監督:キャリー・ジョージ・フクナガ
『闇の列車、光の旅』の監督が、なぜこうなるのか。それは手持ちカメラメインの手ぶれ映像からフィックス主体への作風の変化の事ではなく、端的に画面の強度の低下である。
『闇の列車、光の旅』で見せた、深夜に一台の列車が轟音とともに到着し、寝ていた人々が一斉にムクムクと起き上がる逆光のショット、あれを超える画面をついに見ることがなかった。
それは画面が、「あらすじ」に支配されてるからに他ならないだろう。
美しい撮影は、ただただ絵葉書のように美しいだけであり、あらすじの背景と化し、ストーリーの進行に従属しているだけだ。
ミア・ワシコウスカが家から逃げ出す。その走り方のなんというつまらなさ。あるいはその撮り方の凡庸さ。美しい自然を背景にロングで横に移動しながら撮れば映画になるわけではないだろう。
幼少時代のジェーンが学校に連れていかれた時の、学校に到着したシーンの俯瞰ショットは良かった。画面上側の冷たいライティングと下部の学校側の暖色系のライティングの対比が面白い。
しかしやはりどうしても、全く画面の驚きがない。
邸宅でのボヤのシーンも、まるで創意工夫が見られない。あるいはファスベンダーの妻が現れたときのシーンにも何ら驚きはなく、「ああ奥さんキチガイになっちゃったのね」という印象しかもたらさない。
ファスベンダーの部屋に何人かの友人や女がやってくるシークエンス。
ワシコウスカが出ていく、その出ていき方のつまらなさ。
ピアノを弾くファスベンダーにあたっていたフォーカスが手前のワシコウスカに切り替わり、そうしてワシコウスカが立ちあがって、出ていく。こんなつまんねー演出があるかよ!!
部屋から出ていく、というのはもっと決定的に描かないといけない。それは空間の差異、ライティングの差異によって際立たせないといけない。それをやらない手抜きさ。
逆に例えばファスベンダーに幻滅したワシコウスカが急いでドレスを脱ぐシーンでは、ギッチギチのドレスのヒモを一生懸命とろうとする指先のアップだ。
逆になぜ今「ギッチギチ」と表現したかと言えば、それはカメラがヒモを一生懸命にとろうとする指先を映したからに他ならない。
だから私は「ギッチギチ」と表現できるのだし、ワシコウスカが来ていたドレスがギッチギチであることもまた立派な物語の一部なわけである。そのような細部こそが「あらすじ」を超えるのであり、驚きをもたらすのである。
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