2012年8月1日水曜日

ダークナイト・ライジングについて、というか映画というものについて(ネタバレあるよ)

『ダークナイト・ライジング』の終盤で展開されるひとつのシークエンスを取り上げよう。それは警官と市民軍が正面衝突して、その中でバットマンとべインが再び対峙するシーンである。

まず、べインが警官を次々と処理し、方やバットマンが市民軍をボコしていくのを、それぞれのやや引き気味のバストショットで交互に見せていく。いわゆるクロスカッティングであるが、グリフィスの時代から多くの映画においてクロスカッティングが効果を発揮してきたのと同様に、ここでも「おお、再びこの二人が会いまみえるのか!」という高揚感を覚える。

そしてついに二人が正面で向き合うとき、カメラは互いに向き合う二人の姿をフルショットでおさめる。後ろでは市民軍と警官たちがなぐり合っている。思わず「キター!」と叫びたくなるとても力強い画だ。

そしてついに始まる二人のなぐり合いもとても素晴らしい。『ダークナイト』では細かいカット割りの末、もはや何してんだかわからなくなってしまったアクション・シーンが、とても的確なサイズとカットで展開される。

そしてバットマンがべインのマスクを肘打ちでぶっ壊した途端、それまでどんなに殴られても憮然としていたべインが突然理性を失い、アドレナリン全開で強烈ジャブを連打してくるわけだが、バットマンがひょいと身をかわしてもべインは構わず、なんと柱に向かってワン・ツーのコンビネーションを喰らわせ、柱にビキっと亀裂が走る。素晴らしい演出だ!

そしてとうとうバットマンがべインを負かし、強烈な一発を喰らわせると、べインは官庁舎(だっけ?)の中に転がりこみ、間髪入れずバットマンがべインをぼこぼこにする。そしてここで注目してほしいのが、屋外から屋内にバトルが移ったことで、周囲のノイズ(警官と市民のなぐり合い)が減じ、突然静かになるところだ。まぁこんなものは人それぞれの好みだが、僕はこういうふっとノイズがなくなって、なぐり合う音が響き渡るようになる演出が好き。

とまぁワンシークエンスについてこれだけ書いてしまったわけだが、しかし映画とはこういうものだと思うわけだ。つまり、「バットマンとべインが再び対峙してなぐり合った結果、べインが我慢し切れず自滅。バットマンの勝利。」という「点と点をつないだあらすじ」を、カメラの位置を決め、カットを割り、細部を演出することで、つまり「点と点の間の中身」を演出することで、映画が映画でしか味わえないエモーションを獲得する。そしてだからこそ、ひとつのシークエンスについて書きたいことがこれほど出てくる。
映画で重要なのは結果ではなく過程だ。このシークエンスに即して言えば、バットマンとべインが再び対峙することが重要なのではなくて、いかにして対峙するかが重要なのであり(ここではクロスカッティングとフルショットへのカメラの引きによって)、バットマンが勝つことが重要なのではなくて、いかにして勝つか(ここではべインが柱をドカドカパンチして自滅することで、あるいは屋外から屋内に舞台が移行することで)が重要なのだ。その過程がどれだけ豊かであるかが、映画の豊かさを決めると思う。



しかしそれに対して、この『ダークナイトライジング』の、とりわけ前半2時間のほとんどのシーンが、ほとんど語るに値しないお粗末なものであることには失望を禁じ得ない。それはあらすじが長すぎるからだ。べインがハイジャックして、キャットウーマンが泥棒して、エネルギー計画がどうのこうのという話をして、バットマンがつかまって、爆破して、市民軍が結成されて、、、とさすがにイベントが多すぎる。これらひとつひとつをしっかり描いたら、5時間ぐらいかかるだろう。
そしてこの映画は3時間弱なわけだが、その結果、ひとつひとつのシーンはただイベントの結果を描くのみであり、観客は物語の「あらすじ」を追わされているに過ぎない。

もっとも象徴的なのが、終盤にゴードン警部が突然つかまって突然裁判されて、氷の上を歩かされるというのを、ゴードンがつかまるところと、ゴードンが弁明するとこと、判決を言い渡すとこをささっと見せて終わっている点だろう。まぁ設定上は即席の裁判 であるとはいえ、しかしこれは裁判なのである。多くの法廷映画が繰り広げてきたような、迫力のある言葉の応酬、自分の全人生をかけて戦う被疑者の感動的な姿、傍聴人の視線の演出など、ここには全くない。つまりここには演出がない。ゴードンがいかに弁明し、キリアン・マーフィー(!)演じる裁判長がいかにして理不尽な刑を命じるかにはまるで興味がないかのように、マーフィーはただそれとなく判決を読むだけだ。
(ちなみに僕ならこのシーンは、画面の手前にキリアン・・マーフィーの顔、奥にゲイリー・オールドマン演じるゴードン警部をパンフォーカス気味に配し、ワンショットで撮りたい笑)

あるいはもっともひどいと思ったのが、マシュー・モディーンの顛末だ。それまで半ば諦めモードで、戦いから逃げていたマシュー・モディーンが、警官の制服を着て、警官隊の中に混じっている。このマシュー・モディーンの表情はどうだ。そして「警察はひとつしかいらない」とつぶやくマシュー・モディーン。われらがマシュー・モディーン!ありがとう!と感動するわけだが、ああなんということだろう、マシュー・モディーンは戦車の爆撃にあって死ぬわけだが、ノーランはマシュー・モディーンの死にざまを撮ることなく、戦車が砲撃するシーンのあと、マシュー・モディーンの死体を見せて満足してしまう。そりゃあ無いぜノーラン。。。

演出があって初めて、好きとか嫌いとかが言えるのだが、この映画には、あまりにも「無演出」で好きとか嫌いとか言える次元に達していないシーンが多々ある。

『ダークナイト』の素晴らしいオープニングを思い出せ。
見事な手さばきで次々と銃撃と金の押収が展開され、バスが突っ込んできて、ようやく主犯のやつがマスクをとると、ジョーカーがお出まし。あれにめちゃめちゃ興奮するのは、「銀行強盗の主犯が実はジョーカーだったから」ではなく、振り向きざまにマスクをとるとジョーカーの恐ろしい顔が現れるという、粋な演出に対してだ。

とまぁ、こんな感じで、結構残念な部分が多い映画だったが、酒場でのアン・ハサウェイの格闘シーンとか、証券取引所からのカーチェイスとか、クライマックスのゴードン警部の頑張りだとか、結構燃えたのは事実。
ということで、別にノーランでもいいから、これ5時間ぐらいにしてリメイクしてくれ。


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