月25日火曜日

2012年見た映画を振り返る PARTⅡ

 さて、じゃあ印象的に描くってのは、鮮烈に描くってのは、一体どういうことなんだという。
例えば『風にそよぐ草』で、映画館から出てきた男を女が見つけて、それから二人で喫茶店に入っていくとこ。『厳重に監視された列車』の、有名なキスシーン。『孤独な声』の、思わず息を飲むであろうオーバーラップでつながれた二人の男女。『つぐない』の湖畔でのキーラ・ナイトレイのダイブ。『ある秘密』の、結婚式パーティでのリュディヴィーヌ・サニエとセシル・ドゥ・フランスとパトリック・ブリュエルの視線の交錯、すれ違いを過剰なまでに観客に意識させる演出。『デーモンラヴァー』の冒頭の空港での物凄い緊張感。
 これらを総括する言葉なんてあるわけもなく、あってはいけないとすら思うのだけど、ただ共通するのは、「全然リアルじゃない」ってことだ。
 というのも、『風にそよぐ草』のように男と女が出会うわけがないのだし、『孤独な声』ほど長い長い間を置いて会話を交わす人間などこの世にはいないのだし(たぶんw)、『厳重に監視された列車』のように横たわった女の顔にピタっと灯りがあたるわけがないのだし(いややってみたいけどww)、『フランティック』のように丁度自由の女神のミニチュアだけ屋根から落ちずにいるなんて有り得ないのだし、人は『夜行列車』の主人公達ほど見ず知らずの相手に感情をぶつけはしない。
 それなのにこれらの映画がなんでこんなに美しく、豊かで、素晴らしいのかといえば、それはむしろ「それゆえに」素晴らしいのだと言えるかもしれない。つまり、リアルじゃない、なんか過剰である、ご都合主義的である、という事が、そのシーンを際立たせ、忘れられないものにする。
 僕たちが日常で感じている「リアルな」時間感覚、「リアルな」景色とは別の、全然違う、ゆったりとした、なめらかな、濃密な時間感覚、空間、光の明暗を感じ取ること。それが映画の喜びではなかろうか。
 つまり、映画とは、リアリズムとは反対の方向から立ち現れ、僕たちの「リアル」を脅かし、僕たちはその過剰で甘美な時間の流れに、ただただ身を任せる。それが映画体験であり、あるいは映画館体験じゃないかと思う。

 自動車や通行人の喧騒のなか街の通りを黙々と歩いて行き、チケットを買い、受付のお姉さんと軽く話し、コーヒーをロビーですすり、そうして真っ暗闇の中で一つの大きなスクリーンに繰り広げられる「異世界」をそこに居合わせた見ず知らずの人々と一緒に堪能し、再びリアルの世界へと戻っていく。



 てことで、今年の新作のベスト(一部仙台で初公開)

 ある秘密 (仏 クロード・ミレール)
 ファウスト (露 アレクサンドロ・ソクーロフ)
 ドラゴンタトゥーの女 (米 デヴィッド・フィンチャー)
 J・エドガー (米 クリント・イーストウッド)
 灼熱の肌 (仏 フィリップ・ガレル)
 アウトレイジ・ビヨンド (日 北野武)
 風にそよぐ草 (仏 アラン・レネ)
 刑事ベラミー (仏 クロード・シャブロル)
 SHAME (米 スティーヴ・マックィーン)
 メランコリア (デンマーク ラース・フォン・トリアー)

次点:おとなのけんか、人生の特等席など

番外編として、『合衆国最後の日』!!!!!!

 あと、2000年代の旧作でもかなり素晴らしい映画をいくつか見たので、レコメンドしておきたい。
 『ストロベリー・ショートケイクス』は東京を舞台にした女4人の群像劇で、我ながらレビューを良くかけたので一緒に見て欲しい。
 『ジャケット』は本当に地味なんだけど、かなり優れた映画。そうそう、こうやって映画って撮るんだよねー、と。とっても良い。
 
該当する映画のレビューはこちらで⇒ http://gattacaviatoryasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post_2172.html




2012年見た映画を振り返る PARTⅠ

 さて、今年も終わりが近づいてきたので、2012年公開された映画についてダラダラダラダラと書いてみよう。
 僕も一応、「つぎ、何見ようかな、、(ソワソワ)」、「ヤバい、最近映画見てない(ムズムズ)」みたいな生活を送っているので、例えば映画ってのはどこをどう見りゃいいのか、とか、良い映画ってのはどういう映画の事を言うのか、とか、まぁいろいろ考えるわけで、しかしそれは、例えば『國民の創世』とか『吸血鬼ノスフェラトゥ』といった古典映画を見るとき、『ウィークエンド』や『欲望』といったラディカルな、映画文法の再考を迫るような作品群を見たとき、あるいは『ファウスト』や『LOFT』のような作家性の強い作品を見るとき、あるいは『人生の特等席』、『幸せへのキセキ』、『ヤング≠アダルト』といった新作アメリカ映画を見るときで、もうまるで違う考えとして頭の中をかすめてくるのだけれど、それでもそれなりに「あーやっぱりこういうことなんじゃないか」と確信めいたものもわずかに出てくる。

 例えば今年最も素晴らしかった一本として『ドラゴンタトゥーの女』があるのだが、じゃあ何がそんなに素晴らしかったのか、と言うと、うーん、ちょっと言葉にしづらい。というか、「いや、全ショット、全カメラワーク、全カット割りが決まってたじゃん!」としか言い様がない。
んじゃ、映画ってのは画がキマってればいいのか。うーん、半分イェスだし、半分ノーだ。
でも例えば今年公開された『ジェーン・エア』なんてのは、僕は全然楽しめなかったのだけど、それでも撮影はとても美しかったと思う。それでも面白くない。一つには、その撮影の美しさが予定調和的なそれだからじゃないかと思う。僕らが、私たちが「美しい景色」という言葉で連想する光景、深い緑の木々、山、夕陽、海、そういった光景が、僕らが知ってるような撮り方でしか撮られない不満。でも例えばキューブリックの『バリー・リンドン』が見せる木々、山、夕陽、川の景色は、僕らが知らないぐらい、嘘みたいに美しく切り取られるわけだ。もちろんそんなのは個人の経験によるのかもしれないけど。
 
 それじゃあ映画は、僕たちが知らないぐらい美しいショットを見せてくれりゃいいのか。うーん、これもまた半分イェスだし、半分ノーだよねぇ。
 
 とはいえこの半分のイェスはかなり強いうなずきである。いや、ぶっちゃけると撮影がめっちゃくちゃ美しければ、90分や120分くらい、いくらでも見続ける事はできる。例えばゴダールのいくつかの作品、とりわけ『ゴダールの決別』なんかは、僕はそれが一体何の物語なのか全くわからなかったにもかかわらず、そのあまりにも美しい撮影の数々に心を奪われてしまったからだ。
 あるいは『秋津温泉』なんて優柔不断な男と女が恋愛してるだけだ。でもその撮影のあまりの美しさには確かに心を動かされるわけだ。
 
 さて、ノーの部分。つまり、やっぱ映画は物語が、ストーリーがあってこそじゃないか!みたいな話だ。確かにそんな感じもする。
 話が面白ければ、まぁ満足、みたいな部分はやっぱりあるわな。
 と言うと、必ずこういう意見が出てくるだろう。
 「物語を楽しみたいなら小説でいいだろ!映画には画面と音があるんだよ!」
 これはこういう事を言いたいわけだ。
 「男が殺されました→刑事が事件を捜査しました→犯人がつかまりました→犯人には暗い過去がありました」といったあらすじなんて、どうでもいいじゃないか!そもそもお前ら、犯人は誰だったとか、最後はどうなるの?とか、そんな事にしか興味ないのかよ!みたいな。
 
 ふむ、これも納得が行く。それは僕の日々の、誤字脱字だらけで目も当てられない映画レビューを読んでくだされば、僕自身もそれに近い考えであることがわかっていただけると思う。
 『人生の特等席』のストーリーなんて、『幸せへのキセキ』のストーリーなんて、全っ然面白くもなんともない。でもこの二つの映画はとても面白い。なぜか。
 ここで強調しておきたいのは、これらの映画が面白いのは、「ストーリーがどうでもいいから」ではないということだ。
 むしろこうだ。
 『人生の特等席』の、あのコテコテのベタベタな恋愛、あれが何でこんなに感動するかと言えば、それはバーでのダンスの楽しさとか、ケータイ電話の着信音の挟み方とか、あるいは湖の撮影の美しさだとか、あるいはエイミー・アダムスがむちゃくちゃ可愛いといった、まぁそういう細部(と言うにはあまりにもデカい要素の数々)によって、このコテコテでベタベタな恋愛が、何かとっても愛おしくて、僕たちが忘れていた恋愛の喜び、人と人が触れ合う素晴らしさを思い出させてくれるからなのではないか。ストーリーとは一見関係のない細部や仕掛けが、ストーリー自体を豊かにしてしまうこと。
 それはたとえば『J・エドガー』なんかにも言えるのではないか。
 終盤、心身ともに弱ってきたエドガーがナオミ・ワッツ扮する秘書のガンディに「私が死んでも秘密文書は絶対に漏らすな・・・」と頼む。するとナオミ・ワッツがサッと振り向いて、「はい、絶対に漏らしません」と、キッパリとストレートな眼差しで宣言してみせる。それをカメラは真正面で、強烈なインパクトでもって捉えてみせる。
 『J・エドガー』を僕は3回見たのだが、3回ともここで泣いてしまった。それはこのシーンそれ自体の鮮烈な印象もさることながら、それまで確かにエドガーと、ガンディ秘書やトールソン(だっけ?)との関係を描きつつも、やはりアメリカの重要な歴史の流れの中でエドガーが何をしてきたかを描いてきたこの「社会派映画」が、突如として、つまりこのガンディ秘書の振り向きによって、全く別の表情を見せてくれたからだ。
 このガンディ秘書の「振り向き」は、この映画のパンフレットにもHPのストーリー紹介にも当然載っていない。つまり物語の大枠から逸脱した次元で、映画が豊かさを獲得すること。J・エドガーの業績を淡々と描くだけであれば、伝記小説を読めば、あるいは詳しめの歴史参考書を読めば事足りてしまう。そうではなくて、そういった大枠のあらすじではなくて、それとは別の次元で、つまり細部において豊かさを獲得すること。そしてその豊かさゆえに、「アメリカの歴史におけるJ・エドガーの業績を描くストーリー」という大枠そのものが壊れ、その瓦礫の中から、エドガーを支え続けたガンディ秘書の強烈な存在感が、新たな大枠としてムクムクと立ち現れること。つまり細部が細部として素晴らしいという事にとどまらず、細部そのものの素晴らしさゆえに、映画全体の表情が当初の予想とは全く異なったものになること。そこに驚嘆すること。うん、なんかこんな感じじゃないかな。
 
 そしてそれは脚本をただ脚本通りに映像化しても生まれないものだろう。知らんけど。でもきっとそうだ。ガンディ秘書の振り向きがあれほど強烈に撮られる事がなければ、あのシーンは単に「エドガーさんは秘密文書を守るよう頼みました」というあらすじの説明でしかなくなってしまっただろう。

 まぁとはいえ、そんなイチイチぶっ壊すなら、そもそも大枠なんていらねーじゃねーか、とか言われそうだ。あるいは、そもそも『マンディンゴ』のような映画は、白人の黒人差別という大枠が最後まで確固として存在する。『マンディンゴ』の素晴らしさが何かと言えば、もうそれは一つ一つのショットの迫力としか言い様がないわけだ。『バリー・リンドン』にしてもそうだ。とにかく一つ一つのショットが、人物の運動が、美しく、カッチョよく、瑞々しいわけだ。
 これらの映画は、別にこんな言い方しなくてもいいわけだが、それでも先ほどのテーゼに合わせて言うと、細部の豊かさがストーリー、つまり大枠を強化する、とでも言おうか。それはどういうことかと言えば、脚本の時点で誰が読んでも明らかな物語の決定的瞬間を、映像と音によって「決定的に」描くこと。例えば『マンディンゴ』であれば逃げた黒人が森を疾走しつつもとうとう捕まってしまうシーンを、不気味なルックスの撮影と長回し、そして微妙に鳴り響くサウンドトラックでもって、印象的に描くことだ。あるいは『バリー・リンドン』であれば、バリーがとうとうぶち切れて息子を殴りまくるシーンを、それまでカメラを固定した叙情的なロングショットとズームで見せていたのを、手持ちカメラで対象に近づき、即物的に切り取ってみせることだ。
 あるいは『アウトレイジ・ビヨンド』の北野武が三浦友和に復讐を果たすあの重要なシーンを、スローモーションでたっぷりと見せてくれることだ。
 以前見た映画を思い出すときに、その話の流れだけでなく、あるシーンのこの描写が強烈に頭に残ってるっていうのがあると良いと思うのだけど、それってこういう演出によるんじゃないか。
 『吸血鬼ノスフェラトゥ』の、ノスフェラトゥがベッドに近づいてくるあのシーンのあの強烈なインパクトとか、まぁそういうことだわな。
 あるいは、そうした大枠を見事に強化してみせる、つまり物語において重要なシーンを鮮烈に描いてみせる演出によって、映画は映画として、つまり物語を伝える一つのメディアとして生きるわけだ。そしてその大枠とは関係のないところで、細部が細部として充実してると、なお良いわけだ。

 じゃあその大枠を強化するってのは、つまりあるシーンを鮮烈に描くっていうのは、いったいどういうことなんだろう、というのは次で、、、(続く)

http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/12/2012part.html



2012年12月24日月曜日

秋津温泉

監督:吉田喜重

男と女がどうという事でもない会話をしたり、見つめ合ったり、逃げたり、捕まえたり、抱き合ったり、口づけあったり、、、という要するに「映画的な」シーンだけで構成されており、あらすじとしてはほとんど無内容と言っても過言ではないというのは、その是非はともかくとしてたまげてしまった(笑)だって、ずっとそんな感じで、「あ、また岡田茉莉子が逃げた!長門が追った!」みたいなw

しかしもちろん、重要なのは逃げること(だけ)ではなく「逃げ方」であり、その「撮り方」なわけで、横移動や、時に円状の動きを見せるカメラワークは流麗そのもの。
あるいは岡田茉莉子が振り向いたり、起き上がったりする瞬間のカッティング・イン・アクションもハっとさせられる。
それと、岡田茉莉子は何十回と衝動的にその場から走ってどっかに行くわけだが、その時に、まぁたいていは長門裕二とか旅館の女とかと一緒にいて、何かの拍子に衝動的に駆け出すというパターンが多くて、そうするとカメラはまず二人をバストショットなりフルショットで捉えて、そこから岡田茉莉子が画面の外へと駆け出す。で、驚いたもう片方が岡田茉莉子の方を見ると、その視線ショットでカメラもまた岡田茉莉子を捉える(文字で書くと長いが、まぁあまりにも当たり前のショット構成である)。で、時々この視線ショットで捉えられる岡田茉莉子が、明らかに「遠い」のである。つまり、「そんな速くねーだろ!w」というレベルの距離をいつの間にか走っている。
特に長門裕二が帰ってきたと聞かされて、険しい上り坂を駆けていく岡田茉莉子は、明らかに速い。
つまりリアルな時間を微妙に歪めて演出している。それが気持ちがはやる岡田茉莉子の心象を反映しているかどうかは置いておくとして、ここでは明らかに「リアル」以上にあっという間の時間の流れがある。
しかしそうかと思うと、上記したいくつかの流麗なカメラワークで捉えられる人々の運動は、ずいぶんとゆっくりしている。それは運動そのものがゆっくりとしているのではなく、その運動を捉えたショットが過剰に持続しているため、そのような印象を与えるのだ。
物語を説明するのに必要なショットの持続時間以上に持続させることで、このような印象が生まれているわけだ。

2012年12月20日木曜日

秋日和

監督:小津安二郎

さて、そろそろ小津を見てみようと思って一本目に選んでみたのがこれ。
凄いね、ほとんどの会話が内側からの切り返しで。
岡田茉莉子の奔放な魅力、彼女と司葉子の屋上の会話の素晴らしさ。屋上から線路を捉えたロングショットの、赤い消防車群のインパクト。
あるいは寿司屋でのこれ以上なく適当な会話。
司葉子と原節子が住むアパート、佐田啓二と司葉子が初めて会うシーンの廊下でのやり取り。
原節子と岡田茉莉子の会話なんて大笑いしてしまった。

しかし冒頭の複雑なカット割り、全景のインパクト、凄い。

それと、最初に男三人で飲んでるシーンの直前に挟まれる廊下のショットとか、あるいは中村伸郎が風呂に入るのに脱いで放った白シャツのあの感じだとか、細部の充実感も凄い。

2012年12月18日火曜日

夜行列車

監督:イエジー・カヴァレロヴィッチ

天才的!
この周到なカメラワークと素晴らしくご都合主義な展開、そして人々が見せる運動の過剰さ。まさに夢のような映画だ!

冒頭の駅を行き交う人々を捉えた俯瞰ショットは、どれくらい「演出」されているのだろうか。例えば僕は偶然にも階段でぶつかって会釈する二人の通行人を見つけたが。

最初、男と女が部屋をめぐって喧嘩するシーンで、男が車掌を呼んで部屋に戻ってくると、カメラは女が窓の外を見つめる後ろ姿(セクシーなローネックだ)を捉え、情緒的なテーマソングがかかる。
物語上は男と女が部屋をめぐってもめているのに、「窓の外を見つめる女の後ろ姿のショット」が来るわけがない!
来るわけがないのだが、それを持ってきちゃうことで、起こるはずのない恋愛が起こるわけだ。
このショット、ドアが開くことで通路の光が彼女の後頭部にあたる。そして彼女が振り向くと、目のあたりに光があたって、その目は潤んでいる。

あるいは男と女の過剰なまでの行動。布が足にかかっているのを見て取り乱す男、気が動転して男を何回もビンタする女!この過剰さが映画だ。
あるいは、過剰さが衝突してこそ、恋愛だ。

男が女にキスをしようと身をかがめた瞬間、列車が急停車し、見事なカット割りとともに警察が列車にやってきて、そうして二人の恋愛は中断される。

そっからしばらくして、犯人を乗客達が追いかけていくシーンへと至るわけだが、これはもういずれこの犯人が捕まる事など誰にだってわかるわけで、ではなぜこの一連のシーンがこれほどまでに素晴らしいのかといえば、犯人が列車の最後部まで来てしまった時のカメラのパンの鮮烈な印象であったりとか、あるいは道中の真っ只中で停車した列車の外観の不穏な空気だとか、あるいは走りながら石を投げ合う可笑しさであったりとか、とうとう捕まる瞬間の冷え冷えとした緊張感ゆえだろう。
あるいは列車内を捜索するシーンで各部屋を覗いてみるたびに、ギターを弾いて騒いでいたり、巡礼中の尼さん達がいたりという楽しさのゆえでもある!


一件落着してしばらくすると、映画は朝を迎える。この朝の幸福感!
部屋を一つ一つ回って乗客を起こす車掌、通路でうたた寝していた乗客、あるいは窓から見える海!
「海岸まで行くの?」といった会話で何度も列車の目的地が海岸であることを知らされているため、とうとう窓から海が見えてくる瞬間は「あぁ、海だ」と思わずため息をつかずにはいられないだろう。

そしてほとんどの乗客が降りてしまった後、車掌が見回りをする列車内の静寂。あれほど人でごったがえしていた列車におとずれた、美しい美しい静寂とともに、映画はゆっくりと終わっていく。

まさに至福の100分。


2012年11月27日火曜日

ストロベリーショートケイクス

監督:矢崎仁司

 幾度となくその大きな図体を、何の恥じらいもなく画面の中央でさらしてみせる東京タワーや、あるいは幾度となく女性たちの背後を、まるで彼女たちの運命を、時には嘲笑い、時には見守るように通っていくJR線の存在が、この4人の女性を主人公にした群像劇が、東京を舞台としていることをはっきりと宣言してはいるものの、しかしながらこの映画で驚くのは、東京特有の「人口密度」や「喧噪」が不在であることだ。
 中村優子と安藤正信が訪れる居酒屋にしても、池脇千鶴が働くことになるラーメン屋にしても、そこには人気がほとんど感じられない(逆に池脇千鶴がデリヘル嬢を連れてラーメン屋にやってくるシーンの充実感の新鮮さ)。
 それは彼女たちの場所から場所への移動のほとんどが省略されているからというのもあるかもしれないが、一方で彼女たち自身が人との接触を避けているからでもあるだろう。
 中越典子はオフィスではほとんど誰とも接しないのだし、あるいは岩瀬塔子は体調不良で倒れようと、そこに駆けつけて救助しようとする人々の手を払いのけようとする。
 気恥ずかしいぐらいに強調される東京のシンボルが、逆説的に彼女たちの「疎外」を印象づける。

 池脇千鶴が、消灯した東京タワーに向かって「おやすみぃ」と無邪気さとアンニュイさが混ざったような可愛い声でつぶやいたり、あるいは中村優子が去っていく安藤正信を見送りながら、「またねっ」と呟くシーンは、彼女たちの「他者との接触」への飢えを物語っているといえるだろう。これらのシーンはワンショットの持続の中で実に実に印象的なイメージとして見る者の記憶に焼きつくことだろう。

 そしてこの映画は、物語とイメージの力でもって、彼女たちを見事に「接触」させてしまう。
 中村優子が、安藤正信が恋人と月を眺めている光景を目撃したショックで捨てたトマトが、岩瀬塔子によって拾われ、そのトマトが岩瀬塔子にインスピレーションを与え、岩瀬は絵を完成させる(この絵を完成させる一連の俯瞰のシーンも非常に良い)。そしてその絵が実は業者の依頼ミスであることが発覚して、岩瀬はこの絵を破棄する。そしてその絵が池脇千鶴によって拾われ、それがやがて岩瀬塔子のもとへと渡る。

 あるいは、物理的な手の接触もまた、この映画では実に印象的だ。
 池脇千鶴の母親の恋人が、中村優子の手を握る(ロングショットに引くことで、このシーンは実に見事に喜劇として回収されている)、あるいは中村優子の手に触れてくれない安藤正信。
 あるいは、終盤の新幹線でのシーン。
 中越典子と岩瀬塔子が入口で向かい合っていると、そこに「赤の他人」が乗ってきて、中越典子に接触する。この映画でこれほど明確に主人公と「赤の他人」(それは東京と言っていいかもしれない)が物理的に接触するシーンはないだろう。
 そしてその接触の結果、中越典子はバランスを崩して倒れそうになり、岩瀬塔子がそれを支える。正確には手を握る。
 そうして握られた二人の手は、決して離れることはないだろう。これほど感動的な「手を握る」という運動は見たことがない(「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフも泣ける)。

 あるいは逆に、この幾度となく登場する東京タワーについて考えてみよう。
 かつて黒沢清は、東京を舞台にする映画でも、東京タワーのようなわかりやすい表象は撮らないようにしていると述べていた。北野武もまた、東京タワーのようなわかりやすいものを撮る監督はダメだ、と言っている。
 この映画はどうかというと、アホみたいにタワーが出てくる。そして池脇千鶴を夕食に誘った店長は、その東京タワーを見て「綺麗だね」と、話のネタにしようとする。
 あるいは満月。映画の多くの人物が、「恋人と満月を見たい」という願望におかされている。
 つまりこの映画の多くの人物達が、実にわかりやすい表象(タワー、満月、占い)にとらわれているのだ。
 そうやって目の前のわかりやすい大きな物語に飛びついてきた中越典子が、偶然岩瀬塔子の嘔吐を目撃してしまうとき、中越典子は、如何に自分が何も見えていなかったかに気づかされる。
 だからこそ、上記の「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフには泣かされる。
 これはそういう映画だ。


 光の繊細な感覚、フィックスショットの絶妙な持続のさせ方、そしてあの屋上の美しい美しい撮影など、ほとんど信じがたいレベルの邦画だと思う。ゼロ年代の、これはベストだね。

2012年11月24日土曜日

合衆国最後の日

監督:ロバート・アルドリッチ

素晴らしいね。震えた。
最初から二個目の、カーテン越しにヒゲを剃る大統領を捉えたショットがまずもって素晴らしいのだが、カーテン越しに大統領を捉えたショットが中盤に再び出てくる。それは問題の文書を読んで立ち尽くしている大統領の姿だ。そしてこの素晴らしいショットから始まる、超ストレートな政治的議論の物凄い迫力。ホワイトハウスで一番左派っぽいザックと大統領を捉えたショットの強度、そしてここぞというときに繰り出される俯瞰ショット。
あるいはその直後の大統領と副官のやり取りの面白さ。それは部屋のフルショットの妙な緊張感に裏打ちされていると言えるだろう。

あるいは、ゴールド作戦とその顛末の描き方。画面4分割の状態で、各現場が大混乱する様を同時に描いちゃうっていう大胆さ。この作戦の終盤の音のカオスっぷりは凄い。とにかくみんな怒鳴り散らしてるのだが、全く何を言ってるのかわからない。しかしそうするうちにミサイルはどんどん地上へとせり出していく。この緊迫感の醸成。
サイロ3に通じるトンネルのショットはどれもかっこいい。

ゴールド作戦の大混乱と対照的に、クライマックスは実に静的な、硬直しきった緊張感だ。
大統領とランカスターがついに対峙するシーンの、あの縦の構図。
あるいはその直前の、監視カメラ越しに見つめ合う両者。
ランカスターと大統領は、どちらも世界の秩序を動かす巨大なシステムに抗おうとする二人だ。映画はその全く立場の異なる両者が対峙する瞬間を、これ以上ない強度で演出してみせる。
超スーパー大傑作!

人生の特等席

監督:ロバート・ローレンス

イーストウッドは朝目覚めるなり一人で愚痴ばかり言っている。あるいは亡き妻の墓石に語りかける。
ジャスティン・ティンバーレイクは、少年野球を見ながら自分の録音機に向かって実況中継をし始める。

このように、この映画の主人公たちは冒頭からして、ひたすら一方通行の発話をしている。

この二人の人物とエイミーアダムスを主軸に映画は進む。
エイミー・アダムスは何度もイーストウッドと対話しようとするが、イーストウッドはそれを真面目には受け止めず、全て受け流そうとする。そんなイーストウッドに腹を立てるエイミー・アダムスは、この映画で幾度となくイーストウッドに背を向けることになるだろう。イーストウッドもまた、その後ろ姿を茫然と見つめることしかできない。

エイミーアダムスをナンパした男を追い払った後のシーンでは、エイミー・アダムスとイーストウッドが言い争い、アダムスは部屋へ歩き、イーストウッドはその逆方向へと歩く。つまり二人はお互いに背中を向ける。その二人の背中を茫然とティンバーレイクが見つめる。

ティンバーレイクとアダムスが三塁側のスペースで野球を見るシーンでは、小気味良いやり取りのあと去ろうとするアダムスに、ティンバーレイクが「弁護士にしては知りすぎだ」と言うと、アダムスがティンバーレイクの方を振り返って「理由があるのよ」と誤魔化し、素敵な笑顔を見せる。

背中を向け合っていた人物たちが、徐々に心を開き、振り返り、そして向かい合う。

しかし人と人が向き合えばたちまち問題が発生する。それは彼ら、彼女らが今まで心に閉まっていた本音をついにぶつけあうからだ。
喫茶店でのイーストウッドとアダムスの言い合い、あるいはティンバーレイクの車の前に立ちはだかるエイミー・アダムス。

ああ、そして、お互いの本音をぶつけあった二人は、終盤のとってつけたような大味な展開を、ほとんど言葉もなく見つめ合い、頬笑み合いながら見届けることになるだろう。(そして観客もまた、そのイメージとともに、このベッタベタな展開を最高の気分で喜んで見届けることになるだろう)


イーストウッド、アダムス、ティンバーレイクの、「背中を見せる」、「振り返る」、そして「向かい合う」という運動をしっかりと捉えること。
車の窓越しにこちらを見つめるエイミー・アダムスの顔を、振り向きざまに最高の笑顔を見せるアダムスの姿を、子供のようにグラウンドを走るアダムスを見つめるイーストウッドの顔を、しっかりと捉えること。
物語がもつ重要な契機を、運動を、その豊かなイメージとともにしっかりと強調すること。


だからラストは当然、エイミー・アダムスの背中を見つめ、静かに去っていくイーストウッドの背中を捉える俯瞰になるわけだ。それは、それまでのディスコミュニケーション的性格の冷たい背中ではなく、信頼とか愛情とか照れとか、そういうのが詰まった暖かい背中だ。
まさにアメリカ映画の真髄。
超傑作。


2012年11月23日金曜日

その男、凶暴につき

監督:北野武

どっからどう切り取っても傑作であって、もうイチイチ書く事すら躊躇してしまう程だが、しかし決定的なのはやはり更衣室のシーンだろう。
それまで映画は、武の過剰な暴力を見せつつも、それらは例えば新米の菊池の存在や、あるいはスローモーションなどによって「笑い」へと回収されていた。
だが更衣室のシーンではどうだろう。
まず更衣室の外に立っている菊池の姿をカメラは捉える。そして中からドン!という音が何度も聞こえてくる。しばらくすると、菊池の姿と更衣室の中で白竜が殴られているショットが交互にモンタージュされる。それまで映画を(そしてこのシーンでもまた)「笑い」へと誘っていた菊池と、白竜の殴られるショットのモンタージュ。
そしてシーンはいよいよ更衣室の中へとフォーカスされる。そして決定的なショットが、壁にもたれて座り込んだ白竜とそれを見下ろす武の切り返しショットだ。ここでは、それぞれの「キチガイ」が、交互に真正面からカメラで捉えられる。そしてこのショットを最後に、映画から「笑い」が排除される。

クライマックスの演出の強度は圧倒的だ。武が登場するタイミング、そして扉を開けると光が差込み、白竜と武が縦の構図で捉えられる。こんなことを処女作でやってしまうというのはちょっと信じがたい。

川上麻衣子と武が帰り道に通る河川敷の俯瞰ショットの嘘みたいな叙情性。

黒の試走車

監督:増村保造

なんと渋い傑作。派手さは皆無だが、すべてのシーンが素晴らしい強度を持っている。

会議室の映画だと言えるだろう。ある者とある者が議論をし、そこに別のものが口を挟む、という一連のやりとりを、カメラがそのたびに視点を変え、構図⇒逆構図の切り返しを積み重ねながら、随所に仰角のフルで引き締める。冒頭の会議で高松英朗が最後に立ち上がる瞬間、カッティング・イン・アクションで仰角に引く間合いが完璧。

2012年11月22日木曜日

ふがいない僕は空を見た

監督:タナダユキ

永山絢斗が丸めて捨てた紙くずを捉えたタイトル・ショットがとてもいい。

画面の外から聞こえてくる声や音。
永山絢斗を引きとめようとする田端智子の叫び声、家に帰った田端智子の耳に聞こえる盗撮動画の音、窪田正孝のノックに対して居留守を使う母親が立ててしまった物音、電話越しに聞こえる田端智子の姑の嫌み。田端智子が合わせて歌うアニメソングとそれにかぶさる裁縫マシーンのガタガタという音。
とりわけ印象的なのが、窪田正孝とバイトの同僚の女がビラを撒いてはしゃいだシーンの直後にどっかの民家から聞こえる悲鳴。

多くの画面外の音が、画面内の人物に対して「重たい現実」としてのしかかってくる。田端智子と永山絢斗が私服で交わるシーンの嘘みたいな透明感や永山絢斗と同級生の女生徒とのキスシーンと対比されるようにして。

前半はこんな感じで快調に進んでいくのだが、後半はその現実がひたすら「リアルな現実」として、世の中の縮図として綺麗におさまり、そのリアルには確かに心を打たれるが、しかしそれ以上いかない。映画がリアルを越えようとせず、言語的になってしまう。

あるいは前半の、極めて断片的な描写、前後の流れを無視し、それだけで成り立たせんというばかりの「運動性」に対し、後半はその前半の断片性を「論理的に」説明していくものでしかない。
田端智子のキャラクターの形容しがたい浮遊感は、「不妊とそれによる家族からの圧力に悩む主婦」というステレオタイプなそれに回収されるのだし、窪田正孝もまた現実の若者の不幸をなぞっているに過ぎない。
現実の不幸をなぞっているというのは、別に私が同じような境遇の若者を知っているとかそういう事ではなく、「団地住まいです。婆ちゃんが認知症です。両親がどうしようもないです。コンビニでバイトしています。金がないです」という説明的な描写によって誰もが了承できるレベルであるという事だ。繰り返すが、別にそれでもいい。もっと悲惨なものを描けとかそういう事でもない。現実の不幸を身にまとうことがダメとは言わないが、しかし映画とはそうした「説明可能な現実」とは別の何かが、あるいは我々が現実において見逃している「細部」が、ふとした瞬間に「非リアル」として、つまり「緩やかな時間」として立ち現れるのを捉えるものではなかったか。
おそらく、腹を空かせた窪田正孝が原田美枝子のつくった弁当を見つけ、それをたまらず頬張るという描写にこそ、その瞬間は訪れるべきだったかもしれないが、監督はそれに自覚的なのかどうかわからないが、とにかくこのシーンを全力で演出しなかった点に、この映画がいかに言語的であるかが表れている。

遠くから自転車がやってくるショットやあるいは自転車と並行しての撮影など、なかなか気に入るショットがあったので、タナダユキはオリジナル脚本で撮ってはどうか。


2012年11月20日火曜日

水の中の八月

監督:石井聡亙

『水の中の八月』というタイトルがすでに泣ける。

飛び込みの撮り方、飛び込み台を中心に仰角の横移動で見せるのは凄いカッコいいんだけど、何回やってんの!とか、途中の飛び込みをMTVみたいに細かく見せるの鬱陶しいとか、中盤の山登りとかもうどうでもええわ!とか、まぁいろいろ文句はつけたいのだが、しかしこれが決定的に泣ける。例えば終盤、葉月泉が川で振り向いて真魚にテレパシーを送るとこ、あれ、テレパシーの内容をオフで流すわけで、んなことやったらアカンやろ、って感じなのだけど、なぜかそのテレパシーが泣けちゃう。あるいは、この振り向いたときの葉月泉が、この映画の中でダントツに可愛い。

決定的に泣けてしまうのは、ふとした瞬間の美しい光景の強度ゆえだろう。
特に好きなのが博多祭りのシーンで、真魚が「この匂い、水が蒸発する匂い、、、」とつぶやくと、画面手前にいる泉が、目を閉じてスーっと息を吸い込むショット。素晴らしい。

あるいは何度か出てくるバイクのシーン。最初は肩に手をおいていただけの泉が、中盤では抱きついて居眠りをしている。でもことさらに勿体つけて見せないんだね。あるいはそこから急速に二人の愛が深まるわけでもなくて、本当に何ともなしに、泉が真魚に背中に寄りかかってるショットを、ほんのちょっとだけ見せるっていう、この慎ましさが良い。

真魚がプールに飛び込んで泉を救出するショットも、まぁこの題材なら当然あるわけだが、でもこの映画はちょっと異質な感覚を帯びてるよね。というのも、その直前、つまり泉が飛び込むシーンで、変な合成映像みたいのブッ込んでくるから、「うお、何この実験映画ライクな演出ww」となって、ちょっと虚を突かれた直後に、この美しいショットが出てくるもんだから、余計に感動しちゃうんだ。

ラストもいいね。最後をこういう風に終わらせるなんて思ってもいなかった。
泉がつけてた日記も、なんか泣ける。
そして幻想の中で泉が老いた真魚を抱きしめるショットが凄く良い。
映画としてはほんのラスト数分のうちに、半ば強引に時間を早送りさせてるのに、このショットただ一つだけで、真魚が生きた年月を感じさせてくれるのだ。そしてその、何と悲しく、儚い人生だろうか。
何かこう、すべてを許してしまいたくなる映画だ。

細部に注目しよう。あるいは、作者の意図やモチーフとは?

 映画でも小説でも何でもいいのですが、作者の伝えたいことを考えるという鑑賞の仕方と、そういった作者の意図を無視して鑑賞するというのは、まぁ映画の世界でもしばしば対立することだと思います。後者というのは、いわゆる表層=見たもの聞いたものだけを素材としてその作品を評価するという認識をしています。で、この記事ではこの一般的な考え方をちょっとだけ乗り越えてみようと思います。

 こんなシチュエーションを考えてみてください。
 AくんとBくんが、ある作品のテーマを巡って意見が対立しているとします。で、拉致があかないので、ネットでその作品の監督のインタビューを検索してみたところ、見つかりました。そして、その監督がその作品のテーマに言及していました。それはAくんの考えと同じでした。Aくんは意気揚々となって、Bくんをdisりました。
さて、このとき、Bくんは「間違っていた」のでしょうか。

 これは要するに、作者の意図やモチーフというのが、その作品をめぐる言説環境において、いかほどの「権威」を持つか、という話になると考えます。
 
 ここで権威主義の話をします。
 権威主義というのは、しばしば権威を振りかざして上から目線でバカにしてくる、というようなイメージで考えられることがあると思います。「お前はカントも読んでないのか」、「あのね、君の大学なんか僕の大学に比べればクソだよ」とか、こんな言説に代表させることができるでしょうか。
 
 ただ、僕は権威主義は「上から目線」ではないと思っています。むしろまったく逆ではないかと。
 というのも、「お前はカントも読んでないのか」という発言は、disる対象に対しては確かに上から目線なのだけれども、実は暗黙の前提として、「カント」に上目遣いをしているわけです。カントという権威のご機嫌をうかがいつつ、自分より下の人間を見つけると、カントを「利用する」という態度こそが権威主義だと思っています。
 つまり他人は貶めつつ、自分は権威の下に守られようとするような、歪んだ自己愛が根底にあるのではないかと。

 さて、ではここで話を戻しますが、作者の意図は権威なのかそうでないのか。実をいうと、僕はここは重要ではないと思います。というか、作者の意図というのがまったく無視できるとは思えないので、ある程度の権威ではあるでしょう。程度の問題です。
 つまり、先ほどのエピソードで本当に重要なのは、作者の意図が自分と同じであったと知ったAくんが、意気揚々とBくんをdisるという行為の評価です。
 僕はAくんの振る舞いこそが権威主義だと思うわけです。作者の意図が権威であるかどうか、が重要なのではなく、それが権威と見なしたうえで、それに依拠して他者をdisるのかどうかこそが重要だということです。disるとは言わないまでも、Bくんより自分が正しかったとほくそ笑むことの評価です。

 誤解してほしくないのは、作者の意図やテーマを考えるという事はまったくもって非難されることではないという事です。問題なのは作者の意図やテーマを「当てっこ」してしまうという事です。

 ではなぜ僕がそこに慎重であるべきかを説明します。
 まず、作品、ここでは映画の話にしましょう、には、当然作者=監督、脚本家などの意図やモチーフが反映されているでしょう。しかし一方で、映画には作者の意図しないものまでも映っているかもしれません。あるいは同じものを映しても、作者と観客では見え方が異なる場合もあるでしょう。
 そうしたときに、たとえば観客が監督のインタビューを読むとします。そして監督の意図やモチーフを知ります。したがって、当然観客はその作品の中に作者の意図やモチーフを反映したもの、反映していないものの両方の要素を見出します。そしてその観客が作者の意図やモチーフを(いわば権威として)絶対視しすぎてしまうと、後者、つまり自分が見たけれど、実際には作者の意図やモチーフとは関係のないもの、を意識外に捨ててしまう、という事になってしまいます。私はここに危惧しているわけです。

 映画にかかわらず、世の中には様々な人の様々な思惑があふれかえり、それらは具象化し、情報としてインターネットやテレビ画面などを通じて我々の前に伝えられます。
 私たちはそれを、その伝達者の意図やモチーフにしたがって、情報を分けるのでしょうか。そして意図やモチーフと関係しないものは、関係ないとして隅に追いやってしまうのでしょうか。
 それは、何か、大切なもの、誰の思惑からも独立して、偶然にも私たちの前に現れた細部の煌めきを、逃し続けることにはならないでしょうか。

 誤解しないでいただきたいのは、私は作者の意図やモチーフを無視せよ、と言っているのではないのです。そういった行為は「権威だから」無視する、という意味で権威主義と同族にあると思います。
 そうではなく、作者の意図やモチーフの存在を認めたうえで、作品、ひいては情報と向き合い、そこに豊かな細部を発見すること、そうした行いを通じて、その作品や情報をめぐる言説空間に新しい解釈、新しい価値体系を生成させ、社会を変容させていくこと、、、ちょっと気合いが入りすぎですね(笑)、少し控えめに言うならば、そのように自分の解釈を投入することで、言説空間が変わりうることを自覚していくこと。つまり、当事者としてその作品と向き合うこと、これが重要ではないかと思っています。
 
 映画を中心として話しましたが、様々なものに対して、このような姿勢を持ちたいと思っています。


カリフォルニア・ドールズ

監督:ロバート・アルドリッチ

冒頭、試合後にピーター・フォーク演じるハリーとドールズの二人が言い合いになり、ドールズの二人が機嫌を損ねる。そのままハリーは車を走らせるわけだが、ここでハリーが「本物は~(すまん、忘れたw)」という格言を言うと、それを二人が復唱する。で、このやり取りは車が走り出すのを全景で捉えたショットにオフの声として入ってくるわけで、このようにしてこの三人のチームの雰囲気が大体伝わってきて、「ああ、いいなぁ」、と。ついでにこの車のマフラーが壊れてて、煙がもくもくと出てくるのが良いよね。

ピーター・フォークが川で石投げてるショットとかすごいよね。

黒人チームと楽屋で喧嘩になるシーンとか、興行師を誘惑して帰ってきたアイリスと言い合いになるシーンのカット処理とか、地味ながらすっごい良い仕事してる。

ただ、全体のカット構成とか、音の作りかたにややノレなかった。
会話において、Aがしゃべるショット=Aのセリフ→Bがしゃべるショット=Bのセリフというカット処理がベースになってるので、ちとテンポが必要以上に遅い気がする。クライマックスのバトルでもリングアナウンサーのしゃべるショットがいちいち挿入されるのが、ちょっとノレなかったかな。

それでも随所に良いシーンがいっぱいあるし、これはもう一度見るとまた味わいが深まるのかな、と思った。

2012年11月15日木曜日

覚え書き

考えるとは、一般化できないものや理論化できないものの存在を確かめること。「それ」が実在するものであれ、空気であれ、観念であれ、それに直に触れること。
でもそのためには、一般化する方法、理論を学ぶ必要がある。どこまでが一般化できるのか、どこまでが理論から説明できるのか、それを知ったうえで、そこからこぼれ落ちる部分をすくい取ること。
こぼれ落ちるものは、こぼれ落ちる事を知られるだけでは、触れられたことにならない。こぼれ落ちるものがあると知っていながら、無視するのは怠慢だ。
こぼれ落ちるものを、実際に掬い取らない限り、それらは存在することを押しつぶされた痕跡にしかならない。

2012年11月14日水曜日

フランティック

監督:ロマン・ポランスキー

突然失踪した妻を探す物語でありながら、ことさらにサスペンスを盛り立てることなく、あくまで地味に、所々で細部を丁寧に描くあたりに好感が持てる。決して心拍数は上がらないのだけど、いつまでも飽きない。
ホテルに到着したハリソン・フォードと妻の可笑しいやりとりから、フォードがシャワーを浴びるワンショット内でたちまちに不吉な予感を起こさせる見事な手腕。デデという男の死体現場の猫の扱いや、ハリソン・フォードが屋根の上を歩くシーンの処理もいい(アタッシュケースが開いて中のものが全部出てしまうとこ、あるいはハリソン・フォードの靴がスーっと滑っていくショットね)。
妻が失踪した直後の、大使館で行列に並ばされたり、警察で全然まともに取り合ってもらえなかったり、フランス語がわかんなかったりという、フォードの徒労感の描写がとっても上手い。
あるいはエマニュエル・セニエ演じるミシェルのパンクなキャラクタりゼーションも楽しい。
喫茶店のスプレー噴射、クラブでの妖艶な踊り、少しずついろんな表情を全編を通して魅せてくれる。
傑作でしょう。

2012年11月13日火曜日

リリィ

監督:クロード・ミレール

この全くもって形容し難い、しかし完璧に見る者を熱狂させる、底抜けの、ミステリアスで挑発的な魅力はいったい何なのだ。
湖、渡り鳥、風、森、これらの自然を、決して審美的ではなく、シャープに、スクリーンに突きつけるように切り取ったオープニングのイメージ、そこから続く唐突なリュディヴィーヌ・サニエの裸体の描写には、そう、極上のサスペンスの香りがぷんぷんと漂う。

ミレールの2000年代以降の作品は、あの最強の傑作『ある秘密』しか見ていないが、しかしこの冒頭の切れ味鋭いイメージの数々、そして前半から中盤にかけて繰り広げられる怒涛の不信と情事の物語には、天才クロード・ミレールの、あの鮮烈さが、はっきりと刻印されている。

現代の映画らしく、怒涛のスピードで次々に生起しては消滅していってしまうイメージの数々。人々がふっと作業を止めて宙を見つめるいくつかのショット、ジュリアンが母親の部屋にやってきた時のフルショット、海辺でリリィが木の影に隠れるようにして去っていくショットのなんと忘れがたい美しさ、危うさ!

この映画全体が、クロード・ミレールの確信犯的な挑発だと思う。アントニオーニの『欲望』のように、形式と内容が一体化している(アントニオーニが『欲望』についてそう言ってたよん)。

何も解決されぬまま放り出された前半部、そして唐突に時間がジャンプして始まり、それぞれの人生を再開させた人々が、再び出会い、しかしお互いがいったい何を考えているのか全くわからず、ひたすらそのミステリアスな視線、表情、そして映画のフォルムがサスペンスを醸成し、いったいどこに向かっているのかわからないというような印象を持たせる後半部、そしてラスト。

この万華鏡のような、スキャンダラスなラストシークエンスを見るにあたって、私たちは「前半はいったい何だったのか」と思わずにはいられない。何だったのか、正確に言えば、「あれは現実だったのか」、いやもっと言おう、「現実とは何なのか」、そう思わずにはいられない。
リュディヴィーヌ・サニエがセットの上を歩く姿に、CGのイメージ映像がかぶさるとき、その快い不安は頂点に達することだろう。
映画は何かを仄めかし、そして何も解決しないまま、終わる。たぶん、この人物達もまた、何も解決することを求めぬまま、何も無かったかのように別れていくのではないか。
だが決して何も無かったなどとは言わせぬ。彼らは崖の上で、あと一歩で落ちるところまで来ていた。結果として彼らは落ちなかっただけだが、しかし彼らは間違いなく崖の上にいた。あと一歩ですべてが壊れそうなところにいた。それを事件と言わずして何と言おうか!
だからこのラストは、ハッピーな表情をした究極のビターエンドだ。


(追記)
この映画全体の構造をわかったうえで再見してみると、意外な事に後半部が平板に見えてしまう。
というより、良いカットと悪いカットが混在していて、そういう意味では冷静に自分の中でこの作品を位置づけることができたかもしれない。だが例えばこの映画をスクリーンで見たら、おそらくまた違った印象にもなるだろう。
後半部の演出の意図はとても難しいが、シモン(ジャンピエール・マリー)が別荘のセットで、トイレに行くシーンが秀逸だな、と。
「セットも本物と同じとこにトイレがあるのか?」と聞いてそこに行ってみると、スタッフ同士が情事に及んでいるというシニカルなエピソード(まさに愛憎入り混じる屋敷だ(笑))、そしてその後セットの外のトイレに行くシモンを後ろから逆光で捉えたショットがとても良い。
セットでの撮影シーンは全体的に照明が平板であるだけに(しかしこれも前半部とのコントラストを強調しているのかもしれない)、この逆光のショットはとても印象に残る。

あるいは、前半部はカッティング・イン・アクション、あるいは人が通りすぎる瞬間にカットを割って寄る、といった技巧的な編集に加え、カメラワークは極めてなめらかな曲線を描いているのに対し、後半部の印象はまるで異なる。というのも、後半部は車に乗って電話をしているリュディヴィーヌ・サニエのシーンから始まり、これがフィックスのジャンプカットが多用された非常にザクザクとしたイメージであり、続いてサニエが、ブリスとマドの二人に偶然遭遇するシーンはワンショットの直線的なカメラワークで、丁度縦に歩くサニエと、横に歩く二人(ブリス、マド)が直角に交わる様が描かれる。さらに続いて、サニエが二人と別れてからおもむろに電話をかけるシーンも直線的な長回しで撮られている。









2012年11月11日日曜日

「卑しい動機」と価値の再発見

 しばらく前にTwitter内で、カンボジアの支援をする(いわゆる)意識の高い学生を揶揄するツイートが見られ、それが(いわゆる)アルファ・ツイッタラーの間で盛り上がるというケースがありましたね。
 これらの言説の内容を私なりに要約すると、「彼らは、日本にも貧困はあるのに、カンボジアの支援を優先させる。それは、彼らが貧困に同情してるんじゃなくて、『海外支援してる僕たち』に酔っているからだ。マジ気に食わん」という事になるかと思います。
 
 なるほど、そのような心性はあるのかもしれません。かく言う私も、国境なき医師団で働いてみたい、とか、国連で働いてみたい、などしばしば思うのですが、要するに海外を股にかけて仕事する自分の姿を描いて酔っているという解釈も可能でしょう。

 つまり、その動機が「卑しい」という事が、しばしば揶揄/非難の的になるわけです。

 同じような事例はいくらでもあると思います。
 例えば「人と違うことをする」、「人があまりやっていない事をする」ことによって目立とうとすること。みんながAをやっているからBをやる、というのは、実はBそのものに価値を見出しているとは言えないわけですね。つまりもしみんながBをやっていたら、その人はAを選ぶことになるからです。
 それ自体に、普遍的な価値を見出すことなく、行動や立ち位置を選択するという意味において、その選択の動機は「卑しい」と呼ぶことができるかと思います。

 私が言いたいのは、それでいいじゃないか、という事と、しかしその次の段階こそが重要なのではないか、という事です。
 
 過剰な自己承認欲求が暴走して、確固たる核を持たない状態で行動や身振りを選択してしまうということはいくらでもあります。
 そしてそうした「自己承認欲求」が露骨であるとき、人はそれに辟易し、揶揄/非難をするのでしょう。
 私はそのこと=卑しい動機によって行動を選択すること自体にはさほど問題があるとは思いません。
 私が問題だと思うのは、承認欲求に溺れてしまうことです。つまり、承認欲求を満たそうとして選択した行動から、結果として承認欲求以外のものを得ずに終わってしまうことです。
 もちろん、日常のささいな行為はしばしば、ただひたすら承認されるために行われ、承認され次第恍惚とともに終わるわけで、それをいちいち問題にしようとは思いません。
 
 しかし、「カンボジアの支援」レベルの話になってくると、重要な問題だと思います。
 
 動機が卑しかろうが問題ではないわけです。重要なのはその先ですね。
 実際の経験を通して、その行動や身振りに内在する普遍的な価値をいかに発見することができるか、あるいは自らの卑しい動機によって始めた行動の中に、「卑しい動機を満たす道具」とは別の意味を見出し、再解釈すること、これがとても大事なことだと思います。
 なぜならそのような再解釈、価値の再発見を通じて、もしかしたら「カンボジアの支援」以上に価値のあることが発見されるかもしれないわけです。そしてそうして発見されたものは、もしかしたら自己承認を全く満たさないものかもしれない。でもそれが成長ということなのかもしれないですね。

 もちろん「カンボジアの支援」のようなものにとどまらず、例えば趣味・文化の世界でも言えることだと思います。
 「趣味って人と違うからやって承認欲求満たすためにやるんだろ?」というニヒルな言説はよく見られますが、おそらく導入としてはそんなものかもしれません。
 しかし、そうした「卑しい動機」によって始めた趣味・文化活動を通じて、その趣味・文化活動に内在する普遍的な価値というものを発見することができれば、そのような動機の「卑しさ」など、さして問題ではないでしょう。

 あるいは学生として一番身近な例として、試験勉強があると思います。
 試験に落ちたくないから勉強する、しかし結果的にその科目の面白さを発見する、というプロセスは、、、まぁ最近あんまり無いですね・・・orz
 
 
 私は上記したような、(様々な動機から)行動をする→その行動そのものを再解釈し、本質を発見する→次の段階に進む、というプロセス、そしてそうしたプロセスを経験できるような社会的な仕掛けが重要だと思っています。それはTwitterのような言説空間のレベルでも言えると思います。
 「結局自己承認欲求満たしたいだけ」というような揶揄・非難は、上記したような本当に重要なプロセスの経験を阻害してしまうことになると思います。
 であれば、「承認欲求丸出し」の行動に対し、それを一応肯定しつつ、しかしその先にあるプロセスに気づかせてあげる/促してあげるというような態度が重要で、そうした態度/空気を通じて社会の多様性や(文化的思想的)豊かさは生まれるのではないかと考えています。 



2012年11月9日金曜日

孤独な声

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

ソクーロフの処女長編。ソクーロフという人は本当にとんでもない天才だな、とつくづく思う。
映画において、男と女を描く、しかも濃密に。これはあらゆる映画にとって大切なことだ。あるいは映画を見る喜びのほとんどはここに集約されると言っても過言ではない。いや過言だけど。

木々の隙間からのぞく太陽の光線を捉えたショットに続いて、カメラは唐突に靴を履いた足をとらえる。それが誰の足なのかわからない。それから今度はカメラが引くと、ニキータ(男)の目の前に一人の女性が立っているのがわかる。なるほど、この女性の足だったのだ。そしてこの、なんとも形容のし難い、不思議な魅力を持った顔立ちの女性が、「こんにちは、私のこと覚えている?」と尋ねると、今度は反対側から捉えた、つまり女性の方向からニキータを捉えたショットに、オーバーラップで切り替わり、ここでもかなりの間を置いて「覚えています」とニキータがつぶやく。
この時間の流れ。
考えてみれば、ものすごい不自然なやりとりだ。まるでスローモーションの世界のように、二人はゆっくりと間をとって、お互いにぼそっとだけ声を発する。この時間の「過剰な緩やかさ」をオーバーラップの切り返しがさらに助長する。このあまりに不自然きわまりない、常識はずれの時間の流れが、しかしそれが一体どうして―いや、むしろこれこそが映画が持つ恐ろしいまでの力だが、この時間の流れが愛おしくて仕方がない!

我々の日常とは全く異次元の存在と時間が、突然立ち現れること。

あるいは、本作において、上記のシーンと同じくらい好きなシーンを上げるならば、リューバ(女)が寝ているところに、リューバの友人がやってくるとこだろう。
カメラは窓際にセットされ、部屋の奥でリューバが眠っている。で、そのそばでニキータがアルバムを眺めているのだけど、友人が画面の外からリューバを呼びかけると、リューバが起き上がって、窓までやってくる。だから当然、この持続したフィックスショットは、リューバのクローズアップに移行するわけだ。このクローズアップが本当に素晴らしい。リューバの幸福そうな表情に、優しく日光があたっている。素晴らしい。
そしてそこから一気にカメラが部屋の奥の暖炉の前に移り、手前に暖炉に薪をくべるニキータ、奥に友人と楽しそうに会話するリューバの姿が捉えられる。この光のコントラストの素晴らしさ!
もう本当に天才としか言い様がない。

2012年11月7日水曜日

ジャケット

監督:ジョン・メイブリー

予算の制約が(多分)ある中で、しかもタイム・スリップものでありながら、とにかく地味に、しかしかなり丁寧に演出してある。

あるいはタイムスリップものでありながら、タイムスリップ先の舞台が田舎町であり、しかもせっかくタイムスリップというアクロバットな移動を果たしてみせるエイドリアン・ブロディは、まるでただの放浪者のように、なんともなしに現れ、そして突然何の痕跡もなく消える。この地味さが、映画全体を引き締めているといってもいいかもしれない。


考えてみればこれはクリスマスを舞台にした映画なのだ。しかしどちらの年のクリスマスも、方や1992年は精神病院が舞台だし、2007年は喫茶店がポツンとあるような辺鄙な田舎町に、出てくるのはクリスマス嫌いの独り身のやつれた女だ。重ねてこの地味さを賞賛したい(笑)
ブロディが二回目にタイムスリップしたときに、キーラ・ナイトレイと再会するシーンの、なんて普通なこと(笑)
決して凡庸なのではなく、正しく「普通」である。
ああ、またこの二人が出会った、というごくごくありふれた喜び。



オーソドックスな画面構成でありながら、照明はしっかりしているし、あるいはキーラ・ナイトレイとエイドリアン・ブロディの距離の縮まり方、そして離れ方も素晴らしい。キッチンで酒を注ぐキーラ・ナイトレイがブロディの方を横目で見ながら首を傾ける仕草が、やたらミステリアスで、この時彼女がいったい何を考えているのか全然わからないのだが、それゆえに良いシーンだ。
あるいはキーラ・ナイトレイはタバコが良く似合う。



終盤の実家に行くシーンが少し感傷的と言えば感傷的だが、しかしジーンがドア越しに言葉もなくブロディを見送るショットなんて素晴らしいじゃないか。

ラストはトニー・スコット『デジャヴ』を思わせるラストだけど、もちろん『デジャヴ』のようなあんなエモーションは無いんだけど(※)、バックの夕陽がだんだん画面全体に広がっていく演出は、この映画にしては派手で、そしてその「慎ましい派手さ」ゆえに非常に良いラストになってる。


※それはおそらく、同じタイムスリップものである『デジャヴ』が同時に「人と人が出会うこと」それ自体をテーマにしていたからだろう。『デジャヴ』の有名なスクリーン越しの切り返しのような派手な演出に対し、この映画はそんな事しない。なぜならこの映画における出会いは徹底的に「普通」だからだ。
3回目に二人が出会うシーンのカメラワークなんて素晴らしい。

2012年11月3日土曜日

召使

監督:ジョセフ・ロージー

なんちゅー怪作(笑)

オープニング、枯れ木が冬の香りをしたためる美しい通りを映したカメラは、緩やかに反転して、こちらに歩いてくるダーク・ボガードを捉え、そのまま彼を追う。ああ、極めてシンプルでありながら、まさに「映画の時間」がここに定着している。このままこの世界にどっぷりと浸かりたい。
ダーク・ボガードが家に入っていく一連のシークエンスの何と無駄なカメラワーク(笑)しかしイチイチがカッコいい。美しい、流麗なカメラワークだ。

流麗なカメラワークは、ジェームズ・フォックスがバーでウェンディ・クレイグを口説くシーンでも発揮される事だろう。そうしてあまりにも「当然のように」ウェンディ・クレイグを口説き落としたジェームズ・フォックスが、そのウェンディと一夜を共にするシーンは、まず外側から邸宅を捉え、ゆっくり下降する美しい雪景色を挟んで、全く同じように下降するカメラワークでもって、床に寝そべる二人を捉える。ああ、何て素晴らしい呼吸、リズム。

ダーク・ボガード、ジェームズ・フォックス、ウェンディ・クレイグが邸宅で一同に会するあたりから、映画のリズムが変わる。それは鏡を介して三人を捉えた歪みまくったショットで予感されるだろう。
そして考えてみれば、我々はこのダーク・ボガード演じる召使いの素性をまるで知らない事に気づく。待て、考えてみればそもそもこのDVDはサスペンス・コーナーに置いてあったのではなかったか。という事は、このダーク・ボガードは何かを企んでいるのだろうか。。。

あるいは、公衆電話でのダーク・ボガードは、まるで召使いとは思えぬツワモノの風情だ。
公衆電話を待つ女たちに「ビッチ!」とまで吐き捨てる。


関係ないが、ジェームズ・フォックスとウェンディ・クレイグが、富豪の老夫婦の家で会話をするシーン。「ポンチョって?」、「南米のカウボーイだけど?」、「え、ポンチョって上につけるやつじゃなくて?」、「は?何の?」、「だからカウボーイの」、「それはマントでしょ」、「ああそうなの」、、、、何だこの会話は(笑)
だがこのわっけのわからない会話も、最初に4人を捉えたフルショット、次いでお互いの夫婦を捉えたローアングルのショットが交互が続くあたりで、見事に引き込まれてしまう。



さて、サラ・マイルズが新たにやってくるシーンでは、ジェームズ・フォックスとウェンディ・クレイグのレストランでの食事とその周辺の客達の様子を映したショットと、ダーク・ボガードがサラ・マイルズを迎えてタクシーに乗るショットが平行モンタージュで映されるわけだが、もうこれも何で平行モンタージュなのかまるでわからぬ。
しかしレストランでの演出の素晴らしさには舌を巻く。フォックス=クレイグの会話を中心としながらも(この会話も意味不明に深刻(笑))、彼らを奥で捉えながら周辺の客の会話も見せてくれる。別にストーリー上は何の意味もないこれらの人々であるが、いやいや、こういうのを見せてくれるのが良質な映画というものだ。隣り合って座るオッサンとアイリッシュのコンビなんて最高じゃないか。


さてさて、サラ・マイルズとジェームズ・フォックスが恋に落ちるシーンの何たる悪ふざけっぷり!ポタポタたれる水道水の音が部屋に響き渡り、仮にもメイドであるマイルズが、「暑いわ~」とか言いながら机の上に座ってセクシーポーズを取るんだから、もう何でもアリっすね!

この後のシーンで、ダーク・ボガードが酒を買いにいってる間にフォックスとマイルズが行為に及ぶシーンがあるが、ここのシーン、廊下で抱き合う二人の姿が、画面奥の廊下の鏡に映り込み、手前には二人の重なり合った手が壁際からはみ出て見える。このショットが絶品。この映画で一番好きなショットだ。

そろそろ書くのも面倒になってきた。なぜって、これはもう見てもらうしかないからだ。最後の方はどこまで本気なんだかわからないのだが、しかしハチャメチャに面白い。
個性豊かな俳優、美しい照明、なめらかなカメラワーク、そしてムーディなジャズがあれば、何をしても映画になるのだ、という高らかな宣言。いや、素晴らしい。






2012年11月2日金曜日

なまいきシャルロット

監督:クロード・ミレール

13歳を迎え、大人の世界にあこがれるシャルロット。
映画はシャルロットの前に現れる「大人の世界」を丁寧に描いて見せる。
更衣室にやってくる全裸の女のエロティックさ、あるいは初めてクララのステージ映像を目撃するシャルロットの描写の小気味良さ。ホールから聞こえてくるクラシック音楽につられて、そしてその曲に調子を合わせて歩くシャルロット(これが終盤のコンサートのシーンと同期してるんだね)、そしてテレビ画面越しに目が合うクララとシャルロット。

そしてシャルロットは、それらの世界と接触しては期待に胸を膨らませ、日常から脱出したいと強く願う。
しかしそれは、しょせんは思春期の、つかの間の「非日常感」に過ぎず、決して非日常そのものは彼女の前にはやってこない。
結局シャルロットとジャンはセックスをしないのだし、あるいはシャルロットがランプで殴ったジャンは死ぬわけでもなく、けろっとして電車に乗って去っていくのだし、またルルも鼻血を出して倒れたところで別に死ぬわけでもない。そして当然、シャルロットがクララの付き人になるわけでもない。

あらゆる「非日常の予感」は、「思春期」という特権的な時間の中で生起しては何事もなかったかのように消滅する。
うむ、しょせんは人生の通過点だ。

しかしそれでもこの映画は、そうした「事件の予感」を、そしてその予感に立ち会った一人の少女の無垢な感情を、しっかりと鮮やかに切り取ってみせる。
13歳になり、日常に嫌気がさし、大人の世界、ゴージャスな世界にあこがれを抱き始めて生き急ぐ少女の物語でありながら、その語りのスピードは驚くほどゆっくりで、そこにある緩やかな時間の流れをしっかりと捉えてみせるわけだ。

いさかいの後、レオ―ヌ、シャルロット、ルルが一緒になって木の下で昼寝をする様を映したショットの何たる優しさ。
あるいはシャルロットの父親とレオーヌの関係の描写も、二人が挨拶したり、手を振り合うだけで、こんなにも快い気分になってしまうのだから、つくづく映画とは不思議なものだ。
初めてシャルロットがクララと出会ったときに、ここしかないというタイミングでかかるテーマソングの素晴らしさ。

「しょせんは人生の通過点に過ぎぬ」と成熟ぶってメタに立ち回るのではなく、そうした通過点にすぎない「どうでもいい」時間の一瞬一瞬を、映画として鮮やかに、美しく切り取ってみせること。メタに立ち回るのではなく、熱狂すること。
これだ。映画とは思春期だ。

2012年10月28日日曜日

グリード

監督:エリッヒ・フォン・シュトロハイム

あらゆる瞬間が「映画」だ。完璧な傑作。
鳥かごとネコのモチーフが印象的だ。ネコのどアップ、そしてネコが鳥かごに掴み掛るショットが素晴らしいのは、それがモチーフの象徴的意味においてではなく、そのあまりにも不吉な雰囲気に満ちた画面そのものであるだろう。
あるいは路面電車、鉄道といった乗り物を見事にとらえたショットの数々。ザス・ピッツとギブソン・ゴーランドを手前に配し、その奥を鉄道が通りすぎるショットのなんと感動的なことか。
これはもう理屈の問題ではなくて、というか、実際なぜ男女の後ろを鉄道が通るだけでこんなに泣けてしまうのかよくわからない。しかし素晴らしい。

あるいはザス・ピッツとジョーン・ハーショルトがゴーランドの歯医者から路面電車に乗って帰っていくところを、(そもそも歯医者の室内でのシーンからして、窓から下の景色が見えて、とっても見晴らしのいいショットで構成されているのだけど)窓からの俯瞰で撮りながら、ゴーランドのクローズアップにつなぐカットのなんと小気味の良いこと。
このシーン、俯瞰ショットで窓枠とともに路面電車を捉えつつも、最後だけ窓枠抜きで路面電車単体をきわめて印象深く撮ってる。

その他、バストショット⇒フルショット⇒クローズアップというカットの入りがとてもサスペンスフルだったり、煙や湯気を効果的に使ったショットが多数あったり、あるいは階段の途中で止まるゴーランドと上のザス・ピッツを縦の構図で捉えた仰角のど迫力のショットなど、緊張感のある演出で最後まで突っ切ってくれた。すごい。
もう終盤はひたすら食い入るように見ていた。

(いろいろな尺のバージョンがあるそうだけど、僕が見たのは134分版)

2012年10月21日日曜日

厳重に監視された列車

監督:イジー・メンツェル

物凄い傑作。一つ一つのショットの圧倒的な強度、美しさ。もう本当に全てのショットが美しいのだが、その中でも雪の中を走る蒸気機関車のショットをあげておきたい。
また、美しいショットのつなぎ方がいわゆる王道の映画とは違う、独特の間をもってつながれていくのだが(例えば女車掌のマーシャがミロシュにキスしようとすると電車が走り出してしまうとびきりに可愛い描写のカットの割り方、持続時間)、そうした「間」が決してヘタクソな学生映画のそれではなくて、時の流れが少しだけゆっくりになるかのように、そしてこう言って良いのであれば、「魔法にかけられた」かのような印象を残す。

そしてそのようなちょっとしたショットの持続、カメラの寄りで紡がれる空間と時間の、なんて濃密なことだろう!
女たらしの駅員が電報係(クソかわいい!!)と情事に至るショットでは、電報係がゆっくりと仰向けに体を寝かせる時にピタッと窓から差し込む光が彼女の顔にあたる。この濃密さ!美しさ!本当に幻想的だ!

美しく、そして濃密な空間/時間設計でありながら、同時にユーモアと優しさが映画全体を包み込むような感覚がある。それは上記したショットのふとした持続やカメラの寄りに、映画作家の「まなざし」を感じるからだ。端的に言えば、人間愛だ。

本当に素晴らしい。←もうこれしか言えません(笑)

2012年10月20日土曜日

アウトレイジ・ビヨンド

監督:北野武

前作『アウトレイジ』のタイトル・クレジットにつながるクレーンのワンショットで、その圧倒的硬質感によって鮮烈な印象を与えた黒い車が、海からクレーンによってぬーっと引き上げられるショットによって始まるこの映画は、まさに「亡霊」とよぶにふさわしい不気味さをたたえている。

その「亡霊性」は、武の登場するシーンにおいても印象づけられる。刑務所の食堂で小日向文世演じる刑事と向かい合う武の姿は、小日向が「まだもうろくする年じゃないでしょ!」とツッコミを入れるのが皮肉に聞こえるほどに、「ボケ老人」のような印象を与える。


さらに言えば、武と似たように前作で葬り去られ、今回武と共謀する事になる木村(中野英雄)が、子分の死体現場にやってくるシーンでも、砂埃が画面いっぱいにまきおこり、その「霧」の中からぬーっと亡霊のように姿を見せるのである。

あるいは出所後、武が前作の歯医者のシーンと同じように、ドリルでもって目隠しされたヤクザの目をめちゃめちゃにするとき、亡霊の復活が告げられる(ドリルの電源を入れるときの、武の「確かめるような」仕草を見逃さないでおきたい)。

この車と武の姿、さらには中野英雄の姿によってスクリーンに刻印される亡霊が、ついにその「復讐」を果たす瞬間はスローモーションによって、圧倒的強度でもって捉えられる。
自分の見たものが信じられないというふうな三浦友和の顔は、まさに「幽霊をみてしまった」顔だ。
この瞬間には思わず感動してしまった。

時にフィックスのクローズアップでつないだり、あるいは浮遊感のただようふわふわとしたカメラワークでそれとなく人物を捉えたり、あるいはまったく切り返しを用いずにフルショットだけで処理したり、さらにはいきなりイマジナリーラインをガン無視してみたりと、ほとんど一貫したフォルムを持たぬまま映画が進行し、やがて、高橋克典以外ほとんど印象に残らないような殺し屋達が、次々とヤクザを殺していく一連のシークエンスになると、そこには驚きも何もない、ひたすら果てしなく続いていく運動そのものが画面に露呈し、ほとんど途方にくれることしかできない。

ラスト、どっからともなくふらふらと、しかし一直線に歩いてくる武の姿の異様さはいったいなんだろうか。そしてその武が、こいつだけは撃たないだろうと思っていた相手を呆気なく撃ってみせるとき、この映画は再び争いの始まりを告げ、そしてそのまま終わっていく。

(後記)「次々とヤクザを殺していく一連のシークエンス」は、うーん、こうは書いてみたものの、やっぱりあれは粗末なんじゃないかとも思ってしまう。ちょっとわからない。

2012年10月18日木曜日

ウィークエンド

監督:ジャン=リュック・ゴダール

カッコイイ!そして美しく、そして力強い。
冒頭で夫婦が出発するシーンの隣家の家族との大爆笑もののバトルからして、この映画が傑作であること、そしてこの映画が何よりも運動的であることがわかる。
この映画には秩序がない(「私は文法を終わらせに来た。とりわけ映画の」という意味深なシーンがありますね)。そこでは警察官などまるで役にも立たず、道には横転した車がそこら中にあって、血だらけの死体まである。そしてそれらが美しい田園風景と人々の怒鳴り合いとクラクションをバックに映された画面の、なんとも言えぬミスマッチ感(笑)死の匂いが立ちこんでるんだか立ちこんでないんだか、たぶん立ちこんでいないのだろう。このなんともいえぬ居心地の悪さがゴダール印だ。
血にまみれた遺体がまとっている服がやたらカラフルでオシャレだったりするのもその居心地の悪さ故だろう。
あるいは、主役の夫婦は、そこに横転した車があろうが、死体があろうが、とにかく走り続ける。それは、これらの車や死体や喧騒を映した長い長い横移動の果てに、夫婦の車がそこを通り抜けて遠くの曲がり角を右に曲がってずーっと走っていくのをカメラが追い続けるというこの「持続」に見事に刻印されているだろう。

あるいはまた、「文法を終わらせに来た男」とその連れの女を追いかけて、そこらじゅうにひっくり返った車が散乱する中を主役夫婦が猛ダッシュする光景を、クレーン撮影で捉えた美しい画面。

あるいは人々の怒鳴り合いの素晴らしさ。衝突事故で喧嘩する女とトラクターの運転手が、なぜか主役夫婦を一緒に罵り合い、挙げ句の果てには抱き合ってしまうという嘘みたいな、しかし夢のような(と言ってしまいたい)シーン。

ラストの銃撃戦も見事な出来栄え。前編合わせて3つあるクローズアップはどれも素晴らしい。
あらゆるものを破壊しながらも、それでも残り続ける運動、肉体、生!このゴダールは本当に素晴らしい。

2012年10月17日水曜日

ヴィンダミア夫人の扇

監督:エルンスト・ルビッチ

ルビッチらしい視線の交錯による誤解と疑心の連鎖。それは映画が始まって早々の競馬場のシーンで見事に凝集されている。この競馬場のシーンだけでひとつの傑作短編映画が成立してる。とてもいいと思った演出が、観衆の中にアーリン夫人がいて、それをカメラが俯瞰で捉えるわけだが、その俯瞰ショットにおいて、人々がアーリン夫人をチラチラと見るっていう演出ね。このように黒帽子で埋め尽くされた群衆において、人々の動きだけで事態を理解させる手際の良さは、たとえばヒッチコックの『海外特派員』にも通じる素晴らしい演出ですね。

上記した視線のサスペンスと疑心の連鎖が、中盤ではやや抑えられるため、ちょっと退屈もするのだが、しかし終盤のアーリン夫人の決断には思わず泣かされるし、何より扉を開けるとアーリン夫人が現れるというフィックスのワンショットが素晴らしい。

また序盤の屋敷の大きな空間と大きな窓から差し込む日光を活かした空間造形が素晴らしい。このようにだだっぴろい空間の中で人間を捉える撮影がたまらなく好きだ(暗殺の森、バリーリンドン)。

ヴィンダミア夫人が、扇を持って「あいつが現れたらこの扇で引っぱたいてやるわ!」と言うシーンもいいね。

危険な関係

監督:ロジェ・ヴァディム

圧倒的な面白さ!美しい美しいアネット・ヴァディム、ツンツン感がたまらなくかわいいジャンヌ・ヴァレリー、そして堂々たる悪女っぷりを披露するジャンヌ・モロー。彼女たちを見ているだけで最高に楽しいのだが、ロジェ・ヴァディムによる演出も素晴らしいの一言。

ジェラール・フィリップがジャンヌ・ヴァレリーを陥落させるシーンなんか最高だ。フィリップがヴァレリーの足をさするのを布団ごしに撮るショット、そして二人がソファーでキスをするショットの可笑しさ!

あるいはフィリップとアネット・ヴァディムが結ばれる瞬間の、二人の口づけを真横から撮ったショットの美しさ。このショットの照明の何て美しいことだろう。

そしてジャンヌ・モローが、ジャンヌ・ヴァレリーの恋人に公園で出会うシーンの繊細な撮影。ベンチに二人が腰掛けたワンショットは、左奥にブランコに乗る子供の姿が捉えられていて、とっても愛らしいショットだし、そこからぐるっと180度カメラが回転してみせる演出、そして二人が別れた後、男が去っていくのを撮り(帰り際に子供の紙飛行機をとってやるっていう演出が良いよねー)、そのままカットを割らずにパンして、ジャンヌ・モローの後ろ姿を捉えた魔術的に美しくカッチョいいショット!いやー素晴らしい(さらにカメラがモローに寄って、ぐるっと前に回って彼女のうるんだ瞳を捉えるのもまた素晴らしい)。

終盤のバーのシークエンスでは、演出のフォーカスが主役二人から、バーではしゃぐ女たちや愉快に演奏するバンドの人々に移っていて、ここの空気感もまた楽しくていいねー。

その他、アネット・ヴァディムがバーに現れるシークエンスや、あるいはジャンヌ・モローとフィリップがやや険悪気味に会話するシーンで、カメラが突如窓の外に出て、吹雪とともに二人を撮ってみせる見事な演出、などなど、もう数え上げたらキリがない豊かでロマンチックで遊び心に満ちあふれた細部の数々!映画の喜び、ここに極まれり!

2012年10月16日火曜日

映画レビューのリンク

【英数字】
A corner in the wheat/ The Sealed Room(グリフィス)   http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/03/a-corner-in-wheat-sealed-room.html

An Unseen Enemy(グリフィス)  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/03/an-unseen-enemy.html


Lonely Villa(グリフィス)  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/03/lonely-villa.html

4ヶ月、3週と2日  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2016/08/432-part-1.html

5時から7時までのクレオ(アニエス・ヴァルダ)  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/04/57.html

【ア】

愛さえあれば(スザンネ・ビア)   http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2013/05/blog-post_19.html

アウトレイジ・ビヨンド http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post_20.html

秋津温泉 http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/12/blog-post_24.html

秋日和 http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/12/blog-post_20.html

雨(ルイス・マイルストーン)  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2013/05/blog-post_3.html

アメリカン・ハッスル  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/02/3.html

ある女の存在証明(アントニオーニ)  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2015/05/blog-post_4.html

ある子供 http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/09/blog-post.html

ある秘密(クロード・ミレール) http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/09/blog-post_14.html

ウィークエンド(ゴダール) http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post_18.html

ヴィンダミア夫人の扇(ルビッチ) http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post_5115.html

海街diary     http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2015/06/diary.html

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オーケストラ・リハーサル(フェリーニ) http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post_15.html

オデッセイ http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2016/03/blog-post.html 

【カ】
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風にそよぐ草(アラン・レネ) http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html

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消えた声が、その名を呼ぶ http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2016/03/blog-post_19.html

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コズモポリス(クローネンバーグ)  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2013/05/blog-post_28.html

孤独な声(ソクーロフ) http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/11/blog-post_9.html

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【ラ】

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ロルナの祈り http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/09/blog-post_21.html

【ワ】

ワイルド・アパッチ(オルドリッチ)  http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_29.html

ミッドナイト・エクスプレス

監督:アラン・パーカー

面白い!特に終盤は相当によく出来てると思う。
刑務所映画ってどうにも空間造形が難しいのか、そこまで良い印象がないのだけど、これは屋外の乱闘や、刑務官の処罰の暴力性を際立たせる事で、見事にテンションを維持していると思う。
裁判で"Your're pigs!"と連呼しまくるシーンのブラッド・デイヴィスの何たる名演技、スーザンとの面会シーンの悲しみと狂気の均衡感、そして特別管理棟に送られてからの堂々たる画面の数々。

特に上から光が差し込んでいる洞穴みたいなところがとっても面白い。そこでやり取りされる会話の内容(工場から送られてくる機械)からも、ここは「洞窟の比喩」を想起させる。
この洞穴も含めて、この管理病棟は坂道や階段が随所に出てくる。鬼刑務官がビリーを引っ張っていくのも上り坂ですね。このシーンがまたズームアウトでぐーっと引いていく画面で、とてもうまくいってると思う。

ブラッド・デイヴィスが暴れまわるシーンには度肝を抜かれた。水道ぶっ壊すなんて思ってもいない。まるで『猿の惑星』だ(笑)

2012年10月15日月曜日

オーケストラ・リハーサル

監督:フェデリコ・フェリーニ

書くことなし。オーケストラの楽団員が暴れまくります。巨大なメトロノームとか出てきたあげくそれもぶっ壊します。面白くないわけないでしょ!!

※ただ、これはちゃんとした音響設備の映画館で見るべき映画かもしれないね。ま、十分面白いけど。

2012年10月14日日曜日

マンディンゴ

監督:リチャード・フライシャー

オールタイムベストの一本。これほどまでに暴力的で過酷な映画は目にした事がない。
全編、強烈な光と影のどぎついコントラストの画面を基調としながら、時に手持ちによる移動撮影を織り交ぜながら、奴隷制度下のアメリカ社会の狂気性、そしてそんな中でも黒人に寛容にみえる主人公ハモンドの理性が吹っ飛ぶ瞬間を完璧に描き切っている。とにかく物凄い。

フルショット、ロングショットの圧倒的な強度は言わずもがなだが、そのなかで随所にインサートされる構図⇒逆構図の切り返しの見事さ。それは例えば、黒人のエレンとハモンドが初めて出会ったシーンにおける「内側の切り返し」であり、あるいはハモンドの馬車にのったエレンを妻のブランチが見下すように睨みつけるシーンのエレン⇒ブランチの切り返しであり、あるいは奴隷のミードが格闘でトパーズに勝利した後、しっかりとトパーズの遺体とそれを見つめるミードのクローズアップを逃さない繊細さだ。

ハモンドの妻ブランチのディレクションは相当にオーバーアクションだが、そのこっけいさが時に笑え、しかし時にその過剰さゆえに迫ってくるものがある。
ハモンドとブランチが初夜の翌朝に喧嘩するシーンでの鏡を使った見事な演出。とりわけブランチは映画において幾度となく鏡の中の姿を捉えられている。これはいったいどういう演出なのだろうか。

ラストの15分の圧倒的緊張感は、ほとんどキューブリックを思わせるレベルで、例えば必死にハモンドを止めようとするエレンを振りほどき、「自分が黒人であることを忘れるな!」と言い放つハモンドを移動撮影のワンショットで捉える演出が素晴らしく、また拳銃を構えたハモンドと奥の父親を捉えたパンフォーカス気味のショットも凄い迫力。

超一流のスーパー大傑作。映画史上ナンバーワンの一本だろう。

2012年10月12日金曜日

クーリエ 過去を運ぶ男

監督:ハニ・アブ・アサド

主人公の男とアナ、その二人の育ての親ともいえるエディが殺されたことを、男の方がそれとなくアナに伝えるシーンがあって、二人は思わず抱き合い、キスをする。で、それをここぞとばかり逆光で撮る(外で雨が降っていたかは思いだせん)。そしてそのまま翌朝、二人がベッドで一緒に寝ている。んで、まぁ、「育ての親が死んだのにお前らセックスかよ!」とは言わん。別にそれはいい。
そうではなくて、この一連の演出が「共通の育ての親の死をきっかけに結ばれました。めでたし」というレベルでしかない事が問題である。
逆光で撮ってもそれは演出にはならない。あるいは翌朝の二人はただただ「めでたく結ばれた二人」の絵でしかなく、育ての親を失くした男と女の姿ではない。端的に言えば、演出がない。

あるいはいくつかの格闘シーンやチェイスシーンの見事すぎる出来栄えと、それらのシーンにおいて、主役として画面中央にドーンと存在感を示す主人公。に対して、こうした格闘シーンやチェイスシーン以外のシーンにおける、あまりにも類型的なキャラクター造型。
怒りが頂点に達して机をひっくり返す男からは、「怒っています」というメッセージしか伝わってこず、その放り投げられた机の脚を捉えた見事な構図のショットが虚しい。
アナにしても、「元自動車泥棒」という過去は、車の鍵を見事に開けて見せる口実でしかなく、アナの佇まいと仕草から感じられるアナ自身の人間性は何一つ漂ってこない。

こちらが見たいのは、格闘もチェイスもしていないのに、それでも漂ってしまう運び屋の危険な佇まいだ(別にそうでなくてもいい)。
例えば『トゥルー・グリット』の、マット・デイモンの登場シーンのカッチョ良過ぎるオーラであり、『ドラゴンタトゥーの女』の、ベッドインした翌朝のダニエル・クレイグのめちゃめちゃ照れくさそうな仕草である。
要するにこの映画には細部がない。細部によって人間を描こうという意志が見えてこない。

とっても面白く見たけど、総じて貧しい映画と言わざるを得ない。


2012年10月11日木曜日

コンドル

監督:シドニー・ポラック

渋い映画だなー。それはレッドフォードとフェイ・ダナウェイの関係性の、(映画としては)極めて禁欲的な描写にも表れているだろう。そうでありながら、二人がつかの間結ばれるシーンでは、フェイ・ダナウェイがボロボロ涙を流す。
あるいは翌朝の二人のやり取りもとても楽しい。
例えばボニー&クライドの二人に比べれば圧倒的に控えめでありながら、しかしあの二人以上にお互いの波長が同期している事が画面に露呈している。
それはフェイ・ダナウェイのどこかよそよそしくありながら、衝動的に感情を発露するキャラクター造型によるところが大きいのではないか。
さらに言えば、これは冒頭の惨劇以降、レッドフォードが徐々に「見えざる敵」に追い詰められていく様を手際よく描いたからこそ、二人が結ばれるその物語に惹かれるのだろう。
例えば、その冒頭の惨劇や、あるいは迎えにきた友人が撃たれるシーンなど、シンプルに演出しつつも、徹底して銃口の無機質なアップカットを入れるあたりの徹底した演出も見られ、このあたりが功を奏しているのではないか。

このように二人の関係性を十分に描いているからこそ、ヒギンスを誘拐するシークエンスに味が出る。


2012年10月1日月曜日

風にそよぐ草

監督:アラン・レネ

これは素晴らしい。財布を拾ったことをきっかけに恋に落ちる(?)中年の男女、という極めて単純な「あらすじ」でありながら、あらゆるショットで観客を驚かせてくれる、ほとんど魔法のような映画だと言っていい。
とりわけ終盤、マグリッドがジョルジュの家にやってくるシークエンスでは、主要人物4人が勢ぞろいするわけだが、このシーンの変てこぶりにはぶったまげるしかない(笑)いったいどうしてこんなムチャクチャな事をやっておいて、映画が成立しちゃうんだろう。でも成立してしまうのだ、その理由を全て把握することはとてもできないが、しかし例えば、車で新聞を広げた途端パッと対向車のライトが差し込んできて、すると俯瞰のショットに移行して、再びカメラが車内を映し、そうして突然の愛撫が始まるという一連の演出の素晴らしさがその理由の一つであることは間違いないだろう。

あるいは前半部のハイライトと言ってもいい、家族そろっての食事シーン。ゆらゆらと揺れるカメラがワンショットで家の中をぐるぐる移動しながら、家族がソファーで話したり、かと思うとジョルジュが肉を焼いて、それからみんなが着席して肉を食べる、という一連の動きを軽やかに捉える様は、まさに映画を見る喜びに満ち溢れている。なぜなら、これこそが映画だからだ。つまり、言葉で説明するには何て事のないシーン、ごくありふれた家族の食事の光景が、カメラと照明と役者の動きによって、こんなにも素敵なシーンになってしまうこと、それを目撃すること、そうして僕たちの人生が豊かになること、それが映画の魔法だ。

食事の最中にマグリットから電話がかかってきて、ジョルジュが受話器をとり、話をするわけだが、これをカメラはどのように捉えるかと言えば、画面手前だけにフォーカスを当てて、手前で電話をするジョルジュ(とマグリット)と、奥で食事をする家族たちの間の空間的な差異を際立たせているのだ。このような「圧倒的に正しい」演出には思わず「そうそう!こうだよね!」と頷くほかあるまい。

あるいは二人がついに顔を合わせるシークエンスでは、「映画を見たあとでは何もかもが自然に起こる」という素晴らしいナレーションに続いて、二人が出会い、そしてカフェに入っていく。すると画面奥に「Cinema」と書かれた映画館の看板が映り込む。こんなに泣ける演出があるだろうか。

クロード・ミレール、クロード・シャブロルら同様、老いてますます瑞々しさを発揮する魔術師アラン・レネの、怒涛の傑作である。

2012年9月29日土曜日

エージェント・マロリー

監督:スティーヴン・ソダーバーグ

これはちょっとなー・・・。完全に確信犯である事をわかったうえで、それでも浜辺のシーンはまるで学生映画みたいだ。何やってんだとしか言いようが無い。
電話の相手がマロリーだとわかりカッと目を見開くユアン・マクレガーとか、あるいはバルセロナでジーナ・カラーノが延々と敵を追うのを延々と追ってみたりとか、まぁいろいろ面白いような気もするが、総じてこれは単なる「スタイリッシュ・アクション( )」って感じである。こんなんダメであるw

2012年9月25日火曜日

つぐない

監督:ジョー・ライト

大傑作!と言ってしまおう。例えば18歳のブライオニーを、なぜシアーシャ・ローナンに続投させないのか、とか、時制いじるのは無駄じゃね?とか、最後クドくね?とか、まぁいろいろ文句はつけられそうな映画ではあるが、しかし僕はこの映画を全面的に擁護してしまいたい。なぜか。それはすべてのシーンを全力で演出する心意気、つまり決して「ストーリーテリングでは終わらせん!」という映画作家としての気合いをしかと受け止めたいからだ。
水中に潜るという運動の反復、ブライオニーの視点ショット(噴水、図書室、玄関前)、浜辺の見事なシークエンスショット。セシーリアのタバコの吸い方、湖へ飛び込むフルショット、海岸で佇む逆光で黒く染まったセシーリアと海の見事なコントラスト、ロビーが靴を拾いにいった先で大量の死体を発見するシーン。セシーリアとロビーが再会した際の二人の手の動きを捉えたショット(前半部分で机の下で手を重ねるシーンとの見事な対比!)。
あるいはロビーがブライオニーに手紙を渡すため彼女を呼びつけるシーン。物語上は単にブライオニーを呼びつける→ロビーが手紙を渡す、というだけの「すじ」でありながら、ここではブライオニーがロビーのところへ走っていくまでの過程をすべて見せる。その過程で水たまりをひょいとかわすブライオニーをしっかりと捉える点に「演出」を感じる。

このように数え切れない豊かな細部が時に時制を超えて、物語上の視点を超えて、次々と繰り出され、その最終的な映画の構造が明らかにされるとき、その一つ一つのシーンの「真実」は意味を失い、ひたすらイメージの戯れだけが残る。

2012年9月24日月曜日

デーモンラヴァー

監督:オリヴィエ・アサイヤス

近景の美学とでも言うべきか。被写界深度をうんと浅くして、人物と空間を完全に切り離し、物事の推移を決してクリアには見せない。それでいながら、画面はひたすらゴージャスな印象を与える。それは例えば一瞬のロングショットの切れ味(終盤のヘリコプターのショット!カーチェイスの俯瞰!)であり、あるいは創意に満ちたクローズアップの数々(コニー・ニールセンとクロエ・セヴニーの車でのシーンなど)による。
つまり、極めて狭い範囲に被写体を絞りつつも、その被写体はそこらへんの映画の画面の数倍豊かさに満ちているわけだ。
この「掴み」があるからこそ、逆にこのような浅い被写界深度でしか表現できない数々の芸当とでもいうべき演出が堪能できる。とりわけ冒頭の空港での見事な長回し、人物の配置、そして女同士の殴り合いのものすごい密度、暴力性。

砂漠のシーンはほとんどストーリーが意味不明であるにも関わらず、次に何があっても「オッケー!いくらでもついていくよ!」と言いたくなるような、完全に「突き抜けて」しまっている。このような体験は極めて稀有だが、いやしかしこれぞ映画を見る喜びだ。

※個人的な好みを言えば、これほどホテル、レストラン、ガラス貼りの高層ビルといった映画的シチュエーションであれば、やはりロングとフルショットと奥行きの深い画面が見たかったと言いたいところだが、しかしそれではここまでの狂気性は出なかったに違いない。

2012年9月21日金曜日

ロルナの祈り

監督:ダルデンヌ兄弟

手持ちカメラによって被写体を一見無造作に撮ることで、「リアルに」見せつつ、決して心理的に本当らしくなく、ひたすら歩いたり走ったり抱きついたりという運動を鮮やかに撮ってみせた『ある子供』に対して、この映画はいささか窮屈な印象を受ける。

僕にはこの映画のほとんどの画面には驚きがないと思う。
それは例えば病室でロルナが頭を壁に打ち付けるシーンを見ても、「過剰なリアリティ」が運動そのものの「光景」を上回ってしまっている。このシーンには画面の強度が、運動の軽快さがない。あるのは「まるで本当に頭を打ち付けているのではないか」という映画そのものとは無縁の驚きだ。

逆にロルナがクローディに水をやるシーンのワンショットはすごい強度だ。室内照明が嘘みたいに調和し、深いコントラストをつくりだし、ロルナがクローディに水をやる構図が、まるでひとつの絵画のように浮き出ている。

ラストにしても、これが映画的に優れているとは全く思えない。
森の駆け抜けるシーンがあるが、残念ながら駆け抜け方がつまらない。
想像妊娠をしている女性の強迫的な行動を撮っても、その行動を映画的に切り取ることができていないので、物語的な意味しかない。

2012年9月20日木曜日

小さな泥棒

監督:クロード・ミレール

冒頭、車が画面を横切ると同時にシャルロット・ゲンスブールがスキップ気味で道を渡るカットが、この作品の良さを凝集してる。とっても安定したカットと編集で組み立てながら、人物たちの動きに遊び心がたっぷりあって、物語ではなく人物のアクションを見る喜びに溢れている。

一時拘留されていたゲンスブールを伯父が迎えにきたシークエンスがとても好きだ。ゲンスブールは一度万引きが発覚して伯父が怒鳴りちらしたばかりだ。今回もそのような展開になると思いながら、拘置所の門から二人が出てくる様子を見る。すると伯父は怒鳴りちらすというよりは、半ば呆れ気味にゲンスブールのお尻を蹴っ飛ばす。そしてゲンスブールがそれに「何すんの!」と怒る。そんなノリで二人が家に帰っていく様をロングショットで捉えた夜の美しさね。こんなに優しさに満ち溢れた演出ってあるんだろうか。

地味ながらこれは相当すごい作品だと思う。

2012年9月16日日曜日

刑事ベラミー

監督:クロード・シャブロル

これはかなり映画というメディアに厳格な作品ではなかろうか。
例えばこの映画には、これといった「あらすじ」がない。確かにあらすじを述べることはできるが、それは実際読んだだけでは、はっきり言ってとてもつまらないものだ。というのも、オープニングで見せられる死体を巡るミステリーは、早々に全く持って平凡な真相とともに解決されるのだし、ベラミーの弟もいろいろと企ててはいるものの、結局最後まで何も行動を起こさずに終わるのだから。

しかしこの映画はとんでもなく面白い。それは極めて細部が充実しており、人物達の一挙手一投足が面白く、それを捉えるカメラワークが、我々に見る喜びを教えてくれるからだ。
誰もが好きにならずにはいられないであろうスーパーの店員、マンホールに落ちそうになったベラミーが突然涙をこらえきれなくなる面白さ、あるいは妻の快活で優しさに満ちた仕草。二人が喧嘩して、妻がベラミーにビンタまで喰らわせたあとに、何事もなかったかのように抱擁を交わす二人を見る喜び。

あるいはベラミーが弟に怒って椅子から落とすシーンの面白さ。「殴ってやろうか!」⇒「どうせ兄貴はそんなことできないだろ」⇒「ほれ!」という、この間合いの可笑しさね。見なきゃわからないんだけど。

まるでそれまでの経緯などほとんど無視するかのように、その瞬間瞬間に突発的に繰り出される「殴る」、「泣く」、「抱き合う」といった運動の数々が、この何のドラマ性もないストーリーを走らせるシャブロルの手さばきは、なるほど遺作にふさわしい見事な出来栄えだろう。限りなく透明な映画。

2012年9月14日金曜日

ある秘密

監督:クロード・ミレール

この圧倒的な一大映像叙事詩を前には、誰もが言葉を失うのではないか。映画に出来得るあらゆる技術を可能な限り使い尽くし、めくるめくイメージの世界を2時間味わわせてくれる。こんなに素晴らしい事はない。

何から書けばいいのかわからない、というより全ての画面、一つ一つの画面の全ての細部が輝いていて、もうこれについて何か書くという事が野暮に思えるぐらいだ。

ひとまずオープニングから書こう。
優雅なクラシック曲で幕をあけるオープニング。母親のタニヤが子供フランソワを連れてプールサイドを歩くショットでは、フランソワの顔にカメラがセットされ、二人の横を平行して移動していきながら、時折プールサイドの光景がインサートされる。その中でも子供が水辺を駆け抜けるワンショットの瑞々しい感動。また、上記したようにカメラは子供の高さに合っているため、母親のセシル・ドゥ・フランスは、その胸元、脇が映っているのみであるが、これほどに官能的なショットがあっていいのだろうか!
また、タニヤがジャンプ台にあがるため、プールサイドにフランソワは放置され、ゆっくりとプールの中に入っていくが、その奥から別の子供がプールにジャンプすることで、水しぶきがあがり、それがフランソワにかかり、フランソワが怯える。このショットが、後に出てくるフランソワの異母兄弟であるシモンが、逆にプールに元気よくジャンプするショットと対照をなしているのが面白い。

全編を通じて、カッティング・イン・アクションが冴えわたっている。ぬいぐるみを箱にしまう手つきのアップ、子供を抱き締める腕のアップなど、アクションの瞬間とともに(まるでブレッソンのように)アップを入れてくる。しかしかと思えば、アンナがシモンを平手打ちするショットでは、シモンがアンナのタバコを持つ手をコツンとやるアップショットから始めて、アンナの平手打ちとともに一気にカメラが引いて見せる。この引きの画のなんたる迫力。この映画のハイライトとも言える。

タニヤ、アンナ、マキシムをめぐる三角関係の描写も冴えまくっている。
視線の交錯とすれ違いだけで三人の関係性を完璧に描いて見せる手腕。そしてこれこそが映画を見る喜び。
とりわけ結婚式のパーティにおいて、マキシムがタニヤの方を見つめる。それをまずはタニヤを手前、マキシムを奥に配した縦の構図で切り取り、次にマキシムがバストショットで右側に視線を向けると、友人に手品を披露して満面の笑みを浮かべるアンナがいる。マキシムの視線ショットで捉えたアンナが、カメラに向かってにっこりとほほ笑むと、それに呼応するようにマキシムが笑いかける。これだけの事であるが、しかしこれこそが映画なのである。
あらゆる名作を抜き去って、もう史上最強の映画って言ってしまいたいぐらいの超絶大傑作映画である。


2012年9月13日木曜日

ジェーン・エア

監督:キャリー・ジョージ・フクナガ

『闇の列車、光の旅』の監督が、なぜこうなるのか。それは手持ちカメラメインの手ぶれ映像からフィックス主体への作風の変化の事ではなく、端的に画面の強度の低下である。
『闇の列車、光の旅』で見せた、深夜に一台の列車が轟音とともに到着し、寝ていた人々が一斉にムクムクと起き上がる逆光のショット、あれを超える画面をついに見ることがなかった。
それは画面が、「あらすじ」に支配されてるからに他ならないだろう。
美しい撮影は、ただただ絵葉書のように美しいだけであり、あらすじの背景と化し、ストーリーの進行に従属しているだけだ。
ミア・ワシコウスカが家から逃げ出す。その走り方のなんというつまらなさ。あるいはその撮り方の凡庸さ。美しい自然を背景にロングで横に移動しながら撮れば映画になるわけではないだろう。

幼少時代のジェーンが学校に連れていかれた時の、学校に到着したシーンの俯瞰ショットは良かった。画面上側の冷たいライティングと下部の学校側の暖色系のライティングの対比が面白い。

しかしやはりどうしても、全く画面の驚きがない。
邸宅でのボヤのシーンも、まるで創意工夫が見られない。あるいはファスベンダーの妻が現れたときのシーンにも何ら驚きはなく、「ああ奥さんキチガイになっちゃったのね」という印象しかもたらさない。

ファスベンダーの部屋に何人かの友人や女がやってくるシークエンス。
ワシコウスカが出ていく、その出ていき方のつまらなさ。
ピアノを弾くファスベンダーにあたっていたフォーカスが手前のワシコウスカに切り替わり、そうしてワシコウスカが立ちあがって、出ていく。こんなつまんねー演出があるかよ!!
部屋から出ていく、というのはもっと決定的に描かないといけない。それは空間の差異、ライティングの差異によって際立たせないといけない。それをやらない手抜きさ。


逆に例えばファスベンダーに幻滅したワシコウスカが急いでドレスを脱ぐシーンでは、ギッチギチのドレスのヒモを一生懸命とろうとする指先のアップだ。
逆になぜ今「ギッチギチ」と表現したかと言えば、それはカメラがヒモを一生懸命にとろうとする指先を映したからに他ならない。
だから私は「ギッチギチ」と表現できるのだし、ワシコウスカが来ていたドレスがギッチギチであることもまた立派な物語の一部なわけである。そのような細部こそが「あらすじ」を超えるのであり、驚きをもたらすのである。


2012年9月5日水曜日

ある子供

監督:ダルデンヌ兄弟

近景から始まり、ワンショットが持続して遠景に至る、というショットが何度も出てきて、とりわけ車の周りを二人がぐるぐる周りながら、公園まで走っていくカットなど絶品。あるいはその一個前のショットは運転中にちょっかい出しあっててすごく危なっかしいのに、カメラは決して前方の窓を映さない。
近景と遠景の使い分けが物凄くうまいのだろう。
ひったくりからの一連のシーンは手持ちカメラとは思えない、しかし手持ちカメラでしかあり得ないような見事なショットとカットの連続で、これは燃えた。

子供のいない乳母車を押して歩くブリュノのショットがいくつか出てきて、そう思うと今度は少年が乗っていないスクーターを押すブリュノの姿が出てくる。(映画研究塾的に言えば、このスクーターのショットから逆算して撮ってる)
あんなにせっせと押していた乳母車は店に売るのだし、スクーターもすぐに少年に返すのだし、考えてみれば赤ん坊もあれ以来一度も触れる事がなく終わる。そうやってモノとモノ(あるいは金)を交換しながらひたすらに動き続ける様を見ていると、見てるこちらとしては、「ブリュノは~すべき」とか「ブリュノはクズ」といった価値観が消え、ひたすら見ることによってしか反応することができなくなる。

基本的にカメラはブリュノの行動を捉え続ける。そして多くの場合、車が通る「ザ―」っという音が聞こえていて、それはまるで物事がただひたすら同じリズムで生起しては消滅していくような感じで、それはブリュノの行動を捉えつつも、そこに心理的アクセントというようなものがなく、要するに何か決定的なブリュノの行動があったりするわけでもなく、全てが同じように捉えられる。だから最後に見せる二人の涙も、それがハッピーエンドやあるいはビターエンドというわけでもなく、あるいは決定的な二人の「生まれ変わり」なわけでもなく、ただひたすらまた新たな日々が続くだけなのだ。そうした全くドラマティックさを欠いた映画でありながら、上記のような豊かさを包含した、あまりに映画的な傑作である。

2012年8月19日日曜日

脱・社会的な価値転倒

「優劣もクソもないよ。人それぞれじゃないか」という考え方って、そう理解しつつもどっかで納得できないものだけど、最近は自分でも驚くぐらい「人それぞれじゃないか」と自然に心から思えるようになってきたな。「優劣もクソもない」につけ加えるとしたら、「昨日の自分より優れてるかどうかだけが問題」だと思う。
 優劣をつけるためには当然、計測基準が必要になるけれど、人間のあらゆる要素を計測するなんて不可能だもんね。で、計測可能な部分だけ測って、「こいつの方が優れてる」って言っても、まぁそれで仕事で使えるかとかはわかっても、ま、だから何だという話だよね。
 自分の価値を社会的規範と序列に完全服従させちゃったらつまんねーじゃん。
 社会は物事を序列・階層化して首尾良く進んでいくもので、だから社会の内側ではどうやってもそういった規範からは抜け出せない。社会の外側だったり自分の内部では、そういう序列・階層は自由に無視してかまわない。何をいくら肯定したってかまわない。
 そういう脱・社会的な価値の転倒が無いとやってられない。だって社会において「優れている人」というのは限られてるから。残りの人は劣等感を抱えて生きるの?っていう。
 社会において「優れていない人」が、自分だけの価値体系を獲得して自分を肯定する力を得るためには、もしかしたら他人の援助が必要かもしれない。援助はもちろん社会的な行為だけど、この援助は何というか、社会の内側にポッカリと空いた穴だと思えばいい。社会的規範に制約されない援助。
 僕は文化・芸術にもまたそういう作用があると思っている。映画を見て救われるっていうのは、別に映画見たから社会で成功できるってことじゃない。むしろ社会で成功するとか失敗するとか、そういう価値観とは別の世界を開かせてくれるってこと。
 自分が生きてる/活動してる世界の価値基準に、自分の生活の何もかもが縛られてしまうのはかなりきつい事だからね。
 だから「映画や音楽が世界を変える」っていうのは少し違うと思うんだよね。世界に風穴を空ける、という方が近いと思う。

2012年8月15日水曜日

『永遠と一日』レビュー

監督:テオ・アンゲロプロス

 アンゲロプロスの映画はこれが4本目なので、まぁまだまだ他作品と比較するような段階にないわけだが、しかしそれでもアンゲロプロスという人が長回しを多用する監督で、時に同一ショット内で異なる時間軸を操るという事ぐらいは知っている。そしてこの映画でもそのような技法が多用されており、いきなり19世紀に時間が飛んだり、あるいは20世紀の人物と19世紀の人物が同一画面に収まることすらある。
 あるいは同一ショット内に限らず、海辺の家の玄関からゆっくり海の方へとドリーしていく同じショットで二つの時間(アレクサンドレが子供のとき、マリアが生存しているとき、あるいはそれと現在が混在するラスト)を描いている。
 
 回想シーンとして最も美しいのが、一家でボートに乗っている画面だ。ブルーノ・ガンツを捉えたカメラが上昇して、そのまま空を経由して回想シーンへと至る。そこでは家族たちが音楽に合わせて踊り、その後音楽が止むと、今度は女性が歌い始める。それからブルーノ・ガンツがゆっくりと母親の方へと歩いていき、しばしのやり取りをした後、妻と肩を寄せ合う。その背後には群青色の海が映っている。。。これほどの幸福感を掻き立てるショットというのは、『エルミタージュ幻想』以来だ(『エルミタージュ幻想』は90分間幸福の絶頂を味わえる)。

 また、特徴的なのが、例えば窓ふきの子供とともに国境まで行った時や路上で結婚式をしている時、あるいは海辺でのシーンなどを見てもそうだが、まずブルーノ・ガンツのバスト/フルショットから始めて、パンやドリーをしていくうちにその周辺に多くの人々がいる事が(観客にとって)判明するようなショットだ。これは他の作品でも駆使されているのかはわからないが、しかしこのように一見人の気配が無いにも関わらず、カメラを動かすと実はたくさんの人々がそこにいた、というのはとても面白い。
 そしておそらくここがこの映画のポイントなのだが、そのようなショットを多用しておきながら、最後のショットはその逆で、多くの人達が画面に収まりながらもやがてそれらの人々が画面の外へと消えていき、ブルーノ・ガンツが一人残される。ここは明らかにその他のショットと対照をなしているだろう。

 私個人の意見で言えば、長回し(に限らずあらゆる映画)において重要だと考えるのは、画面で常に新たな出来事が起こることだ。それは何も爆発やら銃撃戦が起きるという事ではなくて、人物の関係性が微妙に変化したりとか、あるいは風が吹いて空気が変わる、というだけでもいい。とにかく映画が動き続けることが重要だと思う。
 そういう意味で考えた時、この映画ではときにあまり意味を感じない長回しがわずかながら見受けられた。検死室でだんだん子供にカメラが寄るというショットが果たして必要だろうか、あるいは死んだ友人を埋葬する子供たちをあんなに長々と映しだしても、これといって新しい情報は見受けられない。
 
 しかしとはいえ、これがアンゲロプロスのテンポなのだろう。というかこのテンポでなければ、この時間軸を自由に行ったり来たりしながら徐々に主人公の途方もない孤独感を浮かび上がらせる魔法のような映画はできないのかもしれない。

2012年8月1日水曜日

ダークナイト・ライジングについて、というか映画というものについて(ネタバレあるよ)

『ダークナイト・ライジング』の終盤で展開されるひとつのシークエンスを取り上げよう。それは警官と市民軍が正面衝突して、その中でバットマンとべインが再び対峙するシーンである。

まず、べインが警官を次々と処理し、方やバットマンが市民軍をボコしていくのを、それぞれのやや引き気味のバストショットで交互に見せていく。いわゆるクロスカッティングであるが、グリフィスの時代から多くの映画においてクロスカッティングが効果を発揮してきたのと同様に、ここでも「おお、再びこの二人が会いまみえるのか!」という高揚感を覚える。

そしてついに二人が正面で向き合うとき、カメラは互いに向き合う二人の姿をフルショットでおさめる。後ろでは市民軍と警官たちがなぐり合っている。思わず「キター!」と叫びたくなるとても力強い画だ。

そしてついに始まる二人のなぐり合いもとても素晴らしい。『ダークナイト』では細かいカット割りの末、もはや何してんだかわからなくなってしまったアクション・シーンが、とても的確なサイズとカットで展開される。

そしてバットマンがべインのマスクを肘打ちでぶっ壊した途端、それまでどんなに殴られても憮然としていたべインが突然理性を失い、アドレナリン全開で強烈ジャブを連打してくるわけだが、バットマンがひょいと身をかわしてもべインは構わず、なんと柱に向かってワン・ツーのコンビネーションを喰らわせ、柱にビキっと亀裂が走る。素晴らしい演出だ!

そしてとうとうバットマンがべインを負かし、強烈な一発を喰らわせると、べインは官庁舎(だっけ?)の中に転がりこみ、間髪入れずバットマンがべインをぼこぼこにする。そしてここで注目してほしいのが、屋外から屋内にバトルが移ったことで、周囲のノイズ(警官と市民のなぐり合い)が減じ、突然静かになるところだ。まぁこんなものは人それぞれの好みだが、僕はこういうふっとノイズがなくなって、なぐり合う音が響き渡るようになる演出が好き。

とまぁワンシークエンスについてこれだけ書いてしまったわけだが、しかし映画とはこういうものだと思うわけだ。つまり、「バットマンとべインが再び対峙してなぐり合った結果、べインが我慢し切れず自滅。バットマンの勝利。」という「点と点をつないだあらすじ」を、カメラの位置を決め、カットを割り、細部を演出することで、つまり「点と点の間の中身」を演出することで、映画が映画でしか味わえないエモーションを獲得する。そしてだからこそ、ひとつのシークエンスについて書きたいことがこれほど出てくる。
映画で重要なのは結果ではなく過程だ。このシークエンスに即して言えば、バットマンとべインが再び対峙することが重要なのではなくて、いかにして対峙するかが重要なのであり(ここではクロスカッティングとフルショットへのカメラの引きによって)、バットマンが勝つことが重要なのではなくて、いかにして勝つか(ここではべインが柱をドカドカパンチして自滅することで、あるいは屋外から屋内に舞台が移行することで)が重要なのだ。その過程がどれだけ豊かであるかが、映画の豊かさを決めると思う。



しかしそれに対して、この『ダークナイトライジング』の、とりわけ前半2時間のほとんどのシーンが、ほとんど語るに値しないお粗末なものであることには失望を禁じ得ない。それはあらすじが長すぎるからだ。べインがハイジャックして、キャットウーマンが泥棒して、エネルギー計画がどうのこうのという話をして、バットマンがつかまって、爆破して、市民軍が結成されて、、、とさすがにイベントが多すぎる。これらひとつひとつをしっかり描いたら、5時間ぐらいかかるだろう。
そしてこの映画は3時間弱なわけだが、その結果、ひとつひとつのシーンはただイベントの結果を描くのみであり、観客は物語の「あらすじ」を追わされているに過ぎない。

もっとも象徴的なのが、終盤にゴードン警部が突然つかまって突然裁判されて、氷の上を歩かされるというのを、ゴードンがつかまるところと、ゴードンが弁明するとこと、判決を言い渡すとこをささっと見せて終わっている点だろう。まぁ設定上は即席の裁判 であるとはいえ、しかしこれは裁判なのである。多くの法廷映画が繰り広げてきたような、迫力のある言葉の応酬、自分の全人生をかけて戦う被疑者の感動的な姿、傍聴人の視線の演出など、ここには全くない。つまりここには演出がない。ゴードンがいかに弁明し、キリアン・マーフィー(!)演じる裁判長がいかにして理不尽な刑を命じるかにはまるで興味がないかのように、マーフィーはただそれとなく判決を読むだけだ。
(ちなみに僕ならこのシーンは、画面の手前にキリアン・・マーフィーの顔、奥にゲイリー・オールドマン演じるゴードン警部をパンフォーカス気味に配し、ワンショットで撮りたい笑)

あるいはもっともひどいと思ったのが、マシュー・モディーンの顛末だ。それまで半ば諦めモードで、戦いから逃げていたマシュー・モディーンが、警官の制服を着て、警官隊の中に混じっている。このマシュー・モディーンの表情はどうだ。そして「警察はひとつしかいらない」とつぶやくマシュー・モディーン。われらがマシュー・モディーン!ありがとう!と感動するわけだが、ああなんということだろう、マシュー・モディーンは戦車の爆撃にあって死ぬわけだが、ノーランはマシュー・モディーンの死にざまを撮ることなく、戦車が砲撃するシーンのあと、マシュー・モディーンの死体を見せて満足してしまう。そりゃあ無いぜノーラン。。。

演出があって初めて、好きとか嫌いとかが言えるのだが、この映画には、あまりにも「無演出」で好きとか嫌いとか言える次元に達していないシーンが多々ある。

『ダークナイト』の素晴らしいオープニングを思い出せ。
見事な手さばきで次々と銃撃と金の押収が展開され、バスが突っ込んできて、ようやく主犯のやつがマスクをとると、ジョーカーがお出まし。あれにめちゃめちゃ興奮するのは、「銀行強盗の主犯が実はジョーカーだったから」ではなく、振り向きざまにマスクをとるとジョーカーの恐ろしい顔が現れるという、粋な演出に対してだ。

とまぁ、こんな感じで、結構残念な部分が多い映画だったが、酒場でのアン・ハサウェイの格闘シーンとか、証券取引所からのカーチェイスとか、クライマックスのゴードン警部の頑張りだとか、結構燃えたのは事実。
ということで、別にノーランでもいいから、これ5時間ぐらいにしてリメイクしてくれ。


2012年6月27日水曜日

2012年上半期の映画を(見た範囲内で)振り返る


上半期は春休みに海外行ってた事もあって、序盤はなかなか映画見る時間が無かったのだが、まぁとりあえず2012年上半期に仙台で公開された映画のベストな。
1.ドラゴンタトゥーの女
2.J・エドガー

3.メランコリア
4.SHAME シェイム
5.幸せへのキセキ

6.ラビットホール
7.おとなのけんか
8.永遠の僕たち

他はつまんなかったかな。

適当に寸評すると、

『ドラゴンタトゥーの女』
スタイリッシュという死語を思わず復活させたくなるほどにカッコよくエッジの利いた画面の数々を追っているだけで楽しい作品。
オシャレな建築、橋のショット、回想シーンのドギツい色彩の使い方、リズベットのバイク走行、などなど、ワンカットワンカットが胸躍るゴージャスな画面の連続で、もうこの映画を見ながらなら死んでもいいと思えるほどの贅沢な2時間40分笑
あともちろん、主演二人が最高だったね。

ちなみにデヴィッド・フィンチャーは『ソーシャルネット・ワーク』よりも『ゾディアック』の方がおススメね。
ゼロ年代ベストの一本。

『J・エドガー』
これまた至福の2時間15分。50年代と20年代のシーンが複雑に物凄い速さで交錯しながら(時に相似をなすショットを織り交ぜ)、J・エドガーなる人物とともに歴史の重みそれ自体をスクリーンに焼き付けた大傑作。
実に3人の人物が30年に及ぶこの映画のストーリーを運んでいくわけだが、とりわけエドガーの第一秘書を務め続けた女性を演じたナオミ・ワッツが物凄い存在感。実はこの秘書は映画内でしばしば、あまりにも強行的な姿勢をとるエドガーに不審な目を送るわけだが、それが終盤のあるシーンで、振り向きざまにエドガーへの忠誠を宣言する(「決して表には出しません」)。このシーンの圧倒的強度ね。
つまりそれまで、エドガーの強硬ぶりと秘書の若干の疑心を軸に進行していた映画の表情がここに来てガラっと変わる。映画を見る醍醐味とはこれ。ワンショットでこちらの認識が大転換するというね。それと同じ意味において終盤のエドガーとクライドのやり取りにも心を打たれる。




『メランコリア』
カットが割られ、画面が切り替わるたびに、人々が新しい側面を露呈する。
みなが風船を浮かばせて喜ぶ中、サッとカメラがパンしてシャーロット・ランプリングの姿を捉える瞬間とか、あるいは前方を歩くキルスティン・ダンストと玄関で子供と戯れるキーファー・サザーランドを同時に画面に捉えた、不気味な予感に満ちた俯瞰ショット。
ラストも、わかってても鳥肌モンの衝撃。


『SHAME』
セックス版『ヒストリー・オブ・バイオレンス』とでも言うべき作品。『ヒストリー~』では、男が自分でしでかした突発的な暴力を、その暴力の結果=死体のショッキングなショットに露呈させる演出であったのに対し、こちらは直前の出来事と現在のシーンをぶつ切りに混在させることで過去と現在を同時に放り込む演出がしばしばとられる。
あと巧いのが、バーで知り合った女と落ち合うシーンね。酔っ払った上司をタクシーに乗せて帰らせるという律儀な姿勢を見せつつ、そこからカットが割られることなく、女の車に即効で乗るファスベンダーを切り取るっていうね。この人物の一側面(律儀な部下)から別の側面(セックス依存症)への移行をワンショットで連続的に見せるのは、『キラーインサイドミー』とかでも見られた演出かな。

特筆すべきはマイケル・ファスベンダーがキャリー・マリガンの歌を聴きながら涙を流すシーンの素晴らしさね。ここで映画が新しい表情を見せる。だから驚くと同時に感動的。
一方でこのような演出が終盤なりをひそめた感は否めないかな、と。例えば雨の中泣き崩れるファスベンダーの姿は、物語上予測される「セックス依存症をやめられない苦痛」という感情をただただ表象しているに過ぎず、この姿が我々の認識をゆさぶるわけではない。そこらへんがちと惜しい。


『幸せへのキセキ』
マット・デイモンが動物園の購入を決意する瞬間を、娘がとびきりの太陽光に包まれて動物たちにエサをやるショットだけで描くこと。
ストーリー上の重要な転機を、ワンショットだけで納得させてしまえる剛腕っぷりが素晴らしい。
あとはエル・ファニングがマジで(ry


旧作では、『歴史は女でつくられる』、『ノスフェラトゥ』、『ある夜の出来事』、『木と市長と文化会館』、『吸血鬼』、『カンパニーメン』、『ショートカッツ』あたりがマジで素晴らしかった。



2012年6月7日木曜日

この世で一番面白いスパイロメトリー学!

スパイロメトリー
 換気能力を計測。換気障害の検出に役立つ。
 まずは下の図を頭に入れる。
 まず二つの残気量について考える。機能的残気量(FRV)とは、安静呼気時に換気されない(気道内に残っている)空気量のことを指す。一方で残気量(RV)とは、最大呼気時に(それでもなお)換気にあずからない空気の量である。
 安静呼気と最大呼気において、もっとも異なるのは、それに使う力である。安静呼気は、肺の弾性収縮力を使っている。すなわち、空気を吸い込んで膨らんだ反動で肺が収縮している。よって、安静呼気時にはこの肺の弾性収縮力とそれに抵抗する圧力=胸郭の外向きの力がつりあっている。
<安静呼気時の力のつり合い>肺弾性収縮力=胸郭弾性拡張力・・・*1
 一方、安静呼気を超えて空気を吐き出すためには、筋力を使う必要がある。最大呼気とはこの筋力を使って力がつり合った時点の呼気をさす。
<最大呼気時の力のつり合い>肺の弾性収縮力+最大呼気筋力=胸郭拡張力+気道抵抗・・・*2

 吸気側については、吸気予備量(IRV)だけを問題とすればよい。吸気予備量とは、吸気筋力を最大限駆使することで、安静吸時に加えて吸い込める空気の量である。
 よって、最大吸気時(=吸気予備量Max)においては、この筋力とそれに抵抗する力がつりあっているということになる。
<最大吸気時の力のつり合い>最大吸気筋力=肺の弾性収縮力+胸郭弾性収縮力・・・*3

さて、以上の式、そして各指標の関係性(安静呼気→機能的残気量、最大呼気→残気量、吸気予備量→肺活量)をふまえてさまざまな疾患によっておこるスパイロメトリー上の変化を考えてみよう。
たとえば、①神経筋疾患によって、呼吸筋力が衰えると、呼気筋力、吸気筋力がともに低下する。すると、*2において、最大呼気筋力の値が、*3において、最大吸気筋力の値がそれぞれ減少するので、最大呼気量、最大吸気量がそれぞれ減少する。
これはスパイロメトリー上における、吸気予備量と呼気予備量の減少を意味するから、それぞれに対応して、肺活量の減少、残気量の減少に至る。これを図1で再現することでその他の指標の増減も決定できる。
⇒吸気量↓、全肺気量↓、肺活量↓、残気量↓、機能的残気量→

次に、②肥満や火傷によって、胸郭弾性力が上昇した場合を考える。
胸郭弾性力は上の式*1~*3すべてに出てくるため、これらすべての指標に影響を及ぼす。
*1において、胸郭弾性拡張力が上昇すると、正常時の安静呼気量を吐き出すために必要な肺の弾性収縮力が上昇するため、(それができないがために)安静呼気量が低下する(よって一回換気量が減少する)。
*2においても右辺が上昇するため、正常時の最大呼気量を再現するためには最大呼気筋力を上昇させなければならない。このとき(1)筋力の上昇がないと仮定すると、最大呼気量が減少する(よって、残気量が上昇する)。一方、(2)筋力の上昇を達成することで、最大呼気量を維持することができる(よって、残気量も不変)。
*3でも筋力上昇の有無で考えれば、肺活量、及び全肺気量の増減を推測できる。すなわち、筋力↑⇒肺活量→、筋力→⇒肺活量↓(厳密に言うと、一回換気量が減少することを加味すると、筋力が上昇しても肺活量の減少は避けられないようである)

③閉塞性肺疾患によって気道抵抗が上昇した場合を考える。
気道抵抗が関連するのは、*2だけであるから*2だけを考えればよい。さて、*2において、気道抵抗が増大すると、右辺が上昇する。よって、正常時の最大呼気量を維持するためには左辺も上昇しないといけない。つまり筋力の上昇が必要となる。
筋力が上昇しないと考えると、最大呼気量が減少する(よって、残気量が上昇する)。

④一方、閉塞性肺疾患のうち肺気腫型のCOPDをおこすと、肺の弾性収縮力が減少することが知られている。肺の弾性収縮力は式*1~*3すべてに登場するので、多くの指標が変動することが推察される。
*2においては、呼気筋力が上昇すれば左辺を維持できるが、筋力が上昇しなければ最大呼気量の減少にいたる(すなわち残気量の減少)。
*3においては、右辺が減少するから、今度は最大吸気量が上昇する(正常時よりも低い筋力で正常時の吸気量を達成できるので、まだ余力があるため)。よって、全肺気量が上昇する。
*1においては左辺が減少するので、そのまま安静呼気量の減少⇒一回換気量の減少と言いたくなるところだが、この変化は換気量の減少ではなく、換気速度の減少という結果に反映されることになる。よって、換気量の一秒量(ELV1)が減少する。

以上で大方の現象を考察できたと思う。以下は、詳しくは書かないが、上とは逆の論理的思考によって原因疾患の特定法を考える。
たとえば、肺活量の減少がみられた場合。
肺活量を減少させるのは、吸気量の減少である。吸気量の減少は、すなわち最大吸気のつり合いの式における左辺の減少or右辺の上昇であるから、肺の弾性収縮力の減少や筋力の低下などが考えられる。
つまり、式*1~3、そして各指標の因果関係(安静呼気→機能的残気量、最大呼気量→残気量、最大吸気量/吸気予備量→肺活量)を踏まえることで、おおよその原因疾患を考えることができる。

参考文献:東北大学医学部講義プリント
      標準呼吸器病学(医学書院)