監督:テオ・アンゲロプロス
アンゲロプロスの映画はこれが4本目なので、まぁまだまだ他作品と比較するような段階にないわけだが、しかしそれでもアンゲロプロスという人が長回しを多用する監督で、時に同一ショット内で異なる時間軸を操るという事ぐらいは知っている。そしてこの映画でもそのような技法が多用されており、いきなり19世紀に時間が飛んだり、あるいは20世紀の人物と19世紀の人物が同一画面に収まることすらある。
あるいは同一ショット内に限らず、海辺の家の玄関からゆっくり海の方へとドリーしていく同じショットで二つの時間(アレクサンドレが子供のとき、マリアが生存しているとき、あるいはそれと現在が混在するラスト)を描いている。
回想シーンとして最も美しいのが、一家でボートに乗っている画面だ。ブルーノ・ガンツを捉えたカメラが上昇して、そのまま空を経由して回想シーンへと至る。そこでは家族たちが音楽に合わせて踊り、その後音楽が止むと、今度は女性が歌い始める。それからブルーノ・ガンツがゆっくりと母親の方へと歩いていき、しばしのやり取りをした後、妻と肩を寄せ合う。その背後には群青色の海が映っている。。。これほどの幸福感を掻き立てるショットというのは、『エルミタージュ幻想』以来だ(『エルミタージュ幻想』は90分間幸福の絶頂を味わえる)。
また、特徴的なのが、例えば窓ふきの子供とともに国境まで行った時や路上で結婚式をしている時、あるいは海辺でのシーンなどを見てもそうだが、まずブルーノ・ガンツのバスト/フルショットから始めて、パンやドリーをしていくうちにその周辺に多くの人々がいる事が(観客にとって)判明するようなショットだ。これは他の作品でも駆使されているのかはわからないが、しかしこのように一見人の気配が無いにも関わらず、カメラを動かすと実はたくさんの人々がそこにいた、というのはとても面白い。
そしておそらくここがこの映画のポイントなのだが、そのようなショットを多用しておきながら、最後のショットはその逆で、多くの人達が画面に収まりながらもやがてそれらの人々が画面の外へと消えていき、ブルーノ・ガンツが一人残される。ここは明らかにその他のショットと対照をなしているだろう。
私個人の意見で言えば、長回し(に限らずあらゆる映画)において重要だと考えるのは、画面で常に新たな出来事が起こることだ。それは何も爆発やら銃撃戦が起きるという事ではなくて、人物の関係性が微妙に変化したりとか、あるいは風が吹いて空気が変わる、というだけでもいい。とにかく映画が動き続けることが重要だと思う。
そういう意味で考えた時、この映画ではときにあまり意味を感じない長回しがわずかながら見受けられた。検死室でだんだん子供にカメラが寄るというショットが果たして必要だろうか、あるいは死んだ友人を埋葬する子供たちをあんなに長々と映しだしても、これといって新しい情報は見受けられない。
しかしとはいえ、これがアンゲロプロスのテンポなのだろう。というかこのテンポでなければ、この時間軸を自由に行ったり来たりしながら徐々に主人公の途方もない孤独感を浮かび上がらせる魔法のような映画はできないのかもしれない。
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