2014年4月20日日曜日

モレク神

監督:アレクサンドル・ソクーロフ

恐るべき傑作。
徹底して可笑しく、終始ニヤニヤが止まらないが(特にマルティン・ボルマンの滑稽な描かれ方!)、しかし突然やってくる緊張感と、その帰結には感動する。
夕食のシーンや司祭の陳情のシーンなどは、見る側に対して相当な集中力を要求してくる。だがそれこそが芸術だろう。びっくりした。
エヴァ・ブラウンという人物は、ソクーロフの映画によく出てくるタイプといっていいかもしれない。酔っぱらってるみたいな、多幸感を全方位に振りまいた感じの。しかしこのエヴァ・ブラウンというキャラクターが見せるさまざまな表情や動きは、相当に複雑だ。
あるいは周囲で砲弾の音が鳴り響くなか、世界から隔絶された舞台で展開されるという設定も、『痛ましき無関心』に通じるし、あるいは『エルミタージュ幻想』にしろ『牡牛座』にしろ『太陽』にしろ、ソクーロフはこうした舞台を好むようだ。
ということで僕にとってはオールタイムベストといってもいい。そんなことはどうでもいいが。

・・・・・・・・・・・以下詳細なネタばれ・・・・・・・・・・・・・・・


・オープニング

とりあえず冒頭の数ショットについて書いてみたい。
タイトル明け、(ヒトラーの愛人である)エヴァ・ブラウンが邸宅のバルコニー(?)へと通じる戸を開けると、日の出直後ぐらいの朝日の光が差し込んで、エヴァ・ブラウンの身体を照らす。彼女は裸だ。全裸だ。
バルコニーに歩を進め、外の様子をうかがってるのかよくわからないが、とにかく最初から極めて幻想的な画面が始まったな、と思わずうっとりしていると、画面外から「戦争の音」が聞こえてくる。いや実際にそうなのかは知らぬが、とにかく砲弾の音みたいのが聞こえてくる(だからすぐさま想起されるのは『痛ましき無関心』だ。)。
次にエヴァ・ブラウンはバルコニーの奥に置いてある椅子を見つけ、側転しながら椅子のほうへと走っていき、それに座る。しばらく足を動かして、クネクネしたあとに、バルコニーの段差を上がり、下を見下ろす。すると彼女の主観ショットなのかはわからぬが、ロード・オブ・ザ・リングかよ、みたいな景色がそこに広がっている。で、つま先立ちするエヴァ・ブラウンをまた同じ構図で捉える。そのショット中、エヴァは視線に気づく。すると、カットが割られ、エヴァ・ブラウンをスナイパー・ライフルから窃視するその主観ショットによってエヴァを捉える。
月並みな表現をするならば、まるでこの世のものとは思えない美しい空間において、これまた人間とは思えぬ自由で無邪気な裸体の女を描いていた映画に、突然ライフルの照準のマークが介入してくる。ドキっとする。
そのスナイパーに向けてお尻を突き出して応えるエヴァの所作。

映画全体に対する僕なりの感想と考えとは別にして、このオープニングはそれ自体として本当に途方もなく素晴らしい。こんなオープニングは見たことがない。


・映画のテーマ?ファシズム?
この映画に関しては、やはり戦争や「新しい人間像」について話す”男たち”と、それにまったく興味を示さず踊り、笑う”女たち”という対照がまずは注意を引くだろう。特にオープニングからもわかる、エヴァの自由な身体表現。
あるいは、アドルフ・ヒトラーの描写。部下の前での実に”元気な”ヒトラーと、エヴァと二人でいるときの”弱々しい”ヒトラー。その対照ぶり。そしてエヴァ・ブラウンのヒトラーへと向けられたいくつかの”苦言”に、ファシズムの分析を見出す批評もあるようだ。
(たとえば http://www7.plala.or.jp/cine_journal/review/molech.html)



僕なりに注意を引かれたいくつかの特徴について書いてみたい。


・動と、静

まずは、静と動の対比。”動”とはまさにエヴァ・ブラウンの自由奔放な身体の運動をさすが、それだけではなく、たとえばヒトラーと部下達の距離の変化などもさしている。ヒトラーがバイエルンの若者の遊び方(カニがどうのこうのという話)についてマルティン・ボルマンに語っているとき、その話に加わろうと近づく者もいれば(ヨゼフ・ゲッベルス)、そこから離れていく者もいる(マグダ・ゲッベルス)。あるいはマルティン・ボルマンの体臭が云々という抱腹絶倒の(!)序盤のエピソードにおいても、人物たちの動きが面白い。ここはほとんどコメディだ。
そしてこのダイナミックな人物たちの動きと対比をなす”静”の部分は、もちろんこれらの人物たちが、時にウソみたいに静まりかえってしまうようなシーンを指しても良いだろう。特に夕食のシーンの陰鬱な描写はちょっと言葉にできないものがある。
だがそれ以上に、これぞ”静”と呼ぶにふさわしいモチーフがある。それは肖像画であり、石像であり、制服だ。
アドルフ・ヒトラー本人の肖像画、あるいはヒトラーの母の肖像画。カメラがこれらの対象を、わざわざカットを割ってクローズアップで捉えていることに注意しなければならない。
あるいは邸宅に司祭が陳情しにやってきたシーンでは、(何の石像なのかわかんないのだけど)石像をフレームに執拗に収めているように見える。ヒトラーの部屋にかけられた制服の存在感にも目を見張る。
さて、この”静”のモチーフをもう少し延長してみると、たとえばエヴァ・ブラウンが吊り輪にぶら下がってポーズを取るショットがある。踊ったり、尻を突き出したり、側転したり、といった動的な描写を施されてきたエヴァ・ブラウンにあって、この執拗な静止性はどうか。
いや、彼女は静止しようとしているが、できていない。彼女はポーズを決めながら、プルプル震えている。当たり前だ。オリンピック選手だって、あんなポーズをプルプルせずにはとれない。彼女は静止しようとして、それに失敗している。

肖像画になろうとして、失敗している。
のだろうか。。。


・変転するヒトラーとエヴァの関係性、その帰結

ヒトラーとエヴァ・ブラウンの関係性はどのように描かれているだろうか。
①最初は部下が整列するなか、ヒトラーがエヴァの美しさを称賛してみせる。

②次に屋外において、階段の上に立つエヴァと彼女の方へと向かって階段を上ってくるヒトラーを縦構図で捉える。ヒトラーは近づいた挙句、何も言わずまた階段を降りて行ってしまう。そしてエヴァもまた彼を追うように階段を降りていく。カメラはパンして、絶景と言ってよい景色の俯瞰ショットに連なる。次のショットでは、絶壁に立ちつくすヒトラーがいる。ヒトラーはそのまま邸宅の方へと戻っていく。エヴァが彼に触れようとするが、触れることができない。ヒトラーはまるで彼女が存在しないかのごとく、遠くへ歩いていく。

まず②の一連のショットで注意を引くのは、二人の高低差だろう。最初の階段でのシーンはエヴァが上に立ち、次の丘のシーンではヒトラーが上になる。
あるいは非常にシンプルにこの一連の①と②の描写を見るならば、部下達の前であんなに大げさにエヴァを称賛してみせたヒトラーが、ここではエヴァに対して非常にそっけないように見えるだろう。二人の関係はすでに冷めきっているのだろうか、、、と思わせる。

しかし、
③ヒトラーの部屋にエヴァがやってくる。厳密にいえば彼女は(電話越しの謎のメッセージによって)ヒトラーに呼ばれて来たのだ。
そこでのヒトラーは弱々しい。「僕は病気だもん!もう死んじゃうんだもん!」みたいな感じで駄々をこねまくっている。それに対してエヴァは「あなたは聴衆がいないとただの赤ん坊ね」みたいな感じでヒトラーを侮蔑してみせる(「」内はいずれもデタラメな引用)。ここでは明らかに、エヴァの方が力関係において優位に立っている。


僕が決定的だと思ったシーンは、
④エヴァが「アウシュヴィッツ」という言葉を口にした時である。それまで見ていた映画を「駄作だ」と一蹴したヒトラーに対して、エヴァが「連中をアウシュヴィッツに送れば?」と言うと、ヒトラーは明らかにそれに腹を立てるようにして「アウシュ?ヴィッツ?なにそれおいしいの?」ととぼけてみせる。
一触即発の雰囲気を察したマルティンがヒトラーをなだめると、カメラは持続したまま画面奥のテーブルへ向かうヒトラーと画面手前で背筋をピンっと張って立ち尽くすエヴァ・ブラウン(その表情は、まるで「私はすべてお見通しよ」と言ってるかのようにも見える)を縦の構図でとらえて見せる。
この縦の構図!!!これほど緊張感のある縦の構図は久方ぶりに見た。ものすごい。
直後の夕食においても、エヴァ・ブラウンは不機嫌であり、ヒトラーの人種差別的、女性蔑視的トークを聞くと、そのまま一人夕食を後にしてしまう。

ここまで来て、見るものはヒトラーとエヴァの断絶ぶりを印象付けられるだろう。

が、その直後のシーンがもっととんでもない!これはびっくりした!
ヒトラーの大演説、二人の子供のような追いかけあい、そして愛に至る。。。
この愛に至る描写。暗闇の中椅子に腰かけたエヴァのもとへとゆっくり歩み寄るヒトラー。カメラが捉えるのは、そのたるみきった腹である。この腹が、エヴァ・ブラウンの前に「君臨」する。
エヴァ・ブラウンは、ヒトラーに、屈した。
と、いうように見えた。わからないが。この一連のシーンとその帰結の衝撃は、ちょっとすごい。












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