監督:ニコラス・レイ
オープニングはハンフリー・ボガートの車が走っているところから始まるが、このシーン以来しばらくの間、人物の場所から場所への移動は省略される。最もわかりやすいところでいえば、殺されることになる女性の「帰り道」は大胆にも省略され、我々がその女性が殺されたことを知るのは、警察署でのボガートの事情聴取においてである。
しかし、中盤にさしかかったところで、再び「移動」が描かれる。それは海辺での夕食の際に憤慨したハンフリー・ボガートがそのまま車を走らせ、慌ててグロリア・グレアムがそこに乗り、そのまま車を走らせるシーンだ。そして右折しようとしたところで直進してきた車両と接触、相手の運転手が怒ってボガートの方に来て怒鳴りつけると、そこでボガートのスイッチが入り、あやうく殺しそうになってしまう。
思えばオープニングはボガートのスイッチが入りかけたところで信号が青になって相手の車が走り去ってしまったことで、何事もなく終わり、印象としては「喧嘩っ早いおっさん」程度のものでしかなかったのだが、同じようなシチュエーションが反復され、しかも二回目はエスカレートしてボガートの「本当の姿」が露わになる、という実に巧妙な構成をとっている。全くもって素晴らしい演出。
場所から場所への移動。事件はその間に起こるのだ。
それと。
この映画は、いわゆる夫(や恋人)が実は異常者だった、あるいは異常者なのではないか、という映画で、同じような系統の作品としては、ヒッチコックの『断崖』、ファスビンダーの『マルタ』、シャブロルの『愛の地獄』などがあげられるだろう。それとショーン・ペンの『プレッジ』などもその帰結が印象的だ。
『愛の地獄』や『プレッジ』は、作者の視点が異常者側にあるため、どちらかといえばその妄執ぶりに観客は付き合うことになる。
一方で、『断崖』や『マルタ』などは、女の側から見た男の異常さが強調されるため、観客はその「恐怖」や「不安」に同化するよう意図されている、と言えるかもしれない。
『孤独な場所で』はその中間といった感じで、確かに周りから見たボガートの異常さを強調する演出がとられている(上記のシーンや、あるいは警部とその妻との初めての夕食など)が、一方でこの映画にはアート・スミス演じる長年のマネージャーがいる。
レストランでの騒動で、ボガートがアート・スミスの目を傷つけてしまい、その後トイレで苦い和解をするシーンがある。
このときのアート・スミスが「他に仕事もないし・・・」と言いながら握手を求める所作の面白さ。この二人の関係が、この映画を単なるスリラーでもなく、単なる妄執映画でもなく、重厚な人間ドラマにしていると言って良いだろう。
これは傑作。
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