要するにこれは、豊かかどうか、ということに過ぎない。幸福度調査とか、豊かさの指標とか、世間ではいろいろ言われてますが、映画を見るときにメールするような奴には何も言う資格がない。何も言う資格がない。何も言う資格がない。
豊かな経験とは、自分の日常的な時間や空間や論理性や合理性とは別の、異なった時間の流れに身をゆだね、異なった空間を体験し、異なった論理性につきあう、ということに違いない。それに何の価値があるのかわからない。いや、価値あるよ。多くの人がその価値を実感してここまで来てるんだよ。
あるいは少なくとも、この場所を、異なった時空間に身をゆだね、異なった論理性につきあってみる、というこの場所を、無自覚に乱す権利は無い。乱す権利はある。無自覚に乱す権利はない。じゃあ自覚ってなんだ。自分で考えろよ。
無自覚に乱す、とは、要するにどういうことかといえば、友達とメールを打ちながら見た映画について偉そうに面白いとかつまんないとか言うことである。誰もが面白いとかつまんないとか言う権利を有している。
誰もがその権利を有している。有していない人がもし発生するような状況では、おそらく僕もその権利を有していないだろう。
しかしSurfaceでメールを打ちながら見た映画について友達同士で「あれ、つまんないよ」とか言う権利はない。いや、もちろんある。そういう権利はあるよ。だから行使すりゃいいじゃんか。
考えてみてほしい。
日本人のほとんどが、メールを打ちながら映画を見る。そんなんで、豊かな文化というものが醸成されるかね。映画産業、絵画展、グローバルな歌劇団、というハコモノがあっても、実のところみんながメールしながらそれを鑑賞している。それで人気だ不人気だという話になっている。そんな文化的状況のなかで生き残る映画や絵画やオペラとは、いったいどんなものになるだろうか。
独自の時空間や論理を持っているだろうか。持ってないでしょ。そりゃあ。ねえ。
異質の時空間や論理と、限られた時間だけ向き合うこと。経験すること。それはもちろん、その間だけ、自分の時空間や論理を封印することでもある。しかしそうした経験を通して、新たな時空間や論理を獲得するのである。それが文化資本ってやつである!
「え?ぬーヴぇるばーぐ??知ってるぜ~。ゴダールでしょー、トリュフォーでしょー、シャブロルでしょー、ヴァルダでしょー、レネでしょー、俺全部見たぜ~。Surfaceでメールしながら。」とかアホヅラさげて言ってみてもそれは文化資本でもなんでもない。
文化資本というのは、一見その文字が示唆しているような固定化された知識のようなものではなく、多様な、しかしその一回一回はディープな、文化的経験を通して得られた、日常に潜む非日常に対する柔軟な「開かれ」であり、日常を非日常に変えてしまう大胆にして甘美な生活の智慧である。
その3に続く
その3に続く
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