せんだいメディアテークで、「フィクションの境目」と題した映画上映会に昨日・今日と行ってきた。
溝口健二とレオス・カラックスの超傑作映画が見れたのも良かったけれども、何より濱口竜介の震災後のドキュメンタリー”東北三部作”のうち二作品を見れたのが何よりの収穫だった。
リンク先の、両監督のディレクターズ・ノートが何より素晴らしい
http://silentvoice.jp/naminooto/
http://silentvoice.jp/naminokoe/
以下は『なみのおと』、『なみのこえ 新地町』を見ての感想。
『なみのおと』は震災から半年、『なみのこえ』は震災から一年後に撮られた作品。
「被災地のドキュメンタリー」と聞くと、やはり直感的に震災後の人々の生活や街の風景を映した作品かな、と思うけれども、この作品はそうではなく、何組かの現地の人たちが室内で互いに向かい合わせになって、当時のことを振り返ったり、あるいは監督と1対1で対話したり、という会話の集積で成り立っている。だから彼ら/彼女らの”日常生活”は全く出てこないし、震災後の街の風景も各パートのつなぎとしてわずかに出てくるにとどまる。
ここでは映像によって被災地を映すのではなく、会話によって語らせる、というアプローチがとられる。その新鮮さ。
作中の監督のナレーションで、「あまりに被害が大きすぎると、何もかもがなくなってしまい、かえってその被害の程度がわかりづらくなる」というものがあり、そもそも外部の人間が、被災した地域の光景を見ても、そこで何が失われたのかを知ることはできない、ということに気付かされる。現場の光景以上に何事かを語るもの、それは現地の人々の声に他ならない。
なるほど、現地の人々の声は、確かに現場の光景より雄弁で、多くのことを教えてくれる。その街の何が好きで、どういう生活をしていて、何が失われたのかを実際に教えてくれるのは、そこに住んでいた人たちの声だ。
しかし、だからといって、これらの声は、「真実を明かすこと」だけに奉仕するわけではない。
人によっては、当時の出来事を詳細に生々しく回想することもあるが、やや曖昧な語りに終始する場合もあるし、あるいは向かい合っているがゆえに、率直な感情や思いを言い辛そうな夫婦や親子もいる。
当然である。
人は他人にいちいち本音をぶつけたりしない。自分の感情と相手の感情とその場の空気のそれぞれに配慮しながら、言葉を慎重に選ぶのが人間ってものである。それは”被災者”であろうと誰であろうと変わらない。
だからこの映画は、「被災による喪失感」だとか、「日常生活における絆」といった、「被災地の真実」を語る映画ではない。
むしろ、こうした語り(合い)が示すのは、「喪失感」とか「日常のありがたみ」といった我々がついつい先んじて(勝手に)イメージしてしまう言葉や概念(もちろんこうした事を語る人々も出てくる)からはこぼれ落ちてしまうような、我々人間の普遍的な”営み”である。
そしてその営みは、びっくりするほど多様で、時にはまどろっこしく、時には物悲しく、時には見てるこちらが腹を抱えて笑ってしまうほどに可笑しい。
震災という特別な経験をした人たちのごくごく当たり前の、当たり前のように個性的な営みに、目を向け、耳を傾けること。それがこの映画が試みていることだと思われた。
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