2012年9月25日火曜日

つぐない

監督:ジョー・ライト

大傑作!と言ってしまおう。例えば18歳のブライオニーを、なぜシアーシャ・ローナンに続投させないのか、とか、時制いじるのは無駄じゃね?とか、最後クドくね?とか、まぁいろいろ文句はつけられそうな映画ではあるが、しかし僕はこの映画を全面的に擁護してしまいたい。なぜか。それはすべてのシーンを全力で演出する心意気、つまり決して「ストーリーテリングでは終わらせん!」という映画作家としての気合いをしかと受け止めたいからだ。
水中に潜るという運動の反復、ブライオニーの視点ショット(噴水、図書室、玄関前)、浜辺の見事なシークエンスショット。セシーリアのタバコの吸い方、湖へ飛び込むフルショット、海岸で佇む逆光で黒く染まったセシーリアと海の見事なコントラスト、ロビーが靴を拾いにいった先で大量の死体を発見するシーン。セシーリアとロビーが再会した際の二人の手の動きを捉えたショット(前半部分で机の下で手を重ねるシーンとの見事な対比!)。
あるいはロビーがブライオニーに手紙を渡すため彼女を呼びつけるシーン。物語上は単にブライオニーを呼びつける→ロビーが手紙を渡す、というだけの「すじ」でありながら、ここではブライオニーがロビーのところへ走っていくまでの過程をすべて見せる。その過程で水たまりをひょいとかわすブライオニーをしっかりと捉える点に「演出」を感じる。

このように数え切れない豊かな細部が時に時制を超えて、物語上の視点を超えて、次々と繰り出され、その最終的な映画の構造が明らかにされるとき、その一つ一つのシーンの「真実」は意味を失い、ひたすらイメージの戯れだけが残る。

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