2012年12月25日火曜日

2012年見た映画を振り返る PARTⅠ

 さて、今年も終わりが近づいてきたので、2012年公開された映画についてダラダラダラダラと書いてみよう。
 僕も一応、「つぎ、何見ようかな、、(ソワソワ)」、「ヤバい、最近映画見てない(ムズムズ)」みたいな生活を送っているので、例えば映画ってのはどこをどう見りゃいいのか、とか、良い映画ってのはどういう映画の事を言うのか、とか、まぁいろいろ考えるわけで、しかしそれは、例えば『國民の創世』とか『吸血鬼ノスフェラトゥ』といった古典映画を見るとき、『ウィークエンド』や『欲望』といったラディカルな、映画文法の再考を迫るような作品群を見たとき、あるいは『ファウスト』や『LOFT』のような作家性の強い作品を見るとき、あるいは『人生の特等席』、『幸せへのキセキ』、『ヤング≠アダルト』といった新作アメリカ映画を見るときで、もうまるで違う考えとして頭の中をかすめてくるのだけれど、それでもそれなりに「あーやっぱりこういうことなんじゃないか」と確信めいたものもわずかに出てくる。

 例えば今年最も素晴らしかった一本として『ドラゴンタトゥーの女』があるのだが、じゃあ何がそんなに素晴らしかったのか、と言うと、うーん、ちょっと言葉にしづらい。というか、「いや、全ショット、全カメラワーク、全カット割りが決まってたじゃん!」としか言い様がない。
んじゃ、映画ってのは画がキマってればいいのか。うーん、半分イェスだし、半分ノーだ。
でも例えば今年公開された『ジェーン・エア』なんてのは、僕は全然楽しめなかったのだけど、それでも撮影はとても美しかったと思う。それでも面白くない。一つには、その撮影の美しさが予定調和的なそれだからじゃないかと思う。僕らが、私たちが「美しい景色」という言葉で連想する光景、深い緑の木々、山、夕陽、海、そういった光景が、僕らが知ってるような撮り方でしか撮られない不満。でも例えばキューブリックの『バリー・リンドン』が見せる木々、山、夕陽、川の景色は、僕らが知らないぐらい、嘘みたいに美しく切り取られるわけだ。もちろんそんなのは個人の経験によるのかもしれないけど。
 
 それじゃあ映画は、僕たちが知らないぐらい美しいショットを見せてくれりゃいいのか。うーん、これもまた半分イェスだし、半分ノーだよねぇ。
 
 とはいえこの半分のイェスはかなり強いうなずきである。いや、ぶっちゃけると撮影がめっちゃくちゃ美しければ、90分や120分くらい、いくらでも見続ける事はできる。例えばゴダールのいくつかの作品、とりわけ『ゴダールの決別』なんかは、僕はそれが一体何の物語なのか全くわからなかったにもかかわらず、そのあまりにも美しい撮影の数々に心を奪われてしまったからだ。
 あるいは『秋津温泉』なんて優柔不断な男と女が恋愛してるだけだ。でもその撮影のあまりの美しさには確かに心を動かされるわけだ。
 
 さて、ノーの部分。つまり、やっぱ映画は物語が、ストーリーがあってこそじゃないか!みたいな話だ。確かにそんな感じもする。
 話が面白ければ、まぁ満足、みたいな部分はやっぱりあるわな。
 と言うと、必ずこういう意見が出てくるだろう。
 「物語を楽しみたいなら小説でいいだろ!映画には画面と音があるんだよ!」
 これはこういう事を言いたいわけだ。
 「男が殺されました→刑事が事件を捜査しました→犯人がつかまりました→犯人には暗い過去がありました」といったあらすじなんて、どうでもいいじゃないか!そもそもお前ら、犯人は誰だったとか、最後はどうなるの?とか、そんな事にしか興味ないのかよ!みたいな。
 
 ふむ、これも納得が行く。それは僕の日々の、誤字脱字だらけで目も当てられない映画レビューを読んでくだされば、僕自身もそれに近い考えであることがわかっていただけると思う。
 『人生の特等席』のストーリーなんて、『幸せへのキセキ』のストーリーなんて、全っ然面白くもなんともない。でもこの二つの映画はとても面白い。なぜか。
 ここで強調しておきたいのは、これらの映画が面白いのは、「ストーリーがどうでもいいから」ではないということだ。
 むしろこうだ。
 『人生の特等席』の、あのコテコテのベタベタな恋愛、あれが何でこんなに感動するかと言えば、それはバーでのダンスの楽しさとか、ケータイ電話の着信音の挟み方とか、あるいは湖の撮影の美しさだとか、あるいはエイミー・アダムスがむちゃくちゃ可愛いといった、まぁそういう細部(と言うにはあまりにもデカい要素の数々)によって、このコテコテでベタベタな恋愛が、何かとっても愛おしくて、僕たちが忘れていた恋愛の喜び、人と人が触れ合う素晴らしさを思い出させてくれるからなのではないか。ストーリーとは一見関係のない細部や仕掛けが、ストーリー自体を豊かにしてしまうこと。
 それはたとえば『J・エドガー』なんかにも言えるのではないか。
 終盤、心身ともに弱ってきたエドガーがナオミ・ワッツ扮する秘書のガンディに「私が死んでも秘密文書は絶対に漏らすな・・・」と頼む。するとナオミ・ワッツがサッと振り向いて、「はい、絶対に漏らしません」と、キッパリとストレートな眼差しで宣言してみせる。それをカメラは真正面で、強烈なインパクトでもって捉えてみせる。
 『J・エドガー』を僕は3回見たのだが、3回ともここで泣いてしまった。それはこのシーンそれ自体の鮮烈な印象もさることながら、それまで確かにエドガーと、ガンディ秘書やトールソン(だっけ?)との関係を描きつつも、やはりアメリカの重要な歴史の流れの中でエドガーが何をしてきたかを描いてきたこの「社会派映画」が、突如として、つまりこのガンディ秘書の振り向きによって、全く別の表情を見せてくれたからだ。
 このガンディ秘書の「振り向き」は、この映画のパンフレットにもHPのストーリー紹介にも当然載っていない。つまり物語の大枠から逸脱した次元で、映画が豊かさを獲得すること。J・エドガーの業績を淡々と描くだけであれば、伝記小説を読めば、あるいは詳しめの歴史参考書を読めば事足りてしまう。そうではなくて、そういった大枠のあらすじではなくて、それとは別の次元で、つまり細部において豊かさを獲得すること。そしてその豊かさゆえに、「アメリカの歴史におけるJ・エドガーの業績を描くストーリー」という大枠そのものが壊れ、その瓦礫の中から、エドガーを支え続けたガンディ秘書の強烈な存在感が、新たな大枠としてムクムクと立ち現れること。つまり細部が細部として素晴らしいという事にとどまらず、細部そのものの素晴らしさゆえに、映画全体の表情が当初の予想とは全く異なったものになること。そこに驚嘆すること。うん、なんかこんな感じじゃないかな。
 
 そしてそれは脚本をただ脚本通りに映像化しても生まれないものだろう。知らんけど。でもきっとそうだ。ガンディ秘書の振り向きがあれほど強烈に撮られる事がなければ、あのシーンは単に「エドガーさんは秘密文書を守るよう頼みました」というあらすじの説明でしかなくなってしまっただろう。

 まぁとはいえ、そんなイチイチぶっ壊すなら、そもそも大枠なんていらねーじゃねーか、とか言われそうだ。あるいは、そもそも『マンディンゴ』のような映画は、白人の黒人差別という大枠が最後まで確固として存在する。『マンディンゴ』の素晴らしさが何かと言えば、もうそれは一つ一つのショットの迫力としか言い様がないわけだ。『バリー・リンドン』にしてもそうだ。とにかく一つ一つのショットが、人物の運動が、美しく、カッチョよく、瑞々しいわけだ。
 これらの映画は、別にこんな言い方しなくてもいいわけだが、それでも先ほどのテーゼに合わせて言うと、細部の豊かさがストーリー、つまり大枠を強化する、とでも言おうか。それはどういうことかと言えば、脚本の時点で誰が読んでも明らかな物語の決定的瞬間を、映像と音によって「決定的に」描くこと。例えば『マンディンゴ』であれば逃げた黒人が森を疾走しつつもとうとう捕まってしまうシーンを、不気味なルックスの撮影と長回し、そして微妙に鳴り響くサウンドトラックでもって、印象的に描くことだ。あるいは『バリー・リンドン』であれば、バリーがとうとうぶち切れて息子を殴りまくるシーンを、それまでカメラを固定した叙情的なロングショットとズームで見せていたのを、手持ちカメラで対象に近づき、即物的に切り取ってみせることだ。
 あるいは『アウトレイジ・ビヨンド』の北野武が三浦友和に復讐を果たすあの重要なシーンを、スローモーションでたっぷりと見せてくれることだ。
 以前見た映画を思い出すときに、その話の流れだけでなく、あるシーンのこの描写が強烈に頭に残ってるっていうのがあると良いと思うのだけど、それってこういう演出によるんじゃないか。
 『吸血鬼ノスフェラトゥ』の、ノスフェラトゥがベッドに近づいてくるあのシーンのあの強烈なインパクトとか、まぁそういうことだわな。
 あるいは、そうした大枠を見事に強化してみせる、つまり物語において重要なシーンを鮮烈に描いてみせる演出によって、映画は映画として、つまり物語を伝える一つのメディアとして生きるわけだ。そしてその大枠とは関係のないところで、細部が細部として充実してると、なお良いわけだ。

 じゃあその大枠を強化するってのは、つまりあるシーンを鮮烈に描くっていうのは、いったいどういうことなんだろう、というのは次で、、、(続く)

http://gattacaviator-yasaka.blogspot.jp/2012/12/2012part.html



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