2012年11月20日火曜日

細部に注目しよう。あるいは、作者の意図やモチーフとは?

 映画でも小説でも何でもいいのですが、作者の伝えたいことを考えるという鑑賞の仕方と、そういった作者の意図を無視して鑑賞するというのは、まぁ映画の世界でもしばしば対立することだと思います。後者というのは、いわゆる表層=見たもの聞いたものだけを素材としてその作品を評価するという認識をしています。で、この記事ではこの一般的な考え方をちょっとだけ乗り越えてみようと思います。

 こんなシチュエーションを考えてみてください。
 AくんとBくんが、ある作品のテーマを巡って意見が対立しているとします。で、拉致があかないので、ネットでその作品の監督のインタビューを検索してみたところ、見つかりました。そして、その監督がその作品のテーマに言及していました。それはAくんの考えと同じでした。Aくんは意気揚々となって、Bくんをdisりました。
さて、このとき、Bくんは「間違っていた」のでしょうか。

 これは要するに、作者の意図やモチーフというのが、その作品をめぐる言説環境において、いかほどの「権威」を持つか、という話になると考えます。
 
 ここで権威主義の話をします。
 権威主義というのは、しばしば権威を振りかざして上から目線でバカにしてくる、というようなイメージで考えられることがあると思います。「お前はカントも読んでないのか」、「あのね、君の大学なんか僕の大学に比べればクソだよ」とか、こんな言説に代表させることができるでしょうか。
 
 ただ、僕は権威主義は「上から目線」ではないと思っています。むしろまったく逆ではないかと。
 というのも、「お前はカントも読んでないのか」という発言は、disる対象に対しては確かに上から目線なのだけれども、実は暗黙の前提として、「カント」に上目遣いをしているわけです。カントという権威のご機嫌をうかがいつつ、自分より下の人間を見つけると、カントを「利用する」という態度こそが権威主義だと思っています。
 つまり他人は貶めつつ、自分は権威の下に守られようとするような、歪んだ自己愛が根底にあるのではないかと。

 さて、ではここで話を戻しますが、作者の意図は権威なのかそうでないのか。実をいうと、僕はここは重要ではないと思います。というか、作者の意図というのがまったく無視できるとは思えないので、ある程度の権威ではあるでしょう。程度の問題です。
 つまり、先ほどのエピソードで本当に重要なのは、作者の意図が自分と同じであったと知ったAくんが、意気揚々とBくんをdisるという行為の評価です。
 僕はAくんの振る舞いこそが権威主義だと思うわけです。作者の意図が権威であるかどうか、が重要なのではなく、それが権威と見なしたうえで、それに依拠して他者をdisるのかどうかこそが重要だということです。disるとは言わないまでも、Bくんより自分が正しかったとほくそ笑むことの評価です。

 誤解してほしくないのは、作者の意図やテーマを考えるという事はまったくもって非難されることではないという事です。問題なのは作者の意図やテーマを「当てっこ」してしまうという事です。

 ではなぜ僕がそこに慎重であるべきかを説明します。
 まず、作品、ここでは映画の話にしましょう、には、当然作者=監督、脚本家などの意図やモチーフが反映されているでしょう。しかし一方で、映画には作者の意図しないものまでも映っているかもしれません。あるいは同じものを映しても、作者と観客では見え方が異なる場合もあるでしょう。
 そうしたときに、たとえば観客が監督のインタビューを読むとします。そして監督の意図やモチーフを知ります。したがって、当然観客はその作品の中に作者の意図やモチーフを反映したもの、反映していないものの両方の要素を見出します。そしてその観客が作者の意図やモチーフを(いわば権威として)絶対視しすぎてしまうと、後者、つまり自分が見たけれど、実際には作者の意図やモチーフとは関係のないもの、を意識外に捨ててしまう、という事になってしまいます。私はここに危惧しているわけです。

 映画にかかわらず、世の中には様々な人の様々な思惑があふれかえり、それらは具象化し、情報としてインターネットやテレビ画面などを通じて我々の前に伝えられます。
 私たちはそれを、その伝達者の意図やモチーフにしたがって、情報を分けるのでしょうか。そして意図やモチーフと関係しないものは、関係ないとして隅に追いやってしまうのでしょうか。
 それは、何か、大切なもの、誰の思惑からも独立して、偶然にも私たちの前に現れた細部の煌めきを、逃し続けることにはならないでしょうか。

 誤解しないでいただきたいのは、私は作者の意図やモチーフを無視せよ、と言っているのではないのです。そういった行為は「権威だから」無視する、という意味で権威主義と同族にあると思います。
 そうではなく、作者の意図やモチーフの存在を認めたうえで、作品、ひいては情報と向き合い、そこに豊かな細部を発見すること、そうした行いを通じて、その作品や情報をめぐる言説空間に新しい解釈、新しい価値体系を生成させ、社会を変容させていくこと、、、ちょっと気合いが入りすぎですね(笑)、少し控えめに言うならば、そのように自分の解釈を投入することで、言説空間が変わりうることを自覚していくこと。つまり、当事者としてその作品と向き合うこと、これが重要ではないかと思っています。
 
 映画を中心として話しましたが、様々なものに対して、このような姿勢を持ちたいと思っています。


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