2014年4月2日水曜日

WindowsのSurfaceで映画を見ながらメールができるという。しかし、「観客」のマナーって凄く大事なんじゃないか。その1

こんなものに今更反応してあーだこーだ言うのも、何だかシネフィルの化石みたいでアレなのだが、しかし我々はいま一度時間、空間、経験について考える必要があるのではないか。

ヒッチコックの『汚名』で一番凄いシーンは何かって、イングリッド・バーグマンの主観ショットで姑が階段を降りてくるのを捉えたフィックスショットだと思う。
『汚名』の前半を彩るのって、あわただしい人の出入りとかあわただしい会話とか、激しい感情の変転とか、流麗な動きを見せるカメラワークとかだし、それでもって登場人物のバックグラウンドもよくわからないままハナシが進行していくんだよね。
それが、バーグマンが旦那の家に入った瞬間、突然カメラがピタッと止まって(もちろんずっと動いていたわけではない)、しかもバーグマンの主観ショットで、姑がゆっくりと、しかし恐るべきスピードで(!)階段を降りてこっちにやってくる。
ヒッチコックはこのたった3秒にも満たないぐらいのフィックスショット一つで、時間とか空間とか他者とか経験といったテーマを一瞬のうちに考察してみせちゃってる。

以上をもって、『汚名』には映画の原初的経験と呼ぶべきものが刻印されている、などと言うつもりはない。映画の形、可能性、訴えかける対象、それを見て感じること、そういったものは人それぞれで良いし、多様な意見が飛び交うべき議題だ。ダイバーシティ・イズ・オッケー!である。

だがしかし、そうした多様な議論の前提として、メールをやりながら映画を見るということは、ちょっとやめてほしい。
やめてほしい、などと言ったからといって、私にあなたが映画を見ながらメールをするのをやめさせる権利はない。映画館ならまだしも、WindowsのSurfaceで、である。個人的にSurfaceで映画を見るのに、他人があーだこーだ言っても仕方がない、というのは承知である。百も承知である!

だがしかし、もう一度、映画を見るという「経験」について、映画を見る「時間」について考えてみてほしい。映画でも絵画でもオペラでもいいが、作品を鑑賞するというのは、その作品が持つ(持っているべき)独自の時間感覚、空間造形に触れるということである。ざっくり言えば、「他者に触れる」ということであるが、これまたいまさら他者論など展開してみても仕方ない。クリシェクリシェ、ごこうのすりきれ、である。

その2に続く












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