2012年11月27日火曜日

ストロベリーショートケイクス

監督:矢崎仁司

 幾度となくその大きな図体を、何の恥じらいもなく画面の中央でさらしてみせる東京タワーや、あるいは幾度となく女性たちの背後を、まるで彼女たちの運命を、時には嘲笑い、時には見守るように通っていくJR線の存在が、この4人の女性を主人公にした群像劇が、東京を舞台としていることをはっきりと宣言してはいるものの、しかしながらこの映画で驚くのは、東京特有の「人口密度」や「喧噪」が不在であることだ。
 中村優子と安藤正信が訪れる居酒屋にしても、池脇千鶴が働くことになるラーメン屋にしても、そこには人気がほとんど感じられない(逆に池脇千鶴がデリヘル嬢を連れてラーメン屋にやってくるシーンの充実感の新鮮さ)。
 それは彼女たちの場所から場所への移動のほとんどが省略されているからというのもあるかもしれないが、一方で彼女たち自身が人との接触を避けているからでもあるだろう。
 中越典子はオフィスではほとんど誰とも接しないのだし、あるいは岩瀬塔子は体調不良で倒れようと、そこに駆けつけて救助しようとする人々の手を払いのけようとする。
 気恥ずかしいぐらいに強調される東京のシンボルが、逆説的に彼女たちの「疎外」を印象づける。

 池脇千鶴が、消灯した東京タワーに向かって「おやすみぃ」と無邪気さとアンニュイさが混ざったような可愛い声でつぶやいたり、あるいは中村優子が去っていく安藤正信を見送りながら、「またねっ」と呟くシーンは、彼女たちの「他者との接触」への飢えを物語っているといえるだろう。これらのシーンはワンショットの持続の中で実に実に印象的なイメージとして見る者の記憶に焼きつくことだろう。

 そしてこの映画は、物語とイメージの力でもって、彼女たちを見事に「接触」させてしまう。
 中村優子が、安藤正信が恋人と月を眺めている光景を目撃したショックで捨てたトマトが、岩瀬塔子によって拾われ、そのトマトが岩瀬塔子にインスピレーションを与え、岩瀬は絵を完成させる(この絵を完成させる一連の俯瞰のシーンも非常に良い)。そしてその絵が実は業者の依頼ミスであることが発覚して、岩瀬はこの絵を破棄する。そしてその絵が池脇千鶴によって拾われ、それがやがて岩瀬塔子のもとへと渡る。

 あるいは、物理的な手の接触もまた、この映画では実に印象的だ。
 池脇千鶴の母親の恋人が、中村優子の手を握る(ロングショットに引くことで、このシーンは実に見事に喜劇として回収されている)、あるいは中村優子の手に触れてくれない安藤正信。
 あるいは、終盤の新幹線でのシーン。
 中越典子と岩瀬塔子が入口で向かい合っていると、そこに「赤の他人」が乗ってきて、中越典子に接触する。この映画でこれほど明確に主人公と「赤の他人」(それは東京と言っていいかもしれない)が物理的に接触するシーンはないだろう。
 そしてその接触の結果、中越典子はバランスを崩して倒れそうになり、岩瀬塔子がそれを支える。正確には手を握る。
 そうして握られた二人の手は、決して離れることはないだろう。これほど感動的な「手を握る」という運動は見たことがない(「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフも泣ける)。

 あるいは逆に、この幾度となく登場する東京タワーについて考えてみよう。
 かつて黒沢清は、東京を舞台にする映画でも、東京タワーのようなわかりやすい表象は撮らないようにしていると述べていた。北野武もまた、東京タワーのようなわかりやすいものを撮る監督はダメだ、と言っている。
 この映画はどうかというと、アホみたいにタワーが出てくる。そして池脇千鶴を夕食に誘った店長は、その東京タワーを見て「綺麗だね」と、話のネタにしようとする。
 あるいは満月。映画の多くの人物が、「恋人と満月を見たい」という願望におかされている。
 つまりこの映画の多くの人物達が、実にわかりやすい表象(タワー、満月、占い)にとらわれているのだ。
 そうやって目の前のわかりやすい大きな物語に飛びついてきた中越典子が、偶然岩瀬塔子の嘔吐を目撃してしまうとき、中越典子は、如何に自分が何も見えていなかったかに気づかされる。
 だからこそ、上記の「あなたのこと、ずっと嫌いだった」というセリフには泣かされる。
 これはそういう映画だ。


 光の繊細な感覚、フィックスショットの絶妙な持続のさせ方、そしてあの屋上の美しい美しい撮影など、ほとんど信じがたいレベルの邦画だと思う。ゼロ年代の、これはベストだね。

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