2012年11月22日木曜日

ふがいない僕は空を見た

監督:タナダユキ

永山絢斗が丸めて捨てた紙くずを捉えたタイトル・ショットがとてもいい。

画面の外から聞こえてくる声や音。
永山絢斗を引きとめようとする田端智子の叫び声、家に帰った田端智子の耳に聞こえる盗撮動画の音、窪田正孝のノックに対して居留守を使う母親が立ててしまった物音、電話越しに聞こえる田端智子の姑の嫌み。田端智子が合わせて歌うアニメソングとそれにかぶさる裁縫マシーンのガタガタという音。
とりわけ印象的なのが、窪田正孝とバイトの同僚の女がビラを撒いてはしゃいだシーンの直後にどっかの民家から聞こえる悲鳴。

多くの画面外の音が、画面内の人物に対して「重たい現実」としてのしかかってくる。田端智子と永山絢斗が私服で交わるシーンの嘘みたいな透明感や永山絢斗と同級生の女生徒とのキスシーンと対比されるようにして。

前半はこんな感じで快調に進んでいくのだが、後半はその現実がひたすら「リアルな現実」として、世の中の縮図として綺麗におさまり、そのリアルには確かに心を打たれるが、しかしそれ以上いかない。映画がリアルを越えようとせず、言語的になってしまう。

あるいは前半の、極めて断片的な描写、前後の流れを無視し、それだけで成り立たせんというばかりの「運動性」に対し、後半はその前半の断片性を「論理的に」説明していくものでしかない。
田端智子のキャラクターの形容しがたい浮遊感は、「不妊とそれによる家族からの圧力に悩む主婦」というステレオタイプなそれに回収されるのだし、窪田正孝もまた現実の若者の不幸をなぞっているに過ぎない。
現実の不幸をなぞっているというのは、別に私が同じような境遇の若者を知っているとかそういう事ではなく、「団地住まいです。婆ちゃんが認知症です。両親がどうしようもないです。コンビニでバイトしています。金がないです」という説明的な描写によって誰もが了承できるレベルであるという事だ。繰り返すが、別にそれでもいい。もっと悲惨なものを描けとかそういう事でもない。現実の不幸を身にまとうことがダメとは言わないが、しかし映画とはそうした「説明可能な現実」とは別の何かが、あるいは我々が現実において見逃している「細部」が、ふとした瞬間に「非リアル」として、つまり「緩やかな時間」として立ち現れるのを捉えるものではなかったか。
おそらく、腹を空かせた窪田正孝が原田美枝子のつくった弁当を見つけ、それをたまらず頬張るという描写にこそ、その瞬間は訪れるべきだったかもしれないが、監督はそれに自覚的なのかどうかわからないが、とにかくこのシーンを全力で演出しなかった点に、この映画がいかに言語的であるかが表れている。

遠くから自転車がやってくるショットやあるいは自転車と並行しての撮影など、なかなか気に入るショットがあったので、タナダユキはオリジナル脚本で撮ってはどうか。


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