2014年6月4日水曜日

不安

監督:ロベルト・ロッセリーニ

なんとなく敬遠してたロッセリーニ。かなり前に『無防備都市』や『ドイツ零年』を見て、いや見ると同時にネオレアリズモなるものの「お勉強」をして、「凝視すること」とか調子に乗って舞い上がってたのが懐かしい。今思えば、あのとき僕はあの映画群を見ていなかったに違いない。もう一度見直さなくては、と思う。
それぐらいにこの『不安』は素晴らしい。無駄なカットが一つもないにも関わらず、そこには物語の枠に収まらぬ余剰があふれている。すげー。

ショット数は全部で150~160ぐらいなんじゃないかと思うが(75分だから、2ショット/分)、どうしてこんなにも少ないかといえば、二人の人物が室内や屋外で話すシーンがほとんどワンショットで撮られているからだ。
終盤のレストランでの大胆なクローズアップの応酬をのぞけば、切り返しはほとんどなく、カメラは動き回る人物たちを見事にフレームに収める。その配置、照明の設計。月の光に美しく照らされたイングリッド・バーグマンは即座に落ち着かないそぶりで歩き、やがて逆光のシルエットが浮かび上がる。

あるいは車や人物の往来をとらえたショット。バーグマンが家から会社に向けて車を走らせる。その走り出した車をとらえたフィックスショットは、明らかに過剰に持続する。物語のつなぎとして要請されただけに過ぎない車を走らせるショットなのに、車がスーッと向こうの方に消えていくまで、カットが割られない。「ああ、なんか車が走るのっていいね。このまま撮ってたいね。」と言っているようだ。知らんけど。しかしこちらとしても、「このまま見てたいっす」である。

理屈はわかんけれども、対象を撮る、それを見る、という喜びが、この映画には満ちている。満ちていない映画と満ちている映画の違いなどまったくわからないけれども。

ところで音楽会のシーンは素晴らしい。脅迫する女が音楽会にやってきて、夫のいない間にバーグマンのところにやってきて指輪を取っていってしまう、というまぁそれほど大した場面ではないのだが、この場面で時折インサートされる音楽会のピアニストの姿や観客の拍手する様子をとらえたショットがことごとく効果的なのだ。というか、こんな地味なシーンにもかかわらず、これぞ映画だ!と思わずにはいられないシーンである、これは。知らんけど。

というのも、このインサートされるショット群はすべてロングショットというか、単に遠景から「様子を捉えた」ショットである。ピアニストの顔はまったくわからない。ただ人が舞台で、演奏して、演奏を終えて、あいさつして、というプロセスを撮っているに過ぎない。ピアニストと観客は、単なる背景、装置であるわけだ。
しかしこの装置、プロセスをとらえたショットが、バーグマンと恐喝女のやり取りに「重ね合わされる」。すると途端にこのピアニストと観客達の一連のインサートショットは、バーグマンを取り残してどんどん進行しまう時間と空間を表象し始めるのだ。ヒッチコック的な手触りだとも言えるが、このように「主人公が世界(ここでは音楽会)から無視されること、置いてかれること、主人公の心理や主人公が紡ぐ物語とは別の力学で、世界が勝手に動いてしまうこと」、これだ。『三つ数えろ』、『コンテイジョン』、『眠れる美女』などなど。たわごとか。


さて、僕が最も感動したのは、子供たちの家をバーグマン夫婦が訪れるシーンだ。
ベンツのボンネットに据えられた固定カメラが、車が走る道筋をとらえていると、その先に家があって、子供たちがいて、というこの幸福なワンショット。そしてその後のバーグマンと娘を手前に、夫と息子を奥に配置した縦の構図。この縦の構図に至るまでの人物の流れるような動き。なんという手さばきだろう。
さらにラストでは、上記した固定カメラがとらえる幸福なワンショットが反復される。素晴らしい。
車がたどる道筋をとらえること。これがこの映画の、幸せの形式なのだ。身近な幸せに戻ること。


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