さて、じゃあ印象的に描くってのは、鮮烈に描くってのは、一体どういうことなんだという。
例えば『風にそよぐ草』で、映画館から出てきた男を女が見つけて、それから二人で喫茶店に入っていくとこ。『厳重に監視された列車』の、有名なキスシーン。『孤独な声』の、思わず息を飲むであろうオーバーラップでつながれた二人の男女。『つぐない』の湖畔でのキーラ・ナイトレイのダイブ。『ある秘密』の、結婚式パーティでのリュディヴィーヌ・サニエとセシル・ドゥ・フランスとパトリック・ブリュエルの視線の交錯、すれ違いを過剰なまでに観客に意識させる演出。『デーモンラヴァー』の冒頭の空港での物凄い緊張感。
これらを総括する言葉なんてあるわけもなく、あってはいけないとすら思うのだけど、ただ共通するのは、「全然リアルじゃない」ってことだ。
というのも、『風にそよぐ草』のように男と女が出会うわけがないのだし、『孤独な声』ほど長い長い間を置いて会話を交わす人間などこの世にはいないのだし(たぶんw)、『厳重に監視された列車』のように横たわった女の顔にピタっと灯りがあたるわけがないのだし(いややってみたいけどww)、『フランティック』のように丁度自由の女神のミニチュアだけ屋根から落ちずにいるなんて有り得ないのだし、人は『夜行列車』の主人公達ほど見ず知らずの相手に感情をぶつけはしない。
それなのにこれらの映画がなんでこんなに美しく、豊かで、素晴らしいのかといえば、それはむしろ「それゆえに」素晴らしいのだと言えるかもしれない。つまり、リアルじゃない、なんか過剰である、ご都合主義的である、という事が、そのシーンを際立たせ、忘れられないものにする。
僕たちが日常で感じている「リアルな」時間感覚、「リアルな」景色とは別の、全然違う、ゆったりとした、なめらかな、濃密な時間感覚、空間、光の明暗を感じ取ること。それが映画の喜びではなかろうか。
つまり、映画とは、リアリズムとは反対の方向から立ち現れ、僕たちの「リアル」を脅かし、僕たちはその過剰で甘美な時間の流れに、ただただ身を任せる。それが映画体験であり、あるいは映画館体験じゃないかと思う。
自動車や通行人の喧騒のなか街の通りを黙々と歩いて行き、チケットを買い、受付のお姉さんと軽く話し、コーヒーをロビーですすり、そうして真っ暗闇の中で一つの大きなスクリーンに繰り広げられる「異世界」をそこに居合わせた見ず知らずの人々と一緒に堪能し、再びリアルの世界へと戻っていく。
てことで、今年の新作のベスト(一部仙台で初公開)
ある秘密 (仏 クロード・ミレール)
ファウスト (露 アレクサンドロ・ソクーロフ)
ドラゴンタトゥーの女 (米 デヴィッド・フィンチャー)
J・エドガー (米 クリント・イーストウッド)
灼熱の肌 (仏 フィリップ・ガレル)
アウトレイジ・ビヨンド (日 北野武)
風にそよぐ草 (仏 アラン・レネ)
刑事ベラミー (仏 クロード・シャブロル)
SHAME (米 スティーヴ・マックィーン)
メランコリア (デンマーク ラース・フォン・トリアー)
次点:おとなのけんか、人生の特等席など
番外編として、『合衆国最後の日』!!!!!!
あと、2000年代の旧作でもかなり素晴らしい映画をいくつか見たので、レコメンドしておきたい。
『ストロベリー・ショートケイクス』は東京を舞台にした女4人の群像劇で、我ながらレビューを良くかけたので一緒に見て欲しい。
『ジャケット』は本当に地味なんだけど、かなり優れた映画。そうそう、こうやって映画って撮るんだよねー、と。とっても良い。
該当する映画のレビューはこちらで⇒ http://gattacaviatoryasaka.blogspot.jp/2012/10/blog-post_2172.html
僕もアウトレイジビヨンド大好きです。
返信削除「指つめろや、この野郎」
「がたがたうるせんだよ、この野郎」
色々な名言がポップアップしてきます。